いわゆる願望達成、とはちょっと違うかもしれませんが、「我が子を含む世代の世の中が明るくなりますように」と願い、そのためにはどうしたらいいのかを探してきました。
イメージトレーニングのセミナーを受けて、見えない存在や神様を感じるようになり、言葉が来るようになりました。
これは誰でもそういう仕組みになっているのではないかと思います。
今までの体験や学び、気づきなどから私なりに少しずつ理解したことを過去の記事の中で説明させていただいておりますので、ご興味があったらご覧くださいね。
(https://note.com/cosmos_hana2022『光の一滴』1~5)
私が受け取る言葉の中で、あまり期日というのはありません。
とてもあいまいな言葉ばかりで、『もうすぐ』と言っても数年かかることだって何度もありました。
それともう一つ、とても印象深かったのは、『誰にでも開かれている』ということです。「選民思想」というのがありますが、私が受け取ったイメージや言葉ではむしろその逆でした。
誰でも汲んでいい泉がある。『でも、めったと汲みに来ぬ。』ということらしいのです。面白いですね。
その話をあるお寺のご住職様にお話ししたら、「密教の奥義みたいやな」と言われました。
また別の時にイメージで見たのは、人気のない通路の脇につい立てがあって、その裏に重箱がそっと置いてありました。箱に鍵はかかっていません。
何となくその通路に行き、そのつい立に気づき、つい立ての裏をたまたま覗いた人だけがその重箱に気づくのです。
そして、それを開けてみようと思うかどうか。
見つけても開けない人もいるでしょう。
私も開けないかもしれません。
またその中身が邪悪な場合もあるでしょう。
何となく迷い込んでしまい、邪悪なものの封印を解いてしまうような物語がありますよね。物語の展開は、その箱の中身が何なのかによりますね。
では、宝物の箱か邪悪な箱か、どちらにたどりつくのかというのが大問題ですね。どちらの場合も「何となく」そこに行き着くというのがポイントです。ここが選民思想と逆である理由、結局は自分が選んでいるということです。そしてその選択は自分の内側の現れです。
近頃は「門をくぐる」という表現が度々出てきます。
その門は扉も無く、ただそこにあるだけ。許可も必要ありません。
いつ頃という期日もなく、ただ「門をくぐれ」と。
その意味がようやくわかりました!
ちょっと図にしてみました。つたなくてすみません・・・
ようやくわかりました!
門をくぐるためには、門のある所まで行かなければなりません。
門のある所まで来た者には、すでに通る資格があるということなのです。
なぜなら門にたどり着くまでにすでに試練はくぐり抜けているからです。
途中、いろんな誘惑や分かれ道、困難があります。
進んだものの、行き止まりなこともあるかもしれません。
いろんなものに気を取られ、何となく選んだ道があっているのかどうか、不安になったりもします。
その「何となくこっち」という選択が、何につながっていくのか。
なぜ何となくそっちを選んだのか。
それでも昔の旅人が北極星を目印に目的地を目指したがごとく、その門を目指して行くしかありません。その指針が『良心』や『智慧』や『お導き』といったものではないかと思うのです。
そうした方々が進んで行く道が、宝物へと続いているのではないかと思います。門をくぐるということ自体、比喩なのですが、分かれ道を進むということも、試しを突破したということを表しています。
さっきの図をもう一度見てください。
『良心』『智慧』『お導き』といったものを内に持つ方々は、きっと胸に明かりを灯している方々です。また何かのご縁で明かりが灯ったりします。
そうした方々の連なる道は光の道しるべとなり、次第に大きな流れになっていくそうです!
自分の中にも明かりを灯せば、自ずと合流できるはずです!
そしてまた自分も光の道しるべの一員になれるのです!
いろんな所で、いろんな方々が明かりを灯そうとしてくださっています。
私ももらい火し、分け合って合流し、門を目指しています。
消えそうになってもまた燃料を継ぎ足して、灯し続けていきたいです。
いろんな方々やいろんなものに、いつも燃料をいただいています。
生かされていると実感する時です。ありがとうございます。
そしていつ門に到着するかは自分次第です。
だから期日はありません。
もしかしたら、過去世も含めて歩き続けているのかもしれませんね。
そしたら人と競うのも何だか違う気がして。
ただ一歩一歩、光を目指して歩いていきたいです。
できれば今生、門をくぐってみたいです。