「1つの共同体:1つの体」ヨシュア記7:1 -13
⭐︎エリコでの大勝利!その後のアイでの敗北の原因は「不従順」と「貪り」の罪!不従順に引き込んだのは「貪り」では、神に知られないと思っていたアカンは、「神を侮る」という不信の罪を犯したことにもなる。
⭐︎アカンは黙っていた。アカン以外には敗北の原因がわからないので、ヨシュアさえ「敵に背を向けた今」といって神につぶやいてしまいます。そこで神は敗北の原因を知らせるわけです。
⭐︎アカンの個人の罪であるにもかかわらず、イスラエルの共同体として神はお裁きになりました。
現代における教会は霊的イスラエルですから同じことが言えます。
〈隠された罪を悔い改めて対処〉
個人的な罪であっても、教会全体に影響します!
1コリント13:14-27唱和
⭐︎アカンは指摘されるまで黙っていましたが、立派な告白をしました。
ヨシュア記7:19-21唱和
⭐︎ここでの適用です。
1、罪が自分の心に示されているときは、速やかに自ら悔い改める。
2、アカンのような人のために主イエスは来られた!
「神の怒りの杯」
この十字架のゆえに、神の怒りをこの身に招く前に、悔い改めれば良い。罪からくる呪いも、断ち切れば良い。
神からの裁きがこの身にあるのかといえば、私の立場では、罪からくる報酬として、神の守りの外にある状態になる。と思う。
罪を犯して、野放しで助けてくださいというのはおかしい。すでに!!
私たちの罪のために、神ご自身が刑罰を受けてくださった十字架があるのだから。
神が直接、罪びとに災いを下すということになると、神は良いことしかなさらないという神学がブレる。災いではなく、矯正と義の訓練と思う時、どうだろうか?厳しくも、その子を一人前にするには訓練と躾は必要なのだ。
旧約を見ても、罪に対する裁きには周りの人を使ったりする(思いのままにされる)そうならないように、悔い改めることができ、新しく生まれ変われるように神ご自身が十字架についてくれたのだ!
誘惑の罠なのに神の試練としてみたり、罪の刈り取りなのに、神からの裁きだと思ったり、人間とはかってなものなのだ。
聖歌新しき地に2019