東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(5)パリサイ人が神に敵対するのは何故か

2019-11-30 15:58:43 | クリスチャン映画

 

クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(5)パリサイ人が神に敵対するのは何故か
宗教界のパリサイ人は皆、聖書に精通していて、長年主に仕えてきた者達です。しかし彼らは受肉された神の出現とその働きを求め学ぶどころか、逆に激しく批判し、非難し、反抗します。本当に信じ難いことです!宗教界のパリサイ人が神を非難し拒絶するのは何故でしょう。神は次のように仰っています。「荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。」「人が神に逆らう理由は、一方では、人の堕落した性質に起因しており、もう一方では神を知らないこと、神の働きの原則や人に対する神の意志についての理解に欠けることが原因である。これらの二つの要因が人間の神への反抗の歴史を成している。」(『言葉は肉において現れる』より)

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信者はどのように神の声を区別し、それが真理の道であると確認するべきか。

2019-11-29 13:30:22 | 書籍

神の御言葉による答え:

人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

恵みの時代、イエスもまた多くを語り、多くの業を為した。イエスはイザヤとはどう違っていたのだろうか。イエスはダニエルとどこが違っていたのか。イエスは預言者だったのだろうか?何故彼はキリストだと言われるのだろう。彼らの間の違いとは何であろう。彼らは皆言葉を語ったが、彼らの言葉は、人間にはだいたい同じもののように思われた。彼らは皆語り、働きを行った。旧約の預言者は預言し、同様にイエスもそれができた。なぜそうなのか。ここでの違いは、働きの性質による。このことを識別するには、肉の性質を考慮することはできない。また、語られた言葉の表面的な深さ浅さを考察すべきではない。いつもまず、イエスの働きと、その働きが人間の内にもたらした成果を第一に考えなければいけない。当時イザヤによって告げられた預言は、人間にいのちを与えなかった。また、ダニエルのような人々の受け取った言葉は単なる預言であって、いのちの道ではなかった。ヤーウェの直接の啓示がなければ、誰一人その仕事ができなかっただろう。何故ならそれはただの人間には不可能なことだからだ。イエスもまた、多くを語ったが、その言葉はいのちの道で、そこから人間は実践の道を見出すことができた。つまり、第一に、イエスは人間にいのちを与えることができた。何故ならイエスはいのちだからだ。第二に、イエスは人間の逸脱したところを正常に戻すことができた。第三に、イエスの業はヤーウェの業をひき継ぎ、その時代を進めるものだった。第四に、イエスは人間の内なる必要を把握し、何が人間に欠けているのかを理解できた。最後に、イエスは古い時代を終わらせて、新しい時代を招き入れることができた。だから、彼は神、そしてキリストと呼ばれたのだ。イエスはイザヤだけではなく、他のすべての預言者とも異なっていた。比較のため、イザヤを例に預言者たちの働きをみてみよう。第一に、イザヤは人間にいのちを与えることができなかった。第二に、彼には新たな時代の先駆けとなることができなかった。イザヤはヤーウェに導かれて働いたのであって、新たな時代の到来を告げるためではなかった。第三に、彼の語ったことは、彼自身にも理解できないことだった。彼は神の霊から直接啓示を受けていたのだが、他の人々はそれを聞いても理解できなかった。これらの点をみただけでも、イザヤの言葉は預言にすぎなかったこと、ヤーウェのために行った働きの要素の一つでしかなかったことがわかる。しかしながら、イザヤは完全にヤーウェの代理となることはできなかった。彼はヤーウェのしもべで、ヤーウェの働きの道具であった。イザヤはただ律法の時代にヤーウェの働きの範囲内で働いていただけだ。イザヤは律法の時代以外では働かなかった。それに対して、イエスの働きは異なっていた。イエスはヤーウェの働きの範囲を超えていた。イエスは受肉した神として働き、すべての人間を贖うために十字架につけられた。つまり、イエスはヤーウェの行った働きの範囲外で新たな働きを行ったのだ。それが新たな時代を招き入れたということだ。もう一つの点は、イエスは人間には達成することが不可能なことについて語ることができた。イエスの働きは神の救いの働きの計画に属するもので、全人類に関わるものだった。イエスはほんの数人のために働きかけたのではないし、その働きは限られた数の人間を導くものでもなかった。神がどのように受肉して人間になったか、聖霊が当時どのように啓示を与え、聖霊が働きを為すためにどのように人間の上に降臨したのか。こうしたことは人間には見ることも触れることもできないことだった。これらの事実が、イエスが受肉した神であるという証拠になることは、まったくありえない。だから、人間にも具体的に理解できる神の言葉と働きにおいてのみ、判断できるのだ。これだけが現実的だ。何故なら、霊のことはあなたの目には見えず、神自身にだけはっきり知られているものだからであり、受肉した神でさえ、すべてを知っているわけではないのだ。イエスが神であるかどうかは、その働きによって確かめられるだけだ。その働きを見ると、まず、イエスは新たな時代を開いた。第二に、イエスは人間にいのちを与え、行くべき道を示すことができた。イエス自身が神であることを証拠立てるにはこれで充分なのだ。少なくとも、イエスの行う業は神の霊を完全に表している。そうした働きから、神の霊がイエスの内にいることがわかるのだ。受肉した神の行った業は、主に新たな時代の到来を告げ、新たな働きを先導し、新たな状況を開くことであったが、これらのいくつかの条件だけでも、イエス自身が神であることを実証するのに充分である。つまり、これがイエスがイザヤやダニエル、他の偉大な預言者たちとの違いである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

