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櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

断片12/25(本のこと:『責任という虚構』)

2018-12-25 | アート・音楽・その他

「責任の正体に迫るためには、自由に関する我々の常識をまず改めなければならない」という一言は、『責任という虚構』という書物からで、今年とりわけ興味深く読めたひとつが、この本だった。ホロコースト再考、服従の原因、集団が支える自己、普通の人間、死刑と責任転嫁、死刑を支える分業体制、刑罰の根拠、正しさの源泉、責任の正体、信頼の構造、正義という地獄、、、。これらすべて目次からの一部だが、僕はこの目次をみて興味がわいたのだった。犯罪について、刑罰について、悪について、さらには自由について、、、。読み進めながら、一種の思考実験のような面白さが出てくるのだった。「人間は外界の影響を強く受けながら、そしてたいていは明確な意識なしに行動する。意志に従って行動を選び取るのではなく、行動に応じて意識が後になって形成される」という言葉もあって、これには共感を持った。写真はその表紙。いま生きている時代に根を張っている常識について再考したくなっていった本でもあった。そしてこの本の範囲ではないかもしれないが「常識」というコトバそのものについても考えてみたいという気持になっていった。










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【櫻井郁也・活動】
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ジョージア・オキーフ、良寛、あるいは

2018-12-20 | アート・音楽・その他
古いノートの一文に目がとまった。
過去に掲載したかもしれないが、もういちど、、、。

ジョージア・オキーフの絵を見つめている。
白い。
骨の絵だ。

彼女はしばしば骨を描く。
骨盤の向こうに青空が広がっているものもある。

いま見つめていた絵には、
雄牛の骸骨と白い薔薇の花が画面一杯に描かれている。
背景もまた白い。

骨には中央に微かな裂け目が走っていて、
背景の白にも丁度真ん中あたりに、うねるような裂け目があり、
その向こう側には奥深い黒色が広がっている。

生命も死もそこには充満しているが、物音はなく、
あらゆるものが、柔らかなフォルムとして、
ただただそこにある。

見つめている私は、
むしろ何かに見つめられてあることに、気付く。

ふと、良寛の歌を思い出す。

「形見とて何か残さん春は花
 夏ほととぎす秋はもみじ葉」



無数の色が奏でられているような、、、。
そんな気がするが、同時に、
その無数の色がどこまでも果てしなく白くうすらいでゆくような幻想も、
僕には浮かんでしまう。

形見とて、、、。




写真は新作ソロのための稽古から。



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アラン・ロブ・グリエの、、、

2018-12-17 | アート・音楽・その他

まっ赤な目隠しの少女がこちらに向けて射撃する。撃たれてみたい人もいるかも、なんて、、、。
こういうのちょっと好きだ。小説家のアラン・ロブ・グリエ(『嫉妬』『消しゴム』など)が監督した映画がたしか6本だったか、いま観れる。最初に書いたのは、このトレイラーの1カット。

亡くなって10年ほどか、この人の映画をいまスクリーンで観れるのは、たぶんラッキーだと思う。と言っても、僕がこの人の関わった映画で観たことがあるのは2本だけだ。
ひとつは脚本を書いた「去年マリエンバートで」監督はレネ。ご存知の名作。映画館で観てすぐに大学でも観せられ、助監督のバイトをしてた頃に先輩から何回か忘れたが、、、。しかしそのたび興奮したのはオルガン音楽だの硬質な画だのよりも何よりも、出ている女の人がえらくカッコ良かったからに他ならない。

もうひとつは「囚われの美女」。こちらは、もっと溜め息が出た。
グリエの監督作で、今回も観れる。スクリーンで一度だけ観たのが20年ちかく前、それ以来の公開かもしれない。一度しか観てないがこの「囚われの美女」は、観たまんま、頭の内部にファイリングされている。
主役の女の人がバイクに乗って疾走している。全身、革。金髪だ。またしても美貌。バイクは濡れたように光っている。エロチックな機械に人形が乗って高速で突っ走っている。あちこちに散乱する美貌が頭痛や目眩のもとになる感じもあった。



検索すれば出てくるように、一応ドラマだし、いちおうサスペンスみたいな話の筋があるが、何も辻褄なんか合わない。意味も追えない。似たものがあるとすれば、たぶん夢、あるいは迷路だ。目に見えるいろんなものごとや出来事に関連をつけようとすればするほど、ナンセンスになってゆく。状況を理解しようとするうちに時間がどんどん経ってしまう、ということは、これは限りなく現実に近いのかもしれない、なんて、、、。
デューク・エリントンの音楽や、ルネ・マグリットの絵が引用されている。彷徨うことが好きなら、おススメ。ほかは全部初公開とのこと、『快楽の漸進的横滑り』は楽しみ。→トレイラー

