櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

ジョン・ルーリー展

2019-07-03 | アート・音楽・その他

ひとりの人間の心には

世界より広い別世界がひろがっているのではないか

と、僕はときどき思う。

いくら世界のことを知っていてもすぐそばの人の心を理解できない奴がいる。世界のことなんかよく知らないけれど誰か一人の心を深く理解している奴もいる。で自分はどうなのなんて、ちょっと思うこともある。

そんなことをふと思ったのは、春先に青山に出たときに寄ったジョン・ルーリーの展示のせいかもしれない。下はそのチラシの一部で書かれていることが気になり行った。ふた月ちかく前だけれどその場で感じた感じをおぼえている。

ルーリーは50代前後の人にはミュージシャンとして有名と思うし、ジャームッシュの映画を思い出す人も多いはず。だけど、この人の絵は作者が何者だったかということを忘れさせる。

それらを見たことで、胸の奥で渇いていたものが少し濡れた。同時にズキズキとするようなものも心に入ってきた。それから、不安になるような暗さが、絵のむこうがわからコチラを視ているようにも思えた。

美しいものの底には見知らぬものが棲んでいるのだろうか。と思った。どこかに連れていかれそうな感じもあった。深い水をのぞきこんだ時みたいな感情が、わいた。

イマをときめく現代アートの巨匠展も歴史に残る名作展も素晴らしいけれど、それらとは異なるストレートな衝動が、そして優しくかつ鋭いメッセージが、心に刺さった。

七夕までワタリウム。

 

 

 


 

 

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湊 茉莉さんの≪Utusuwa≫

2019-06-02 | アート・音楽・その他

 

 

もう本日6/2(日)19:00まで。とのことですが、銀座メゾンエルメスのガラス壁がまるごと美術作品になっています。

ビルの外壁に直接に描かれた巨大な絵。あるいは巨大な筆跡というか。写真は先月GWに撮ったものでお昼の表情だが、銀座に出るたび眺めると色んな表情があるなあと思いました。とりわけ、日が暮れてゆくと内部から発光するみたいに見えてきます。湊 茉莉さんの≪Utusuwa≫という作品です。

カラフルなのだけれど派手ということではなく、なぜそう感じるのでしょうか、すこし、はかない感じが僕には感じられてなりませんでした。何か消えゆくものの痕跡のように、、、。

消えゆくもの即ち命あるものの、命あるゆえいつか死するものの、痕跡。ちょっと禅画みたいにも感じられるのでした。

おもえばしかし、当たり前なのかしらん。美術に限らない、僕らの表現というのは何かしらの仕方でのこされる命けずりで、その痕跡が眼や心に焼き付けられるのですから。だから何か芸術を見るというのは、ほんとうは命を呼吸するということに、つながるのだと思います。そう思わせてくれるプロジェクトとも思えました。

5丁目近辺の道路に出たらすぐに見えます。

 

 

 

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ヌレエフを思い出しながら(映画「ホワイトクロウ」)

2019-05-23 | アート・音楽・その他

ルドルフ・ヌレエフの踊りは動画でぽつぽつと垣間みれるが、そのすごさとはまた別に、一人の人として彼のことを想い思える映画が「ホワイトクロウ」だった。

たまに面白く思うのが、ダンサーの演技、俳優のダンス。いづれも映画で楽しむ機会が多い。前者ではフェリーニ作品におけるピナ・バウシュの演技やルルーシュ作品でのジョルジュ・ドンの演技もなかなか素敵だったし、後者ではリリー=ローズが踊ったイサドラ・ダンカンのベートーヴェンなんか最近ちょっと嬉しくなった。

ダンスは一回で消えるが目の前で肉体が生命そのものに向き合う時間の濃密さは他で得ることが出来ない。映画には生身の存在こそ無いがスクリーンのなかでしか描き得ない虚実の世界はやはり愉しい。

それぞれの良さが活かされた作品に出会えたら楽しいが、先に書いた「ホワイトクロウ」はそんな一つかもしれない。ヌレエフ役はオレグ・イヴェンコで初めて知ったダンサー。友人役をヌレエフの再来とか言われたセルゲイ・ポルーニンがやっている。エルミタージュやルーブルで撮影された絵を見るシーンは実に美しいし、舞台の本番ばかり強調しないで練習風景のなかで多くを描く構成もまたいいなと思いながら見た。ほとんどが練習で過ぎてゆくのが踊り手の暮らしなのだから、そこに時間をとってあるのは共感できた。