あなた方は神の働きと人の働きの区別の仕方を知らなければならない。あなたは人の働きから何を見ることができるか。人の働きの中には人の経験による要素がたくさんある。人が表すものは現在のその人そのものである。神自身の働きも現在の神そのものを表すが、現在の神は現在の人とは異なる。現在の人は人の経験や人生を表し(人生やその人が持つ人生哲学において人が経験したり、遭遇したりするもの)、異なる環境に住む人々は異なる存在を表す。あなたに社会的経験があるか否か、あなたが家族の中で実際どのように生活し、経験しているかはあなたが表すものの中に見ることができるが、あなたは肉となった神の働きから神に社会的経験があるか否か見ることはできない。神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人々に関連するあらゆる種類の行為を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人々の中には住まわないが、人間の本性や世俗的人々の堕落のすべてを承知している。これこそが神である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目では見ることのできず、人の耳では聞くことのできない聖霊の働きについて、現在のものも、過去のものも知っている。これには、人生哲学ではない知恵や、人々が推測するのは難しいと思う奇跡も含まれている。これが、人々に明らかにされており、また隠されてもいる神そのものである。神が表すものは、特別な人のことではなく、聖霊に本来備わっている特質と存在である。神は世界中を巡回しないが世界のすべてを知っている。神は知識も洞察力もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超えた言葉を述べる。神は、人間性を持たず、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人々の集団の中で暮らすが、人類に通常の人間性のままに生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにする。このすべてが、どの生身の人間そのものよりも高い神そのものである。神は、なさなければならない仕事をし、堕落した人間の本質を完全に明らかにするために、複雑で、扱いにくく、浅ましい社会生活を経験する必要はない。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き、裁くことは神の肉の経験の表現ではない。それは人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌ったあと、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神の存在を表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

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天と地と万物を創造した真の神は唯一なのか、三位あるのか。

2019-11-28 10:40:29 | 書籍

参照聖書箇所

「ピリポはイエスに言った、『主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します』。イエスは彼に言われた、『ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。14:10わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。』」(ヨハネによる福音書 14:8-10)

「わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書 10:30)

関連する神の言葉

「万物を支配し、管理しているのは、神である。神は、存在するあらゆる物事を造り、管理し、また支配し、施す。これが神の地位であり、身分である。万物すなわち存在する全ての物事について、神の真の身分は創造主であり、支配者である。それが、神が所有する身分であり、神は万物にあって唯一の存在である。神の被造物のうちひとつとして、人間の世界にあるか、霊的世界にあるかを問わず、何らかの方法や申し開きにより、神の身分や地位を装ったり、神の代理となったりすることの出来るものはいない。なぜなら、万物を支配する身分と力、権威、そして能力を持つ者は、ただひとりしか存在せず、それが唯一の神自身であるからである。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身10」より

「神は唯一で、この神の中には唯一の位格しかなく、神の霊は唯一である。聖書に『唯一の聖霊、唯一の神のみがいる』と書かれている通りである。…言い換えれば、神は一つの霊であるが、すべての上に立つことができるのはもちろん、肉体になり、人々の中で暮らすこともできる。神の霊はすべてを含んでおり、どこにでも存在する。神は同時に肉体の形になり、宇宙中に存在することができる。すべての人々が神は唯一の真の神であると言うので、神は一つだけで、誰も意のままに分けることはできない。神は唯一の霊で、唯一の位格である。そしてそれが神の霊である。」

