東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

神様の働きはとても賢明である

2020-01-14 23:18:45 | 文章

安徽省鞍山市 実際

私が教会で指導者として働いていた時、私の指導者は私たちへの教訓として他の人の失敗談をよく話してくれました。例えば、字義や教義について語るばかりで、自分自身の堕落については触れなかったり、真理が現実にどう当てはまるかについて自分の見解を話さなかったりする指導者がいたそうです。その結果、彼らは実際的な働きを行なうことができず、偽指導者となって交代させられました。また、自分を誇示したり、高く掲げたり、地位を守るために自分の証しをする指導者もいました。最終的に、そのような指導者は人々を自分の前に連れてきて、ありとあらゆる悪事を行ない教会から追放される反キリストになりました。働きを行ないながら自分の肉体をあまりに強く気にかけ、快楽に飢えて本物の働きをまったくしない指導者もいました。そのような指導者はまるで、教会での地位がもたらす益にしがみつく寄生虫のようでした。結局、彼らは暴かれ淘汰されました……これらの失敗談を聞いて私の頭にある疑問が浮かびました。「神様は全能ではないのか。これらの指導者は悪事を働き、神様に抵抗し、教会の働きに悪影響を与えていたのに、なぜ神様はもっと早くに手をお下しになって、これら偽指導者を暴いて淘汰なさらなかったのだろう。そうなさっていれば、兄弟姉妹のいのちも教会の働きもすべて害を受けずに済んだのではなかったか」答えが見つからないまま、この疑問が私の心に残りました。

そんなある日、私は次の説教の一節を読みました。「各階層の指導者に絶えず批判を浴びせ、無責任な発言をする人がいます。このような振る舞いはこの人たちの何を暴露しますか。ひどく傲慢で理知に欠けている人や、神様の働きをまったく理解していない人は、正しい形で物事を受け止めないことを明らかにしています。もしあなたが、この人には聖霊の働きがなく、働きを通じて神様の選民を真理に導いていないと認識しているなら、それはあなたが真理に入ったことを証明しているのではないですか。このようなことが起きているのに気づいたら、つまり偽の働き手や使徒が現われたら、神様の選民の責務は何ですか。神様の選民はこの状況をどのように解決すべきですか。このような問題をどう取り扱うべきですか。その件を上位の人に報告し、問題の人物を暴くことができます。適切な手段をとって、より多くの神様の選民がその問題を識別できるようにしなさい。適切な方法で報告し、暴き、提案することで、その問題はこのような形で解決されるのではないですか。ゆえに、神様の選民は責任を担い、このような事柄を解決する最善の方法を知らなければなりません。神様の選民に真理がないのであれば、これらの問題を解決するにあたって適切に行動することはきっとありません。中には強い正義感をもつ人もいますが、そのような人は自分たちの教会で神様の働きを妨げたり破壊したりする人を決して許しません。このような人を見つけ次第、報告して暴くのです。妨げたり破壊したりする者に抵抗する人がいる一方、それに盲従する人もいます。誰であれ指導者を無闇に崇拝してそれに従う人もいれば、何の識別力もないまま振る舞い、人の言うことを何でも受け入れる人もいます。このようにして、ありとあらゆる人が暴かれるのだと分かりますこのようなことが起こると、人はすっかり暴かれます。これは神様の善意なのです。真理をしっかり捉えていれば、偽の使徒や働き手が現われても、神様の選民はその存在にすぐ気づき、抵抗し、排除することができます。これは何を意味しますか。神様の選民がいのちにおいて円熟し、成長を遂げたこと、そして神様の救いを完全に授かったことを意味しています。この人たちが神様のものとなり、神様によって完全にされたことを表しています。このように、生じるすべての事柄には神様の善意が込められているのです。」(『いのちの入りについての交わりと説教III)』の「人の観念と判断の見極め方」より)この一節は私の困惑をすっかり解消してくれました。実際のところ、神様は偽の使徒や働き手が教会に出現することを許されます。それによってありとあらゆる人を暴くことがおできになるからです。これにより、神様は人々の中に真理を植えつけ、認識と知恵を授けられることで、人々が真理を認識し、神様の御言葉の現実に入れるようにしてくださるのです。偽の使徒と働き手が悪事を働いて教会の働きを妨害する際には、教会の益を守って神様の証しを立てるべく、正義感をもち真理を求める人全員が立ち上がり、この人たちの行ないを報告し、暴き、抵抗し、拒絶するのです。真理を求めず見境なく他人に従う人たちは、認識がなく、大衆について回ることしかできず、他の人に無闇に従い黙従するため、最後は悪事を働く人と共謀することになります。権力者に従う卑しい支持者やおべっか使いは、真理を愛しておらず、他人を崇拝して追い求めるだけなので、偽の使徒や働き手によって惑わされてしまいます。傲慢で理知のない人は神様の働きを認識していないので、教会の働きに口を挟んだり、それに関する観念を膨らませたり、さらには神様の働きに疑問を投げかけて判断を下しさえします。これによってこのような人たちの本性が暴露されます。明らかに、神様の働きはとても賢明です。神様は人間の観念と一致しないこれらの事柄を通じて働きを行なわれ、人を暴き、訓練し、完全になさいます。神様を本当に信じて真理を追い求める人は、真理を求め、神様の御心を理解し、真理を実践し、証しを立て、それによって神様に満足していただき、神様の救済を授かり、完全にしていただくことができます。真理を求めていない人は、単に他人の言葉を繰り返すか、無闇に崇拝するか、自分の観念と想像に応じて神を批判することしかできません。そのせいで暴かれ淘汰されるのです。私は次の神様の御言葉の一節について考えました。「神は、数多くの否定的なこと、数多くの逆境によって、あなたを完全にする。神は、サタンの数多くの行為と非難、そして多くの人々の中に表されるサタンの表現を通して、あなたが認識を獲得できるようにして、あなたを完全にする。」(『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より)これは紛れもない真実です。不利な出来事、あるいは否定的な出来事だと人から見なされるものであっても、神様は人が識別と見識を得られるよう、この不利な状況を通じて働きをなさっています。人に真理を悟らせ、神様の知恵、全能性、驚くべき御業に気づけるようにし、サタンの計略を見抜いてサタンに背を向け、神様の元へと戻れるようにと、この状況を通じて働きをなさっているのです。これが、人間の観念と一致しない事柄を通じて人を完全になさる、神様の働きに隠された意味です。偽の指導者や働き手が現れた瞬間、神様がその人たちを暴いて淘汰なさったとしたら、人には真理を理解する力がないため、そして他人の真の本性に気づき、それを見抜く能力もないため、これらの指導者や働き手が払う表面的な犠牲や努力に惑わされてしまうでしょう。結果的に、神様の働きに対する観念と批判を膨らませ、不満を口にし、不当な扱いを受けたと訴える偽の指導者や働き手をかばおうとさえするでしょう。このようなことが起こると、神様は人を完全にするという目標を実現なさることができなくなります。神様が偽の指導者や働き手の本性をあえて暴かれなかったのは、神様が全能でいらっしゃらないから、あるいはこの人たちの過ちにお気づきにならなかったからではありません。むしろ神様は、聖霊の働きがある人とない人の違い、真の指導者や働き手と偽の指導者や働き手との違い、教義を語る人と真理の現実がある人との違いを人々に気づかせる訓練の手段として、こういった否定的な行ないを持ち出そうと思われたのです。神様は私たちを訓練なさり、真理を求め正義感のある人、真理を求めず認識を欠く人、神様の働きに対して常に観念を抱く傲慢な人を私たちが見抜けるようになさりたかったのです。すべての人が真理を理解し、神様の御言葉の現実に入り、神様のものとなれば、このような偽の使徒、指導者、そして働き手も、それぞれの目的を果たしたことになります。このようにして、神様がそれらの人を完全に淘汰なさる時、人は神様を誤解しないだけでなく、神様の義と全能性を讃えることになります。明らかなように、人が真理を悟り、異なる種類の人々を認識し、神様の本当の働きを真に理解できるよう、神様はこのような不利で否定的な出来事を通じて働きをなさるのです。

