東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

キリスト教音楽「神は肉による働きでのみ人を獲得できる」キリストの愛は確かなものだ

2019-12-23 08:09:24 | おすすめ音楽

 

キリスト教音楽「神は肉による働きでのみ人を獲得できる」キリストの愛は確かなものだ
1
実践的な神の言葉を通して
人の欠点と反抗心が裁き明かされる
人は必要とするものを受けて
神が人の世界に来たことを見る
実践的な神の業は
サタンの影響下からもれなく全ての者を救い
穢れと悪魔で堕落した性質から解放するため
神のものとされるとは 人の完全な模範として神に従うこと
実践的な神に従い 正常の人間性を生き
神のことば・要求・語ることを十分守り
彼の求めることをやり遂げれば
その時あなたは神のものとされる
2
人が神の行いを見られるように
神は肉として地上に降りてきた
人が神に触れることができるよう
神の霊が肉の姿となった
神を見つめ知るようになる
実践的な方法のみ 神は人を完全にする
彼により人生を送り彼の心に従える
神のものとされるとは
人の完全な模範として神に従うこと
実践的な神に従い 正常の人間性を生き
神のことば・要求・語ることを十分守り
彼の求めることをやり遂げれば
その時あなたは神のものとされる
3
もし神が天から語ることしかせず
地上に降りてこなかったとしたなら
人はどのように神を知れるだろう
神の業についての虚しい言葉で
現実の神の言葉でないならば
神は人の模範として地上に降りてくるので
人は神を見て「触れること」「神のものとなること」ができる
神のものとされるとは
人の完全な模範として神に従うこと
実践的な神に従い 正常の人間性を生き
神のことば・要求・語ることを十分守り
彼の求めることをやり遂げれば
その時あなたは神のものとされる
『言葉は肉において現れる』より

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教会音楽「実際の神への信仰から得られるものはすばらしい」

2019-12-19 16:02:13 | おすすめ音楽

 

教会音楽「実際の神への信仰から得られるものはすばらしい」

人の子は語り続けてゆくだろう
取るに足らない小さな人は
段階を通し神の業に導く
私たちは多くの試練 懲らしめ
死の試練も経験した
神の義と威厳を知り
慈しみと愛を享受する
神の知恵と力に感謝し
神がうるわしいお方であり
人の救いを願っていると
私たちは知る
この普通の人の言葉で
神の本質 意志 性質を知る
人の本性と本質も知り
救いと完成への道を見る

彼の言葉は人を死なせ甦らす
罪責感と負債を残すが
多くの慰めももたらしてくれる
大きな痛みをもたらすこともあるが
喜び 平安も与える
時には彼の怒りで
敵のように焼かれ灰となり
屠られる小羊であったり
神の瞳さながらのような
貴いものになったりする
貴いものに
私たちは彼が救う者
彼の目には蛆虫で
彼が探し求める失われた小羊
この普通の人の言葉で
神の本質・意志・性質を知る
人の本性と本質も知り
救いと完成への道を見る

彼は哀れみ 起こし 軽蔑し
慰め 諫め 導き 啓示を与え
懲らしめ 訓練し 呪い
日夜心配し 見守り 思いやる
いつも傍で全てを配慮し
全ての代価を払った
彼の言葉で全てを楽しみ
神が与えた終着点を見た
この普通の人の言葉で
救い 完成への道を見る
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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キリスト教音楽「神の現れが持つ意義」

2019-12-07 16:33:07 | おすすめ音楽

キリスト教音楽「神の現れが持つ意義」

神の現れとは 業のため 神降ること
神の方法で 身分も性質も 保ちながら
時代を始め また 幕引くため 神は降る
神の現れは しるしや絵画ではなく
奇跡でも大いなる幻でもない
ましてや宗教的な儀式でもない
それは実際に見て 触れることのできる 事実である
神の現れは 業の手順踏むためや
早く終わらせるためではない
それはむしろ神の 救いの計画の 一つなのだ

神の現れには 必ず何かの 意味があり
救いの計画に いつも繋がりを 持っている
それは人を導いたり 説き悟らせる
ものではない
神の現れは その時代それぞれで 偉業を働くためである
それはどの時代とも 異なっていて
人には経験も 想像もできない 想像さえも
神の現れは 新しい時代の 幕を開けまた幕を引くため
新しい、一歩進んだ、人類を救う働き
人を新しい 時代へと導いていく
これが神の現れの意義
これが神の現れの意義
『言葉は肉において現れる』より