『言葉は肉において現れる』の「三位一体は存在するのか」より

「あなたたちの中の誰かが三位一体は実際存在すると言うならば、この三位格で一つの神とは一体何か説明してみたまえ。聖なる父とは何か。子とは何か。聖霊とは何か。ヤーウェは聖なる父なのだろうか。イエスは子なのだろうか。それでは聖霊についてはどうか。父は霊ではないのだろうか。子の本質も霊ではないのだろうか。イエスの働きは聖霊の働きではなかったのだろうか。当時のヤーウェの働きはイエスの働きと同じ霊によって行なわれたのではなかったのだろうか。神はいくつの霊を持つことができるのだろうか。あなたの説明によると、父、子、聖霊の三位格は一つである。もしそうなら、三つの霊がいることになるが、霊が三ついるということは神が三ついることを意味する。となると唯一の真の神はいないことになる。こんな神がどうして神の本来備え持つ本質を持つことができるだろう。神は一つであることを受け入れるならば、神はどうして子を持ち、父であることができるのか。これらはすべて観念にすぎないのではないか。…あなたが言うように、それが父、子、聖霊であるならば、三つの神ではないのか。聖霊は一つの事柄であり、子は別の事柄、さらに父も別の事柄である。彼らは本質の異なる、違った位格であるのだから、どうしてそれぞれが唯一神の一部分でありえようか。聖霊は霊である。これは人にとって理解しやすい。もしそうなら、父はさらにいっそう霊である。父は地上に降臨したことも、肉体になったこともない。父は人の心の中でヤーウェ神であり、確かに霊でもある。では父と聖霊の関係は何か。それは父と子の関係なのだろうか。それとも聖霊と父の霊の関係なのだろうか。各霊の本質は同じなのだろうか。それとも聖霊は父の道具なのだろうか。これはどうしたら説明できるのだろうか。それなら子と聖霊の関係は何なのだろうか。それは二つの霊の関係なのだろうか。それとも人と霊の関係なのだろうか。これらはすべて説明のできない事柄である。彼らがみな一つの霊ならば、三位格の話はありえない。彼らはただ一つの霊を所有しているからである。彼らがはっきり異なる位格であるならば、霊の力も異なるものになり、断じてただ一つの霊になることはできないだろう。父、子、聖霊のこの概念は非常に不合理である。これは神を分割し、それぞれが地位と霊を持つ三つの位格に分けてしまう。それではどうして神は一つの霊、一つの神でいられようか。教えて欲しい。天と地、そしてその中のすべてのものは父、子、あるいは聖霊が造ったのだろうか。彼らは一緒になって天地を創造したのだと言う人がいる。それでは誰が人類を救ったのだろうか。聖霊か、子か、それとも父なる神か。人類を救ったのは子であると言う人もいる。それでは実質上、子とは誰か。彼は神の霊の受肉ではないのか。受肉した神は被造物の人という観点から、天の神を父の名で呼ぶ。イエスが聖霊による受胎から生まれたことを知らないのか。彼の中には聖霊がいる。あなたが何と言おうとも、彼はやはり天の神と一つなのである。彼は神の霊の受肉だからである。子というこの考えは断じて真実ではない。すべての働きを実行するのは一つの霊である。神だけが、すなわち、神の霊が働きを実行する。神の霊とは誰か。聖霊ではないのか。イエスの中で働くのは聖霊ではないのか。働きが聖霊(すなわち神の霊)によって実行されなかったのなら、彼の働きが神自身を表すことができただろうか。イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な人として身を装い、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの『人の子』になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたたちが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした。イエスが覚えるようにとあなたたちに教えた主の祈りをまだ覚えているか。『天にいますわれらの父よ……』イエスはすべての人に天の神を父の名で呼ぶよう求めた。そして彼も天の神を父と呼んだので、彼はあなたたちすべてと対等の立場に立つ者の観点からそうしていた。あなたたちは天の神を父の名で呼んだので、このことはイエスが彼自身をあなたたちと対等の立場にあり、神によって選ばれた地上の人(すなわち神の子)と見なしていることを示している。もしあなたたちが神を「父」と呼ぶならば、これはあなたたちが被造物だからではないのか。地上におけるイエスの権威がどんなに偉大でも、磔刑以前はイエスは単に人の子であり、聖霊(すなわち神)に支配され、地上にいる被造物の一人にすぎなかった。まだ自分の働きを完成させていなかったからである。従って、彼が天の神を父と呼ぶのはもっぱら彼の謙虚と従順さからであった。しかし、彼がそのように神(すなわち天の霊)に呼びかけることで、彼が天の神の霊の子であることの証明にはならない。むしろ、それは単に彼の視点が異なっていることであり、彼が別の位格であるということではない。別個の位格の存在というのは間違った考えである。磔刑以前、イエスは肉体の限界に縛られた人の子であり、霊の権威を十分には所有していなかった。そのため、彼は被造物の視点からのみ父なる神の意志を求めることができた。ゲッセマネで『わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』と三度祈ったときのように。十字架刑に処せられる前、彼はユダヤ人の王にすぎなかった。彼はキリストであり、人の子であり、栄光の体ではなかった。そのため、彼は被造物の観点から神を父と呼んだのである。…イエスが去ったあと、父と子というこの考えもなくなった。この考えはイエスが肉体になった年月にのみ適切であった。それ以外のすべての状況下では、その関係は、あなたたちが神を父と呼ぶときの創造主と被造物の間の関係である。父と子と聖霊という三位一体のこの考えが有効である時はない。それは諸時代を通じてめったに見られない誤った考えであり、存在しない。」