面白いと思ったのは、ダンサーがダンサーの役を演じていることだった。わりと大変だと思うのだ。ダンスシーンでは他人の踊りを演じて踊るのだが、やはり本人の踊りが見えてくる。こちらも芝居の続きと知りながら、ついダンサーとして身体を見つめてしまう。さらにアタマのなかでは実のヌレエフが踊ってる映像も思い出してしまうから、まあややこしいけど、でも、芝居と記憶の行き来、これがまた面白かったりもするのだった。

そういえばニジンスキーの再来と言われたヌレエフがヴァレンチノの役をやり、その映画のなかでニジンスキー役と一緒にタンゴを踊るというのも、またまたややこしいけれど、たしかあったと思う。

まあ、色々おもいつつ、またヌレエフ本人の古い白黒映像をながめている。

 

 


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マックイーンの映画

2019-05-10 | アート・音楽・その他

『マックイーン:モードの反逆児』を観た。インタビューとコラージュされるように多数のショーが映し出されるが、彼のショーの美しさはそれらの根底にある彼自身の戦いの蓄積と激しく波打ち続けた心の投影なのだということを、強く感じた。だから美しさと同時に打ちのめされるような衝撃があるのだろう。とりわけそう感じたのは2001年の『Voss』の記録映像だった。ラストで大量の蛾が飛び立つなかに肥満した女性が裸体で横たわってチューブ呼吸をしている、つまり当時スキャンダラスな話題を得ていたJ.P.ウィトキンの写真『Sanitarium』(1983)の再現シーンが現れるこのショーでは、モデルたちはマジックミラーで囲まれた舞台の内部にいて観客のほうを見ることが出来ない。視線があることをアタマでは知っているが肌で感じとることが困難なのだ。孤独で、破壊的で、そして痛いほどリアルな情景だと思った。僕らの姿と重なるとも思った。しかしそれは、この映画にとってあくまで一部分で、全体像はむしろもっと淡々と彼個人の軌跡をえがいてゆくのだった。ひとりの男の子が真面目に身も心も投げ出して世界を引き受けてゆく過程が、巨大なスクリーンとスピーカーに、痛ましいほどに映写されるのだった。彼が布にハサミを入れるときの集中を、また、地道に磨きあげた針仕事の見事さを、この映画は見逃しはしない。そして、彼は周りの人との関係を持続し続けようとする人間だったことが、しっかりと描かれている。自分本位の人ではなく、気ままに生きた人でもなかったことが推測される。そこが、何より素晴らしく、この映画の神経だとも思った。 それは、言葉の選択にもあらわれていて、印象的だった。例えば「彼は遅刻をしない」という証言だ。さりげないが、この一言は彼の才能をはっきり物語っていると思った。もうひとつ印象的だったのは「彼は情報のフィルターで判断しない」という一言で、これは彼の先生の言葉だった。人間は時に奇跡みたいなことを起こすけれどそれは偶然ではなくて地味な地道な作業の積み重ねなのだ、ということを、また、素晴らしい出来事の多くは人と人の関係の結果なのだ、ということを、この映画はハッキリと映し出していると思った。

 



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光琳の、かきつばた

2019-05-06 | アート・音楽・その他

 

毎年、春から夏に移りゆくいまごろになるとこの絵が公開される。見るたびに眩しさを増しているように、このごろ感じる。なぜなのだろう。

かきつばたの花が咲く庭とこの絵のある展示室を行ったり来たりして一日をすごしていると、僕は、現実というものから次第に切り離されてゆくような心地になる。

金箔の反射光と描かれている燕子花がまぶしくて、この絵の前に佇むたくさんの人が影のように見える。

この絵には実に奇妙な力があるように僕は勝手に思っている。

たとえば、すべての流れるものをピタリと停止させ凝固させるような力を感じる。

また、たとえば、すべての立体を二次元の光と影に分解してしまうような魔力を感じる。

この絵は、花の姿を借りてじつは、この世になくあの世にさえない物質を表してあるのではないか、などと、ばかなことをバクゼンと思うことも、ある。 

 

(photo上=光琳の燕子花図屏風の一部:根津美術館蔵/下=同館の庭園に咲いているカキツバタ)







