東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

肉となった神と神に使われる人々との間の本質的違い

2019-07-18 11:29:48 | 書籍

肉となった神と神に使われる人々との間の本質的違い


これまで幾多の年月に渡って、神の霊はこの地上で働きを進める中で探りつづけている。これまで数々の時代に渡って、神は自らの働きを行うために非常に多くの人々を使ってきた。しかし神の霊には依然として、ふさわしい安息所はない。そのため神は、さまざまな人々の間を移動しながら自らの働きを行い、主に人々を用いてそれを行う。これまでの長い年月、神の働きは一度も止まったことがないのである。それは今日まで、人において絶えず進められている。神はとても多くを語り、とても多くを行ってきたが、人は依然として神を知らず、それはすべて、神が人の前に一度も現れたことがなく、形のない存在だからである。そのため神は、あらゆる人々に実際神の実際的な意義を知らせるという働きを完遂する必要がある。その目的のために、神は自らの霊を人々に明白に示し、人々の間で働きを行わなければならない。神の霊が肉的な姿を担い、肉と骨となり、人々の間を目に見える形で歩き、自らの姿をある時は現し、ある時は隠しながら、人々の生活の中に伴うという場合にのみ、人々は神をさらに深く認識できるようになる。神は、もし常に肉に留まり続けていたら、自らの働きを完全に全うできなかったであろう。神は、一定の期間において肉で働きを行い、肉で行われる必要がある職分を全うした後、肉から離れ、肉の姿で霊界での働きを行わねばならないが、それは、イエスが普通の人間性において一定の期間で働きを行い、彼が全うする必要があるすべての働きを全うした後、そのように行ったことと、ちょうど同じである。あなたがたは、『道…(5)』からそのことを思い起こすことができる――「わたしは、父がわたしに語った、『この世ではわたしの心だけを遂行し、わたしの委託だけを全うしなさい。他のことはあなたとは関係がない。』という言葉を思い出す。」この一節で何が分かるだろうか。神は、この世に至る時、神性の働きのみを行う。それは、肉となった神への、天の霊の委託である。神がやって来る目的は、どこにでも行って語ることに尽き、さまざまな方法で、さまざまな視点から、自らの言葉を発することになる。神は、自らの目標と働きの原則として、主に人への施しと教えを続ける。神は、人間関係や人々の生活での詳細に関わることはない。神の主な職分は、霊の代わりに語ることである。神の霊が肉に実際的に現れるとき、神の行うことは、人のいのちのための施しと、真理の普及に尽きる。神は人の事柄に関わることはない。つまり、神は人間性の働きに関与することはない。人間は神性の働きを行えず、神は人の働きに関わることはないのである。神は、この世で自らの働きを行ったすべての歳月において、自らの働きを行うためにいつでも人々を使ってきた。けれども、それらの人々は肉となった神と見なされることはない。彼らは単に神によって使われる人々として見なされる。けれども、今日の神は、神性の視点から直接語り、霊の声を送り出し、霊の代わりに働きを行うことができる。数々の時代に渡って神が用いたすべての人々は、その体を通して神の霊に働きを行ってもらっているわけだが、なぜ彼らは神と呼ばれえないのだろうか。今日の神は肉で直接働きを行う神の霊であり、イエスも肉で働きを行う神の霊だった。それら後者2つの存在は神と呼ばれる。それではその違いは何なのだろうか。代々わたって、神が用いた人々は皆、普通の思考と理知を持っている。彼らは皆、振る舞い方を心得ており、生活上の問題に対処する。彼らは、普通の人間の観念を保持し、普通の人々が持つべきあらゆるものを備えている。彼らのほとんどは、特別な才能と生来の知性を持っている。神の霊は、それらの人々を通して働きを行うことで、神からの授かりものとなる彼らの才能を生かす。彼らの才能を生かし、彼らが自らの強みを通して神に仕えるようにするのは、神の霊である。けれども、神の本質は観念や思考を持たないものである。そこには人間の考えが組み込まれておらず、人間が普通に持つものを欠いていさえする。つまり神は、人間の行為の原則を熟知さえしていない。今日の神がこの世に来るときはこのようである。神は、人間の考えや人間の思考を組み込むことなく、働きを行い、語りかけるが、霊が元々の意図を直接示し、神の代わりに直接働きを行う。それは働きを行うために霊が現れ、人の考えを組み込むことないことを意味する。つまり、肉となった神は、直接的に神性を体現し、人間の思考や観念がなく、人間行為の原則に対する理解を伴わない。もし神性の働きしかなかったならば(その働きを行う神自身しか存在しなかった場合には)、神の働きがこの世で実行されることは不可能だった。だから神は、この世に来るとき、神性における自らの働きと関連して人間性での働きを行うために自らが使う人々を幾人か備えている必要がある。つまり、神は自らの神性の働きを支えるために人間の働きを使うのである。そうでなければ、人は神性の働きに直接関わるようにはなれなかっただろう。イエスと弟子達においても同様であった。イエスはその生涯において古い律法を廃止し、新しい戒めを確立した。また彼は多くを語った。そのすべては神性において行った。ペテロ、パウロ、およびヨハネといった他の者は皆、イエスの言葉を基礎として、続く働きを行った。つまり神は、その時代に始まりの働きを行い、恵みの時代へと導いた。神は新しい時代をもたらし、古い時代を完結させ、「神は初めであり、終わりである」という言葉を実現させた。つまり人は、神性の働きに基づいて人間性の働きを行わねばならない。イエスが語るべき言葉を全て語り、地上での働きを完遂した後、人から離れた。イエスの後の人々は、神の言葉にある原則に基づいて働き、神が語った真理に従って実践した。すべての人々がイエスのために働きを行った。もしその働きをイエスが1人で行っただけであれば、どれだけ多くを彼が語ったとしても、人々は依然として神の言葉に接するようにはなれなかっただろう。彼は神性において働きを行い、神性の話を語れるだけであったからだ。普通の人が彼の言葉を理解できるように説明することは不可能であった。だからイエスは、自らの後に続く使徒や預言者に自らの働きを補足させる必要があったのだ。これが肉となった神が働きを行うための原則であり、それは、神性の働きを完遂するために受肉を使って語り、行ない、それから、神の心にかなう少数またはそれ以上の人々を使って神の働きを補うことである。つまり神は、人間性において牧養し、注ぐために、自らの心にかなう人々を使うのであり、そうして、すべての人々は真理を受け取ることができる。