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グリューネヴァルトの祭壇画のこと

2018-11-27 | アート・音楽・その他

永久に音にならないほど低い重低音が、その絵の内部に、どよめいている、、、。
グリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画のことだ。
9月末に「白鳥」を踊ったあとなぜか、この絵を初めて目の当たりにした時の体験を思い出した。
そのまま、今に至る。



京都でのポストパフォーマンストーク(11/4)でも、グリューネヴァルトの名がちらりと出た。
かつて、藤井健仁が僕の舞台のために彫刻化してくれたという話題だった。
当日上演したばかりのダンスに直接結びつけることは出来なかったから、その場で深く話すことはなかった。
しかし、なんとなく気になって東京に帰ってきてから古い写真を取り出して眺めている。

グリューネヴァルトといえばユイスマンスの小説『彼方』の冒頭で書かれる磔刑図のことを思い出す方が多いかもしれない。
「あらゆるキリストのなかでもっとも人間的なキリストだ」と書かれたそれは、
カールスルーエ美術館の《タウバービショフスハイム祭壇画》のことかと思う。

ユイスマンスはエッセイ『三つの教会と三人のプリミティフ画家』において
「カールスルーエより、おそろしさは少ない。だが、人間的にはもっと卑しめられ、もっと死んでいる」と書いたものがある。
それが同じグリューネヴァルト磔刑図でも、この《イーゼンハイム祭壇画》である。
僕が旅先で観たのはコルマールのウンターリンデン美術館でだった。
美術館と言っても、ほとんどこの絵のためにあるような場所で、町の古い教会をそのまま使用している。

祭壇画は何枚かの構成になっているが、最初に目に入ってくるのが表中央の巨大な「磔刑図」だ。
それは傷つき絶命寸前のキリストが悪趣味なくらい緻密に描写されており、青黒い色彩がまた特別な生々しさを感じさせる。
対してそのワキの人物は奇妙に静物的で感情も時間も停止しているようにさえ見える。
奇妙なバランス感覚だと思う。

観る人間の内臓に食い込むような異様な絵で、描くことの狂おしさ、というか、
画家に宿るのであろう鬼力が画面をはみ出して眼に刺さる。
そのうえ非常に大きい。

永久に音にならないほど低い重低音が、その絵の内部に、どよめいている。そう感じた。
恐ろしさと美しさの渾然一体に圧倒されて足がもつれた。
この絵から、僕は何かしら価値観が変わった気がしている。

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【ダンス公演情報】 櫻井郁也ダンス新作公演=2019年4月6〜7日:東京、中野・plan-B

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アルヴァ・アアルト展(葉山)で

2018-11-19 | アート・音楽・その他


葉山の海辺にある神奈川近代美術館で
「アルヴァ・アアルト‐もうひとつの自然」展を観た。



建築の展覧会は生活との重なりが多いし、身体的な感覚で楽しめるから、やっぱり面白い。
有機的なデザインがほどこされたアアルトのものは建物も家具も、あたたかみがあって、それでいて透明感を感じる。
あこがれてしまうようなコンサートホールもあれば図書館もある。
図面や模型で眺めながらあれこれ想像する。







すばらしい建築の数々はもちろん、3本足のスツール60など、、、
使ったおぼえがあるものを発見するとちょっとうれしかったりする。
イッタラのグラスや花瓶など、お家にある方もたくさんかと思う。
それらの製造過程も紹介されている。
パイミオサナトリウム(1933)の部屋が実物大で再現されていて、これは必見と思った。
葉山は25日までだが来春に東京にも巡回するから、もう一度行こうと思っている。






観たもの、聴いたもの

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「CODA」と「GGG」(坂本龍一さんの、、、)

