東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

道……(7)

2019-06-24 07:04:40 | 書籍

道……(7)
わたしたちのために神が自ら新しい道を拓いたことが何度もあり、そのためわたしたちは一層堅く現実的な道を歩み続けている。このことは、わたしたち全員が自分の実践的経験から理解できる。それは、この道はこの世の初めから神がわたしたちのために拓き、何万年もの時を経て現在の世代に継承されたものだからである。したがって、わたしたちはその道を最後まで踏破しなかった先人から受け継ぎ、その最後の部分を歩むために神に選ばれた者である。ゆえに、その最後の部分は特にわたしたちのために用意されたものであり、わたしたちが恵みを受けるか、災いを受けるかにかかわらず他にその道を歩むことが出来る者はいない。これにわたしが自分の識見を付け加えるならば、他の場所へ逃げ出したり、他の道を探す計画を立てたり、地位を求めたり、自分の王国を建てたりしてはならない。そうした物事は、全て幻である。これらの言葉に何らかの偏見を抱いているならば、困惑しないようにしなさい。再検討する方が良く、利口になろうとしすぎたり、善悪を区別し損ねてはならない。神の計画が実現するとき、後悔することになるであろう。つまり、神の国が来ると、神は地上の国家を打ち砕くが、その時あなたは自分の計画も消え去っていること、罰せられたのが打ち砕かれた者であることを知るであろう。その時、神は自らの性質を完全に明らかにする。わたしはこの問題について熟知しているので、将来あなたがわたしのことで苦情を言わないように、あなたにこのことを伝える必要があると考えている。現在までわたしたちがこの道を歩むことが出来たことは神が定めたので、自分が特別だとか不幸だとか考えてはならない。打ち砕かれないように、神の現在の働きに関しては誰も断定してはならない。神の働きを通してわたしに光が来ており、何があろうと神はこの集団の人間を完全にするのであり、また神の働きは変えられることは出来ない。神はこの人たちをその道の最後まで連れて行き、地上における神の働きを完了する。これはわたしたちが皆理解すべきことである。大部分の人々は常に進取的であり、飽くことがない。彼らは皆、神が現在切望している意向に関する認識が欠如しているので、逃避願望を抱いている。彼らは手綱から解き放たれた野生の馬のように大自然の中を走り回ることを常に望んでいる。しかし、良きカナンの地に定住して人間的生活を求める者は希にしかいない。そうした人々が乳と蜜の流れる地に入ったならば、それを享受することしか考えないのではないであろうか。率直に言って、良きカナンの地の外はどこも荒野である。人々は安息の地に入った時でさえ、自らの本分を維持することが出来ない。そうした人々は単なる淫らな者ではないであろうか。その環境において神により完全にされる機会を失ったならば、それは余生を通して悔いる事となり、計り知れず遺憾に思うであろう。結局あなたは、カナンの地を見つめるだけでカナンでの生活を享受することができず、拳を堅く握って後悔で満ちたまま死んでいったモーセのようになるであろう。それを恥ずかしいことだとは思わないのだろうか。他人に嘲笑われるのを恥辱だと思わないのだろうか。他人に辱められることをいとわないのであろうか。立派になろうと努める気持ちがないのであろうか。神により完全にされる誉れある正直な人間になる覚悟がないのであろうか。本当に決断力に欠けている者なのであろうか。他の道へと進む覚悟はないが、神が定めた道を歩む覚悟もないのだろうか。敢えて天の旨にはむかうのであろうか。あなたの技能が如何に優れていたとしても、本当に天に逆らうことが出来るのだろうか。わたしはまず自分を知るのがわたしたちにとって最善であると思う。神の一言で天と地は変化するのであるから、貧相で小さな人は神の目にどのように映るであろうか。