『言葉は肉において現れる』の「三位一体は存在するのか」より

「それでも、イエスは自分の愛する子と神ははっきり述べなかったかと言う人たちがいる。『イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である』と、確かに神自身が語った。神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。『父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある』というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。時代の変化、働きの必須要件、神の経営(救いの)計画のさまざまな段階のために、人が神を呼ぶ名前も違ってくる。第一段階の働きを実行するために来た時、神はヤーウェ、イスラエル人の羊飼いとしか呼ばれなかった。第二段階では、受肉した神は主およびキリストとしか呼ばれなかった。しかし、その時、天の霊は、イエスは神の愛する子であるとだけ述べ、彼が神のひとり子だとは言及しなかった。そのようなことは断じて起こらなかった。どうして神がひとり子を持つことができようか。それでは神は人にならなかったのか。神は受肉したので愛する神の子と呼ばれ、このことから父と子の関係が生じた。それは単に天と地に別れていたためであった。イエスは肉体の観点から祈った。イエスは普通の人間の肉体の姿をしていたので、肉体の観点から『わたしの外観は被造物のものである。わたしは肉体となってこの世に来たので、今や天からは遠く、遠く離れている。』と言ったのである。このため、イエスは肉体の観点からしか父なる神に祈ることができなかった。これがイエスの本分であり、受肉した神の霊が備えていなければならないものであった。イエスが肉体の観点から父に祈るということだけで彼が神でないと言うことはできない。イエスは神の愛する子と呼ばれるが、それでも神自身である。霊が受肉しただけで、本質はやはり霊だからである。」