神様、あなたの啓きと導きに感謝します。おかげで、神様の善意と知恵は、人の観念と合致しない出来事にさえ込められていることが分かりました。神様がおっしゃるとおり、人間を最も有意義な形で暴き、完全になさるべく、「わたしの知恵はサタンの計略に基づいて働くと言った。」「神はすべての事柄を神に仕えるように操られる」のです。この先、私は状況の善悪を判断するにあたり、自分の卑しい人間的な視点を用いないことを誓います。自分が携わるすべての出来事において、真理を真に理解し、真理を自分のものにできるよう、ひたすら真理を求め、神様の知恵と全能性、神様の性質、そして神様が所有されているものと神様そのものを認識するよう求めていくことを誓います。

 

神の言葉が私を覚醒させた

2020-01-10 18:47:31 | 文章

渺小 山東省济南市

私は以前、神様が「偉大な白い玉座から逃げる操り人形であり裏切り者である」とおっしゃったのは、終わりの日の神様の働きを受け入れるものの、その後あとずさりする人を指しているのだとばかり思っていました。それ故、どんな理由であれ兄弟姉妹たちがこの道から退くのを見るといつでも、私の心は彼らへの軽蔑で一杯になりました。「偉大な白い玉座から逃れ、神様の懲罰を受けるべき操り人形であり裏切り者がまた一人」と思ったのです。それと同時に、私自身は神様の裁きを受け入れるうえで正しく行動しており、神様の救いを受けるのはそう遠くないと感じていました。