わたし自身の経験から見ると、神に対して対抗的であればあるほど、神はその威厳ある性質をますます示し、神が「与える」罰も一層重くなる。神に従えば従うほど、神はあなたを一層愛し、守る。神の性質は拷問器具のようなものであり、従えば無事だが、従わず常に目立ちたがって悪さをするならば、神の性質は急変する。曇りの日の太陽のように、神は人から隠れて怒りを示すであろう。またそれは六月の天気のように、晴天が何里となく続き青い小波が水面に広がっているところへ突如として大きな威力で高波が立つ様子にも似ている。このような神の性質を知っていても、敢えて野放図に行動するのであろうか。聖霊が働くとき、兄弟姉妹は自信に満ちているが、神の霊は知らぬ間に兄弟姉妹を突然見捨て、不安で夜眠れずに神の霊が消えた方向を探し回るような状態へと陥れることは、殆どの兄弟姉妹が自らの経験で理解している。しかし、神の霊が何処へ行ったかはどうしても突き止められない。そして神の霊は知らぬ間に再び兄弟姉妹の前に現れるが、それはちょうどペテロが突然主イエスに再会した時に有頂天となって大いなる歓喜の叫び声を上げたときのようである。何度もそうした経験をした後も、忘れることが有り得るのだろうか。受肉して十字架に架けられた後に復活されて天に上った主イエス・キリストは、常にあなたから少しの間だけ隠れ、そしてまた少しの間だけ現れる。主はあなたの義ゆえにあなたの前に現れ、あなたの罪ゆえに怒り、あなたから去るのだから、主にもっと嘆願するべきである。ペンテコステの日以降、主イエス・キリストには地上における新たに託した働きがあることを知らないのであろうか。あなたは主イエス・キリストが受肉し、地上に来て磔刑となったことが事実であることしか知らないが、あなたがこれまで信じていたイエスはずっと以前にその働きを誰かに託したことにあなたは気付いていない。主の働きは遠い昔に完了したので、働きの別の部分を行うために主イエス・キリストの霊は肉の姿で再び地上に来たのである。ここで、ある話を差し挟む。あなたがたが現在この流れに参加している事実にもかかわらず、敢えて述べるが、あなたがたの中でこの人が主イエス・キリストによってあなたがたに授けられた人であると信じる者はほとんどいない。あなたがたは主を享受することしか知らず、神の霊が再び地上に来たことを認めず、現在の神は数千年前のイエス・キリストであることを認めない。あなたがたは全員目を閉じて歩いているとわたしが述べるのはこのためである。あなたがたはどのような状況になってもそれを受け容れるだけであり、真剣さが全くない。そのため、あなたがたは言葉でイエスを信じるが、現在神により証しをされた者をあからさまに拒否する。愚かではなかろうか。現在の神はあなたの過ちを気にかけず、あなたを咎めない。あなたがイエスを信じると言うならば、主イエス・キリストがあなたを見放しておくことが出来るだろうか。あなた、神のことをはけ口か嘘をつくための場であると考えているのではなかろうか。主イエス・キリストが再び現れる時、主はあなたの現在の行いに基づいて、あなたが義であるか邪悪であるかを判断するであろう。殆どの者がわたしの言う「わたしの兄弟姉妹」という言葉に関して結局は観念を抱いてしまうであろう。そうした者は、神が働く方法が変わるであろうと考えている。彼らはただ死を招いているのではなかろうか。神はサタンが神であると証をするであろうか。あなたは神を咎めているのではなかろうか。あなたは誰もが何気なく神として振る舞うことが出来ると考えているであろうか。本当に認識があるならば、観念を抱かないであろう。聖書にはこのような聖句がある。「万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、そのかたは、わたしたちの長である。…それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。」おそらくあなたは、この聖句はわたしよりもよく知っていて容易に暗唱することさえ出来るであろうが、その実際の意味を理解していない。目を閉じたまま神を信じているのではなかろうか。

