5月25日-----------------------------
<font color=purple>というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。
なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、
恵みの下にあるからです。 (ローマ 6.14)</font>
最初に神の光が私の心に差し込むとき、私の叫びは救いを求める叫びです。というのは、私は神の御前に罪を犯したことを悟るからです。しかしひとたび罪の赦しをいただくと、新しい発見をするのです。すなわち、私は依然として罪人の性質を持っているということです。生まれつき罪に荷担する傾向があり、罪の力が私を強制するのです。この罪の力が充満すると、私は罪を犯すのです。私は赦しを乞い求め、それを得るかもしれません。しかしやがてもう一度罪を犯すのです。ですから人生は罪を犯し、赦され、また罪を犯すという悪しき循環を繰り返すことになります。私は神の赦しの事実を正しく捉えてはいますが、それだけでは決定的に何かが足りないのです。私のしてしまったことが赦されているので、私は喜びますが、同様に、私という人間から救われる必要があるのです。罪を犯す私の能力の根幹にキリストの十字架を打ち込んでいただく必要があるのです。
キリストの血潮は私の一つ一つの罪を処理してくださいました。しかし私を処理するには、キリストの死と復活があるのみなのです。
5月26日-----------------------------
<font color=purple>あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、
一つだからです。 (ガラテヤ 3.28)</font>
私たち信じる者にとってキリストの十字架は中心です。・・・・・・・・・・・・・しかし・・・・・・・・・・・十字架は目的に対する手段であって、それ自体が目的ではないということを忘れてはなりません。十字架という手段が導く神の目的はキリストにある新しき人です。
救い、個人的聖さ、勝利の生活、御霊に従った歩み。こうしたもっとも価値ある贖いの実はすべて私たちが享受するためのものです。しかしそれらの実は、神のためにこの地上に散らされた無数の個々の単体にすぎない私たちに求めようとされてはいません。贖いの実の価値はさらに高みに置かれるように定められています。各々の実はキリストのみからだのゆえに私たちのものです。・・・・・・・・・・神は、私たちが自分自身を「人々」としてではなく「人の子」として、つまりキリスト者として、見るようにされたのです。神の御思いの目的は実際には天の人の子おひとりなのであって・・・・・・・・・・・・・。
5月27日-----------------------------
<font color=purple>約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、
しっかりと希望を告白しようではありませんか。(ヘブル10:23)</font>
・・・・・・・・イエスはしばしば言われました。「わたしだ」。イエスは私たちが「あなたです」というのをお聞きになるのがお好きです。私たちはまずめったにそう言いません。<font color=red>すべてがうまくいかなくなり、途方に暮れたときは、祈ってはいけません。「あなたは主です」と告白しなさい。</font>
・・・・・・・・・・・イエスの御名は他のすべての名前を冠絶しています。御名を宣言しなさい。敵に言ってやりなさい。私たちの証の言葉は、しばしば祈りが結果をもたらさないところに効果を表すでしょう。・・・・・・・・・・
5月28日-----------------------------
<font color=purple>祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります。( マルコ 11.24)</font>
信仰は神の事実の受け皿です。・・・・・・・真
の信仰は常に過去に根をおろしています。未来に関係するのは信仰ではなくむしろ希望です。・・・・・・・・・・・・・・もしあなたが自分が求めるものは(もちろん主にあって)、「すでに受けた」と信じるなら、「そうすれば、そのとおりになります」。何かをもらえるかもしれないとか、何かをもらえるだろうとか、何かをもらおうと信じることは、ここで言っているところの信仰ではありません。信仰とは、もうすでに受けたと信じることなのです。・・・・・・・・・・・・キリスト者の生活は、最初に掲げられているように、
神の事実に基づく信仰によって生かされるものなのです。
5月29日-----------------------------
<font color=purple>私たちは、だれにも不正をしたことがなく、
だれをもそこなったことがなく、だれからも利を
むさぼったことがありません。(II コリント 7.2)</font>
主の僕は喜んで利益を奪われるべきです。しかし絶対に他の人の利をむさぼるようなことがあってはなりません。神に信頼すると公言しながらしかもなお乞食の役を演じて、自分の足りないものを表に出して、他の人々のあわれみを乞うのは恥ずべきことです。・・・・・・・・・・・・・・・そこそこの利益をむさぼろうと待ちかまえている心ほどさもしさを表わすものはありません。・・・・・・・・・・・
