ある牧師との対話を通じて気付いたこと
昨年の6月である私がネットで相談を受けて「カルト」と断罪した牧師と「対決」する機会を得た。牧師の名前は進藤龍也牧師である。
このことを以前やっていたブログに上の写真を入れて出したら「進藤はカルトじゃないか!何でそんなのに会うのか!」と抗議を受けた。今になって思うと「何であってはいけないの?」「俺の勝手だろう」と思う。「カルト」問題を扱うなら実際に「カルト」と会ってみて「カルト」を確かめないといけないだろう。これは原則であろう。警察も聞き取り調査をするし、大学生の社会調査でさえも同じだ。
電話で挨拶がてら電話を入れて数日後の来沖時に南風原のジャスコで落ち合い、家に招いた。お互いの夫婦で食事をしながら短い時間の中でとことん話し合いをした。ネット上で断罪したことを謝罪した。9月に私が帰省した際にも進藤牧師の自宅を訪ね家で食事をごちそうになった。それ以来の交流があり、私の仕事に協力してくれたり、祈りあったりしている。
進藤牧師と関わる中で「カルト」と断罪した進藤牧師との関わりでいろいろ気付くことがあった。
極めて真面目に牧会をしている。「カルト」とされる牧師はゴージャスな生活に憧れる場合が多いが進藤牧師のアパートは埼玉西川口のスナックを改造した教会の前にある昭和時代の古い木造アパートである。そこで奥さんとワンコとニャンコと暮らしている。部屋の中も質素である。2間の和室に神学書と漫画書が入った棚とテレビとソファーしかない。顔も良く、トークも良く、著作も出したので作家やタレントに転身できるはずなのにしない。福音伝道に邁進している。自分が神様に贖われた喜びを他者に伝えたいという姿だけであった。
特にその伝道は刑務所受刑者の退所後のフォローや身元引き受けなど活動である「サアカイの家」の開設になる。これは全てが手弁当で行政の援助や入所者に生活保護受給を勧めるものではない。進藤牧師の性格からいって曲がったことやズルはしない。これは進藤牧師との対話の中でわかったことだ。
私がこの数年間の中で進藤牧師は祈ってくれただろう。そして神様も本当に私の進むべき道を備えてくれたと思う。
前日のブログ
「相談」されて「被害」の声が上がった教会、そこの牧師と関わった牧師はみんな「カルト」になり、カルト呼わりされる(する)という短絡的な「支援」をしてきた。私は第三者である。第三者だから何かできると思うのだが、最終的には当事者どうしとなるし、私は弁護士でも司法書士でもないので法的な事は何もできない。
「悪人」にすれば「悪人」になってしまうのではないか。第三者からみればなおさらである。これは私に対して「危険」と思われることも同じことであろう。
この情報社会の中で一方的な情報だけで「カルト」と決め付けるのは「おかしい」ということこそが「おかしい」ということを気付き機会はあった。その機会から1年以上経って私は「おかしさ」と「正しい」の中で疲弊してやめる決断をしただけだ。
前々日のブログから
ここに私は今まで傷をつけてきた教会や牧師への攻撃をここに悔い改めて、「被害を受けた方々」の慰めと回復と解決を祈る。
http://younachapel.ti-da.net/
ここから、進藤本人が補足
岡田牧師との対話の直接原因は、ネットでの中傷がひどくなり、この中傷グループから脱退した人からアッセンブリー教団の村上牧師の協力牧師であることが判明。アッセンブリー教団の大先輩で私が親しくしてもらい助けてもらっている佐藤孝牧師から村上牧師に対して苦言を言ってもらった。(村上牧師は私とも話したことがあるが善処してもらえなかった。)そして対面となった訳である。刑務所の中でアッセンブリーの通信講座をして仁司牧師に教わり、その後、私が按手を授かった一人に中央神学校教授もいて深い関係にあるのにますますネットであることないこと、ないことばかり書かれたのであった。しかし。、あえばわかるという自分自身の自信はあった。自分が神に忠実だからだ。岡田牧師から謝罪されたことで、2年間の苦しみを水に流した。信用回復には至ってはいなかったが、現在こうして悔い改めの活動をしているので私も傷が癒えて来た。カルト、カルトと叫んでいる人がカルトをせっせと造っている。冷静に判断してみよう。私の場合、お酒を飲んでいることが赦せなかったみたい。飲まないにこしたことはないけどさ、信仰の忠実さと酒は関係ないよ。
昨年の6月である私がネットで相談を受けて「カルト」と断罪した牧師と「対決」する機会を得た。牧師の名前は進藤龍也牧師である。
このことを以前やっていたブログに上の写真を入れて出したら「進藤はカルトじゃないか!何でそんなのに会うのか!」と抗議を受けた。今になって思うと「何であってはいけないの?」「俺の勝手だろう」と思う。「カルト」問題を扱うなら実際に「カルト」と会ってみて「カルト」を確かめないといけないだろう。これは原則であろう。警察も聞き取り調査をするし、大学生の社会調査でさえも同じだ。
電話で挨拶がてら電話を入れて数日後の来沖時に南風原のジャスコで落ち合い、家に招いた。お互いの夫婦で食事をしながら短い時間の中でとことん話し合いをした。ネット上で断罪したことを謝罪した。9月に私が帰省した際にも進藤牧師の自宅を訪ね家で食事をごちそうになった。それ以来の交流があり、私の仕事に協力してくれたり、祈りあったりしている。