2018-11-11 | アート・音楽・その他
ピアノの音はゆっくり消えてゆく、減衰する響きだ。(踊りも、やはり消えてゆく)
坂本龍一さんを撮った記録映画「CODA」がテレビ放送されたのを観て感銘を受けた。
そして「GGG」という演奏会で聴いた、坂本氏のピアノ演奏を思い返していた。
あれは冬だったから、もう一年近くたつ。
あれはグレン・グールドを偲んで開かれた演奏会で青山の草月ホールだった。
トリスターノの斬新な演奏には息をのんだし、アルヴァ・ノートの構築した音響世界は焼き付いている。
しかし、坂本龍一氏が弾くピアノの音は、まったく別の時間を生み出して優しく響いた。
とりわけ、バッハのコラール前奏曲は素晴らしく、それは記録映画「CODA」のなかにも少し出てきた。
とても有名な ”Ich ruf' zu dir, Herr Jesu Christ” だった。
(今まで何度も踊ったが何度踊っても辿り着けない深い淵を感じてきた)
演奏会でも録音でも沢山の演奏を聴いた。
あの日の草月ホールで坂本氏が演奏したそれは、いままで聴いたことがないような説得力のある演奏だった。
心がそのまま鳴っているみたいだった。
わずか数分のなかに、つらかったことも、うれしかったことも、溶かされて消えて、心臓だけがただただ脈打っているような感覚になった。
映画の中で、これと同じ曲を少し演奏して、昔の人は一音一音を祈りながら書いた、と、氏は説明された。
そして、この曲から出発された新しい音楽が、映画の中で紹介されてゆくその経過には特別な感銘を受けた。
演奏会を思い出しつつ、また映画の映像を見つつ、ふと、時の流れを意識してしまうのだった。
時が流れて、消えてゆくものがあり、忘れられてゆくものがあり、新しい何かが訪れ、胎動がはじまり、また時が流れ、、、。
そのようなことを、坂本氏の音楽から深く思うのだった。

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断片(フンデルトヴァッサーの一言)

2018-10-30 | アート・音楽・その他





ウィーン郊外にある、画家のフンデルトヴァッサーによる集合住宅を訪れたときに、気付けばかなり長くその場に立っていた、
あの感覚はいまだに言葉にならないのですが、
何かびびっと感じた、その感覚をときどき思い出すのだけれど、
その人が書いた文を最近になって一つ知ることができ、
とても興味をもちました。

「自分の足が美術館の階段を登るときに描く線は、
 その中に陳列してある絵の線よりも重要なものだ、
 とわたしは敢えていいたい。
 その線はけっして直線でもなく、混乱した線でもない。
 それは微細な点まで存在理由をもっている」

瀧口修造全集から見つけたのですが、妙に合点がゆく一言でした。
これを書いたのがフンデルトヴァッサーだと知らなければ、
ダンスする人の言葉のように思えてしまうかもしれないと思いました。

舞台が迫ってくるなかで練習をしていると、どうしても自分の言葉に囲まれていくのですが、
それとバランスをとろうと欲求がはしるのか、
こういう時に限って色んな他者の言葉をおもいだして、
おもいだす言葉ことばにハッとしてしまうことがあります。





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断片:ひとつの絵(藤島武二の、マーク・ロスコの、、、)

2018-10-15 | アート・音楽・その他
観音崎のそばにある横須賀美術館に寄った。
少し前に載せた海の写真も、そのまた数日前の夕景の写真も、そこでとった。
これほど海に接近した美術館は少ないかもしれない。
海を見て、美術を見て、また海を見て、という時を過ごすことができる。

だけど、ひとつの絵を見つめていると、海のことなど忘れてしまうときもある。
海よりも広い何かを、ときに美術はこの世につくる。

藤島武二の「夢想」という絵も、僕にとってはそのようなひとつで、この館が所蔵している。
あまりにも有名な絵だけれど、実物をみるのははじめてだった。
ここに来た目当ては企画展だったのに、この一点で、何かが変わってしまった。

企画展は素晴らしく、現代美術の軌跡をあらためて堪能できた。
何よりもイヴ・クラインの作品に再会することができたし、ダリにもあらためて舌を巻いた。
風倉匠がピアノを叩き壊すパフォーマンス映像も見ることができた。
この続々と展示される巨大な作品の次々にはなつエネルギーがつよくつよくて、
それらから押し寄せる過剰な体験が心をかき乱していた。
めまいと言うか、ある種のカタルシスのようなものもあった。

そして、マーク・ロスコを見つめた。
誰かにさらわれてしまうような感覚とも言えるだろうか。
地鳴りよりも低い、もはや音にならぬほど低い音が、ロスコの絵の中にはあると思う。
なにかが皮膚を震わせてくるような感覚をおぼえたりもする。
絵の前にいて、ふと、この世ではない遠いところに落下しそうな気分になる。
くらくらとしながら、しかし見惚れて棒立ちしていた。
そのとき、見つめているのに見つめられている、という奇妙な、しかし満たされてゆくような感慨を覚えた。