『言葉は肉において現れる』の「三位一体は存在するのか」より

「これでほとんどの人は『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り……』という創世記の神の言葉を思い起こすであろう。神が『われわれの』形に合わせて……と言うことから考えると、『われわれ』は二人以上を示す。神が『われわれ』と述べたので、神は一つだけではない。このようにして人は理論上はっきりと異なる位格について考え始め、これらの言葉から父、子、聖霊という考えが生じた。では、父とはどういうものか。子とはどういうものか。そして聖霊とはどういうものか。ひょっとして今日の人類は三つを合わせて一つの姿に造られたのだろうか。それでは人の姿は父、子、あるいは聖霊の姿に似ているのだろうか。人は神のどの位格の姿をしているのだろうか。人の抱くこの考えはまったく間違っており、ばかげている。これは一つの神をいくつかの神に分けることしかできない。モーセが創世記を記述した時は、世界の創造に続いて人類が造られた後のことであった。そもそも最初、世界が始まった時、モーセは存在していなかった。モーセが聖書を記述したのはそれからずいぶん後のことだったので、天の神が語ったのは何であったのかをモーセはどうして知ることができただろうか。彼は神がどのように世界を創造したかについて少しも知らなかった。旧約聖書には、父、子、聖霊についての言及はなく、唯一の真の神、ヤーウェがイスラエルで働きを実行することにしか触れていない。神は時代が変わるにつれて異なった名前で呼ばれているが、これは名前ごとに異なる神格を指していることを証明できない。もしそうなら、神には無数の位格がいるのではないだろうか。旧約聖書に書かれていることは、ヤーウェの働き、つまり、律法の時代に開始するための神そのものの働きの段階である。それは、神が語るとそのようになり、神が命じると従うといった神の働きであった。ヤーウェは自分が働きを実行するために来た父であるとは決して言わなかったし、子が人類を贖うために来ると予言もしなかった。イエスの時代になった時、神はすべての人類を贖うために受肉したと言われただけで、来たのは子であるとは言われなかった。各時代は同様ではないし、神自身がする働きも異なるので、神は異なる領域内で働きを実行する必要がある。このようにして神の表す身分も異なる。ヤーウェはイエスの父であると人は信じているが、このことは実はイエスによって認められておらず、イエスは次のように語った。『わたしたちは決して父と子として区別されなかった。わたしと天の父は一つである。父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある。人が子を見るとき、天の父を見ているのである。すべてが語られた時、父であろうと子であろうと、彼らは一つの霊であり、別々の位格には分けられない。ひとたび人が説明しようとすると、はっきりと異なる位格や、父、子、霊の関係で問題は複雑になる。人が別々の位格について話す時、これは神を物質化することではないだろうか。人は位格を第一、第二、第三とランク付けさえしている。これらはすべて人の概念にすぎず、言及する価値はなく、まったく非現実的である。あなたが誰かに『神は幾つあるのか』と尋ねたら、神は父、子、聖霊の三位一体で、唯一の真の神であると言うだろう。『父とは誰か』と尋ねると、『父は天の神の霊である。父はすべてを司り、天の主である』と言うだろう。『では、ヤーウェは霊なのか』と尋ねれば、『そうだ』と言うだろう。次に『子とは誰なのか』と尋ねたら、もちろんイエスが子であると言うだろう。『ではイエスの経歴はどうなっているのか。どこからイエスは来たのか』と尋ねれば、『イエスは聖霊による受胎を通してマリアの子として生まれた』と言うだろう。『では、イエスの本質も霊ではないのか。イエスの働きも聖霊を表しているのではないのか。ヤーウェは霊でイエスの本質も霊である。終わりの日の今、言うまでもなく、やはり働いているのは霊なのである。どうして彼らが異なる位格でありえようか。神の霊が異なる観点から霊の働きを実行しているだけなのではないか。』それ自体として、位格の間に区別はない。イエスは聖霊によって宿り、間違いなく彼の働きはまさしく聖霊の働きであった。ヤーウェによって実行された第一段階の働きにおいて、神は肉体にならなかったし、人の前に現れもしなかった。そこで、人は彼の姿を決して見なかった。彼がいかに大きくとも、いかに背が高くとも、やはり霊であり、初めて人を造った神自身であった。すなわち、それは神の霊であった。彼が雲の合間から人に話しかけた時、彼は単に霊にすぎなかった。誰も彼の姿を目撃しなかった。神の霊が受肉し、ユダヤで人となった恵みの時代になった時だけ、人は初めてユダヤ人として受肉した姿を見た。ヤーウェの感触は感知できなかった。しかし、彼は聖霊によって、すなわち、ヤーウェ自身の霊によって受胎されたので、イエスはやはり神の霊の具現化として生まれた。人が初めて見たものは、イエスの上に鳩のように降りてくる聖霊であった。それはイエスだけに限定された霊ではなく、むしろ聖霊であった。ではイエスの霊は聖霊と区別することができるのか。イエスが神の子イエスであり、聖霊は聖霊であるなら、どうしてこの二つは一つになることができようか。もしそうなら、働きは実行できなかったであろう。イエスの中の霊、天にある霊、ヤーウェの霊はすべて一つである。それは聖霊、神の霊、7倍に強化された霊、すべてを包みこむ霊と呼ぶことができる。神の霊だけが多くの働きを実行することができる。それは世界を創造することができ、地球を洪水にして世界を破壊することもできる。それは全人類を贖うことができ、そのうえ、全人類を征服し、破滅させることもできる。この働きはすべて神自身によって実行され、神のほかのどの位格が神の代わりに行ったということはありえない。神の霊はヤーウェ、イエス、ならびに全能者という名で呼ぶことができる。それは主であり、キリストである。また人の子になることもできる。天にも地にもいる。天上の高みにも、群衆の中にもいる。天と地の唯一の主人である。天地創造から今に至るまで、この働きは神自身の霊によって実行されてきた。天における働きであろうと、肉体での働きであろうと、すべては神の霊によって実行される。すべての被造物は、天であろうと、地上であろうと、神の全能の手のひらの中にある。このすべては神自身の働きであり、神に代わって誰も行うことはできない。天において、神は霊であるが、神自身でもある。人々のもとでは、神は肉体であるが神のままである。神は何十万もの名前で呼ばれるかもしれないが、それでも神は神であり、すべての働き[b]は神の霊の直接表現である。神の磔刑による全人類の贖いは神の霊の直接的働きであったし、終わりの日の間にすべての民、すべての地に向けた宣言もそうである。いつも神は全能で唯一の真の神、すべてを含む神自身としか呼ぶことはできない。はっきりと異なる位格は存在しないし、ましてや父、子、聖霊というこの考えも存在しない。天にも地にも神はただひとつである。」