進藤牧師と関わる中で「カルト」と断罪した進藤牧師との関わりでいろいろ気付くことがあった。
極めて真面目に牧会をしている。「カルト」とされる牧師はゴージャスな生活に憧れる場合が多いが進藤牧師のアパートは埼玉西川口のスナックを改造した教会の前にある昭和時代の古い木造アパートである。そこで奥さんとワンコとニャンコと暮らしている。部屋の中も質素である。2間の和室に神学書と漫画書が入った棚とテレビとソファーしかない。顔も良く、トークも良く、著作も出したので作家やタレントに転身できるはずなのにしない。福音伝道に邁進している。自分が神様に贖われた喜びを他者に伝えたいという姿だけであった。
特にその伝道は刑務所受刑者の退所後のフォローや身元引き受けなど活動である「サアカイの家」の開設になる。これは全てが手弁当で行政の援助や入所者に生活保護受給を勧めるものではない。進藤牧師の性格からいって曲がったことやズルはしない。これは進藤牧師との対話の中でわかったことだ。
私がこの数年間の中で進藤牧師は祈ってくれただろう。そして神様も本当に私の進むべき道を備えてくれたと思う。
前日のブログ
「相談」されて「被害」の声が上がった教会、そこの牧師と関わった牧師はみんな「カルト」になり、カルト呼わりされる(する)という短絡的な「支援」をしてきた。私は第三者である。第三者だから何かできると思うのだが、最終的には当事者どうしとなるし、私は弁護士でも司法書士でもないので法的な事は何もできない。
「悪人」にすれば「悪人」になってしまうのではないか。第三者からみればなおさらである。これは私に対して「危険」と思われることも同じことであろう。
この情報社会の中で一方的な情報だけで「カルト」と決め付けるのは「おかしい」ということこそが「おかしい」ということを気付き機会はあった。その機会から1年以上経って私は「おかしさ」と「正しい」の中で疲弊してやめる決断をしただけだ。
前々日のブログから
ここに私は今まで傷をつけてきた教会や牧師への攻撃をここに悔い改めて、「被害を受けた方々」の慰めと回復と解決を祈る。
http://younachapel.ti-da.net/
ここから、進藤本人が補足
岡田牧師との対話の直接原因は、ネットでの中傷がひどくなり、この中傷グループから脱退した人からアッセンブリー教団の村上牧師の協力牧師であることが判明。アッセンブリー教団の大先輩で私が親しくしてもらい助けてもらっている佐藤孝牧師から村上牧師に対して苦言を言ってもらった。(村上牧師は私とも話したことがあるが善処してもらえなかった。)そして対面となった訳である。刑務所の中でアッセンブリーの通信講座をして仁司牧師に教わり、その後、私が按手を授かった一人に中央神学校教授もいて深い関係にあるのにますますネットであることないこと、ないことばかり書かれたのであった。しかし。、あえばわかるという自分自身の自信はあった。自分が神に忠実だからだ。岡田牧師から謝罪されたことで、2年間の苦しみを水に流した。信用回復には至ってはいなかったが、現在こうして悔い改めの活動をしているので私も傷が癒えて来た。カルト、カルトと叫んでいる人がカルトをせっせと造っている。冷静に判断してみよう。私の場合、お酒を飲んでいることが赦せなかったみたい。飲まないにこしたことはないけどさ、信仰の忠実さと酒は関係ないよ。
妬みですよ。
特急電車にスピッツがほえているようなもんです。
行き場のない人たちを衣食住面倒見てますか?あなたたち!と、言いたい。その人の良し悪しは、その実でわかると言う。
神は忠実なものの味方です。
岡田牧師は謝罪して悔い改めてくれました。主に感謝。主の勝利。和尚さん、感謝。
私は日本基督教団の信徒ですが、福音派と呼ばれる人たちは、こういう所が極端すぎるような気がします。
日本基督教団も色々な人が居ますが、大体総じて頑な事は言わないようです。
私は福音派から日本基督教団に変わった者ですから、その違いでちょっと驚きましたが。
ま、神様から見れば同じ穴のむじなで、主に会っての兄弟なんですから、許してやりたいものですが・・・癪に障りますよね!!
岡田さんの知り合いです。
ちなみにアッセンブリーのアメリカ宣教師はお酒を飲んだことがわかると失職(クビ)です。 ピューリタンの影響が強いですからね。 でも、右も左もいるアッセンブリーの教職は飲まない人が大半です。 ワインに関しては聖餐のイメージがあってあまり悪いものという印象はないようですが・・・
酒に酔ってはいけません、そこには放蕩があるからです。 という聖書の一節からお酒はダメよ!と考える人が今でも多いですね。 そこはお酒のよしあしではなくて御霊に満たされることがすすめられている箇所なのに・・・もっときちんと聖書を学んでほしいものです。
ここだけで、酒を飲む人を断罪していくならば、カルトと呼ばれても仕方ないほどのものになってしまうんですが・・・
ただ、牧師ともなれば、お酒は飲まない方がいいですよ。いろいろ言われやすくなりますから、弱い方々のために飲まないようにするという決断は大切でしょう。
あ、いろんな話は岡田さんの近所に来られるようなのでもしかしたお会いできるかなあ? なんて思っています。