ある日、私が霊的な勤めを果たしていたとき、「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」という記事に神様の以下のような言葉を見つけました。「それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。もしこれらの真理を重要視せず、いかにこれらを避けるかや、いかにこれらとは関わりのない新しい逃げ道を見つけるかしか考えないのならば、あなたは恐ろしい罪人である、とわたしは言う。もしあなたに神への信仰があるのに、神の真理や心を追い求めず、またあなたを神に近づける道を愛さないなら、あなたは裁きを逃れようとしている人であり、偉大な白い玉座から逃げる操り人形であり裏切り者である、とわたしは言う。神の目から逃げる反抗的な者を神は誰一人として容赦しない。そのような人はさらに重い懲罰を受ける。裁かれるために神の前に来る人で、その上、清められた人は、永遠に神の国に住むであろう。」(『言葉は肉において現れる』より)この言葉を熟考した後、偉大な白い玉座から逃れる操り人形であり裏切り者は、この道から後ずさりする人々だけを指しているのではないということを私はついに理解しました。さらに重要なことに、それが指しているのは、神様に従いながらこれらの真理を尊重しない人々、これらの真理から外れた新しい道を探し、常にこれらの真理を忌避している人々、神様の懲罰と裁きに従う覚悟がないのに、神様によって清められることを求める人々だということです。私は神様の啓示と導きの下で、自らの行動を反省し始めました。神様は今、人を裁く言葉を表し、苦しみと精練によって神様と相容れないものを人から除いておられます。しかし、神様の懲罰と裁き、苦しみと精練に直面して、神様がこのような状況をすぐに取り除かれることを願いつつ、私はいつも逃げようとしています。これは真理を避け、真理から外れた道を探していることではないでしょうか。神様がもたらされた人々や物が私の個人的な観念に合わなかったり、あるいは私が後ろ向きな状況に陥ったりすると、たとえ兄弟姉妹たちとの交流を通じて私の問題が解決されるとしても、私はなおも抵抗し、聞くことを拒否します。神様がおっしゃるように、これは真理を求めていない、私を神様にさらに近づける道を愛していないということではないでしょうか。仕事のやり方がおざなりであるために取り扱われ、刈り込まれるとき、私はいつも自らを説明する言い訳を探しています。これは真理を受け入れることを拒む本質ではないでしょうか。私は実生活で自分に都合のよいようにすることがよくあります。それが真理であることを知っているときでさえ、私は肉を裏切り真理を実践することを拒否します。これは裁きを受け入れていないだけではなく、浄化されることを求めていないのではないでしょうか。・・・そのことについて考えるようになったので、さらにはっきりと私は理解しています。偉大な白い玉座から逃れていると神様がおっしゃる人々は、教会を離れる人だけを指しているのではありません。もっと重要なことに、それは真理を受け入れず、神の裁きに従わおうとしない私たちの心を指しているのです。今になって初めて私は恐怖や慄きを感じ始めました。私は教会を去っていませんが、問題に遭遇するたび、真理を受け入れるのを常に拒否し、神様の裁きを避けていました。私は正に神の裁きの席から逃れる操り人形であり裏切り者ではないでしょうか。しかし私は、自分は神様の救いを受けるのにとても近いところにいるが、教会を離れる人々だけが神の玉座から逃れる操り人形であり裏切り者であると信じていました。神の言葉についての私の理解があまりにも一面的で浅く、神の働きについての私の知識もあまりにも不足していたことがわかります。今や、神の懲罰と裁きを誠実に受け入れ、性質の変化を成しえた人々だけが神の救い本当に受けます。それなのに私は自分の想像に生き、真理を渇望せず、自らのいのちに責任を持たず、危機感や切迫感が全くありませんでした。もしこのように続けていれば、私は正に神の懲罰の対象になったのではないでしょうか。

神様の言葉の啓示のおかげで、私は自らの観念や想像から目を覚まし、自分が神様の懲罰や裁きを受け入れる覚悟のある者ではないことに気づきました。それはまた、私が危機に瀕していたことを私に知らしめてくれました。これからは、やがて神様により清め、完全にしていただけるように、私は心をすべて神様に捧げ、神様の懲罰と裁きに従い、最大限の努力を行って真理と性質の変化を求めます。


地位を失ってから

2020-01-08 18:54:18 | 文章

リーダーの地位から外されてがっかりしたり、弱気になったり、いじけたりする人のことを見聞きするたび、私はそんな人たちを見下していました。ひとりひとり教会の中で異なる役割をもっているだけのことで、上下の差があるわけではなく、私たちはみな被造物であり、気落ちする必要などないと思っていましたから。ですから、新しい信者の世話をしている時も、リーダーとして奉仕している時も、自分の地位をそれほど意識したこともなく、自分が地位にこだわる人間だと思ったこともありませんでした。実際にリーダーの立場から外されたとき、自分も同じような恥ずべき行動に出てしまうなどとは、夢にも思いませんでした。

しばらく前のこと、私が実際の働きを何一つしておらず、いつも教義を宣べ伝えるばかりだったため、リーダーは私を配置転換しました。その時私は、自分の素質が地域のリーダーにふさわしくないとしても、せめて水を与える仕事くらいは許されるはずだと思いました。まさかリーダーが私に教会の庶務を担当させるなどとは全く予想していませんでした。「誇りある地域のリーダーだった私が、今日は使い走りをさせられているなんて。足されあれば、あるいは少しばかりの知恵があれば、教会の誰でもできるこんな仕事を私がするなんて」そう思って驚きました。こんな仕事を私にさせるなんて、どう考えても私の能力を無駄にしているのではないか。けれども教会の姉妹たちに、反抗的だとか、自分の地位を気にかけているなどと言われることを恐れ、自分の気持ちを心の中にしまっておきました。でも家に帰った私はベッドに倒れ込み、ひどく嫌な気持ちになりました。「何の地位もなくなる。兄弟姉妹たちは私をどんな目で見るだろう。」そんな思いで頭がいっぱいになりました。使い走りをさせられているなんて、一体どうしたらここから立ち直ることができるだろう。考えれば考えるほど、ますます落ち込んでいきました。