『言葉は肉において現れる』の「三位一体は存在するのか」より

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全能の神の御言葉から、私は人生の進むべき方向を見つけた

2019-11-26 00:39:40 | 文章

私はフィリピン人のノヴォといいます。私は子供の頃から母と一緒に神を信じてきました。兄弟姉妹と共に教会に行き、講話も聞きました。そうして長年主を信じてきたのですが、私には自分が不信心者のように思えました。それは、心の内ではいかに金儲けをしてより良い生活を送ろうかと一日中考えていたからです。さらに、出かけては友人と酒を飲むこともよくありましたし、小遣いができた時はギャンブルしに出かけました。自分が悪い事をしているのは知っていたので、こうした自分の悪癖を変えます、としょっちゅう神に祈ってはいましたが、結局それを実践に移すことは全くありませんでした。こうして、私はどんどん堕落していき、心から神に祈ることもせず、毎週形だけの簡単な祈りを捧げているに過ぎませんでした。主が戻っていらっしゃった時には一人ひとりの行動をお裁きになり、誰が天国へ行って誰が地獄へ堕ちるか決められるのは知っていたので、私は時々非常に絶望的な気持ちになりました。私は堕落した人間であり、神は私をお許しにはならないだろうと思いました。そうこうするうちに、私は結婚して子供ができ、信仰は心の片隅に追いやってしまいました。子供により良い将来を与え、金持ちになりたいという願いを叶えるため、私は故国を離れて仕事を探すことにしました。その結果、私は台湾に渡りました。しかし、仕事が見つかってからも、過去の生活習慣を変えることはありませんでした。暇な時には相変わらず同僚と出かけては飲んだり歌ったりして、不信心者の生活を送っていました。

2011年から私は台湾のある工場で溶接工として働いていました。そして2012年のある日、台湾の同僚からカトリック教徒か聞かれたのです。私がそうだと答えると、その同僚は自分の教会のミサに私を招待してくれました。それからある日曜の朝、夜明けとともに、同僚は工場に私を迎えに来て、友人の家に連れて行ってくれました。そこで私はジョセフ兄と出会ったのです。ジョセフ兄は「兄弟よ、あなたは主なるイエス様の再来を待っていますか。」と聞くので、私は待っていると答えました。するとジョセフ兄は「主なるイエス様が戻っていらっしゃった時にはどんな働きをなさるかご存知ですか。」と重ねて聞くので、私は「白い玉座に座られ、人類を裁いて違うグループに分けられます。その後、各自の行動と行為により、その人が天国へ行くか地獄へ堕ちるかを神が決められます。」と答えました。するとジョセフ兄は続けて「もし私たちが主なるイエス様は既にいらしており、裁きの仕事をなさっていると言ったら、信じますか。」と聞くのです。それを聞いて私は非常に驚き、こう思いました。主なるイエス様が既に戻っていらした?そんなことがあるだろうか?既にお戻りならば、裁きを行われるのではないか?私は大きな白い玉座の前で裁きが行われているのを見ていないぞ!しかし、私は神の裁きは神秘であり、神の知恵は人間には計り知れないと思い、こうした思いを直接ジョセフ兄に尋ねることはしませんでした。私の考えは間違っているかもしれないので、まず彼らの考えを聞いた方がいいと思ったのです。そこで私は「それは私が答えられるようなことではありません。もっと話を聞かせてください。」と言いました。ジョセフ兄らは、それから聖書の様々な個所を示し、主なるイエス様が戻っていらしたら行われる裁きの働きについて話してくれました。その時見せてくれた中には「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:48)」「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)の2か所もありました。私は聖書が神の働きを記したものだと知っていましたから、ジョセフ兄らが教えてくれたことは真実だと思いました。

次にジョセフ兄は全能の神の御言葉から「裁きの働きは神自身の働きなので、当然、神自身が行う。神の代わりに人が行うことはできない。裁きは真理を通した人への征服なので、人の間でこの働きを行うため、神はやはり受肉した姿で現れることは疑う余地がない。つまり、終わりの日には、キリストが真理を用いて地球上の人を教え、真理を用いて彼らに真理を全て明らかにする。これが、神による裁きの働きだ。」「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より)の2か所を読ませてくれました。

