東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

第6章 神への信仰において備えるべきいくつかの識別

2020-01-02 18:55:50 | 信仰と生活

4. 真の道と偽りの道、真の教会と偽の教会の識別
関連する神の言葉

真の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、この道に聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。そして、受肉した神への信仰でさえ、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は正常の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)正常の人間性すべてである。即ち、この道が人間を正常な人間性の生活に導けるのかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が正常の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを見極めなければならない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真の道であると結論づけられる。わたしがこれらのことを述べるのは、あなた方の将来の経験において別の道を受け入れさせるためではなく、また、もうひとつ別の新時代の業が将来現れると予言するためでもない。わたしがこれらのことを述べるのは、あなた方が、今ある道が真の道であると確信でき、今日の業をただ半信半疑で信じ、その業について不確かで見通すことができないようなことのないようにするためである。自分では確信を持ってはいても、まだ惑いの道を辿っている人々さえいる。そのような確信は信条に基づいたものではないから、彼らは遅かれ早かれ、除かれなければならない。とりわけ熱心に従っている者たちでさえ三割は確かだが、五割は不確かである。このことは、その人たちには基礎がないことを示している。あなた方の能力はあまりに貧弱であなた方の基礎が浅すぎるために、区別することがわかっていないのだ。神は同じ業を繰り返しはしない。現実的でない働きは行なわない。神は人間に過分な要求をしない。また、神は人間の理知の外にある業は行なわない。神が為す業はみな、人間の正常の理知の範囲内で行われ、本来の人間の理知の外には及ばない。また、神の働きは人間の正常な必要に沿ったものである。もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンのような堕落した自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

神の働きの各段階において、それに対応する人間への要求がある。聖霊の流れの中にいる者たちは皆、聖霊の臨在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者たちはサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の働きがまったくない。聖霊の流れの中にいる人々は、神の新たな働きを受け入れ、神の新たな働きの中で協力する者である。現在において、その流れの中にいる者たちが協力できず、神に要求された通りに真理を実践できないとすれば、そうした者は鍛錬を受け、最悪の場合は聖霊に見捨てられるであろう。聖霊の新たな働きを受け入れる者は聖霊の流れの中で生き、聖霊の配慮と守りを授かるであろう。真理を実践することを望む者は、聖霊により啓かれ、真理を実践することを望ましない者は、聖霊から鍛錬を受け、罰を受けることさえあるだろう。そうした者がどのような人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな働きを神の名において受け入れる者全てについて、神は責任を負うであろう。神の名を讃美し、神の言葉を実践することを望む者は、神の祝福を得るであろう。神に反抗し、神の言葉を実践しない者は、神の罰を受けるであろう。聖霊の流れの中にいる人々は、新たな働きを受け入れる者であり、新たな働きを受け入れたのであれば、神との適切な協力を行うべきであり、自らの本分を尽くさない反逆者となってはならない。神の人間に対する要求は、これだけである。しかし、新たな働きを受け入れない人々には、この限りでは無い。そうした者は聖霊の流れの外にいるので、聖霊の鍛錬や咎めは、そうした者に適用されない。そうした者は終日肉の中で生活し、自分の心の中で生活し、そうした者の行動は、全て自分の脳による分析と研究により生み出された教義に従っている。それは聖霊の新たな働きにおける要求ではなく、ましてや神との協力などではない。神の新たな働きを受け入れない者には神の臨在がなく、その上、神の祝福と守りが欠如している。そうした者の言動は、殆どが聖霊の働きの過去における要求に固執している。それらは教義であり、真理ではない。そうした教義や規則は、そうした者が集う理由が宗教だけであることを十分に示している。そうした者は選ばれた者たちでも神の働きの対象でもない。そうした者の会合は、宗教の総会としか言いようがなく、教会とは呼べない。これは変えようのない事実である。そうした者には聖霊の新たな働きが無い。そうした者の為すことには宗教の匂いがあり、そうした者が行動で示している事は、宗教で満ちている。そうした者には聖霊の臨在と働きが無く、ましてや聖霊から鍛錬や啓きを受ける資格など無い。これらの人々は、全員いのちの無い屍であり、霊の無い蛆虫のようなものである。そうした者には人間の反逆性や反抗性、人間による様々な邪悪な行いに関する認識が全く無く、ましてやそうした者は神の働きや神の現在における心など知らない。彼らはみな無知で下劣な人間であり、信者と呼ばれるに相応しくない人間のくずである。彼らの為すことには神の経営に関連する事は一切なく、ましてや神の計画を損なうことはできない。彼らの言動は過度に不快であり、たいへん惨めであり、まったく語るにも値しない。聖霊の流れの中にいない者の為すことは、一切が聖霊の新たな働きと無関係である。そのため、そうした者がどう行動するかを問わず、彼らは聖霊の懲らしめを欠いている上、聖霊の啓きにも欠けている。何故なら、彼らはみな真理への愛を持たない人々であり、聖霊から忌み嫌われ、見捨てられたからである。彼らは悪を行う者と呼ばれる。何故なら、彼らは肉にあって歩み、神の看板の下に、自分が満足するあらゆる物事を行うからである。神が働きを行う間、そうした者は神に対して故意に敵意を抱き、神と反対方向に向かって走る。人間が神と協力しないことは、それ自体が最も反逆的であるので、故意に神に逆らうそうした人々は特に然るべき罰を受けるのではないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より