数日後、私は私のために仕事を用意してくれたある姉妹に会いました。会うや否や、「この仕事は簡単にできるように見えますが、献身の思いをもってしなければなりません」と言ったかと思うと、その姉妹は知恵や従順といった側面の真理について話し始めました。わたしははっきりしない口調で曖昧な返事をしていましたが、心の中は煮えくりかえっていました。「まるで私が何も知らないみたいに、あなたが私に助言するの?はじめの頃、あなたに助言していたのは私よ。それなのにこんな風に私に話しをするなんて。」その姉妹の言葉はひとつも私の心に届きませんでした。それどころか、私は長々と話すその姉妹を腹立たしく思いました。話しが終わる頃にはうんざりしきってこう言いました。「それだけ?ならもう行くわ。」家に戻った私は、何故自分があの姉妹にあのような態度をとったのだろうかと思い巡らしていました。もし彼女の地位が常に私の地位より上であるか、同じであったなら、私はあのような接し方をしただろうか。おそらくしなかっただろう。間違いなくしなかった。私が彼女を導いてきたのに、その彼女が私に問題を指摘している。だから私は納得できなかったのではないのか。私が地位に執着していた証拠ではないのか。自分の恥ずべき態度に気づいた私は急に自己嫌悪を感じ、それと共に神様からの裁きに関する言葉が心に浮かんできました。「あなたがたがこのように求めれば求めるほど、刈り入れる物は少なくなるであろう。ある人の地位に対する欲望が強ければ強いほど、それだけ深刻に取り扱われ、重大な精錬を受けなければならない。この種の人は無価値過ぎる。このような人は地位に対する欲望を完全に捨て去るため、適切な取り扱いと裁きを受ける必要がある。あなたがたが最後までこのようにして追求するならば、何も刈り入れないであろう。いのちを追求しない者は変化させられることができない。真理を渇望しない者は、真理を得られない。あなたは自分の変化の追求と入りに重点を置かず、度を越した欲望や、神への愛を縛り、神に近付くことを阻む物事にいつも重点を置く。そのような物事があなたを変化させることができるだろうか。あなたを神の国へと導くことができるだろうか。あなたの追求の目的が真理を求めることでないならば、これを機に俗世に戻ってそこでの成功を目指せばよいであろう。このようにして時間を無駄にするのは全く無価値である。なぜ自分を苦しめるのか。」(『言葉は肉において現れる』の「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」より)神様の御言葉を読み、自分自身のことを考えていくうちに、私は気づかされました。自分は真理を求めていたのでもなく、神様に満足していただこうとしていたのでもない。それどころか、自分が求めていたのは、名声、利得、地位だったと気付いたのです。地位を得たことで、私の自信は膨れ上がりました。反対に、地位を失えば不機嫌になり、働きも出来ないほど落ち込みました。私は自分の地位に気持ちを振り回され、ささいで無意味なことに1日中心穏やかでなくなり、無駄な時間を過ごしました。そこから結局何を得たのでしょうか。今日のような恥ずべき姿でしょうか。神様が私にしてくださったこと全てを思えば、私に託すことで神様に安心していただけなかったどころか、神様が与えられた仕事を、くだらない、やりたくないと言って嫌ったのです。それならば私は自分の良心に従って行動していたでしょうか。名声、利得、そして地位ばかりを追い求めていた自分の恥ずべき姿を神様に示されました。あまりにも高ぶり、傲慢になり、地位を重視していた自分に気づかせて下さった神様に、心から感謝しました。すると、ある歌が私の心に浮かんできました。「神よ!私に地位があろうとなかろうと、私は今自分をしている、私の地位が高ければそれは貴方が私を高めたおかげで、逆に低ければそれは貴方の定めだ。神よ!私に選択の余地はなく不平もない、全てが貴方の手中にある……貴方の権威のもと従順であるべきだ。なぜなら貴方はそれを定め.……貴方が私を用いるなら私は被造物、完全にされても私は創造物で、完全にされなくても私は貴方を愛するだろう。なぜなら私は被造物に過ぎないから。」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「私は取るに足りない被造物」より)私は涙と共に何度もこの歌を歌いました。そして神様の前に出て祈りました。「神様!あなたの御言葉を通して、私はあなたの意図が理解できるようになりました。地位の高低に関係なく、私はあなたによって造られたものです。あなたの定めに完全に従わなければなりません。あなたが託された本分を選り好みせず、被造物のひとりとして託された本分に全力で取り組まなくてはなりません。神様!私はあなたの定めに従い、畑で働く牛のように、あなたの意のままに用いられることを願います。自分の地位のために葛藤したり、あなたを苦しめたり傷つけたりするようなことは二度としません。ああ神様、私を更に取り扱い、裁き、地位に対する欲望を明け渡せるようにしてください。あなたに近づく妨げとなる全てのものから解放されるよう私を扱ってください。そしてさらにあなたを愛し、心から与えられた本分を全うできるものとしてください。