私が全能の神の御言葉を読み終わると、ジョセフ兄らは話を続け、神の働きは本当に現実なのであって超自然的なものではなことをわからせてくれました。終わりの日における神の裁きの働きは、私の想像とは違いました。私は、神が天空に大きなテーブルを据えられて大きい白い玉座にお座りになると、一人ずつ神の御前に立ち、神が私たちの罪を読み上げて私たちが善良か悪かを定められ、天国に行くか地獄に堕ちるかを決められるのだと思っていました。しかし実際は、御言葉を表し、人間の邪悪と不従順を明らかにされるために、神は現実に受肉なさったのです。神は人間の罪を裁かれ、自分の邪悪な本性を理解できるよう助けてくださったのち、内なる罪深い本性をなくして、昼は罪を犯し夜はその罪を告白するという生きる苦しみを終わらせてくださいます。神は私たちが神を真に理解できるよう助けてくださり、私たちが清めと救いに到達できるようにしてくださいます。こうして、人間は天の王国に入る資格ができるのです。終わりの日における神の働きを受け入れず、生き方の性情を変えない人は、最終的には火の湖に投げ込まれます。このように裁きの働きを行われることで、神は実際に人間の現実的な要求に応えてくださるのです。私はこう考えました。長年主を信じてきて、頻繁に神に祈っては罪を告白してきたにもかかわらず、私は未だに罪に生きてきた。ギャンブルをし、酒を飲み、嘘をついて人を欺いた。いつも罪を犯しては告白し、また罪を犯した。私の人生は苦しみに満ちている。確かに、私たちは本当に神に来ていただき、裁きと救いの働きをしていただかねばならない。聖書には「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」(ヘブル人への手紙 12:14)と書かれている。主は聖なる方である。もし人間が罪から清められないなら、主の御顔を仰ぐ価値はない。もし我々の想像通りに、神が人間を裁くために終わりの日にいらして天空に白い玉座を据えられ、直接人間の終末を決められるとしたら、人間はどうやって罪をなくせるだろうか?人間は非難され、懲罰を受けているではないか?全能の神は、お戻りになった主なるイエス様のようだ。これは本気で研究しないといけない。主をお迎えするチャンスを逃してはならない。

そして私は『言葉は肉において現れる』という本をもらい、とても嬉しく思いました。家に帰ってから、私は神の御言葉を一晩中読みました。全能の神の「あなたがたの口は欺きと卑猥な言葉、裏切りと傲慢な言葉で満ちている。あなたがたはわたしに正直で聖い言葉も、わたしの言葉を体験しわたしに従う言葉も決して語ったことはなかった。これはどんな信仰だろうか。あなたがたの心は欲求と富で満ちており、あなたがたの頭の中は物質的なもので満ちている。毎日、あなたがたはわたしから獲得した富と物質がどれくらいあるか評価して、どのようにわたしから得ようと計算している。毎日、あなたがたはもっと祝福が施されるよう待っている。その結果もっと大きな娯楽を楽しめるかもしれないからである。いつもあなたがたの考えにあるのは、わたしでもわたしから来る真理でもなく、むしろ夫(妻)、息子や娘たちであったり、あるいは食べたり、着たりするもの、そしてどうやってもっと楽しく過ごすかということであったりする。たとえお腹が一杯になっても、あなたがたは依然として死体以上の存在ではないか。たとえあなたがたの体をきらびやかに着飾っても、いのちのない死体が歩いているだけではないか。あなたがたは白髪が生えるまで、腹を満たすために一生懸命働くが、だれもわたしの働きのために喜んでうぶ毛一本さえ犠牲にしようとはしない。あなたがたは旅をし、骨折って働き、肉のためにまた息子や娘たちのために頭を悩ますが、だれもわたしの心にあるものを心配したり考慮したりすることはない。あなたがたはわたしから何を得たいと思っているのか。」(『言葉は肉において現れる』の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」より)という御言葉を読み、私は神の御言葉が鋭い刀のように心に突き刺さるのを感じました。御言葉は私の生きる状態をまざまざと明らかにし、内なる心の本当の状況を言い表しました。私は、神のみが人間の心を調べ、人間の邪悪を顕せると知っていたので、全能の神の御言葉は本当に神の御言葉だと思いました。神の御言葉から、私は自分の信仰が嘘と欲に満ちていることを知りました。私は神の御名だけを受け入れていましたが、心には神がありませんでした。私は自分の家族や仕事、そして自分の将来だけを考えていました。毎日、どうしたらもっと金儲けができるか、どうしたら家族がもっと豊かな暮らしができるか、とだけ考えていたのです。私は神に対し、折に触れて神を愛しますと告げていましたが、言った通りにせず、神を欺き続けました。また、私はいつでも、神に祈る際にもっと祝福してくださるようお願いしていました。神は永遠に愛の神であり、人間に対する慈悲で溢れている、例え私が罪を犯しても神は私の罪を赦し、私に慈悲をたれて祝福してくれると思っていたのです。しかし、全能の神の御言葉を読み終わった私は、何人も神の義なる性情を犯してはならないことを知り、私の心は神を畏れ始めました。裁きと刑罰についての神の御言葉により、私は自分の過去を非常に悔やみ、とても悲しくなって寝床の中で泣きました。人生で初めて、私は激しく泣きながら、「神よ、私の罪をどうかお赦しください。あらゆる点で私はあなたに背きました。あなたを欺きました。私にはあなたに共にいていただく資格はありません。私は刑罰を受けるべきです。神よ、悔い改め、救われるチャンスを下さり、感謝します。これからは、真実を求めるために最善を尽くします。真実の心をもってあなたを愛します…。」と神に祈り、悔い改めました。そして祈りの後、罪を犯しては告白するという悪循環に陥った自分の生き様を変えるために、私には神の裁きを受ける必要があるのだ、全能の神の御言葉をもっと読み、頻繁に御言葉について考えることで、真実をより良く理解し、肉体に背く強さを持ち、真実を実践に移して神の御心を満足させられるようにしなければならないのだ、と言い聞かせました。

