東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

中国における宗教迫害の実録 その4「彼女を追い詰めたのは誰か」 日本語吹き替え 完全な映画のHD2018

2019-10-26 21:18:51 | キリスト教映画

中国における宗教迫害の実録 その4「彼女を追い詰めたのは誰か」 日本語吹き替え 完全な映画のHD2018
中国共産党は1949年に中国本土において政権を握って以来、宗教信仰を止むことなく迫害し続けてきました。彼らは狂気のようになって、クリスチャンたちを逮捕、殺害し、中国で活動していた宣教師たちを国外へ追放、虐待しました。また数え切れないほどの聖書を没収、廃棄処分し、教会の建物を封鎖したり破壊したりして、全ての家の教会(家庭集会)を根絶しようとしてきました。このドキュメンタリー映画は、中国本土のキリスト教徒で、中国共産党警察によって逮捕され、神を信じ、彼女の本分を尽くすがゆえに最終的に労働収容所での自殺を招いたあらゆる非人道的拷問を受けた高玉峰の話です。中国共産党の邪悪な支配下で逮捕後の収監でキリスト教徒たちが経験した凶悪な虐待と非人道的な迫害の真実を明らかにし、中国共産党の神に対する憎悪とキリスト教徒たちの虐殺の悪魔的本質を暴露します。

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クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(5)パリサイ人が神に敵対するのは何故か


終わりの日に神が行った新しい働きに直面して、これが真理の道であるとどのように確認すればよいのか。

2019-10-25 13:34:02 | 信仰と生活

神の御言葉による答え:

神と人を同等なものとして語ることはできない。神の本質と神の働きは人にとって最も深遠で理解しがたい。神が人の世でみずから働きを行わず、言葉を話さなかったら、人は決して神の意志を理解することはできないし、全生涯を神に捧げてきた人々でさえ、神の承認を得ることはできない。神の働きがなければ、人の行いがどんなによくても無駄である。神の考えはいつも人の考えより高く、神の英知は人にとって測り知れないものだからである。そこで、神と神の働きを「見抜いた」人々は無力で、皆傲慢で無知だとわたしは言う。人は神の働きを決め付けるべきではないし、その上、人は神の働きを決め付けることはできない。神の目には人は蟻よりも小さいのに、どうして人が神の働きを推し測ることなどできようか。「神はあんな方法やこんな方法では働かない」とか「神はこのようである、あのようである」といつも言っている人々――彼らは皆高慢ではないだろうか。わたしたちは皆、肉体を持つすべての人々はサタンによって堕落させられていることを知るべきである。神に反抗するのは彼らの本性であり、彼らは神と同等ではなく、ましてや神の働きに助言することなどできない。神が人をいかに導くかは神自身の働きである。人は服従するべきであり、これこれしかじかの意見を持つべきではない。人はちり芥にすぎないのだから。わたしたちは神を見つけようとしているのであり、神が考慮するべき神の働きの上に自分たちの観念を重ね合わせるべきではないし、神の働きに故意に反対するために自分たちの堕落した性質を用いることなどもってのほかである。そのような行為はわたしたちを反キリストにさせるのではないだろうか。どうしてそのような人々が神を信じているなどと言えるだろう。わたしたちは神の存在を信じているので、神を満足させ、神を見たいと望んでいるので、真理の道を求め、神と融和するための道を探すべきである。わたしたちはかたくなに神に反抗するべきではない。そのような行動に何の益があるだろう。

今日、神には新しい働きがある。あなたはこれらの言葉を受け入れないかもしれない。あなたには奇妙な言葉に感じられるかもしれないが、わたしはあなたに本性を表さないよう忠告する。神の前で本当に義に飢えかわいている人々だけが真理を得ることができ、本当に敬虔な人々だけが神によって啓発され、導かれることができるからである。口論を通して真理を求めてもそこからは何も生じない。静かに求めることによってのみわたしたちは結果を得ることができる。わたしが「今日、神には新しい働きがある」と言う時、わたしは神が再び肉となることに言及している。おそらく、あなたはこれらの言葉を気にしないか、これらの言葉を軽蔑するか、あるいはおそらくあなたにとって極めて興味深い言葉であるかもしれない。いずれにせよ、わたしは神の出現を本当に切望するすべての人々がこの事実を直視し、慎重に考慮することを希望する。結論に飛びつかない方がよい。これが賢い人々の行動すべきやり方である。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりすべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしはあなたがたに、注意深く信仰の道を歩むよう助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたはうわべだけ神を信じたり、気楽に信じたりしてはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知があり、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだあなたはおそらく、自分の信念と聖書に沿っている言葉は1万語にひとつだと信じているだろう。あなたはその1万分の1の言葉の中で求め続けなければならない。わたしは更にあなたに助言する。謙虚であり、自身過剰にならず、思い上がらないようにと。あなたの中の神に対するわずかな畏敬の念からより大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるだろう。これらの言葉をほんの数行読んだだけで、「これは聖霊の示しのほんの一部でしかない」とか、「人々を欺く偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるだろう。そのようなことを言える人たちはあまりに無知だ。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日に偽キリストが現れることにより、神の言葉を盲目的に非難してはならない。策略を恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないのか。もし良く調べた上で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと信じるなら、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないか。あなたは神の玉座の前に戻る幸いに与ることができないということではないのか。そのことを考えてみなさい。軽はずみで衝動的な人であってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のことを考え、前途を考え、そしてあなたのいのちのことを考え、自らをいい加減に扱わないようにしなさい。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