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朗読 神の言葉 「神の国の時代は言葉の時代」(抜粋)その1

2019-11-23 20:52:32 | おすすめ音楽

 

朗読 神の言葉 「神の国の時代は言葉の時代」(抜粋)その1
全能神はいわれます。「神の国の時代に神は言葉を使い、新たな時代の到来を知らせ、神の働きの方法を変え、その時代全体の働きを行なう。これが言葉の時代において神が働く原則である。神は異なる視点から語るために肉となり、肉に現れる言葉である神、神の知恵と驚くべき素晴らしさを人間が本当に見ることができるようにした。このような働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰する目的をよりよく達成するために行なわれる。これが言葉の時代において働くために言葉を使うことの真の意味である。言葉をとおして、神の働き、神の性質、人間の本質、人間が何に入っていくべきかを人間は知るようになる。言葉をとおして、言葉の時代に神が行ないたい働きはその全体が結実される。言葉をとおして、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人間は言葉を見、言葉を聞き、言葉の存在に気づいた。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、また神の人間への愛と人間を救う願望を信じる。『言葉』という語句は単純でごく普通であるが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがせる。それは人間の心、観念、古い性質、世界全体が以前にはどのように表れていたかを変革する。時代をとおして、今日の神だけがこのような働き方をし、今日の神だけがそのように語り、そのように人間を救いに来る。それ以降は、人間は言葉の導きの下に生き、言葉により牧され、施しを受ける。全人類は言葉の世界に、神の言葉の呪いと祝福の内に生きるようになった。そして言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになったさらに多くの人間がいる。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、過去の創造における世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、宇宙の人間を言葉をもって導き、言葉をもって征服し救う。ついに、神は言葉を使って古い世界全体を終わらせる。そのときはじめて、経営(救いの)計画がくまなく完了する。神の国の時代をとおして神は言葉を使って働きを行ない、働きの成果を達成する。神は不思議や奇跡は行なわない。神はただ言葉をとおして働きを行なうにすぎない。言葉ゆえに人間は養われ、施しを受ける。言葉ゆえに人間は認識と真の経験を得る。言葉の時代の人間は真に格別の祝福を受けた。肉体的苦痛に苦しまず、ただ神の言葉の豊かな施しを享受する。探し求めたり、旅をしたりするために出かけていく必要もなく、安穏の只中にいるままで人間は神の出現を見、神がその口で話すのを聞き、神の施しを受け、神が自らその働きを行なうのを見る。これは過去の時代の人間には享受できなかったことであり、彼らが決して受けることができなかった祝福である。」
                                                                                                                                      『言葉は肉において現れる』より

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神の裁きと刑罰に神の出現を見る

2019-11-16 11:23:21 | おすすめ音楽

神の裁きと刑罰に神の出現を見る

主イエス・キリストに従う他の何億人もの人々と同じように、私達も聖書の律法と戒めに従い、主イエス・キリストの豊かな恵みを受け、主イエス・キリストの名の下に集まり、祈り、賛美し、仕えている。そして、これら全てを私達は主の配慮と加護の下に行っている。私達は時として弱くなったり、強くなったりするが、自分達の行動のすべては主の教えに従うものであると信じている。言うまでもなく、天の父の心にかなう道を歩んでいることも信じている。私達は主イエスの再来を、その輝かしい降臨を待ち望み、また地上における生活の終り、神の国の出現、そしてヨハネの黙示録に予言されていることが全てその通りに実現することを待ち望んでいる。つまり、主が到来し、災いをもたらし、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ、そして主に従い、主の再臨を歓迎する全ての人々を天に引き上げ主に会わせる。このことを考えるたびに感動せずにいられない。この世の終りに生まれ、主の来られるのを幸運にも見ることができることに感謝する。確かに私達は迫害の苦難を受けているが、それは「永遠の重い栄光をあふれるばかりに」受けるための代償なのだ。何と素晴らしい祝福だろうか。この切なる願望と主によって授けられた恵みによって、私たちは油断なく祈るようになり、さらに頻繁に集うのである。もしかしたら来年、明日、いや、ひょっとしたらもっと早く、誰も予期していないときに、主は突然やって来て、主をひたすら待ち望んでいる人々の集団のもとに現れるかもしれない。主の出現を見る最初の集団となるために、天に引き上げられる人々のうちの一人となるために、遅れを取りたくないから皆我先にと争っている。私達はその日のために、どんな犠牲もいとわず、全てを捧げてきた。仕事をあきらめた者や家族を捨てた者もいるし、結婚を放棄した者、蓄えを全て寄付した者もいる。何という無私無欲な献身であろう。このような誠実さ、忠誠心は、過去の聖人さえも超えるに違いない。主が望む相手に恵みを与え、哀れみをかけるので、私達の献身や支出は既に神の目に留まっているものと私達は信じている。だから、私達の心を込めた祈りも神の耳に届いているし、主が私達の献身に報いてくださると信じている。しかも、神はこの世を造る前から既に私達を慈しんでいたので、私達に与えられている神の祝福や約束を誰も取り上げることはできない。私達は皆、未来のための計画を立てており、自分達の献身や支出は、天に引き上げられ主に会うための交渉の切り札または蓄えであると当然のごとく思っている。さらには何のためらいもなく、私達は将来玉座に就き全ての国と全ての民族を支配する、あるいは王として治めるものと考えている。私達はこれらのことを全て当然のこと、当たり前に期待できるものとして捉えているのである。