河南省焦作市 ホイミン


神様を褒め称えて証しする私の実践はとても馬鹿げていた

2020-01-03 23:55:33 | 文章

張誠(山東省)

教会の一部の指導者や同労者が、いつも自分の証しをして自分の前に兄弟姉妹を連れてきたせいで反キリストになり、神様によって淘汰されるのを見るたび、私は自分に警告しました。万事においても必ず神様を褒め称え、神様の証しをしなければならない。敗者の道に足を踏み入れないよう、どんな状況でも自分を誇示したり褒め称えたりしてはならない。そのため、私は交わりを行なうたび、自分の堕落を露わにすることだけに集中し、実践や入りについて好ましい側面から語ることはありませんでした。私に小さな入りや変化があったと他の人たちが言っても、すぐさまそれを否定しました。このように実践することが神様を褒め称えて証しすることだと信じていたのです。

ある日の交わりで次のような話を聞きました。「神様を褒め称えて証しすることについて、一部の人の認識は不完全です。そのため、そのような人の実践することは完全に正しいとは言えません。そのような人は、神様の働きの経験について話すとはおもに自分の堕落を知っていること、自分の堕落を露わにすること、己をさらけ出すことを実践することについて語り、露わになった自分の堕落を解剖することだと考えています。それだけが神様を褒め称えて証しすることだと考えているのです。そのような経験の側面と証しを、自分における変化や自分が変わる過程、あるいは自分の現実への入りとして語ることは、神様ではなく自分への証しをしているようなものです。この認識は正しいですか。自分が変化を経験した過程について語るのは、自分の証しをすることに相当しますか。しません……私たちが理解しなければならないのは、最も効果的に人々を神様の御前へと導くためには、否定的な経験しか語らず、好ましい入りについて何も言わないなら、その効果は限られ、理想的でなく、人々には道がないままであるということです。交わりのあいだ、他の人はあなたがどのように自分をさらけ出し、どのように自分を解剖し、どのように自分をむき出しにするかしかわかりません。あなたの好ましい入りについてはどうですか。あなたの実践についてはどうですか。どのような実践の道を人々にもたらしますか。今からどのように実践すべきかを、あなたは人に語っていません……自分への証しをするとはどういうことかがわからない人がいます。そのような人は、自分の好ましい側面や現実への入りの側面について語ることが、自分への証しをすることだと考えます。しかし実際には、こちらの方が神様へのよりよい証し、より完全な証しなのです。私たちがわずかでも現実を得、いくらかの善行をなし、本分を尽くすにあたって忠実でいられることは、神様の愛ではないでしょうか。神様のお恵みではないでしょうか。聖霊の働きの成果ではないでしょうか。こうしたことについて語ることで、神様の全能性、神様の働きがいかに人間の救いの働きであるのか、神様の御言葉がいかに人間を変え、完全にし、救えるのかについての証しをもさらにできるようになります。ゆえに、神様の働きの証しをするには、自分自身の好ましい入りについて、それまで入れなかったのが、どのようにして最終的に入れるようになったのかについて、自分を認識できなかったのが、どのようにして最終的に認識できるようになり、また自分の本性の本質を認識できるようになったのかについて、神様に抵抗したり反抗したりしていたのが、どのようにして神様に従い、満足していただき、神様の証しをできるようになったのかについて話すことも求められます。こうした経験や証しをそっくりそのまま交わりにおいて語ることができれば、あなたの神様への証しは完全無欠です。それだけが、本当の意味で神様を褒め称えて証しすることなのです……自分の堕落や醜さばかり話し続けて、それから十年以上経っても自分の変化について何も話せないなら、それは神様を褒め称えて証しすることでしょうか。神様を讃えることでしょうか。神様の働きの全能性を証しできるでしょうか……あなたの証しによって人々が否定的になって神様から離れるなら、それは証しではありません。あなたの働きは神様に反対するものであり、サタンの働きです。神様に反対する働きなのです」(『いのちに入ることに関する交わりと説教(3)』の「問答集」より)私はこれを聞いて、頑なに自分を暴いたり、自分の堕落が明らかにされたことについて語ったりすることは、神様を褒め称えて証しすることではないと突如気づきました。真に神様の証しをして神様を褒め称えるのは、神様の裁きと刑罰の働きを経験する中で、自分の堕落した本質を知るようになったことを語ることだけではありません。それより大事なのは、自分の好ましい実践や入りについて何かを語ることなのです。例えば、自分はどのような真理を知るようになったのか、神様について何を知るようになったのか、神様の働きがどのような成果を自分にもたらしたのか、自分の古い性質がどのように変化したのか、などです。経験や認識のこのような側面を誠実に語れば、あなたが話す実際の経験を通じて、兄弟姉妹は神様についての認識を得、神様の働きが本当に人を救って変えることができることを知るようになり、かくして彼らの中に神様への真の信仰が生じると同時に、実践と入りの道を彼らに与え、いかにして神様に満足していただくか、いかにして神様の御言葉の現実に入るべきかを教えるのです。これだけが真に神様を褒め称えて証しすることであり、そのような証しだけがサタンに恥をかかせることができます。一方、神様を褒め称えて証しすることに関する私の認識はあまりに偏り、あまりに馬鹿げていました。兄弟姉妹が自分を軽んじるよう、彼らの前で自分自身の堕落についてもっと語ることが神様を褒め称えて証しすることであると思い、自分の入りの好ましい側面について語るのは、自分を褒め称えて自分自身に証しすることだと考えていたのです。私は何と愚かだったのでしょう。神様を褒め称えて証しする自分の実践とその成果について、ここで考えずにはいられません。