外見は本質を決定しない。その上、神の働きが人の観念と一致したことはこれまでにない。イエスの外見は人の観念とはまったく違っていたではないか。イエスの外見と衣服はイエスの真の正体に関し何らの手がかりも与えることができなかったのではないだろうか。古代のパリサイ人がイエスに反対したのは、彼らがイエスの外見を見ただけで、イエスの語る言葉を真剣に受け止めなかったからではないだろうか。神の出現を求める兄弟姉妹には歴史の悲劇を繰り返さないで欲しい。あなたがたは、現代のパリサイ人になって神を再び十字架につけるようなことをしてはならない。あなたがたは神の再来をどのように歓迎するか慎重に考え、真理に服従する人になるにはどうしたらよいか、はっきりした考えを持つべきである。これが、イエスが雲に乗って再臨するのを待っているすべての人の責任である。わたしたちは霊的な目をこすり、非現実的な考えに満ちた言葉の餌食になってはならない。わたしたちは神が現実に行なう働きについて考え、神の実際的な面を見るべきである。イエスをまったく知らず、見たこともなく、イエスの意志をどう理解したらよいかわからないあなたがたを引き受けるために、主イエスが突然雲に乗ってあなたがたのもとに降りて来る日をひたすら楽しみにしながら、調子に乗ったり、空想にふけって自分を見失ったりしてはいけない。現実的な事柄を考えているほうがよい。

あなたは研究のため、あるいは受け入れるつもりでこの本を開いたのかもしれない。あなたの態度がどうであれ、わたしはあなたがこの本を最後まで読み、簡単に脇に押しやってしまわないことを希望する。おそらく、これらの言葉を読んだ後、あなたの態度は変わるだろうが、それはあなたがどのくらい積極的か、どのくらい容易に物事を受け止めるかにかかっている。しかし、あなたが知っておくべきことが一つある。神の言葉は人の言葉として語ることはできないし、ましてや人の言葉は神の言葉としては語ることはできない。神に使われる人間は受肉した神ではなく、受肉した神は神に使われる人間ではない。ここに実質的な違いがある。これらの言葉を読んだ後、あなたはこれらが神の言葉であることを受け入れず、ただ啓示を受けた人の言葉として受け入れるかもしれない。そうだとすれば、あなたは無知ゆえに目が見えなくなっているのだ。どうして神の言葉が啓示を受けた人間の言葉と同じでありえようか。人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。神によって語られた言葉を単に聖霊による啓示と見なし、使徒や預言者の言葉を神自らが語る言葉として受け取るならば、それは間違っている。とにかく、あなたは決して正しいものを誤りとするべきではないし、高いものを低いものとして話すべきではないし、深いものを浅いものとして話すべきではない。とにかく、あなたは真理であると知っていることを決して故意に論駁するべきではない。神の存在を信じる人はすべてこの問題を正しい観点から考えるべきであり、神の新しい働きと言葉を神の創造物として受け入れるべきである――さもないと神に排除されるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