ロスコの絵が見られるときくたび、見に行っていたが、そのたびに体験がちがっている。
ひとつの絵は不動なのだから、わたくし、というものが変化してゆくのを、この人の絵は反射してくるのだろうか。
見つめているのに見つめられている、、、。
そのような、はたらき、というのだろうか、のなかにあって、呼吸や心音までもが意識されてゆくようでもあった。
ひとつの作品の前にいるその時間が、もしかしたら二度とないのでは、と、大切に思えた。

しばらくぼんやりと休んで、所蔵展のエリアに足をはこんだとき、
こんどは藤島武二の絵に、思いがけない強烈さで、眼を奪われた。
突然そこだけが静寂な一点があって、なんだこれは、と思った。
それは、画集や美術本では馴染みに馴染んだ絵なのに、実物はまるで別のものだったのだ。
絵はやはり物質として自立しているものなのだろう。
初めてこの絵を感じ得たと言ったほうが正確かもしれない。
女性の顔を描いているのだけれど、異様な吸引力を感じるのはなぜか。
女性の顔というモチーフを描きながら、その像をつらぬき破ってしまうような、それの背後を、あるいは、何かまだ形にならぬ未出現の存在を、画家は描いてしまったのだろうか。
もしかすると、空も海も無い広大な場所が、にんげんの中には広がってあるのではないか、
と僕は思っているのだけれど、この絵はそのような妄想にもさわるのだった。


写真は同館配布の印刷物より。


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断片:「内藤礼ー明るい地上には あなたの姿が見える」展にて

2018-09-11 | アート・音楽・その他
子どもの頃から、大きな声、はっきりした言葉、といったものが全てでないように思ってきた。
ことさら何かを語らずとも言葉は言葉としてひそかに生きているものだし、
笑うことも悲しむことも、誰にもわかるような表情よりも、
ほんとうのうれしさかなしさは、ごく静かな表情のなかにあって、
本人さえ気がつかないほどにささやかで、
それは心の奥の非常に遠いところにこそ沸々としているのではないか、
と思うこともあった。
そのような気持を、この展示のなかで、ふたたび思い直していた。
すこしまえに、内藤礼氏の展覧会に行った、そのときのことだった。



会場の水戸芸術館には、国内有数の素晴らしいコンサートホールや劇場があるし、過去にワークショップをさせていただいたこともあり、他県の施設のなかでは何回も行った親しみあるところだった。この展覧会が開かれている現代美術ギャラリーも、やはりよく覚えていたが、今回は、はじめて訪れたような気持になった。

展覧会そのものが作品ということだと感じた。
それは考えとしては当然のことかもしれないが、その考えが理解できるのと皮膚感覚として感じるのでは、ちがう。

具体的にあれこれ書くと良くないから書かないが、なにかを「見せ」るというより、そこにあるすべてを「感じる」ことができる空間だった。
感じとるほどに、たくさんの感覚が動きはじめるようだった。

展示されているものもその位置もデリケートで、そこを訪れる私たち自身もデリケートにならざるを得ない。
知覚がふだんよりすこし敏感になってゆくのが、わかる。
そして、大切にしていることをたしかめることができる。

実に気持良かった。




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Stage
櫻井郁也ダンスソロ新作公演『白鳥』9/29.Sat.~30. Sun. 2018
Sakurai Ikuya dance solo "SWAN"
29th and 30th Sept.2018 at plan-B Tokyo


↑website is availablenow ↑作品サイトにてチケット申込み受付中↑





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断片8/19:ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ ”アディオス”

2018-08-19 | アート・音楽・その他
大切な感動をもらった。そしてキューバ音楽に尊敬を抱いた。
あのブエナビスタソシアルクラブの現在を追ったドキュメンタリー映画のことだ。
過日キーファーの「革命の女たち」についてすこし書いたけれど、こちらもやはり革命にかかわるものだ。

ルーシー・ウォーカーという映画監督のことを僕は何も知らないまま観たが、大変な説得力だと思った。ヴェンダースが撮った名作の続編、という言い方は、ちょっと失礼ではと思えるほどの、特別なセンスの、深い感動がある人間表現だった。

