奏でる。仰ぐ。結ぶ。〜Chloeの日記〜

子供の名前からタイトルを付けました。未破裂脳動脈瘤と共存中。日々生かされていることに感謝しています。

【過去記事】おばあちゃんの信仰から思うこと

2022-01-18 11:32:18 | 【牧師の家族として生きる】PK(牧師の子ども)編

今日もChloeは元気です。

【過去記事】と表記のある記事は、以前他所(昔のブログやFacebookなど)で掲載したものをそのままこちらにも載せています。
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2016年4月7日
 
わたしは、基本的に身内びいきな発言や投稿はあまりしません。

けど、最近、なんだか自分の家族を誇りに思うことが増えてきました。

それはきっと、自分がいろんなことを経験し、ライフステージも変わり、物事をいろんな視点で見ることができるようになってきたからなのかもしれません。


つい先日、母から聞いたこと。

母方の祖母はクリスチャンでした。

晩年は田舎に住んでいたので、小さな家の教会のような家庭集会のような集まりに出席していたようです。


まだ母も若く、祖母もバリバリ働いていたくらいの時でしょうか。

神学校を出たての20代前半の母が、母教会で数回説教奉仕をしたことがあるそうです。


若い牧師や若い教会リーダーの説教を、メッセージを取り次ぐ者よりもはるかに年齢も重ね、人生経験も信仰も深く持っている方々がどう聞くか、というのはお互いにとって大きなチャレンジですよね。


わたしも、今主人が遣わされている教会の礼拝で証しをした時、本当に畏れと不安を抱きました。

だって、私のちっぽけな経験から自分が受けた恵みを話したって、目の前の方々の方が何倍も多くの経験をし、中には神学校で学び続けている方もおり、何か意味があるのかしら?

そんなことも思いました。

けれど、自己紹介代わりに、自分のことを少し話すことができ、どんなことを神様に感謝しているかなど話せたことは、良い機会になりました。

そして、訓練にもなりました。


話を母と祖母に戻します。


そんな時に祖母が母に言ったひとこと。


「わたしはこれから、あんたが講壇で話す言葉は、神様の言葉として聞くからね。」


厳しい祖母でした。

同時に、弱いところもある祖母でした。

けれど、この時の祖母の信仰の姿勢は母をたいそう力づけてくれたそうです。

これが若い献身者や神学生、牧師を育てる基本姿勢なのだな、と感じました。


そう、いまの教会でも、たまにそれを感じます。

まだ30代前半の牧師(主人)や牧師夫人(わたし)に対して、イライラすることもあるでしょう。

足りない部分を感じることもあるでしょう。

ついて行けないと思うこともあるでしょう。

この人たち、大丈夫かしら?と思うこともあるでしょう。


それでも、あたたかく、ときに言いにくいことも伝えてくれる。

けしてけなしたり、最初からあきらめて道を閉ざすだけじゃなく。

(時にはこちらが傷つくこともありますが、それはそれです。相手を傷つけていることもあるでしょうから。)

もちろん、牧師も不器用なりに努力しています。

年齢も親子もしくは祖父母ほども離れた方々と、なんとかコミュニケーションを取ろうと必死です。


しかし、足りない者でも欠けだらけの者でも、こうやって後押ししてくれる方々がたくさんいるから、なんとか前に進めるのだと思います。

見守る方もハラハラドキドキ、イライラ、がっかり、など大変な思いをしているでしょう(笑)


けれど、何が失敗で何が成功かなんて、何年も何十年も経ってみなければわかりません。

そして、それを決めるのは人間ではなく、神様なのでしょう。

神様のご計画の中で、召し出された者がどのように遣わされ、どのように用いられていくのか、人智を超えたものがあるはずです。


祖母のそのたった一言の中から、なんだか多くの事を思いました。

自分も自分の物差しや型にはめて他人を評価したり、批判したり、排除したり、落第のレッテルを貼ったりしがちなこと、本当に反省させられました。

自分が正しい、自分は何でも知っている、と思いがちな人間ですが、それはある意味で神様の前では罪になることもあります。

そう思うのは自由ですが、それは神様の思いとかけ離れてはいないでしょうか?クリスチャンとしてはどうなのでしょうか?

(もちろんこれは、他人というより自分に対してよく問いかけることです。)

同時に、やはり聖書の言葉と照らし合わせて、自分の事も相手の事も冷静に見ることの大切さも思います。


なので、もっともっと勉強しないといけないな、と思う今日この頃です。


【過去記事】クリスチャンであるということ。自戒。

2022-01-18 11:26:37 | 【牧師の家族として生きる】PK(牧師の子ども)編

今日もChloeは元気です。

 

【過去記事】と表記のある記事は、以前他所(昔のブログやFacebookなど)で掲載したものをそのままこちらにも載せています。

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2013年5月27日


「クリスチャンである。」ということは、どういうことなのか。

様々なことに心を乱されて、その本来の意味が見えなくなることがある。

ふと、今朝心に浮かんだのはこの箇所。

イエスと姦淫の女のストーリー。

 

「ヨハネによる福音書8章1節~11節」

 

イエスはオリーブ山へ行かれた。

朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。

「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。

「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 

 


自分の主義主張だけが正しいと信じ、糾弾することは、結局この律法学者たちと同じだ。

いや、意見を戦わせることは良いことで、それ自体は問題ではないのだ。

どちらが正しいとか、そんなことは塵にも等しいことである。

問題は、その過程で自分のとった言動がどうだったか、ということである。

相手に落ち度があるかもしれないが、自分の立場や場を弁え振る舞わなければならない。

糾弾したければすればいい。

その陰で、多くの人たちがその現場を目撃し、激しく傷ついたとしたらどうだろうか。

そのような事態を自ら進んで作ってしまっていたとしたら、どうだろうか。

 


このような状況をクリスチャンの中で見ることが多々ある。

人間の集まりである以上、これからも避けられない場面である。

誰もが立ち止り、自分を見つめ直さなければならないだろう。

それはキリスト教が教える「愛の姿」とは程遠く、私たちが目指す「キリストの姿」とは正反対であることを認識すべきである。

その恐ろしさや人間の未熟さを肝に銘じ、私たちは生きなければいけないのである。

自分の中に「罪」がないのか、あなたの中に「正義」があるのか。

自分たちをこの律法学者やファリサイ派の人々に重ねて、よくよく吟味する必要がある。

自分はいったい何者なのか。

神様の前に畏れと慎みを持ってひれ伏し、また隣人に対して慈しみと愛と尊敬を持って接しなければいけない。

今与えられている状況は、すべて神様のご計画の中にあるのだ。

人間のエゴや思いだけで他のものを求めるのは罪ではないのか。

 


これは自戒である。

そして、弱い自分にも、またそのような隣人に対しても、いつも祈り続けていきたいと願う。