神が形式や国の制約を受けずに現れる目的は、神が自分の計画どおりに働きを完成できるようにするためにである。たとえば、神がユダヤの地で肉となったとき、その目的は十字架の働きを完成させ、人類をあがなうためだった。しかし、ユダヤ人は神にそのようなことができるわけがないと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとって現れることなどありえないと考えたのである。この「ありえない」という思いが、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対してしまう原因となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日も、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れるかもしれないと当てもなく言いながらも、神の現れを罪に定める。その「ありえない」という思いが再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めてしまっているのである。わたしは、神の言葉に出会って、それを一笑に付した人々を数多く見てきた。このような態度は、神を罪に定め、冒涜したユダヤ人と何ら変わりがないではないか。真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか。神が現れるところでは、真理の現れと神の声がある。真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。まずは、自分の観念を脇に置きなさい。立ち止まって、次の言葉をよく読みなさい。あなたが真理を慕い求めるなら、神はあなたの知性を明るくし、神の心と言葉を理解できるようにしてくれる。「ありえない」という思いを脇に置いておきなさい。人が不可能だと思えば思うほど、実際に可能になる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の思いや観念をはるかに超越するものだからである。不可能であればあるほど、そこには探し求めるべき真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心が詰まっている。どこで自分を現そうとも、神は神だからである。神の本質が現れる場所や方法で変わることはない。神の性質は、神の足跡がある場所によらず、いつも同じである。神の足跡がどこにあろうとも、神は全人類の神である。たとえば、主イエスはイスラエル人の神というだけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカの人々の神でもある。さらに言えば、全宇宙で唯一無二の神である。だから、神の語る言葉から神の心を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは共存する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。兄弟姉妹たちよ。ここに記した言葉に神の現れを見てとってほしい。そして、新しい時代に向かって神の足跡をたどってゆき、神の現れを待ち望む人々に用意された新天新地にたどりついてほしいのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より

 

キリスト教混声合唱『神の国の讃歌―神の国がこの世に降臨する』完全版予告編

2019-10-24 18:28:01 | 合唱団動画シリーズ

キリスト教混声合唱『神の国の讃歌―神の国がこの世に降臨する』完全版予告編
心震わせる神の国の賛歌が鳴り響き、神が人のあいだに降臨したことを全宇宙に告げました。神の国が到来したのです。すべての民が歓声をあげ、万物が歓喜します。天の至るところに喜びが満ちています。こうした魅力的な歓喜の光景はどのようなものでしょう。
苦痛の中に生き、サタンによる数千年の堕落を耐えてきた人間の中に、神の到来を待ち望まない者、切望しない者はいるでしょうか。各時代における神の信者や追随者のうち、サタンの影響の下、苦痛や患難、迫害、疎外に苦しんだ人はどれだけいたでしょうか。神の国が今すぐ到来することを待ち望まない人がいるでしょうか。人間の喜びと悲しみを味わった人の中に、真理と義が人類のあいだで権力を握ることを望まない人がいるでしょうか。
神の国が到来するとき、万国万民の待ち望んでいた日がようやく訪れます。そのとき、天地の万物のあいだでどのような光景が繰り広げられるでしょうか。神の国の生活はどれほど美しいものでしょうか。『神の国の讃歌―神の国がこの世に降臨する』とともに、千年の祈りが成就するのです。

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手の中に握る音楽ーー神の国の新しい歌APP

2019-10-23 21:11:53 | ゴスペル音楽

【手の中に握る音楽ーー神の国の新しい歌APP】

数百曲のいろいろなスタイルの讃美歌を聞くことができ、自分に属する音楽アルバムも制作することができ、音楽の中で私たちは神様との関係が近くなります。毎日一曲を聞き、知らないうちにあなたは、なんと神様はずっと私たちのそばにおられ、いつでもどこでも私たちのいのちの供給となり、私たちのすべての困難を解決してくださることを発見することができます。手の中に握る讃美歌は、あなたと気楽に毎日を過ごします。この神の国の新しい歌APPを無料でダウンロードして、いつでもどこでも美しい讃美歌を聞き、神様の愛の暖かさを感じましょう。

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朗読 神の言葉 「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「十四番目の言葉」

 

全能神教会の基本的信条

2019-10-22 09:17:00 | 書籍

(1) 全能神教会の教義

キリスト教の教義は聖書が起源であり、全能神教会の教義は創造の時以来、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代に神が述べてきたすべての真理が起源である。すなわち、旧約聖書、新約聖書、そして終わりの日の戻ってきた主イエス、全能神によって発せられた、『言葉は肉において現れる』という神の国の時代の聖書は全能神教会の基本的信条であり、教義である。旧約聖書は律法と戒めを定め、律法の時代の人の生活を導くヤーウェ神の働きを記録している。新約聖書は恵みの時代に主イエスが実行した救いの働きを記録している。『言葉は肉において現れる』は神の国の時代に全能神が述べた人類の清めと救いに関するすべての真理であり、終わりの日の神による裁きの働きの実録でもある。本当の聖書は、3段階の働きの間に神が語ったことのすべてであり、全能神教会の基本的信条は、3段階の働きの間に神が語ったことのすべて、すなわち、これらの3段階の働きの間に神が述べたすべての真理である。これらの三つの聖書は、全能神教会の基本的信条であり教義である。