神の心にかなうある数の人々を追加して神に協力させることなく、神が肉となり神性の働きを行うだけであれば、人は、神の意志を理解できないだろうし、神に接触することはできないだろう。神は、自らの心にかなう普通の人々を使って、その働きを完遂させ、教会を世話し牧養しなければならず、そうすることで人の思考や人の脳は神の働きを想像することができる。言い換えれば、神は自らの心にかなう限られた数の人々を使って、神性における働きを「翻訳」し、それを明かす、つまり神性の言語を人間性の言語に変換することによって人々は皆、全てを把握し理解することができる。もし神がそう行わなかったなら、誰も神の神性の言語を理解しないだろう。神の心にかなうそのような人々は結局少数に限られており、人の持つ理解能力が弱いからである。これが、神が受肉を通して働きを行うとき、この手法を選ぶ理由である。もし神性の働きしか存在しなかったら、人は神の言語を理解しないため、人は神を知りえないだろうし、神と接触できないだろう。神が、自らの心にかなう人々を使い、神の言葉を明確にすることでのみ、人はその言語を理解することができる。けれども、人間性における働きのみを行うそのような人々しかいなかった場合、それは人の普通の生活を維持することしかできないだろう。人の性質を変換することはできないだろう。神の働きは新しい出発を行えないだろう。そこには、同じ古い歌、同じ古い決まり文句しかないだろう。人々のいのちの性質が変わることができ、人々が時代と共に導かれうるのは、受肉した神により語られる必要があるすべてが語られ、行われる必要があるすべてが行われ、その後の人々が神の言葉に従って働き、経験することによってのみ可能である。神性において働くのは神を表し、人間性において働くのは神に用いられる者である。つまり、肉となった神は、神によって用いられる人々とは実質的に異なる。肉となった神は神性の働きを行えるが、神によって用いられる人々にはそれができない。各時代の始まりにおいて、神の霊は自ら語りかけ、新しい時代を始め、人を新しい始まりへ導く。神が自らの語りを完遂するとき、神性における神の働きが達成されたことを意味する。その後人々はみな、神によって用いられる者たちの導きに従っていのちの経験に入ることになる。同様に、この段階において、神は人を新しい時代へ導き、すべての人々に新しい始まりを与える。それをもって、肉における神の働きは完結する。