私達は主イエスに逆らうすべての人々を軽蔑するが、彼らは皆最後には滅ぼされるのである。一体誰が主イエスが救い主であることを信じるなと彼らに言ったのか。もちろん私達は主イエスに習って、世間に対し思いやりをもつときもある。彼らは何も知らないからであり、私達は寛容で彼らを許すべきである。私達の行いは全て聖書の言葉に従っている。聖書と一致しないものはすべて異端であり、邪教だからである。私達一人ひとりの心の中にはそのような信念が深く根付いている。私達の主は聖書の中にあり、聖書から離れなければ、主からも離れないのである。この原則に忠実であれば、私達は救われるのである。私達は互いに励まし合い、支え合っており、一緒に集まる時はいつでも私達の言動の全てが主の心にかなっていること、そして主に受け入れてもらえるよう願っている。過酷な環境の中にあっても、私達の心は喜びに満ちている。こんなにも簡単に手に届く祝福のことを思うと、断念できないものなど何もないのではないだろうか。手放すのが耐えられないものなど何もないのではないだろうか。これらは全て暗に示唆されるものであるが、全ては神の目に見られている。掃きだめから引き上げられた一握りの貧しい者である私達は、すべての主イエスの信奉者と同じである。私達は天に引き上げられることを、祝福を受けることを、そして全ての国を治めることを夢見ている。私達の堕落は神の目にはさらけ出されており、私達の欲望と貪欲さは神の目からみれば断罪されている。それでも、これらは全てごく自然に、そして論理的に起こることなので、私達のうち誰も自分達の望んでいることが正しいことなのかどうか疑問をもたないし、ましてや私達の誰一人として、自分達の固執していること全ての的確さを疑いもしない。誰が神の心を知ることができるのだろう。誰も自分たちが歩いている道を求めることも、探究することも、関心を持つこともしない。なぜなら私達が気にするのは自分達が天に引き上げられるかどうか、祝福が受けられるかどうか、天国には自分の場所があるかどうか、いのちの川の水の分け前にあずかり、いのちの木の果実を手にできるかどうかということだけだからである。私達はこれらのことを得るために主を信じ、そして主に従っているのではないのか。私達の罪は赦されて、私達は罪を悔い改め、苦き杯から飲み十字架を背負った。私達の払った代価が主に受け入れてもらえないなどと誰が言えるだろう。私達は油を十分準備していなかったなどと誰が言えるだろう。私達はあの愚かな乙女にも、あの捨てられた者の一人にもなりたくない。しかも、私達はしばしば神に祈り、偽キリストに騙されることがないようにと求めている。それは、聖書の中に「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24:23-24)と書いてあるからである。私達はこれらの聖書の言葉を記憶に留め、隅から隅まで知っており、貴重な宝として、いのちとして、天上に引き上げられ、救われるための保証として考えている。