5月30日-----------------------------
<font color=purple>鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、
「鶏が二度鳴く前に、あなたは、私を知らないと三度言います。」
という主のおことばを思い出した。それに思い当たったとき、
彼は泣き出した。 (マルコ 14.72)</font>
・・・・・・彼(ペテロ)は試みられて駄目になった・・・・・・・。しかし、駄目にならなかったひとたちよりも、彼は立派ではなかったのでしょうか。・・・・・・・・・彼は主の言葉を思い出しました。そしてそれを考えるとすぐに彼は泣いたのです。
・・・・・・・・・もし私たちが・・・・みことばに働く余地を与えるなら、実際に私たちは失敗していても、失敗したことにいつまでも気がつかずにいるようなことはありません。
6月2日-------------------------------
<font color=purple>彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、
ぶどうの木のように芽をふき(英訳:花を咲かせ)(ホセア14.7)</font>
ぶどうの開花に今までだれが注意を払ったことでしょう。実際のところ、ぶどうの花は、花の中でも一番寿命の短いものの一つです。花が散ってすでに実に変わりかけるまで、ほとんど気づかれることがありません。自然界で、我々は植物を3つの型に識別することができるかもしれません。花は咲かせても全く実を結ばないもの。桃のように、花も実も両方目立つもの。そしてぶどうのように、花は取るに足りないのですが、その実によってのみ人々の称賛を得るもの。神はこれらの植物の中で一番最後のものに高い価値を置かれておられるのは明らかです。
人々を惹きつけるものをひけらかそうとする誘惑を、私たちが受けるのはいったいどういうことでしょうか。称賛を受けようとする花のように。しかし父なる神は私たちをぶどうの木の枝として置かれています。そこでは、神が求めておられるのは何よりもまず、結実なのです。
6月3日-------------------------------
<font color=purple>実を結ぶものはみな、、もっと多く実を結ぶために、
刈り込みをなさいます。 (ヨハネ 15.2)</font>
今日、あらゆる訓練に類するものは、生まれつきの魂を啓発するためのものです。独立心、誇り、利発、自信、これらのものを身につけさせるものなのです。同世代の人々は、ぬきんでた人々を大切にします。このようにサタンが用いやすいように人々を調整することで、そうした訓練はサタンためにサタンの働きをしていることになるのです。
神が私やあなたのために従事している仕事は、ぶどう園の園丁の剪定作業です。私たちのたましいの中に時期はずれに育った枝は検査され、対処されなければなりません。神はそれを切り落とさなければならないのです。神は一方では私たちが、新生によって私たちのうちに植え付けられた神の御子のいのちによって生きる場所に私たちを導こうとされています。しかし<font color=red>もう一方で神は、まず第一にアダムの罪へと導いた私たちの生まれつきの資質の蓄えを減らすために</font>、私たちの心に直接働きかけておられるのです。毎日私たちはこの二つの課題を実習しています。すなわち、キリストのいのちの現れ。そして、別の生まれつきのいのちが検査され、死に渡される。その結果、この世の尺度で言うと、私たちは弱く、無知であることを認めないわけにはいかないのです。「私は知りません。--しかし神はご存知です。それで十分なのです」。<font color=red>神よ、今日のたましいの肥大から私たちを救ってください。</font>
6月4日-------------------------------
<font color=purple>私が弱いときにこそ、私は強いからです。
(II コリント 12.10)</font>
・・・・・・・・・・・・その試練の中で私は救済を求めて祈りましたが、・・・・・・・・・それに対して「否」という答えを受けたのでした。そのとき私の頭には川船のことが浮かんだのでした。その川船は深い川峡を渡ることができません。というのも川の中の大きな岩が川底から150センチ以上も突き出しているからです。私が試みを受けている間、ずうっと私はその巨大な岩を取り去ってくださいと主に願い続けていました。 そのとき私の中に疑念がわき上がってきました。航路から150センチの巨岩をどかしていただく方がいいのだろうか、それとも神に水位を150センチまで上げていただく方がいいのだろうか、と。パウロの訴えに対する答えは次のものでした。「わたしの恵みは十分です」。もちろん水位が上がってくれた方がいいのです。<font color=red>私の問題は消えてなくなりました。なぜならキリストの信仰とは大きな石を取り除くということにあるのではなく、岩よりもさらに深い水を得ることにあるのです。</font>
6月5日-------------------------------
<font color=purple>さわった人々はみな、いやされた。(マルコ 6.56)</font>