ブエナビスタの音楽がなぜあんなに心にくいこむのか、認識し直した。
歴史を踏み越えた音楽、革命の国を生んだ人々の音楽。
ゲバラとカストロを押した人々の、その根元にある苦しみと怒りと不屈が、明るく美しい音楽の底にドクドクと脈打っているのが、スクリーンから迫ってくる。

痛い、ということが、悲しい、ということが、情けない、愛おしい、くるしい、、、、ということが、生きていれば必ずあるのだけれど、そんなときこそ、溜め息が歌い、肌が踊るのだ、と思った。

身体を本当に揺さぶり生き方を支えてくれる音楽は、何か。
身体が震えるほど心が踊る踊りは、何か。
そこを考えさせられる。
歌わざるをえない歌について、踊らざるをえない踊りについて、考えさせられる。
心について、ということかもしれないと思う。

何度も泣かされた。いつしか、励まされていた。
大切な記録だと思った。



映画

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NEWS
櫻井郁也ダンスソロ新作公演:『白鳥』9/29.Sat.~30. Sun. 2018
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「革命の女たち」のそばで(アンゼルム・キーファーの)

2018-08-14 | アート・音楽・その他
人、というものをお前は本当に知っているのか。
そう問い迫るような作品に出会うことがある。
アンゼルム・キーファーのインスタレーション作品『革命の女たち』(1992)は、僕にとって、その一つだ。
まさに人についての認識を問いかけてくる作品だと僕は思う。
これを再見したくなって軽井沢に行った。

はじめて目の当たりにしたときは、見てはいけないものを見てしまったようで、眼をそむけてしまった。いや、何をみているのかさえワカラなかった。つまり、作品に宿る力に打ちのめされた。それゆえ、つよく記憶され、その記憶を見てきた。この作品から始まったものは多大だった。そして15年ほども経って、目にしたそれは、こんどは途方もなく深く透明な溜め息のようだった。尽きることのない哀しみ。感情の泉。ロゴスとはこれかと思った。

『革命の女たち』は空間構成を作品とするものだが、「インスタレーション」という美術用語で言うのはなんだか残念で、それは「部屋」そのものと言ったほうがいいかもしれない。あるいは「場所」そのものでも。

収容所の部屋、病院の部屋、居場所としての部屋、生と愛と孤独と死の場所としての部屋、それら「部屋なるもの」のもっともデリケートな場所である「ベッド」が、この作品の核と言ってもいいかもしれない。ベッドとは時でありあ、ベッドとは温度りで、ベッドとは匂いであり、ベッドとは肌であり、、、。

まずそこには鉛の床がひろがっている。鉛の床に、鉛のベッドが14台、整然と置かれている。朽ちているのだろうか、破壊されたのだろうか、すべてのベッドは廃墟のように荒んでいる。そしてすべてのベッドには凹みがある。

ベッドの凹みには水が溜まっている。あるベッドには、枯れた植物が置かれている。あるベッドには、人間の歯が、あるベッドには、土が、あるベッドには、小さな衣服が、、、置かれている。

すべてのベッドサイドの壁には、手書きの名札が貼られている。21枚の名札が、一定の距離をおいて貼られている。名札には女性の名前、いづれもフランス革命で悲劇的な最後を遂げた女性たちの名前が書かれている。

革命で活躍したが男性の憎しみと攻撃の的になり、監禁され、そのまま行方不明となった女性の名前。ロベスピエールらを糾弾し断頭台に消えた女性の名前。ポール・マラーを殺害し「暗殺の天使」と呼ばれ処刑された女性の名前。21名の女性たちの、名前、名前、名前、、、。

そして、空間のいちばん奥には、鉛のシートに貼られた巨大な白黒写真が掲げられている。写真には、荒れ野に立つ後ろ姿の女性が写っている。写真には、枯れたひまわりが献花されている。

この作品、いまは緑ゆたかなセゾン美術館に所蔵されて内部には入れないが、はじめて出会ったのは1993年に東京で開催された個展のときで、これは作品に迷い込んだようだった。都市の百貨店と物流倉庫という対照的な空間に展開されたキーファーの世界は生きたエネルギーそのものだった。それゆえ、ある種の抵抗や葛藤や重さや臭気として胸に迫り、棘のように突き刺さった。しかしこれは「私たちの未来」にとって最も大切なことは何かと問いかけ迫ってくる哲学だと僕は思った、今も思う。