説教と交わりの参考箇所

宗教界全体がそれに敵意をもって反対していなければ、それは真の道ではありません。真の道なら確実に大多数の人々が、更に言えば、世界が反対するはずだということを覚えておいてください。主イエスが働き、説教するために初めて出現された時、ユダヤ教全体が主に反抗しなかったでしょうか。神が新たな働きを始められる時、それは常に堕落した人類には到底受け入れがたいのです。神の働きが人々の観念と合致せず、否定するものだからです。人々は理解力に欠けており、霊の領域を見極めることができません。聖霊の働きがなければ、人々は真の道を受け入れることができません。それが神の働きであると信じられていても、宗教界から反対されず、世界からの反抗と敵意もなければ、この神の働きは偽りであるという証拠になります。人類はどうして真理を受け入れられないのでしょうか。第一に、人は肉のものであり、物質的な存在だからです。物質的なものは霊の領域を見極めることができません。「霊の領域を見極められない」とはどういうことでしょうか。それは霊そのものも、霊とその領域の活動も見えない、神のなさることも仰ることにも気付けないということです。霊の領域での出来事が見えないということです。物質世界では人には物質的なものしか見えません。どの霊が人にどの働きをするかも、神の霊が何をしに、何を語りに来たのかも見せません神の声が聞こえることもありますが、どこから来たのかわかりません。書物から神の御言葉を読むことはできても、神がこの御言葉をどのように、いつ語られたのかも、それが何を意味するのかも分かりません人には霊の領域を見極めることも、神の御言葉の出所を把握することもできません。そのため、真理を理解するには、聖霊の啓きと照らし、聖霊の働きを必要とするのです。第二に、人類はあまりに根深く堕落しており、その内面はサタンの無数の毒と無数の知識で満たされています。サタンの様々な哲学と知識ですべてを評価するならば、人は真理が何であるかを確立させることは決してできません。聖霊の啓きと照らしなくして、真理を理解することはできないのです。そのため、真の道は必然的に人による迫害と拒絶の対象になります。人はなぜ、サタンの知識と哲学を容易に受け入れてしまうのでしょうか。第一に、それが人の肉にまつわる観念や利益と合致しており、人の肉にとって有益だからです。「こういった知識を受け入れたら自分のためになる。これで昇格できる。成功できるし、物事を達成できる。こうした知識があれば、人に尊敬してもらえる」と人は自分に言い聞かせます。自分にとって有益なものであれば、自分の観念と合致するのです……これ程までに堕落して、霊の領域を見極められない人は、神に反抗することしかできず、そのため神の働きは人による拒絶、反抗、断罪に遭ってしまうのです。これは当然のことです。もし神の働きが世界と人類の断罪と反抗に遭わなければ、それは真理でないという証拠です。もし神の語られたことがすべて人の観念と合致していれば、人はそれを断罪するでしょうか。反抗するでしょうか。もちろんしないでしょう。

「兄弟の交わり」より

教会は、神によって真に予定され、選ばれた人々から成り立ちます。教会を構成するのは真理を愛し、真理を追い求め、聖霊の働きを得た人々なのです。これらの人々が集まって神の御言葉を飲み食いし、教会生活を送り、神の働きを体験し、それぞれが神の被造物としての本分を尽くした時に初めて、その場は教会でありえるのです。仮にある烏合の衆が、自分たちは本当に神を信じていると言って祈り、神の御言葉を読んでも、真理を愛さず、追い求めることもなく、聖霊の働きなしに宗教儀式を行なうならば、それは教会ではありません。より正確に言えば、聖霊の働きのない教会は教会ではありません。単なる宗教施設であり、宗教儀式を行う人々に過ぎないのです。神に真に従い、神の働きを体験する人々ではありません。