あるとき、私を自宅に招いてくれていた姉妹がこう言ったのを覚えています。「指導者の皆さんは家族と仕事を捨てて家から離れた場所で本分を尽くし、多くの苦しみを受け、多くのことを経験し、多くの真理を理解するようになられました。皆さんには入りと変化が生じています。でも、自宅にとどまっている私は肉体に束縛され過ぎで、神様の御前で心が落ち着くこともほとんどなく、何の変化も生じていません。私も皆さんのようになりたいです」私はこれを聞いて考えました。「神様を褒め称えて証ししなければならない。自分の堕落について話し、自分の変化を語ってはいけない。さもないとこの姉妹は私を尊敬してしまう」その結果、自分がかつてはどのように傲慢で、本分を尽くすときも教会の采配に従わず、兄弟姉妹と仲良くできなかったこと、自分の言葉にどれほど偽りが混じっているかということ、どのようにして人を騙し、人を疑ったかということを語るようにしました……私の交わりを聞いたあと、姉妹は言いました。「指導者の皆さんはほぼ完全に変わったのだと思ってましたが、実は変わっていなかったんですね。なんだ。誰も変わっていない。ということは、私はもっとひどいんですね」その後、その姉妹はもはや私を尊敬せず、仰ぎ見ることもありませんでしたが、結果として否定的になってしまい、自分が救われる望みはないと考えてしまいました。ある集まりで、私は自分の堕落の一側面、つまり神様について観念を抱いていたことを兄弟姉妹に語ったことがあります。そのときは神様について観念を抱いていたことについて語っただけで、その観念をどのように解決したかは語りませんでした。その結果、そのような観念など抱いていなかった兄弟姉妹が、私の交わりを聞いて観念を抱くようになってしまいました。そうした例は他にもあります。これが、神様を褒め称えて証しすることだと自分で思い込んでいたことの効果だったのです。神様を褒め称えて証しする私の実践は、神様の御言葉の権威と威厳を証ししなかっただけでなく、人々を救い、変え、完全にする神様の働きについて、兄弟姉妹に疑いと観念を抱かせてしまいました。彼らは救いへの信仰を失ったばかりか、真理を追い求める動機も積極的に協力する決意も持たなくなりました。神様を褒め称えて証しする私の実践は、神様の優しさや美しさや義を人々に証しすることなく、人を救い、人にご自身の愛を示し、人がご自身を知るようになさろうとする神様の愛情深い意図の証しもしませんでした。その代わりに神様への観念と誤解を兄弟姉妹に生じさせ、彼らは間違った状態の中で生きるようになりました。どうして私が神様を褒め称えて証ししていたのでしょうか。私は単に消極性を広め、死を放っていたのです。実質的には、人を傷つけ破壊をもたらしていたのです。外面的には明らかな悪事など何一つしていないように見えるものの、私の行為の本質は神様への反抗であり、人と神様との関係に不和の種を蒔き、兄弟姉妹の積極性を攻撃し、彼らが神様から離れるようにしていました。私は純然たる悪事を働いていたのです。これはまことに神様に嫌われ、憎まれる行ないです。

真に神様を褒め称えて証しするとはどういうことなのかを私に照らし、神様を褒め称えて証しすることについての私の理解がどれほど馬鹿げていたかを知らしめ、神様を褒め称えて証しすることだと自分で思い込んでいたことが実質的には神様への深刻な抵抗であると気づかせてくださった神様に感謝いたします。以前のまま続けていたならば、私に起こり得たことは最終的に淘汰され、懲罰されることだけだったでしょう。神様に仕えながら神様に抵抗していたからです。その日以来、私は自分の馬鹿げた実践の方法を変えようと望みました。自分を知ることについて話すときは、好ましい入りへの道や、神様の御言葉を経験して実践することの証しについてもっと語らなければなりません。そして自分が知るようになったことを残らず証ししなければなりません。それにより、兄弟姉妹は私の経験と認識に助けられ、神様の御心を認識し、神様の働きを経験し、神様についての認識を獲得することができ、真に神様の御前へと導かれることでしょう。

 


終わりの日における神の裁きと刑罰だけが人類を救うための神の重要で決定的な働きである

2019-12-17 16:10:28 | 文章

終わりの日における神の裁きと刑罰だけが人類を救うための神の重要で決定的な働きである
参考聖書箇所

 「大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。……』」(ヨハネの黙示録 14章7節)

 「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4章17節)

 「彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のため仲裁に立たれる。」(イザヤ書 2章4節)

 「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12章 47〜48節)

 「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16章12〜13節)

 