初期作品に彼は父の軍服を着てナチス式敬礼をする自分自身を登場させたことがあるが、この人の作品から僕は、自らに矢を放つような態度を感じさせられる。歴史に対して、あるいは民族的な罪に対して、その子孫としての自分は今現在のなかで何をすれば、という、当然これは日本人にも接しているテーマに、この人は向き合っていると思う。

キーファーの作品の前に立つとき、僕は僕自身に投げざるを得ない問いの一つを、ごまかすことができなくなる。みずからに対して、お前は何者か、と問う心に、キーファーの存在は激しく語りかけてくる。『革命の女たち』という、この美術作品と初めて出会ったときに感じたある種の精神状態が、新たなダンスを探し迷いながら、いま息を吹き返しているような気がしてならない。

個人、あるいは個体、さらには身体、というものは、時の流れから切断されたものではなく連続するものではないか。と思う。連続するゆえに、その連続を断ち切って独立を探そうとするのではないか、とも思う。自由という言葉は、そこに関わっているのではないかとも思う。

身体には、時の流れから、祖先から、民族から、歴史から、国家から、土地から、文化から、、、、受け継がざるを得ないもの、引き受けざるを得ないもの、受容と否定のはざまからなんとかして新しい意識をつくり出さざるを得ないもの、「血の問題」があるのではないか。そのようにも、僕は思っている。

踊りは、身体を通じて人間を掘り下げてゆく行為だ。だから踊りは、血に接近する行為なのではないか、と僕は思っている。踊りは同時に、血を克服する行為にもつながるのではないかと僕は思っている。言い方を変えれば、踊りはアナーキズムにも繋がっているかもしれない。

ダンスも美術も音楽も、あらゆる個的芸術は、どこかでワタクシ自身を超えた何かにぶつかるのではないか、と僕は思う。そのように思う思いと行為に、あいまいさや怠惰を許さない「ひとつの思索」の圧倒的な強度を、僕はアンゼルム・キーファーの作品と態度に感じている。



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過去作の文章text/statements

これまでの舞台写真photo


新作公演
櫻井郁也ダンスソロ:『白鳥』9/29.Sat.~30. Sun. 2018
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断片:本のこと

2018-08-04 | アート・音楽・その他


これは前に出かけた〈ターラーブックス〉というインドの出版社を紹介する展覧会で撮影したもので、絵本「世界の始まり」のいくつかのページ原画です。もう半年以上たつのですが、やはり、、、。



それから、こんな言葉がページには添えられていました。


「魚はいまだ生まれていない」

「そして大気が」

「地中の作り手」

「季節」

「聖なる種」

「原初の卵」



こういった、一つの言葉ひとつひとつをゆっくりと眺めていると、心の中で無限にひろがって、わかったとかわからないということとは別の働きが始まり、いつしか人生が変化してゆくのだろうと思う、まあなんとも「本」というのは、大変な存在だとあらためて思います。そう思わせてくれた展示でした。

たくさんの本が展示され、その場でページをめくり、購入することもできましたが、この出版社の本は非常に凝った造本で、手に取ること自体が知的な旅の始まりのように感じられます。

紙の質感を指先に感じ、本の厚さや重さを味わいながら、絵を眺め、言葉をかみしめてゆくのが、読書の楽しみにはあるように思うのですが、そんな気持を大切にしてくれる出版社なのかなあと、想像しました。

(1月、成増の板橋区立美術館にて。ここでは出版関係の興味深い展示を何度も観ています。)




アートの話題、感想


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櫻井郁也ダンスソロ新作公演:『白鳥』9/29.Sat.〜30. Sun. 2018
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ベルトルッチの暗殺のオペラを