神がこの世に来るのは、神の普通の人間性を完成させるためではない。神は普通の人間性の働きを行うためではなく、普通の人間性の中で神性の働きを行うためだけに来る。神が普通の人間性と見なすものは、人間が想像するようなものではない。人は「普通の人間性」を、妻または夫、息子や娘を持つことと定義する。人にとって[a]、それらは対象者が普通の人であることを証明する。けれども神の考えは違う。神は普通の人間性を、普通の人間の思考を持ち、普通の人間の生活をし、普通の人々のもとに生まれることとして捉える。しかし神における普通性とは、人が普通性と見なす、妻または夫、および子どもを持つことを含まない。つまり、神が語る普通の人間性とは、人にとっては人間性がなく、感情がないかのようであり、肉的必要がないかのようであり、ちょうどイエスのように、単なる普通の人の外見をし、普通の人として現れることとなったが、本質的に普通の人が伴うものを完全に伴っているわけではなかった。そのことから、肉となった神の本質とは普通の人間性全体を包含するものではなく、普通の人間生活の規則と普通の人間の理知を維持するために人々が持つべき一部の事柄だけを包含する、と理解できる。ただ、それらの事柄は、人が普通の人間性と見なすものとは関係はない。それらは肉となった神が持つべきものである。肉となった神は、妻、息子や娘といった家族を持つ場合にのみ、普通の人間性を持つと言える、と主張する人もいる。家族を持たない場合、神は普通の人間ではないと彼らは言うのである。それではあなたに尋ねよう。神には妻がいるだろうか。神が夫を持つことは可能だろうか。神は子を持つことができるだろうか。それらは誤った考えではないのだろうか。それでも、肉となった神が、岩の割れ目から現れたり、空から落ちてきたりすることはありえない。神は単に普通の人間の家族に生まれうる。そのため神には親や姉妹がいる。それらは、肉となった神の普通の人間性が伴わねばならないものである。イエスの場合、そうであった。イエスには父と母、姉妹、および兄弟がいた。それは全く普通のことである。けれどもイエスに妻、息子や娘がいたなら、神は肉となった神において、自らが望んだ普通の人間性の存在とはなっていなかっただろう。その場合、彼は自らの働きで神性を表すことはできなかっただろう。彼が神性の働きを行えたのは、彼が、妻や子どもを持たないものの、普通の家族に普通の人間から生まれたためである。さらに明確に言えば、神が普通の人と見なすものは、普通の家族に生まれた人である。そのような人のみが神性の働きを行う資格がある。一方、妻、子ども、または夫がいる人は、神性の働きを行うことができない。それは、その人が神の求める普通の人間性ではなく、人間の求める普通の人間性を伴っているに過ぎないからである。神の思考と人々の理解は、しばしば大きく異なり、かけ離れている。この段階での神の働きの多くは人々の観念に反し、大きく異なる。この段階の神の働きは、すべて神性の実践によって行われ、そこでは人間性が支えとなると言って良い。自身の働きを人にさせるのではなく自分で遂行するために神は地上に来るので、その働きのために神自身が(不完全な、普通の人間として)受肉するのである。神は、新しい時代を人間に示し、神の働きにおける次の段階を人間に伝えるためにその受肉を使うのであり、それにより彼らは神の言葉が述べる道に従って実践することができる。それをもって、神は肉における自らの働きを完結する。神は人間から離れる必要があるが、普通の人間性となるその肉の中にもはや留まることはなく、むしろ自らの働きの他の部分を行うために人から移り去ってゆくのである。神はそれから、自らの心にかなう人を使い、この世における自らの働きをこの一団の中で続けるが、それは人間性における働きである。