関連する神の言葉

 イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

 わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た」より

 終わりの日の働きは言葉を語ることである。大きな変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

 終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

 人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。精錬し、裁き、明らかにする言葉をもちいることで、人の心にあるすべての汚れたもの、観念、動機、そして個人的な願望などが完全に明らかにされる。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代を招き入れ、働きの手段を変え、その時代全体の働きを行う。これが神が言葉の時代に働く原則である。神は異なる観点から語るために受肉し、肉となった言葉である神、その知恵と不思議とを人間が本当に見ることができるようにした。そうした働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰するという目的をよりよく成し遂げるために行われる。これが、言葉の時代に言葉を用いて働くということの真の意味である。言葉によって、人間は神の働き、神の性質、人間の本質、人間が何において成長すべきかを知るようになり、言葉によって、言葉の時代に神が成し遂げようと望む働きがすべて成し遂げられる。言葉によって人間は露わにされ、淘汰され、試される。人間は言葉を見、言葉を聞き、言葉の存在を知った。その結果、人間は神の存在を信じる。人間は神の全能性と知恵、また、神の人間を愛する心と人間を救おうという願いとを信じる。「言葉」という語は単純でありふれたものだが、肉となった神の口から出る言葉は、全宇宙を揺るがす。神の言葉は人間の心、その観念や古い性質、全世界の古い姿を変える。はるか昔から、現在の神だけがそうした働きを行っている。そして、現在の神だけがそのようにして語り、人を救う。それより後、人間は言葉に導かれて生き、言葉により養われ、施される。人間は言葉の世界に生き、神の言葉の呪いと祝福の内に生き、それ以上に言葉の裁きと刑罰との下に生きる。これらの言葉と、この働きはみな、人間が救われ、神の心を達成し、古い創造の世界における元々の姿を変えるためのものである。神は言葉により世界を創り、全宇宙の人間を言葉により導き、言葉により征服し、救う。ついには、言葉により、古い世界全体を終わらせる。そのときはじめて、経営(救いの)計画が完了する。神の国の時代を通じて神は言葉を用いて働き、仕事を成し遂げる。神は不思議を行ったり奇跡を起こしたりはしない。神はただ言葉によって業を行う。言葉のおかげで人間は養われ、施される。言葉により、人間は認識と真の経験を得る。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代」より

 実際、今なされている働きは人々にサタンを捨てさせ、先祖を捨てさせることである。言葉による裁きのすべては人間の堕落した性質を暴露し、人々に人生の本質を理解させることを目的としている。繰り返されるこれらの裁きは全て、人々の心を刺し通す。ひとつひとつの裁きは人々の運命に直接影響を与え、人々の心を傷つけるためのものだ。その結果、彼らがこれらすべてのものを手離し、それによって、人生を知り、この汚れた世界を知り、また神の知恵と全能を知り、このサタンが堕落させた人類を知ることができるからである。この種の刑罰や裁きがあればあるほど、人の心は傷つき、人の霊はもっと目覚めることができる。これらの極端に堕落し、その欺きが最も深い人々の霊を目覚めさせることが、この種のさばきの目標である。人には霊がなく、つまり人の霊はとうの昔に死んでしまっている。そして、人は天が存在し、神が存在するということを知らないし、確かに人は死の奥底で葛藤していることも知らない。人は地球上でこの邪悪な地獄に生きているということをどのようにして知ることが可能だろうか。彼は自分の腐った死体が、サタンの堕落を通して、死のハデスに落ちたのをどのように知ることができるだろうか。彼は地上にあるものはすべて人類によって修復ができないほど長い間堕落されてしまったことをどのように知ることができるだろうか。そして今日、創造主が地に来て堕落した人々の集まりを救おうと探していることを、どのように知ることができるだろうか。人はあり得る限りの精錬と裁きを体験した後でさえ、彼の鈍った良心はほとんど奮い立つこともなく、事実上反応しない。人間は本当に堕落している!この種の裁きは空から降って来る残酷なひょうのようだけれど、それは人にとって多大な利益がある。もしこのように人々をさばかないなら、何の結果もなく、苦悩の地獄から人々を救うのは全く不可能であろう。もしこの働きのためでないなら、人々がハデスから出てくるのは非常に難しいだろう。なぜなら、彼らの心はずいぶん前に死んでおり、彼らの霊はずいぶん前にサタンによって踏みにじられたからである。堕落の深淵に沈んでしまったあなたがたを救うには、熱心にあなたがたを呼んだり、裁いたりすることが必要で、その時初めて氷のように冷たいあなたがたの心が呼び起こされるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされた者だけが意義ある人生を送ることができる」より

 時代を終わらせる神の最後の働きでは、神の性質は刑罰と裁きであり、それが不義なるもの全てを現わし、すべての人々を公に裁き、神を真に愛する人たちを完全にする。このような性質のみが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、性質に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に、善は善に、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