何千年もの間、生者はその願望や夢を携えて亡くなっていったが、その人達が天国へ行ったのかどうか本当に知る者はいない。死者は戻って来ているが、過去に起こったことは全て忘れてしまっていて、依然として先人の教えや歩んだ道に従っている。それだから、どれほど月日が経っても、主イエスが、神が、私達のすることを全て本当に受け入れてくれるかどうかは誰にもわからない。私達は一つの結果を待ち望み、これから起こるすべてのことを想像するだけだ。にもかかわらず神は沈黙を守り通して、人間の前には姿を現さず、言葉を発することもない。だから私達は自らの意志で神の心と性質を、聖書や印に基づいて判断するのである。私達は今では神の沈黙に慣れてしまった。自分達の行動が正しいか間違っているかの判断を自らの見方で測ることに慣れてしまった。神が私達に要求していることの代わりに私達の知識、観念、道徳的倫理を使うことに慣れてしまった。神の恵みを享受することに慣れてしまった。神の助けが必要な時にいつでも神が与えてくれることに慣れてしまった。ありとあらゆることを求めて神に向かって両手を差し出し、神にあれこれ指図することに慣れてしまった。教義を守り、聖霊の導きに注意を払わないことにも慣れてしまった。その上、私達自身が自分の主人である日々に慣れてしまった。私達はこのような神を、一度も会ったことがないのに、信じている。神の性質はどのようなものか、神のもつもの、神であるものは何か、神はどのような姿をしているか、神が現れるとき私達はそれが神であるとわかるだろうかなどの疑問はどれも重要ではない。重要なのは、神が私達の心の中にいるということ、私達は皆、神を待ち望んでいること、そして私達は神の姿を想像することができるということである。私達は自分の信仰を評価し、自分の霊性を大切にする。私達は全てを不潔なものと見なし、全てのものを踏みつけて行く。私達は栄光なる主を信じ従う者なので、その過程がいかに長く困難であろうとも、いかなる苦難と危険に晒されようとも、私達が主に従って行く時、何も私達の歩みを止めることはできない。「いのちの水の川は、水晶のように輝き、神と小羊の御座から出ていた。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。」(ヨハネの黙示録22:1-5)これらの言葉を唱える度に、私達の胸は無限の喜びと満足感で溢れ、目からは涙がこぼれる。主が私達を選ばれたことに感謝し、主の恵みに感謝する。私達は神からこの世では百倍もの報いを受け、その後に来る世では永遠の命を与えられている。だから、もし神が今私達に死になさいと言えば一言の文句も言わずそうするであろう。主よ、どうぞ今すぐに来てください。一分も引き延ばさないでください。私達は主が来られるのを待ち焦がれており、主のために全てを捨てたのですから。

神は沈黙していて、私達に姿を現したことはない。しかし神の働きは止むことがない。神は全世界を見ているし、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神の経営は計画に従って段階的に行われる。それは静かにまた特に驚くような成果もなく進行するが、神の歩みはますます人類に接近し、神の裁きの座が電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座も私達のもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげているライオンのように、聖霊は私達すべてのもとにやって来る。神は賢く、義に満ちて、威厳がある。神は権威を持ち、愛と哀れみに満ちて私達の間に静かにやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰も神を歓迎せず、その上、誰も神がこれからしようとしていることをまったく知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神は、神に従う取るに足らない者として、平凡な一信者として、普通の人のように私達の間に生きている。神には神が従事するものごとや目標があり、その上に普通の人にはない神性を有している。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も神と人の本質の違いを見抜いていない。私達は神を取るに足らない一人の信者としてしか見ていないので、のびのびと恐れることもなく神と共に暮らしている。神は私達の一挙一動を観察しており、私達の考えや思いつきはすべて神の前に晒されている。誰一人として神の存在に注意を払わないし、その役割を想像すらしない。さらに、誰一人としてそれが誰であるか疑っていない。私達は、単純に自分達の活動を継続している。あたかも神と私達には何の関係もないとでも言うように。

たまたま、聖霊がこの人を「通して」一遍の言葉を発することがある。意外なことのように思われるが、私達はこれを神の発した声であると認め、神から出たものであるとすぐに受け入れる。なぜなら、これらの言葉を誰が発しようと、聖霊から出たものである限り、私達はそれを受け入れるべきであり、否定することはできない。次回の発言は、私を通して出されるかもしれないし、あなた、あるいは他の誰かを通して出されるかもしれない。それが誰であるかにかかわらず、全ては神の恵みである。しかしその人物が誰であろうと、その人を崇拝してはならない。なぜならほかのことにかかわらず、その人が神であるということはとうていありえないし、このようなごく普通の人を選んで私達の神とすることは決してできないからである。私達の神は非常に偉大で尊い。どうしてこのような小さく取るに足らない人が神に代わることなどできようか。加えて、私達は皆、神がこの世に来て私達を天国へ引き上げてくれるのを待っているのだが、そのような重大で困難な仕事に、この小さく取るに足らない人が適格であることがどうしてありえようか。もし主が再臨するならば、白い雲の上に乗って現れ、全ての人に見えるようでなければならない。それは何と荘厳なことだろうか。どうして神が平凡な人々の一群の中に静かに隠れていることなどできようか。

それでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが私達を救うための新しい働きを行っているのだ。この人は私達のために何も明らかにすることはないし、来た理由を説明することもない。単に為すべき仕事を段階ごとに、自分の計画に沿って行うだけである。彼は益々頻繁に声を発し、発言するようになる。それは、慰め、励まし、忠告、警告などから、非難や懲らしめまである。穏やかで優しい口調から、荒々しく威厳ある言葉使いまであり――どれもが人に哀れみと戦慄を注ぎ込む。彼が言うことは全て、私達の中に深く隠された秘密に命中し、それは私達の心を突き刺し、霊を突き刺し、私達を恥ずかしく、みじめな気持ちにする。この人物の心の中にある神は本当に私達を愛しているのか、そして一体何をしようとしているのかと私達は疑い始める。もしかしたら、そのような痛みを耐えなければ天国に引き上げてもらえないのではないだろうか。これからの行く先や未来の運命について…私達は頭の中で思案するようになる。それでもまだ、誰一人として神が肉体を得て私達の間で働きを行っているとは考えない。神がいかに長い期間私達と一緒であっても、どれほど多くの言葉を私達に面と向かって語っていても、私達はそのあまりにも平凡な人を、自分達の未来の神と喜んで認めることはないし、ましてその小さな取るに足らない人に私達の未来と運命の支配を任せたくないのである。私達は、彼から絶えることのないいのちの水を喜んで享受し、彼のおかげで神と向かい合って生活している。私達は天におられる主イエスの恵みには感謝するが、神性を備えたこの普通の人の気持ちには注意を払ってこなかった。それでもなお、彼は肉体の中に隠れて謙虚に仕事を続け、その心の声を発し、人類が彼を拒んでも表向きは気にかけず、また人の稚拙さも無知も見たところは永久に赦して、そして人々の非礼をひたすら黙認している。

私達が知らないうちに、この小さな取るに足らない人は私達を神の一つ一つの働きの段階へと導き入れてきた。私達は数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。私達は神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じ、神の愛らしさを実際に目にし、そして人類を救いたいという神の強い願いを見る。この平凡な人の言葉を通して、私達は神の性質と本質を知り、神の心を理解し、人の本性と本質をも知り、そして救いと完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は、私達を死なせ、また復活させる。その言葉は安らぎを与えるが、罪悪感と恩義の感情で私達を苦しませもする。その言葉は、私達に喜びと平安をもたらすが、大きな痛みも与える。私達は、時にはその手によって屠られる子羊のようであり、時にはその最愛のものであり、その愛と好意を享受する。時には私達はその人の敵のようでもあり、その怒りのまなざしによって焼かれ灰にされる。私達は彼に救われる人類であるが、その目には蛆のようでもあり、彼が日夜見つけることを考えている迷える子羊である。彼は私達に対し慈悲深くもあれば軽蔑もし、私達を立ち上がらせ、慰め励まし、私達を導き啓示し、刑罰を与え懲らしめ、私達を呪いさえする。彼は、昼も夜も私達のことを心配し、昼も夜も守り、気にかけ、決して私達の傍を離れず、その心血の全てを私達に注ぎ、私達のためならいかなる代償も払う。この小さくて平凡な肉体から出る言葉の数々の中に、私達は神の全てを享受し、神が私達に与えた終着点を見た。それにもかかわらず、私達の心の中では虚栄心がはびこり、このような人を神として喜んで受け入れることができないでいる。この人が私達にどんなに多くのマナ、どんなに多くの喜びを与えても、私達の心の内に在る主の地位を奪うことができないのである。私達はこの人の特別な身分と地位を嫌々ながらに尊重しているのである。もし彼がはっきりと語り、自分が神であることを私達に納得させなければ、私達は決してこの人を神として、つまりもうすぐ現れるはずであったが既に私達のもとで長く働いてきた神として、思い切って認めることはないだろう。

神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私達にもう一度命を授け、私達が光を見えるようにし、そして私達の心がさまようのを止めてくれたのだ。私達は神の家に帰り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔をこの目で見て、この先にある道を見た。その時、私達の心は完全に彼に征服された。私達はもはや彼が誰であるか疑わず、その働きや言葉にもはや反抗することもなく、彼の前に完全にひれ伏す。私達の望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、神の恵みと私達への愛に報い、神の指揮と計画に従い、神の働きに協力し、神が私達に委ねたことを完成するためにできる限りのことを行うことだけである。