2018-07-26 | アート・音楽・その他
ベルトルッチの古い映画で『暗殺のオペラ』が観れるというので行った。
長いあいだ見逃していた。好奇心があった。
タイトルロールの絵も音楽も痙攣的で、これはしめた、と思った。そして始まった途端に迷路にまよいこんだ。
眠気が来るがドキッとして目覚める、しかしまた、、、。という周期のなかで、脳みそに快楽物質でも発生するのだろうか。
少し小さめの画面のなかの、がらんどうの町。少しわかりづらい展開と、溜め息が出るような写真美。混乱と圧迫感がそこはかとない。全てが異様に現実的なのに、どこかうたがわしい。
登場人物は少ないが簡単に感情移入できない。場所の変化はほとんど無いのに、ここはどこか、と、頻繁に思う。この町はどこにも無いのだろう、いや、最初から存在してさえいなかったのかもしれない。とも思えてくる。
人々が頻繁に食べる西瓜の赤色。草の色。
何もない、と思える瞬間と、すべてがすべてのまま、と思える瞬間が、混在する。
現実と非現実が、あるいは存在と虚無が、相互に浸透して対立しない。
観ているあいだ、ずっと何かを考えたり、想像していることができる内容だった。
推理劇の体裁で、テーマにはご存知の通りファシズムに対する思索がからむ。ファシズムというのは突如襲いかかってくるのではなくて、気がつかないうちに自分たちで育ててしまっているものだと思う。気がついたら、遅い。ということが世に沢山だけれど、ファシズムもそのひとつかもしれない。放射能とも似ている。たまたまそんなことを思う。いつしか映画は現実をとびこえている。
物語もテーマも主張もあるのだけれど、理解を迫られる感触はない。だから、観ながら多方面にはみ出すこともできる。この映画がきっかけとなって始まる思考もあるのではと思う。
こういう映画はめったにないと思う。原作はボルヘスだ。

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櫻井郁也ダンスソロ新作公演:『白鳥』9/29.Sat.~30. Sun. 2018
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断片7/22:分解した太陽

2018-07-22 | アート・音楽・その他
知性は火が消えて分解した太陽だ。

というコトバがあって気になってきました。
これはニジンスキーが書いた言葉です。

地球外空間に星体としての太陽があるように、人間の脳内にも一種の太陽存在が内在する、ということなのでしょうか。あるいは、脳それ自体が太陽の変容だ、ということなのでしょうか。

右脳と左脳には太陽と月の力がそれぞれ反映しているように僕は感じてきましたが、知性が太陽の分解形式なのだというのは実に面白いイメージと感じます。しかも、火が消えて分解した、というのはもっと面白いと感じます。僕は知性というのは炎上している現象かと思っていたのに、ニジンスキーは冷却的に知性というものを捕まえている。

こういうことを書く人の踊りを観た人はラッキーだと昔の人をうらやましく思いました。踊りを観ると、眼から力が入ってくるからです。踊りは同じ時を生きている人だけが観ることができるものですから、人と人のエネルギーの交感です。だから踊りを観るといまが少しくらい暗くたって生きる力が湧いてくるのだと思います。

しかし、ニジンスキーはとっくに居ないのだから僕らには見えません。見えないけれど、読めるものが遺された、それが、この手記なのだから大切です。このような遺された言葉から、僕らだって、何かを想像できるし、それは同時代人が観たものとは違うのだろうけれど、観ることが出来ないからこそ想像が創造に連なる感覚を宿すことはできるかもしれないと思います。

ニジンスキーにとって「書く」ことは神の命令だったそうで、手がしびれるまで書き続けたというのですが、これは踊るのと同じだなあ素晴らしいことだなあ、と僕は思います。書くというのは体全体を鋭くすることなのだから、踊ることと似ているのかもしれないです。

「牧神の午後」のノーテーションを一枚だけ見たことがあるのですが、五線譜の上に独自の譜表を発明して書かれたそれは具象としては解読は困難なのだけれど、何か、ああ、あああ、と思った。とてもデリケートな造形で、神経質な図表で「書く」ことに対する特別さを感じるものでした。線を引く、ということ、それは、立つことに相似するのではないかと。山田耕筰がベルリンでこの上演を観たときは観客にこたえて3回もたてつづけに踊ったそうですが、その記譜線を見ると何回踊ってもおそらくは満足がいかないような神経の感覚が予感するようでもあります。

踊るときの肉体は避雷針のように立っていて、瞬間瞬間にさまざまな現象が落ちてくるのを受け止めて時間とか空間に刻み込むのですが、ニジンスキーのような人の場合はそれと同じような状態が舞台や稽古から降りても持続していてテーブルの上で筆を持った肉体にもあったのかしらと想像します。

ふだんお世話になっている書店から何か夏の推薦本をと訊かれて、彼の手記とさせていただいたこともあり、あらためて読みなおしましたが、「ニジンスキーの手記」と題されたそれは二種類の出版。市川雅さんが英語版から訳された現代思潮社発行のものと、鈴木晶さんがロシア語版から訳された新書館発行のものがあります。前者は妻ロモラが削除や編集を加えたもので後者は無削除のものです。この二つの版をあわせて読むのも面白いです。

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櫻井郁也ダンスソロ新作公演:『白鳥』9/29.Sat.〜30. Sun. 2018
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断片5/1(すばらしかった『ニッポン国VS泉南石綿村』)