 神は裁きと刑罰の働きを行うが、それは人が神についての認識を得られるようにであり、また神の証しのためである。人の堕落した性質を神が裁くことなしには、犯すことを許さない神の義なる性質を人は知ることはできず、神についての古い認識を新しいものに変えることもできない。神の証しのため、そして神の経営(救い)のため、神はそのすべてを公けにし、そうすることで、神の公的な出現を通して、人は神についての認識に到達することができ、その性質において変えられ、神のはっきりとした証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、さまざまな種類の神の働きを通して成し遂げられる。このような性質の変化なしには、人は神の証しを立てることはできず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化とは、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本であり標本、神の証人、神の心にかなう者になったことを意味する。今日、受肉した神がその働きを地上で行なうために来たが、神は人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなること、すなわち、神の実際的で正常な働きを知り、人の観念とは合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと、また神が人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをたてること、を要求している。神を証す人々は神の認識をもたなければならない。この種の証しのみが正確であり現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入らせることができる。神の裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みを経験することで神を知るようになった人々を、神はその証人として用いる。神はサタンにより堕落させられた人々をその証人として用い、また性質が変わり、それにより神の祝福を得た人々をその証人として用いる。神は口先で賞賛するための人を必要とせず、神に救われていないサタンの種類の称賛や証しも必要としない。神を知る人々だけが神の証しを立てる資格があり、性質において変革させられた人々だけが神への証しとなる資格がある。神は人が意図的に神の名に恥をもたらすことを許さない。

『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが神に証しを立てることができる」より

 過去において、人間は律法と戒めに従うことを要求され、忍耐強く謙遜であることを要求された。現在、人間は神の采配の全てに従い、神への至高の愛を備えることを要求されており、最終的には患難のただ中でも神を愛することが要求されている。これら三つの段階こそが、神が自身の経営全体にわたって、段階ごとに人間に要求することである。神の働きの各段階は、その前の段階よりも一層深くなり、各段階における人間に対する要求は、その前の段階よりも一層深遠であり、神の経営全体はそのようにして次第に形成される。人間の性質が神によって要求される基準に常に近づいてゆく理由は、正確に言うと、人間に対する要求がさらに高くなってゆくからであり、その時初めて、神の働きが完了し、全人類がサタンの影響から救われるまで、人類は次第にサタンの影響から離れてゆく。その時になると、神の働きは終局に達し、人間の性質の変化を達成するための神への人間の協力が終わり、全人類が神の光の中で生活し、それ以後は神への反抗や反逆は無くなる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より

 これで裁きとは何か、真理とは何かを理解できたか。もし理解できたなら、あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。裁きは受け入れるが清められることのない者、すなわち裁きの働きの最中に逃げ出すような者は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりも、ずっと多く、ずっと重い。なぜなら、彼らは神を裏切り、神に背いたからだ。仕えさえするに値しないそんな人間は、さらに過酷で終わることのない懲罰を受ける。言葉で忠誠を誓いながら裏切るような者を、神は見逃さない。そのような者は報いとして、霊、魂、そして体に懲罰を受けることになる。これは、神の義なる性質を明示しているのではないだろうか。これこそ、まさに神の裁きと人の明示の目的ではないのか。神は、裁きの時にあらゆる邪悪な行いをした者全てを、邪悪な霊が生きる場所に置き、彼らの肉体を霊の意志により破壊されるようにする。彼らの肉体は、死臭を放つ。それが彼らにふさわしい報いなのだ。神は、不忠実な偽の信者、偽の使徒、偽の働き人の罪をひとつ残らず彼らの記録に書き留め、その時が来れば、霊が彼らの肉体をそっくり霊により思うままに汚されるよう、神は彼らを汚れた霊の中に放り込む。その結果、彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一度は神に仕えたが、最後まで忠実であり続けられなかった偽善者は、神により悪人として数えられるので、彼らは悪人とぐるになり、烏合の衆となる。最終的に、神は彼らを滅ぼす。神は、キリストに一度も忠実でなかった者や神のために何の努力もしたことのない者を排除し、顧みることはなく、時代が変わる時に彼らをひとり残らず滅ぼす。彼らは、もはや地上に存在せず、神の国へ入れてもらうことなど無論ない。神に対して誠実であったことはないが、強引に神により取り扱いを受けた者は、神の民のために奉仕する者として数えられる。そうした者たちのごく一部だけが生き延び、大多数は奉仕をする資格さえない者たちと共に消えゆくだろう。最後に神は、神と同じ心を持つ全ての者、神の民と子ら、そして祭司として定められた者たちを、自分の国に迎え入れる。これが、神の働きを通して生まれる神による結晶だ。神が定めた種別のどれにも属せない者については、異邦人として数えられる。彼らの結末がどうなるか、もちろん想像できるだろう。わたしは既に、あなたがたに言うべきことを全て言った。あなたがたがどの道を選ぶのか、それはあなたがたの決断次第だ。あなたがたは次のことを理解しなければならない。神の働きは、神についていけない者のために待ってくれることはなく、神の義なる性質は、誰にも哀れみをかけない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

 国々と世界の人々がみな、わたしの玉座の前に戻ると、わたしは天の富をすべて人間の世界に与え、わたしによって、比類ない富にあふれるようにする。しかし、古い世界が存続する間、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

 わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行ってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる──空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は、新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。地上の国々は永遠に消え去り、わたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる──つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは「聖なる方が白い雲の上に乗って」降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十六章」より

 終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

その他の内容:

真の携挙とは何か。