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ルキノ・ヴィスコンティの『山猫』

2019-04-22 | アート・音楽・その他

何週間かたつが、日本ではこれが最後の劇場上映になると聞いて、ルキノ・ヴィスコンティの映画『山猫』を観に行った。個人的に、とても大切な映画だった。

最新の技術で修復され、公開当時と同様に35ミリフィルムで上映された。フレームの隅っこがほんの少しほの暗く見える。ロールチェンジのマークが画面上部にちらりと見える。それらが、いま観ているのは影絵なのだ、と、さりげなくささやいているように、僕は感じる。豪華絢爛で、圧倒的に深い文学世界で、しかしそれは同時に、はかない影絵で、、、。

初めてこの映画を観たときは小学生だった。観た、というより両親が観ている横に、居た。クライマックスの舞踏会のシーンで踊られる音楽が耳に残って、好きになってしまった。男女が手をとり、すこし微笑し、ピョコンと一緒に小さくジャンプする。そんな、素朴で可愛らしいダンスの伴奏音楽だ。跳ねるような、チャーミングなリズムだが、シシリー風というのか、メロディが少し切ない。あの音楽は何だったのだろう、あの音楽の鳴っていたあの映画は何だったのだろうと、ずっと思っていた。

高校生の頃、ヴィスコンティがやたら上映された。片っ端から観たなかに、あの舞曲が鳴った。この映画だった。あれから何度目になるのか、何年ぶりになるのか、思い出せない。時間がたっている。それが、うそのようだった。一番最初の眩しさから、一番最後のあの暗闇まで、不思議なくらいにおぼえていた。おぼえていながら、いや、おぼえているからこそ胸の奥まで全てが押し寄せてくるようだった。全てというのは、人の呼吸で、美貌で、苦悩で、光線で、奥深い夜で、渇いた地面の亀裂で、ドレスと宝石で、汗で、マリアに捧げる祈りで、革命で、恋で、朽ちて風化してゆくもので、衰えるもので、それから、それから、という、それら全部が「すべて」というほかにもはや思いつかない全てを建築し奏でているのだった。

何回も観る。つまり、長く付合っているうちに、あるとき、グッと押し寄せてくるものがある。映画のみならず、良いものはそういう事なのかもしれない。

つらいことや嬉しい事を思い出しながら観る。そういうことが、ほんとうに出来る、日々が愛おしくなる映画だと思った。ヴィスコンティのなかでは、ナチズムの根っこを描いた『地獄に堕ちた勇者ども』のそこはかとない恐ろしさと一対の作品であるように、なぜか感じられる。美しく愛おしく、しかし、、、。黄昏時のような美しい時間が流れ、その時間に流されながら、終わってほしくないと思っていた。この映画にスクリーンで再会できたのは、ちょっとしあわせなことだった。

 

 

 


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堀文子さんの言葉を

2019-03-26 | アート・音楽・その他

世論に動かされない、ひとつの人間になる。


という言葉をきいて、深く頷いた。
ことし2月5日に亡くなられた日本画家の堀文子さんの言葉。
堀さんの描かれた花の凛とした美しさにも重なる言葉だった。

最後に出演されたというテレビ番組を観て、そのお声を初めてきいた。
関東震災のときに起きた排斥運動や虐殺事件のこと、2.26事件のこと、ベルリンオリンピックのこと、などをはじめ、1930年代半ばにかけての、世の出来事のこと、そのときの暮らしの風景、そして自らが感じていられたことごとをひとつひとつ鮮やかに思いだしながら話されたシーンがあって、そこに、とても強い、祈りのような思いを感じた。

あの1930年代が、今この私たちの時代に、どこか重なる状況や世相をもっていたことを思い出しながら、僕たちに警告をされているようにも思えた。

気がつけば警察や軍が学校や生活のなかに深く関与していたこと、いつのまにか多くの人がスポーツの勝敗や男女のスキャンダルに熱狂するようになっていたこと、そのような話にはどきりとする。

なにか似ている。やはりどこかしら今と重なる。

いつしか、役に立たないものが相手にされない世の中になっていた。
そして、美もそのようなひとつに、なっていた。
というお話もあった。これもやはり、いや、もっと。

僕は役に立たないことが大切だと思っている。
役に立つものばかり大切にする世の中なんて、とても窮屈で恐ろしい。
だけど、だんだん、今は、そうなっているのを、肌で感じる。
なぜこうなってしまったのだ、と、どこかで思う。

いま、敏感にならざるを得ないことが、ある。

堀さんの語られる言葉をじっと聴いていたのだが、その言葉に、言葉を発する声に、言葉と言葉の間合いに、目覚めを促されるような気持になった。
人の言葉を聴くことの、人が人に何かを語るということの、大切さを、あらためて感じさせられるのだった。