肉となった神は永遠に人に留まることはできないが、それは神にはすべきことが他にもたくさん存在するからである。神が肉に縛られることはない。神は自身がなすべき働きを肉のイメージで行うが、肉を捨ててそれをしなければならない。神は、この世に来る時、普通の人が死んで地上を離れるまでに達すべき状態まで待つことはしない。彼の肉体年齢に関係なく、自らの働きが完遂するとき、神は人を離れて行く。神には年齢というようなものはなく、人の寿命に基づいて自らの年齢を数えることはない。その代わり神は、自らの働きの段階に従って、肉での生涯を終える。肉となった神は、ある段階に発達し、大人になり、老年に達し、肉体が機能しなくなる場合にのみ去るはずだ、と思っている人がいるかもしれない。それは人の想像であり、神はそのようには働きを行わない。神は自身がすべき働きを行うためだけに肉となるのであり、両親のもとに生まれ、成長し、家族を形成し、就職し、子どもを持ったり、または人生の浮き沈みを経験したりといった、普通の人生のさまざまなことを経験することがその目的ではない。神が地上に来るということは神の霊が肉となることであり、肉に入るということであるが、神が普通の人間の生活をする訳ではない。神は自身の経営(救いの)計画の一部を遂行するのためだけに来る。その後、神は人間から去る。神が肉に入るとき、神の霊は肉における普通の人間性を全うすることはない。むしろ、神があらかじめ決めた時に、その神性は直接に働きを行う。それから、神が行う必要のあるすべての事柄を行い、自らの職分を完遂した後、その段階における神の霊の働きは完了し、神の肉がその寿命を全うしたか否かにかかわらず、肉となった神の人生が終わる。つまり、その肉が人生のいかなる段階に到達していようと、それがこの世で生きた期間がどれだけであろうと、すべては霊の働きによるのである。それは人が普通の人間性と見なすものとは関係がない。イエスを例にとってみる。イエスは肉となって33年と半年を過ごした。人間の体の寿命から言えば、その年齢で死に、去るべきではなかった。けれども神の霊にとってそれは問題ではなかった。神の働きが終わったとき、その体は取り去られ、霊とともに消えた。これが、神が肉で働きを行う原則である。そのため、厳密にいえば、肉となった神には普通の人間性がない。もう一度言うが、神がこの世に来るのは普通の人間の生活をするためではない。神は、初めに普通の人間生活を作り上げてから働きを始めるのではない。むしろ神は、普通の人間の家族に生まれる限り、神性の働きを行うことができる。神には人の考えが少しもない。神は肉的でなく、社会の流儀を適用したり、人の思考や観念に関わったりすることはなく、ましてや人生哲学とは関わらないのである。これが肉となった神が望む働きであり、神の受肉の実際的な意味である。神が肉に入るのは、主に、肉で行われる必要がある段階の働きを行うためである。神は他の取るに足りないプロセスを踏まず、普通の人の経験をすることもない。肉となった神が行う必要のある働きは、普通の人間の経験を含まない。それだから、神が肉に入る目的は、神が肉で達成する必要がある働きを達成することのみである。他の事柄は神とは関係がない。神はそのような取るに足りないプロセスを経験することはない。自身の働きが完了すれば、神の受肉の意味は終わる。この段階を完了することは、神が肉で行うことが必要な働きが終わり、神の肉の職分が完成したことを意味する。ただ、神はいつまでも肉で働きを続けることはできない。神は働きを行うべき他の場所へ向けて、その肉の外に出てゆかねばならない。そのようにしてのみ、神は自らの働きを完遂し、さらにその働きを拡大することができる。神は自身の計画に従って働きを行う。神は、自らが行う必要のある事柄と、自らが完遂した事柄をよく知っている。神は自身があらかじめ定義した道に沿って全ての人を導く。誰もそれを逃れることはできない。神の霊の導きに従う者だけが、安息を得られるだろう。後の働きにおいては、神が肉において語ることで人を導くのではなく、触れることのできる霊が人の生活を導くかもしれない。そのとき初めて人は実際に神に触れ、神を見、神が求める現実に入り、実際の神によって完全なものとされるだろう。これが神が成し遂げたい働きであり、神が長きに渡り計画してきたことである。そこからあなたがたはみな、進むべき道を知るべきである。

その他のフォーカス:

受肉の奥義(1)

受肉の奥義(2)

 



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