パリサイ人と取税人の宮での祈り・・・・・・・パリサイ人には神への心からの叫びがありませんでした。「主よ。私をあわれんでください」と叫んだのは、取税人の方でした。何かが神に向かってこの男から出ていき、その何かに対してすぐ
に反応がおこりました。イエスは取税人を神が義と認めた人物として指名したのです。何によって義とみなされるのでしょうか。神に触れることによってです。
現在における大多数の福音宣教の大きな欠点は、私たちが人々に救いのご計画をわからせようとすることにあり、その結果、ほとんど、あるいは全く実を結ばないということが余りにも頻繁に起こるのです。私たちはどこで失敗したのでしょうか。私はその敗因はここにあるとはっきり申し上げることができます。それは、<font color=red>聞き手が神を見ていないことなのです</font>。私たちは十分に神を示すことをしませんでした。私たちは単に人々の罪や神の救いを人々に指し示すだけです。ところがその一方で、<font color=red>人々がほんとうに必要としているものは、救い主ご自身を見ることであり、神に出会うことであり、神と交わりを持つことなのです。</font>
6月6日-------------------------------
<font color=purple>みな互いに謙遜を身につけなさい。(I ペテロ 5.5)</font>
からだ(訳注:目に見えないキリストのみからだなる教会をさす)はそれ自体を愛によって建て上げています。まるで「物質」のように、<font color=red>からだから離れて自立できる特別な伝道の働き人がいるということはあり得ませんし、外側から、からだを建て上げることのできる人もいません。</font>キリストの教会を、私たちが自分たちの外側で仕えている何かであると考えてしまう危険性に、私たちのだれもがさらされています。そんなことは不可能です。もしみからだのいのちに寄与しようと言うのなら、謙虚になってみからだのいのちに服従しなければなりません。そうすれば、いのちの働きに寄与すると同様に、そのいのちの働きを受けとることにもなるのです。<font color=red>私たちは仲間の信者に対してよりも、神に対して自分自身を低くすることが容易だということに気づいているでしょうか。謙遜の絶えざる訓練なしには、互いに仕え合うことはきわめて難しいことを銘記してください。なぜならよくも悪くも私たちはからだの器官です。そこから逃れることはできません。</font>他人を攻撃してごらんなさい。それは神を攻撃することです。兄弟からの助けを受け入れてごらんなさい。それは他人を助けているにすぎないことかもしれません。仕えなさい。そうすれば私たち自身が世話を受けることになるのです。私たちは神の同労者です。神の建物です。
<font color=purple>というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。
なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、
恵みの下にあるからです。 (ローマ 6.14)</font>
最初に神の光が私の心に差し込むとき、私の叫びは救いを求める叫びです。というのは、私は神の御前に罪を犯したことを悟るからです。しかしひとたび罪の赦しをいただくと、新しい発見をするのです。すなわち、私は依然として罪人の性質を持っているということです。生まれつき罪に荷担する傾向があり、罪の力が私を強制するのです。この罪の力が充満すると、私は罪を犯すのです。私は赦しを乞い求め、それを得るかもしれません。しかしやがてもう一度罪を犯すのです。ですから人生は罪を犯し、赦され、また罪を犯すという悪しき循環を繰り返すことになります。私は神の赦しの事実を正しく捉えてはいますが、それだけでは決定的に何かが足りないのです。私のしてしまったことが赦されているので、私は喜びますが、同様に、私という人間から救われる必要があるのです。罪を犯す私の能力の根幹にキリストの十字架を打ち込んでいただく必要があるのです。
キリストの血潮は私の一つ一つの罪を処理してくださいました。しかし私を処理するには、キリストの死と復活があるのみなのです。
5月26日-----------------------------
<font color=purple>あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、
一つだからです。 (ガラテヤ 3.28)</font>
私たち信じる者にとってキリストの十字架は中心です。・・・・・・・・・・・・・しかし・・・・・・・・・・・十字架は目的に対する手段であって、それ自体が目的ではないということを忘れてはなりません。十字架という手段が導く神の目的はキリストにある新しき人です。
救い、個人的聖さ、勝利の生活、御霊に従った歩み。こうしたもっとも価値ある贖いの実はすべて私たちが享受するためのものです。しかしそれらの実は、神のためにこの地上に散らされた無数の個々の単体にすぎない私たちに求めようとされてはいません。贖いの実の価値はさらに高みに置かれるように定められています。各々の実はキリストのみからだのゆえに私たちのものです。・・・・・・・・・・神は、私たちが自分自身を「人々」としてではなく「人の子」として、つまりキリスト者として、見るようにされたのです。神の御思いの目的は実際には天の人の子おひとりなのであって・・・・・・・・・・・・・。