キリスト教は恵みの時代に主イエスの働きから生まれたが、キリスト教が信じる主イエス・キリストは恵みの時代に贖いの働きをしただけであった。肉となった主イエスは十字架につけられ、人の罪祭となり、人をサタンの手から解放し、律法の罪定めや呪いから解き放ったので、人は神の前に出て罪を告白し悔い改めて、罪が赦され、神が与えられる祝福と恩恵を享受することができる。これが主イエスの実行した贖いの働きであった。人の罪は主イエスの贖いによって赦されたが、人は罪深い性質を消し去ることはなく、相変わらずその性質に束縛され、支配されており、傲慢でうぬぼれが強く、名声と利益を得ようと努力し、嫉妬深く論争好きで、人々に嘘をつき、だまし、世界の邪悪な傾向に従うなどの態度を続けて罪を犯し、神に抵抗せずにはいられない。人は罪の束縛から解き放たれることはなく、聖なる者にはならなかったので、主イエスは終わりの日の裁きの働きを実行するために再びやって来ると何回も予言し、次のように語った。「見よ、わたしはすぐに来る。」(黙示録22:12)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネ12:47-48)ペテロの第一の手紙でもこう書かれている。「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロI4:17)終わりの日のキリスト、全能神は戻ってきた主イエスである。全能神は人の清めと救いのためにすべての真理を述べ、神の家から始まる裁きの働きを実行し、聖書の予言を十分に成就してきた。全能神によって述べられた『言葉は肉において現れる』はヨハネの黙示録に予言されている「御霊が諸教会に言うこと」(黙示録2:7)のことであり、終わりの日の神の裁きの働きの実録である。全能神が行う裁きの働きは、人類を救う神の働きの最終段階であり、もっとも基本的で極めて重要な段階でもある。人が神によって救われ、天国に入ることを望むなら、神の裁きの働きを受け入れなければならず、そこで主イエスの次の言葉が成就されることになる。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイ25:6)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(黙示録3:20)神の言葉の裁きと刑罰を受け入れ、経験して初めて人は神の聖さと義なる性質を知ることができ、サタンによる人の堕落の実体と本質、本当の事実を知ることができ、神の前で心から悔い改め、すべての罪から抜け出し、清められ、神に従い、神を崇拝する人になり、神に得られることができる。そうして初めて、人は神の約束と恩恵を受け継ぎ、美しい終着点を手に入れる資格が与えられる。

全能神教会の教義は神が働きの3段階で述べた真理のすべてが起源である。つまり、聖書に記録されている神の言葉と『言葉は肉において現れる』が起源である。神は世界を創造した後、人類を救う働きを始めたが、人類経営計画は終わりの日に神の家から始まる裁きの働きが終了するまでは完成しない。働きの3段階で神が述べた言葉とすべての真理から、私たちはそれが律法の時代に最初人を使って行われた神の働きなのか、それとも恵みの時代と神の国の時代に、神が二度肉となった時の働きなのか、すべては一つの霊による真理の語りかけと表現なのである。実質上、語り、働くのは一人の神である。したがって、全能神教会の教義は聖書と『言葉は肉において現れる』 が起源である。

(2) 『言葉は肉において現れる』について

『言葉は肉において現れる』は全能神、終わりの日のキリストの直接的語りかけであり、終わりの日の裁きの働きの時に人を清め、救うために述べた真理のすべてである。これらの真理は聖霊の直接的表現、神のいのちと本質の現れであり、神の性質を表現し、神が何を持っているか、神が何であるかを表現するものである。人が神を知り、清められ、救われるための唯一の道である。全能神が述べる言葉は人の行動や行為の最大の原則であり、人の人生にとってこれ以上の格言はない。

全能神教会の信徒は、キリスト教のキリスト教徒が聖書を読むように、『言葉は肉において現れる』の中の神の言葉を毎日読む。すべてのキリスト教徒は神の言葉を人生の指針として、人生のすべての格言の中で最高のものとして受け取っている。恵みの時代に、キリスト教徒はすべて聖書を読み、聖書の説教に耳を傾けていた。人々の態度に次第に変化が生じて、彼らが犯す罪はだんだん減ってきた。同様に、全能神の言葉を読むことと神の言葉を交わることによって全能神教会の信徒も次第に真理を理解するようになり、罪の束縛から解き放たれ、もはや罪を犯さず、神に抵抗せず、神と融和できるようになる。神の言葉を読むことによってのみ、人は清められ、変化させられ、本当の人の姿で生き抜くことができることは事実で証明されている。これらの事実は誰も否定できない。聖書に記録されている神の言葉は律法の時代と恵みの時代に神が働く時に述べられ、一方『言葉は肉において現れる』は終わりの日の働きの時の神が述べた言葉である。どちらも起源は聖霊からである。全能神の言葉と働きは完全に聖書の予言を実現し、全能神は戻ってきた主イエスであるのは主イエスの次の言葉の通りである。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネ16:12-13)ヨハネの黙示録にも次のように予言されている。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(黙示録2:7)「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。…見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。(黙示録2:1、5)

