風のいろは 何いろ?

緑を渡る時、空を吹き巡る時、風は何色なのだろう?
風には色はないけれど、私には………。

「荒野の食卓」  (まとめて・・^^;)

2004-06-24 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
6月11日

彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。
使徒 13.2

まず主を礼拝することを学んでいないで、どうしてほんとうの意味で主に仕えることができるでしょうか。特別の奉仕への御霊の召命の声が聞こえたのは、まさにバルナバとサウロが主を礼拝し、断食しているときでした。
そして彼らの答えは神の召しに対してであり、人間の要望に対してではありませんでした。二人は人喰人種や首狩り族の報告を聞いてはいませんでした。二人は児童結婚や足かせや阿片吸引の悲惨な物語に同情心をあおられたわけではありませんでした。彼らが聞いたのはほかでもない御霊の声でした。彼らが呑み込んだ要求はほかならないキリストの要求だったのです。彼らに奉仕の要求を課したのはキリストの主権であり、二人が出かけて行ったのはただ主の権威によるのです。


6月13日

私はキリストとともに十字架につけられました。
ガラテヤ 2.20

私にとって「十字架につけられる」とは何を意味するのでしょう。・・・・・・・・・・・・・・・私自身十字架を、自分の体験としては知ってもいない、まさに用語によって、宣べ伝えていたのです--十字架で主とともに死んだのは私、ニー・トゥーシュンであったことが、突然劇的にわかるその日まで。「除け」と群集は叫びました。そのように人々はイエスのことを言いながら、彼らはまた意識せずに私に対する神の評決を繰り返
していたのです。神の私に対する判決はイエスに執行されました。・・・・・・・・・・・・その結果、私はたいへんへりくだらされたので、しばらくの間説教がまったくできなくなるほどであったことを申し上げます。ところでその一方、その日までの私の説教といえば、自分の情熱の燃焼にすぎなかったことを告白しなければなりません。


6月14日

 きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。                    出エジプト 32.29

・・・・・・・・・・人生の中で、自分の責任を離れて主に責任を引き継いでいただく日がなければなりません。そしてその日からというもの、私はキリストの者であり、もう自分のものではありません。・・・・・・・・・・・・・・・それでは私たちは何に対して献身するのでしょうか。・・・・・・・・・・・・神が望むならそれがなんであれ、また何をすることであれ、神の御心に対して献身するのです。


6月15日

 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には(英訳:わたしの名において集められる所には)、わたしもその中にいるからです。       
                           マタイ 18.20

・・・・・・・・・・なぜ彼らの祈りは聞き届けられるのでしょうか。なぜなら「ふたりでも三人でも、わたしの名において集ま」ってているからです。・・・・・・・・・・・・・単に自分たちで出かけるのではなく、神の御霊に導かれて集められることだからです。そして人々は自分たちの努力ではなく、たった一つの共通した主の御名への関心をいだいて、やってきます。まさしくこれは彼らが主イエスの御名において一つに結びついていることなのです。そしてこのようなとき、イエスは言われます。「わたしもその中にいるからです
」。・・・・・・・・・・・・・


6月16日

 真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝するときが来ます。・・・・父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
                            ヨハネ 4.23
 十戒は、なによりもまず神だけを礼拝するようにと、始まっています。・・・・・・・・・・・・・・礼拝の価値は測り知れません。サタンのもくろみの全体像は、神の民をある種の偶像礼拝に誘い込むことによって、神から礼拝を奪い
取ることです。偶像礼拝は、神以外の礼拝に値するものを要求します。ただ神に対してのみ礼拝を守ることで、この偶像礼拝に立ち向かうことは、私たちだけに許された栄誉なのです。


6月17日

 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
ヨハネ 17.3

 人々は・・・・・キリストは誰かという
根拠によって、キリストを拒絶しました。そして人々は・・・・・・・キリストはどんな人物で、キリストはだれであるかを信
じるようにと招かれているのです。「御子を持つものはいのちを持っており、」。
・・・・・・・・一番の問題はあなたが御
子を持っているかどうかということであって、まずなによりも救いの計画全体を理解しているかどうかではありません。救いの第一の条件は知識ではなく、キリストと出会うことです。
 不適切なみことばで救われたのではないかと、あなたが感じるような人々がいます。・・・・・・・・・・しかし第一歩が求められているすべての人は、個人的な神との接触がなければならない、ということがわかるようになりました。ですから、極めて重要な最初の第一歩のために、神がどのみことばを選んでお使いになろうとそれは大したことではないのです。


6月18日

 ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
II コリント 5.14

なぜ神は、自分は死んでいると私たちが計算するようにおっしゃるのでしょうか。なぜなら私たちは死んでいるからです。・・・・・・・・・・・・
 神は私たちに簿記をするように、そして「私は死んだ」と記入し、それからそれにとどまり続けるように要求しておられます。なぜでしょう。なぜならそれが事実だからです。主イエスが十字架につけられたとき、主イエスの内で私もそこにいました。ですから私が死んだのは真理だと帳簿につけるのです。私は罪に対して死んでいる。しかし神に対してはキリスト・イエスにあって生かされている、と帳簿につけます。


6月22日

 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、
I コリント 3.12以下
 ものは重さで量ります。木、草、わらは安く、軽く、朽ちやすいものです。金や銀、それに宝石は高価で重く、永遠です。・・・・・・神は働きばかりか材質さえもご覧になり、堅実な人々を表面的な働き人からなんなく区別されるのです。・・・・・・・・・・「神はどこで働いておられるのか。その点でキリストに関
する何があてはまるのか。このことで御霊の御思いは何か」なのです。私たちの働きがそのような性格を帯びたとき、その働きが残ることを私たちは確信できるのです。


6月23日

私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。
あなたが、こうしてくださったのですから。
・・・・いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。
                       詩篇 52.9

 時間の試練はあらゆる試練の中でもっとも厳しいものです。しかし神を待ち望むことを学ぶことによって初めて、私たちは実際に神によってなされたあることに自分がかかわっていることを発見するのです。息子のことでアブラムが神を信じてから10年後、アブラハムはもはや待てないと感じました。アブラムは神が相続者を与えようとしておられることを知っていましたので、跡取りをもうけようと努力しました。イシュマエルはその努力の結果でした。間違っていたのはアブラムの動機ではなく、出発点だったのです。子どもをもうけることについて、自分はまだ何かできるとアブラムは感じました。実際彼はできましたし、そうしました。86歳で彼にはまだその力がありました。
 そこからさらに長く待たされました。100歳になってアブラムはもはや用をなさなくなりました。彼の肉体は「死んだも同然」(ローマ 4.19)でした。素晴らしい恵みの賜物は、イサクという人となって、このような自分自身のうちにもはや神を喜ばす力を宿さない人物にやってきたのです。これはすべて神の業であり、待つに値することです。私たちを通して神に御自身の御業をなしていただくことは、たといそれが一度だけであったとしても、人間的な努力を一生傾けるよりもすぐれたことなのです。
コメント    この記事についてブログを書く
« カナダの写真(今頃^^;)... | トップ | 私らしく »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記(旧サイト~移行分:未分類)」カテゴリの最新記事