わたしたちの世代は、従前の世代の人々が踏破しなかった道を受け継ぎ、数千年前からの神の再現、わたしたちとともにここにいて、またあらゆる物事を満たす神を目の当たりにすることが出来て、恵まれているとわたしは考える。あなたはこの道を歩むことが出来るなどとは決して考えなかったであろう。できるであろうか。この道は聖霊により直接導かれ、七倍に強められた主イエス・キリストの霊により導かれ、また現在の神によりあなたのために拓かれた道である。あなたは最も突飛な夢の中でさえも、数千年前のイエスが自分の前に再度現れるとは想像し得なかったであろう。嬉しいと感じないであろうか。神と直面出来る者は誰であろうか。わたしは、わたしたちの集団が一層大いなる恵みを神から得られるように、神に好まれ、神に得られるようにと頻繁に祈っているが、同時にわたしたちの集団のために悲しみの涙に暮れ、神がわたしたちを啓いて一層大いなる啓示を目の当たりにすることが出来るようにと願うことも無数にあった。人々が常に神を欺こうとし、決意せず、肉のことを考え、富や名声を得て注目の的となるために奮闘努力しているのを目の当たりにする時、どうしてわたしが心を深く痛めずにいられようか。人々はなぜこんなに愚かになれるのだろうか。わたしの働きは全く結実しないということなのだろうか。あなたの子が全員反抗的で不孝行で、良心のかけらもなく自分の事だけを考え、あなたの気持ちに全く共感せず、成長したあかつきにはあなたを家から追い出したとしたら、その時どう感じるであろうか。涙に暮れ、子育てのために払った大きな代償を惜しむのではなかろうか。それゆえ、わたしは神に幾度となく「神よ、あなたのお働きの中でわたしに負担があるかどうかをご存知なのはあなただけです。あなたの御旨に則していないわたしの行いがある部分の全てにおいて、あなたはわたしを鍛え、完全にし、わたしに気付かせます。あなたに対するわたしの願いは、間もなくあなたが栄光を得て、人々があなたにより得られるよう、あなたが人々をさらにお動かしになること、そしてあなたのお働きが御旨を満たし、ご計画を間もなく完了されることだけです」と祈りを捧げてきた。神は罰により人間を征服することを望まない。神は常に人間を強制することを望まない。神は、人間が神の言葉に従い、鍛錬された要領で働きを行い、これにより神の旨を満たすことを望んでいる。しかし、人間は恥知らずで、常に神に反逆する。それよりは神を満足させる最も簡明な方法を見出すこと、すなわち神の采配の全てに従うことが最善であるとわたしは考える。そして、真にこれを実現できるならば、あなたは完全にされるであろう。これは平易で楽しい事ではなかろうか。他人の言葉を気にせず、考えすぎずに、自分の歩むべき道を進みなさい。自分の将来や運命を自ら掌握しているのであろうか。常に逃げ出して世俗的な道を進みたがるのに、そこから抜け出せないのは何故だろうか。分かれ道で何年も躊躇し、結局またしてもこの道を選ぶことになるのは何故だろうか。長年彷徨い続けた後に、思わずこの家に戻っているのは何故だろうか。これは単にあなたの個人的問題だろうか。この流れにいる人々にとって、このことを信じないならば、わたしの言葉を聞くように。すなわち、離脱するつもりならば、そうすることを神が許すか否かをしばらく待って見極めよ。そして聖霊がどのようにあなたを動かすかを自分で経験するように。はっきり言えば、不幸に見舞われたとしても、この流れの中では苦難しなければならないのであり、そして苦難があるならば、その苦難を今ここで受けなければならず、他のどこへも行くことは出来ない。これが明瞭に理解できるだろうか。何処へ行くと言うのだろうか。これが神の行政命令である。神がこの人間の集団を選ぶことは無意味だと考えているのであろうか。現在の神の働きにおいて、神は容易に怒ることがないが、人々が神の計画を阻害しようとするならば、神は表情を即座に晴天を曇天へと変えることもある。ゆえに、腰を据えて神の計画に従うこと、そして神があなたを完全にすることができるようにすることを進言する。これが唯一の賢者となる方法である。

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