今日、私たちは皆一つの事実を見ている。すなわち、全能神が述べるすべての言葉は真理であり、権威と力を持っている――それらは神の声である。誰もこのことを否定したり、変えたりすることはできない。『言葉は肉において現れる』は検索し、調べるためにすべての国や地域の人々がインターネットで自由に手に入れることができる。それらが神の言葉であること、真理であることを敢えて否定する人は誰もいない。神の言葉は人類全体を前方に追いやっていて、人々は神の言葉の中で次第に目を覚まし始め、次第に真理を受け入れ、真理を知る方向に進んでいる。神の国の時代は全能神の言葉が地上を支配する時代である。神の言葉の一語一語が成就され、果たされるだろう。今日神を信じるすべての人が聖書を認めているように、神を信じる人々は近い将来『言葉は肉において現れる』は終わりの日の神の語りかけであることを認めるだろう。今日、『言葉は肉において現れる』は全能神教会の信条の基礎であるが、次の時代には必ず人類全体の存在の基礎になるだろう。

(3) 神の名前と神の3段階の働きについて

サタンによる堕落の後、人はサタンの支配下で暮らし、堕落はますます深まっていった。人は自分自身を救うことができず、神の救いを必要としている。堕落した人類の必要性に応じて、神は律法の時代、恵みの時代、神の国の時代に3段階の働きを行ってきた。律法の時代には、神は律法と戒めを定め、人の生活を導く働きを行った。恵みの時代には、神は肉となり、律法の時代の働きを基礎に十字架につけられ、人を罪から贖い出した。神の国の時代には、神はもう一度肉となり、恵みの時代の贖いの働きを基礎に神の家から始まる裁きの働きを実行し、人の清めと救いのためのすべての真理を述べ、清めと救いのための唯一の道を私たちにもたらす。私たちが真理の本質を自分たちのいのちとして受け入れ、神に従い、神を礼拝して初めて、私たちは神の御国に導かれ、神の約束と恩恵を受ける資格が与えられる。神が人を救う3段階の働きは互いに密接に関係しており、各段階は絶対に必要で、それぞれは前の段階よりも高く、深くなり、すべては一人の神の働きであり、神の3段階の働きだけが人類を救う完全な働きである。

3つの名前――ヤーウェ、イエス、全能神――は神が律法の時代、恵みの時代、神の国の時代に使った異なる名前である。神が異なる名前を使うのは、時代によって働きが異なるからである。神は新しい時代を始め、その時代の働きを表わすために新しい名前を使う。神の名前は律法の時代はヤーウェ、恵みの時代はイエスであった。神の国の時代は新しい名前――全能神――を使い、ヨハネの黙示録の予言を実現する。「フィラデルフィアにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。…勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」(黙示録3:7、12)「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルファであり、オメガである』。」(黙示録1:8)3つの時代の神の名前と働きは異なるが、実質上神は一人だけで、根源は同じである。

人を救う神の働きには主として3段階の働きが含まれる。神は各時代で異なる名前を用いているが、神の本質は決して変わらない。3段階の働きは一人の神によって行われる。したがって、ヤーウェ、イエス、全能神は同じ一人の神である。イエスはヤーウェの現れであり、全能神は戻ってきた主イエスなので、全能神は天と地とすべてのものを創造し、すべてのことを統治し、あらゆることに支配権を持つ一人の本当の神であり、永遠に続く唯一無二の創造主である。

人を救う3段階の働きで、神は人にその全性質を明らかにし、私たちに、神の性質は慈しみと愛だけではなく、義、威厳、激しい怒りでもあること、神の本質は聖さと義であり、真理と愛であること、どんな被造物も被造物でない存在も、こうした神の性質および神の権威と力を所有できないことをわからせる。私たちは、神が創造の時から世界の終わりまでに語るすべての言葉は真理であることを信じる。天と地は消え去っても、神の言葉は決して消滅せず、どの言葉も成就されるだろう。