それ以来、私は『言葉は肉において現れる』の本を職場に持っていき、仕事中に暇な時間がある時は神の御言葉を読み、それについて考えました。全能の神の御言葉により、私は自分の行動と考えがいかに邪悪で反抗的なものであったかを知りました。全能の神は「あなたは、自分の実際の状態と聖霊によって為されるべき働きに従って段階的に祈る必要があり、また神の意志と人間に対する要求に則して神と交わるべきである。あなたが祈りの実践を開始する時は、まず最初に自分の心を神に捧げなさい。神の意志を把握しようとしてはならない。ただあなたの心の内にある言葉を神に話そうとしなさい。神の前に来て、こう言いなさい。「おお神よ、私は今日になって初めて、あなたに服従していなかったことを知りました。私は本当に堕落した、忌み嫌われるべき存在です。以前、私は時間を無駄にしていました。私は今日からあなたのために生き、意義のある人生を行動で示し、あなたの意志を満足させます。私があなたの前で響きわたるような力強い証をし、あなたの栄光とあなたの証しと、私たちの内にあるあなたの勝利の証拠をサタンに示すことが出来るよう、私は、あなたの霊がいつも私の内で働き、常に私に光と悟りを与えることを望みます。」あなたがこのように祈る時、あなたの心は完全に解放されるであろう。このように祈ったことで、あなたの心は神にいっそう近付くであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「祈りの実践について」より)とおっしゃっています。神の御言葉の内に、私は自分の邪悪な性情を解決する道を見つけ、最高に誠実な態度で心の底から神に祈るようになりました。そしてこうした祈りにあって、神が私を導いていらっしゃるのを何度となく感じました。内には信仰と力がありました。私は過去のような生き方をしなくなり、心の内にあった邪悪な思いや考えを行動に移さなくなりました。私の人生は変わりました。罪を犯してはそれを悔い改めるという生き方ではなく、代わりに、真に神の光の内に生きるようになりました。そして今では、神の御言葉に従って行動するようにしています。また、私の考え方もその多くが変わりました。全能の神の御言葉は、私の人生に正当な目的を与えてくださいました。過去にしたように、贅沢な暮らしを送ろうと知恵を絞ることはやめました。他人より抜きん出ようとするのもやめました。その代わりに、私は自分の邪悪な性情から解放され、清めと救いを得るために、真実を追求しています。また、神の愛に報いるために、どんなことについても神の御言葉を守り、創造物としての義務を果たそうと努力しています。

2014年7月、私はフィリピンに戻りました。フィリピンからは多くの兄弟姉妹が神に選ばれていることを知り、非常に嬉しく思いました。現在私は全能の神の教会で教会生活を送り、兄弟姉妹とともに神の御言葉について語り合っています。私たちは互いに支え合い、真実を追求し、生き方を変えようと努め、救いを得るために皆で一生懸命頑張っています。私たちはまた、終わりの日における全能の神の働きを自国や外国の人々に証言するために、一生懸命努力しています。私たちは主なるイエス様が既に戻られたことを知ってもらいたいし、私たちのように終わりの日に神の救いを得られるようになってもらいたいのです。全能の神に感謝いたします!今や、私の人生は非常に豊かで、毎日が幸せです。あの堕落した生活は全く捨て去ってしまいました。こうして私に人生の目標と進むべき道を見つけてくださったのは、全能の神です。そして私は、こうした生き方が意味のある生き方だと感じています!

フィリピン ノヴォ