神に征服されるのは、武術の試合のようである。

神の言葉の一つ一つが私達の急所を突き、私達は悲嘆にくれ、恐れる。神は私達の観念を明らかにし、想像を明らかにし、堕落した性質を明らかにする。私達の言動の全て、思いや考えの一つ一つを通して、私達の本性や本質は神の言葉によって明らかにされ、私達は辱められ、恐怖で震える。神は、私達の行動、目的と意図、それに自分でも知らなかった堕落した性質までを私達に示し、私達を徹底的にさらけ出された気持ちにさせ、さらには完全に納得した気持ちにさせる。神は、私達が神に反抗したことを裁き、神に対する冒涜と糾弾を理由に私達を罰し、私達は神の目には何の価値もなく、生きたサタンそのものであると思わせる。私達の希望は粉々にされ、もはや神に対する理不尽な要求や企てはしなくなり、私達の夢さえも一夜にして消える。これは、私達の誰も想像できず、受け入れることのできない事実である。一瞬、私達は心のバランスを失い、この先どうやって続けていけば良いのか、どうやって私達が信じることがらを保ちつつ続けていけば良いのか分らなくなる。まるで自分達の信仰が振り出しに戻り、主イエスに出会ったことも、親しんだこともなかったような気持ちになる。目の前のこと全てが私達を混乱させ、どこか漂流しているような気持ちにさせられる。私達は狼狽し、落胆し、そして心の奥深くには押さえきれない憤りと屈辱がある。私達はうっぷんを晴らそうと試み、出口を探そうと試み、その上、救い主イエスを待ち続けて、胸の中を打ち明けようと試みる。表面上は放漫にも謙虚にも見えないときもあるが、私達は心の中でこれまでにない喪失感に苦しんでいる。ときには表面上はいつになく冷静に見えるかもしれないが、内面では波打つ海原のような苦悶に耐えている。神の裁きと刑罰は、私達の希望と夢の全てを奪い去り、私達の途方もない望みはもはや無く、あの人が救い主で、私達を救うことができるということを信じようとはしない。神の裁きと刑罰は私達と神との間に深い溝を広げ、誰もそれを渡ろうとさえしない。神の裁きと刑罰によって、これほどの挫折と屈辱を初めて感じたのである。私達は、神の裁きと刑罰によって、神の名誉と人による侮辱に対する神の不寛容を本当に認識した。それと比べて私達はなんと卑しく汚れていることか。神の裁きと刑罰によって私達は初めて、いかに自分達が傲慢で尊大であるか、そして人間は決して神と同等ではなく、神と肩を並べることはないことを悟らされた。神の裁きと刑罰によって、私達はこのような堕落した性質の中でもはや生きていかないことを切望するようになり、そのような本性と本質からできるだけ早く抜け出し、もう神から憎まれたり、神に嫌悪感を起こさせることのないようにと願うようになった。神の裁きと刑罰によって、私達は神の言葉に喜んで従うようになり、もはや神の指揮と計画に反抗する気持はなくなった。彼の裁きと刑罰によって、私達は再びいのちを追い求めるようになり、喜んで彼を救い主として受け入れるようになった。私達は、征服する働きから立ち去り、地獄から抜け出し、死の影の谷から抜け出た…全能神は、私達この集団に属する人間を得たのだ。神はサタンに打ち勝ち、全ての敵を倒したのだ。

私達は、堕落したサタンのような性質を持っている人のごく普通の集団で、ずっと前から神によって既に運命が決められていた、神が掃きだめからすくい上げた貧しい者である。私達は、かつて神を拒絶し、糾弾したが、今は神に征服されている。私達は、神よりいのちを受け、そして永遠のいのちの道を授かった。私達がこの地球上のどこに居ようとも、迫害や試練を受けても、全能神の救いから離れることはできない。なぜならこの神こそ私達の創造主であり、唯一の贖い主であるからだ。

神の愛は泉の水のように溢れ出て、あなたや私や他の誰かに、そして真理を求め、神の出現を待ち望む全ての人に与えられる。

月がいつも太陽を追いかけているように、神の働きは決して止むことはなく、あなたや私や他の誰かの上に、そして神の足跡に従い、神の裁きと刑罰を受け入れる全ての人に対して行われる。

2010年3月23日