5月27日-----------------------------
<font color=purple>約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、
しっかりと希望を告白しようではありませんか。(ヘブル10:23)</font>
・・・・・・・・イエスはしばしば言われました。「わたしだ」。イエスは私たちが「あなたです」というのをお聞きになるのがお好きです。私たちはまずめったにそう言いません。<font color=red>すべてがうまくいかなくなり、途方に暮れたときは、祈ってはいけません。「あなたは主です」と告白しなさい。</font>
・・・・・・・・・・・イエスの御名は他のすべての名前を冠絶しています。御名を宣言しなさい。敵に言ってやりなさい。私たちの証の言葉は、しばしば祈りが結果をもたらさないところに効果を表すでしょう。・・・・・・・・・・
5月28日-----------------------------
<font color=purple>祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります。( マルコ 11.24)</font>
信仰は神の事実の受け皿です。・・・・・・・真
の信仰は常に過去に根をおろしています。未来に関係するのは信仰ではなくむしろ希望です。・・・・・・・・・・・・・・もしあなたが自分が求めるものは(もちろん主にあって)、「すでに受けた」と信じるなら、「そうすれば、そのとおりになります」。何かをもらえるかもしれないとか、何かをもらえるだろうとか、何かをもらおうと信じることは、ここで言っているところの信仰ではありません。信仰とは、もうすでに受けたと信じることなのです。・・・・・・・・・・・・キリスト者の生活は、最初に掲げられているように、
神の事実に基づく信仰によって生かされるものなのです。
5月29日-----------------------------
<font color=purple>私たちは、だれにも不正をしたことがなく、
だれをもそこなったことがなく、だれからも利を
むさぼったことがありません。(II コリント 7.2)</font>
主の僕は喜んで利益を奪われるべきです。しかし絶対に他の人の利をむさぼるようなことがあってはなりません。神に信頼すると公言しながらしかもなお乞食の役を演じて、自分の足りないものを表に出して、他の人々のあわれみを乞うのは恥ずべきことです。・・・・・・・・・・・・・・・そこそこの利益をむさぼろうと待ちかまえている心ほどさもしさを表わすものはありません。・・・・・・・・・・・
5月30日-----------------------------
<font color=purple>鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、
「鶏が二度鳴く前に、あなたは、私を知らないと三度言います。」
という主のおことばを思い出した。それに思い当たったとき、
彼は泣き出した。 (マルコ 14.72)</font>
・・・・・・彼(ペテロ)は試みられて駄目になった・・・・・・・。しかし、駄目にならなかったひとたちよりも、彼は立派ではなかったのでしょうか。・・・・・・・・・彼は主の言葉を思い出しました。そしてそれを考えるとすぐに彼は泣いたのです。
・・・・・・・・・もし私たちが・・・・みことばに働く余地を与えるなら、実際に私たちは失敗していても、失敗したことにいつまでも気がつかずにいるようなことはありません。
6月2日-------------------------------
<font color=purple>彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、
ぶどうの木のように芽をふき(英訳:花を咲かせ)(ホセア14.7)</font>
ぶどうの開花に今までだれが注意を払ったことでしょう。実際のところ、ぶどうの花は、花の中でも一番寿命の短いものの一つです。花が散ってすでに実に変わりかけるまで、ほとんど気づかれることがありません。自然界で、我々は植物を3つの型に識別することができるかもしれません。花は咲かせても全く実を結ばないもの。桃のように、花も実も両方目立つもの。そしてぶどうのように、花は取るに足りないのですが、その実によってのみ人々の称賛を得るもの。神はこれらの植物の中で一番最後のものに高い価値を置かれておられるのは明らかです。
人々を惹きつけるものをひけらかそうとする誘惑を、私たちが受けるのはいったいどういうことでしょうか。称賛を受けようとする花のように。しかし父なる神は私たちをぶどうの木の枝として置かれています。そこでは、神が求めておられるのは何よりもまず、結実なのです。
6月3日-------------------------------
<font color=purple>実を結ぶものはみな、、もっと多く実を結ぶために、
刈り込みをなさいます。 (ヨハネ 15.2)</font>
今日、あらゆる訓練に類するものは、生まれつきの魂を啓発するためのものです。独立心、誇り、利発、自信、これらのものを身につけさせるものなのです。同世代の人々は、ぬきんでた人々を大切にします。このようにサタンが用いやすいように人々を調整することで、そうした訓練はサタンためにサタンの働きをしていることになるのです。