…………

…教会は神を真に信仰して真理を追い求める人々の集まりであり、そこには悪しき者は決して含まれません。そのような者は教会には属さないのです。真理を追い求めず、真理の実践になることを何もしない人々が集まっても、それは教会とは言えません。それは単なる宗教施設、もしくは烏合の衆に過ぎません。教会を構成するのは、神を真に信仰し、真理を追い求め、神の御言葉を飲み食いし、神を崇拝し、本分を尽くし、神の働きを体験し、聖霊の働きを得た人々でなければなりません。これのみが教会なのです。したがって、本当の教会であるか評価する時、まずそこにどのような人がいるかを見る必要があります。第二に、その人たちが聖霊の働きを得ているかどうかを見なければなりません。その人たちの集会に聖霊の働きがなければ、それは教会ではありません。真理を追い求める人々の集まりでなければ、教会ではありません。もし真理を真に求める人が一人もいないなら、その教会には聖霊の働きがまったくありません。もしそのような教会に真理を求める意志のある人がいて、そこに留まるとしたら、その人は救われません。その人はなるべく早くその烏合の衆を離れ、教会を探すべきです。もし、教会の中に、真理を追い求める人が3人もしくは5人いて、単なる烏合の衆が30人もしくは50人いるとしたら、神を真に信仰し、真理を追い求めているこの3人もしくは5人が集まるべきです。その人たちが集まれば、その集まりは教会なのです。信者の数が最小であっても純粋な教会です。

『いのちの入りについての説教と交わり(VII)』の「教会の働きにおける五つの原則に従って働くことが重要である」より

宗教界の指導者や牧師たちは、神の働きを経験したことも、聖霊によって完全にされて育て上げられたこともないのに、神学校を卒業して卒業証書を受け取った後、宗教界の指導者や牧師になっています。彼らは聖霊の働きと承認を受けていないだけでなく、神に関する真の認識をまったく持っておらず、神学的な知識と理論しか語ることができないのです。彼らは実際に何も経験していません。このような人たちは神に用いられる資格がまったくありません。どうして彼らが人を神の前に導けるのでしょうか。彼らは神学校卒業を自分たちの特権の根拠とし、できる限りのことをして聖書の知識を誇示しようとします。耐え難い程に傲慢なのです。このため、彼らは神に断罪され、忌み嫌われ、聖霊の働きを失っています。これは疑う余地がありません。なぜ宗教界がキリストの不倶戴天の敵となったのかはとても示唆に富む疑問です。恵みの時代にユダヤ教が主イエス・キリストを十字架に磔にしたことは何を示しているでしょうか。世の終わりにおける神の国の時代に、宗教界は団結し、全力を尽くして世の終わりにおける神の働きに反抗し、断罪してきました。世の終わりに肉となったキリストを否定し、拒絶しています。肉となった神と神の教会に対して様々なうわさを捏造し、攻撃し、中傷し、冒涜してきました。そして戻られたイエス、世の終わりのキリストを、はるか以前から十字架に磔にしてきたのです。これは、宗教界がとうの昔から、神に敵対し逆らうサタンの勢力に成り下がっていたことを証明しています。宗教界は神が支配するものではなく、まして真理が支配するものでもありません。それは堕落した人、更に言えば、反キリストによって完全に支配されています。

人はこのような宗教施設、すなわちサタンに属し、悪魔と反キリストに支配され、管理されている施設で神を信仰していても、宗教的教義を理解することしかできず、宗教儀式と規制に従うことしかできません。決して真理を理解することも、神の働きを体験することもなく、救われることなどありえません。宗教施設には聖霊の働きがまったくないからです。このような場所は神に厭われ、忌み嫌われ、断罪され、呪われます。神は宗教をお認めになったことはなく、ましてや称賛されたことなどありません。宗教界は主イエスの時代から神に断罪されてきました。それため、神を信仰するならば、聖霊の働きのある場所を探さなくてはなりません。その場所のみが真の教会であり、人は真の教会でのみ神の声を耳にすることができ、神の働きの足跡を見出だすことができます。これこそが、神を求める方法です。

「兄弟の交わり」より



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