2018-05-01 | アート・音楽・その他


ある日ある問題について一斉にニュースが流され、しかし手早くまとめられ、しつこく繰り返され、私たちは馴れっこになって、ある日、差し替えられるように全く別の問題が一斉に報じられて、それは埋もれてゆき、
いつしか問題はより深刻に拡大していたとしても、私たちは忘れ、、、そんなふうなやり方と真っ逆さまの仕方で、徹底してひとつの問題を追い、抗うように私たちの前に問いを差し出してくる人が、ドキュメンタリー映画の原一男監督だと思います。

必ず観に行きます。
この人の作品を見るたび、よし!と、やるぞ!と、生きるぞ!と、思えるのです。
この人の作品から伝えられたものは深く刺さり、こころのなかでさまざまに膨らんでいきます。

ドキュメンタリー映画というのはダンスにも共通するパッションとか行動があるのではないかと僕は勝手に思ってきたけれど、この監督の『極私的エロス・恋歌1974』に出会っていなかったら、そんなことを思ったかどうかわかりません。
その映画の内容と僕のダンスには、もちろん直接の関係はありません。だけど根深いところで、あるいは生理的なところで、つながる何かを感じた経験があります。
生きている限り僕は踊るとおもうのですが、その理由は、僕の中で命が反乱をするからだとおもうのです。
ダンスが肉体からはみ出してきて抑えきれない。それは劇や文章とちがって何かの思想とか意見がまとまって誰かに伝えたくなるというのとは、まるで違う。これから何がどうなるかなんてわからないままに、無我夢中で行為が先行してゆく。そして、これは何だと自分でも考えるが、観る人も完全に自由に考えてゆく。虚構だのイメージだのの力ではなく、現実を生きて沸騰する力が肉を揺さぶるのだから、ダンスは現実そのもので僕の命が尽きても完結しない。そのような「せざるをえない」行為性とか沸々たる感触を全くダンスとは別の領域でも感じることがあり、勝手ながら、原一男さんの先述作品にすごく強く感じたのでした。

最新作の『ニッポン国VS泉南石綿村』は、国家を相手に立ち上がった人々のドキュメンタリーでした。
国はアスベストの有害性を知っているのに、お金の問題を理由に、それを扱う工場の人々にも周辺住民にも知らせなかったと裁判で訴えるのです。アスベストを吸い込むと肺に突き刺さり長い年月の潜伏期間を経て発症し、治療法は無く苦しみながら死を迎えるしかないのです。恐ろしい公害の賠償を国に求める大阪泉南の人々。その裁判闘争を、この映画は克明につたえます。
人間が、大きな力に対して怒りを表現し、あきらめずに向き合ってゆく記録でもあります。

映画の中では本当の時間が流れています。映画の中で、一人一人の生活が変わってゆく。
映画の中で、年齢も、顔つきも変わっていきます。つらくとも笑顔をカメラに向けていた方の、怒りに震えていた方の、何人もが亡くなっていきます。画面を見つめながら、こみ上げてくる感情を抑えることができなくなる瞬間も度々あります。
8年もつづく裁判のあいだ、闘争現場と人々の生活の場を撮影し続けて製作された作品です。撮影することは被害者の方との信頼関係をつくり受け容れてもらうことでもあると思います。並大抵の努力ではつくり得ない作品だと思います。

渋谷円山町のユーロで2度観て、2度目は東京上映最終日だったがエンドロールのあとすぐに監督が登壇されて都内在住のアスベスト被害者の方とエネルギッシュに対話を開始され、それは映画の続きが始まったようでもあったけれど考えてみればドキュメンタリーが完結するわけはない、そう、何も完結しないのが現実なのだから、こうやって人は何かをつくり何かを話すのだと、当たり前のことがまた胸を叩くのでした。それは現実そのものに向き合い続けている迫力なのかもしれないです。

原監督と小林佐智子プロデューサーがされている会社は「疾走プロダクション」というそうだけれど、すばらしい名前だと思えるのは監督の映画が実際に「走っている」からだと思います。まさに疾走するように生み出され上映されるドキュメンタリーは僕を傍観者やら鑑賞者の居心地に甘えさせてはくれない。お前はどうなんだと自らに矢を向けざるをえない何かがきっちりと、来ます。

渋谷は終わったけれど、横浜や川崎ではまだ見ることができます。5日からの京都など、全国展開が始まるそうです。

HP


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