神が私やあなたのために従事している仕事は、ぶどう園の園丁の剪定作業です。私たちのたましいの中に時期はずれに育った枝は検査され、対処されなければなりません。神はそれを切り落とさなければならないのです。神は一方では私たちが、新生によって私たちのうちに植え付けられた神の御子のいのちによって生きる場所に私たちを導こうとされています。しかし<font color=red>もう一方で神は、まず第一にアダムの罪へと導いた私たちの生まれつきの資質の蓄えを減らすために</font>、私たちの心に直接働きかけておられるのです。毎日私たちはこの二つの課題を実習しています。すなわち、キリストのいのちの現れ。そして、別の生まれつきのいのちが検査され、死に渡される。その結果、この世の尺度で言うと、私たちは弱く、無知であることを認めないわけにはいかないのです。「私は知りません。--しかし神はご存知です。それで十分なのです」。<font color=red>神よ、今日のたましいの肥大から私たちを救ってください。</font>
6月4日-------------------------------
<font color=purple>私が弱いときにこそ、私は強いからです。
(II コリント 12.10)</font>
・・・・・・・・・・・・その試練の中で私は救済を求めて祈りましたが、・・・・・・・・・それに対して「否」という答えを受けたのでした。そのとき私の頭には川船のことが浮かんだのでした。その川船は深い川峡を渡ることができません。というのも川の中の大きな岩が川底から150センチ以上も突き出しているからです。私が試みを受けている間、ずうっと私はその巨大な岩を取り去ってくださいと主に願い続けていました。 そのとき私の中に疑念がわき上がってきました。航路から150センチの巨岩をどかしていただく方がいいのだろうか、それとも神に水位を150センチまで上げていただく方がいいのだろうか、と。パウロの訴えに対する答えは次のものでした。「わたしの恵みは十分です」。もちろん水位が上がってくれた方がいいのです。<font color=red>私の問題は消えてなくなりました。なぜならキリストの信仰とは大きな石を取り除くということにあるのではなく、岩よりもさらに深い水を得ることにあるのです。</font>
6月5日-------------------------------
<font color=purple>さわった人々はみな、いやされた。(マルコ 6.56)</font>
パリサイ人と取税人の宮での祈り・・・・・・・パリサイ人には神への心からの叫びがありませんでした。「主よ。私をあわれんでください」と叫んだのは、取税人の方でした。何かが神に向かってこの男から出ていき、その何かに対してすぐ
に反応がおこりました。イエスは取税人を神が義と認めた人物として指名したのです。何によって義とみなされるのでしょうか。神に触れることによってです。
現在における大多数の福音宣教の大きな欠点は、私たちが人々に救いのご計画をわからせようとすることにあり、その結果、ほとんど、あるいは全く実を結ばないということが余りにも頻繁に起こるのです。私たちはどこで失敗したのでしょうか。私はその敗因はここにあるとはっきり申し上げることができます。それは、<font color=red>聞き手が神を見ていないことなのです</font>。私たちは十分に神を示すことをしませんでした。私たちは単に人々の罪や神の救いを人々に指し示すだけです。ところがその一方で、<font color=red>人々がほんとうに必要としているものは、救い主ご自身を見ることであり、神に出会うことであり、神と交わりを持つことなのです。</font>
6月6日-------------------------------
<font color=purple>みな互いに謙遜を身につけなさい。(I ペテロ 5.5)</font>
からだ(訳注:目に見えないキリストのみからだなる教会をさす)はそれ自体を愛によって建て上げています。まるで「物質」のように、<font color=red>からだから離れて自立できる特別な伝道の働き人がいるということはあり得ませんし、外側から、からだを建て上げることのできる人もいません。</font>キリストの教会を、私たちが自分たちの外側で仕えている何かであると考えてしまう危険性に、私たちのだれもがさらされています。そんなことは不可能です。もしみからだのいのちに寄与しようと言うのなら、謙虚になってみからだのいのちに服従しなければなりません。そうすれば、いのちの働きに寄与すると同様に、そのいのちの働きを受けとることにもなるのです。<font color=red>私たちは仲間の信者に対してよりも、神に対して自分自身を低くすることが容易だということに気づいているでしょうか。謙遜の絶えざる訓練なしには、互いに仕え合うことはきわめて難しいことを銘記してください。なぜならよくも悪くも私たちはからだの器官です。そこから逃れることはできません。</font>他人を攻撃してごらんなさい。それは神を攻撃することです。兄弟からの助けを受け入れてごらんなさい。それは他人を助けているにすぎないことかもしれません。仕えなさい。そうすれば私たち自身が世話を受けることになるのです。私たちは神の同労者です。神の建物です。
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