ながく絵を描いてきた方の言葉の一つ一つには、深い信念が宿っていた。



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櫻井郁也ダンスソロ公式ホームページ






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イケムラレイコさんの展覧会に

2019-03-07 | アート・音楽・その他




イケムラレイコさんの展覧会に行ったとき、「うさぎ観音」の前に座って、真っ昼間なのに、いつのまにか、星をみつめているような気持になっていた。そのままぼんやりと座っていたら、じぶんの心の中の雑音がきこえてきて、なんだか悲しく思えたが、すこしのちには、それはそれで良いのでは、と、なぜか思えてきたりもする、というような経験をした。

ひとつの作品の前で、心がずいぶん移り変わってゆく。移り変わってゆく心を、作品(うさぎ)がだまって見つめている。僕も作品を見つめているが、作品のなかから、何者かが、こちらを見つめている。

土と星。という題名で、この展覧会はおこなわれている。こんなに、と驚くほど沢山の作品がならぶ。それらの、ひとつひとつの、あらゆるすべてが、きめこまやかで、おどろく。おびただしい言葉のささやきが、そこには重なって響いている感じもして、胸のなかがうずく。ある絵がつらく痛覚に触れるように思えて、でも眼を伏せることができない、ということもあった。

たとえば神風特攻隊の海の絵の前で、たとえば赤い木の絵の前で、たとえば炎のような女の人の絵の連続の前で、これは僕たちヒトに対するばかりでなく、たとえばソセンとかシゼンとかいう呼称でよびたくなるような遠い存在にさえ、対してある絵なのではないか、と思えてくることもあった。

おしまいの大きな部屋に広がる新しい作品群にかこまれたとき、感覚が変わった。そこには大きな大きな見知らぬ母の肌が広がってあるようにも見えてきた。かこまれながら、ひととき、僕は自分のナマエをわすれてしまいたくなっていた。まぼろしのような女性に、樹木に、明るく赤くなってゆくような力の波と、同時にかぎりなく深い深みを沈んでゆく闇を感じていた。海のような揺らぎも感じていた。

この展覧会のなかに居るあいだ、絵を見る、ということが、絵に見られる、ということに感じられたりもした。僕は作品に対峙するというより、それらに包まれて、身を委ねて居たのかもしれないのだけれど、、、。
六本木の国立新美術館です。





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アート・音楽・その他


Stage info.
櫻井郁也ダンスソロ新作『トラ・ラ・ラ』
2019年4月6〜7日:東京・plan-B

↑↑チケット予約受付中↑↑




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ヴォルスの絵:works of Wols

2019-03-02 | アート・音楽・その他

「どのような瞬間にも、どのようなものにも、永遠はある」

という言葉をみつけて、つっと、胸が痛くなったことがある。
ヴォルスという画家のことばだった。

画集を貸してくださった方があって、この人の絵を見ながら数夜をすごした。

ぼんやりと眺めるという感じではなかった。
凝視したくなる、というか、すみずみまでくまなく見つめ尽くしたくなるのだった。

僕の内部はたいてい揺れていて、うつろいつづけている。
そんな内的な流動にちかい運動が、彼の絵には宿っていると感じた。

決してとどまることないうつろいがそのまま、二次元の空白におどっているみたいだ。

とりわけ、「裸体の花」という絵には眼が釘付けになった。
サルトルの『食糧』のための挿画だった。

見つめていて、これは絵でありながら詩でもあるのではないかと、思った。
絵から声が聴こえてくるように思えた。
いや、ちがう。

出ない声をしぼりだそうとするような喘ぐような、
なにか切羽詰まったようなものが、絵からこちらに向かってくるのを感じたのだった。

絵のなかの線ひとつひとつの、か細い力学のなかに、無数の時間が交差しているように思えた。
線そのものが、いきものめいて、気がつかぬまに動いているのではないか、なんて思えた。
すこしこわくもあった。生き物とくゆうのこわさ、だった。

初期には写真家として知られたそうで、そのころの作品のなかにもドキッとするものがあった。
女性のポートレートで、実に美しい繊細な写真だった。
余白に(アウシュビッツの火葬炉でナチスに殺された女)と記されていた。

この画家に、あらためて興味をいだいた。もっと味わってみたくなっている。



ダンスノート




櫻井郁也ダンスソロ新作公演『トラ・ラ・ラ』
公式webサイト

4/6〜7 東京・plan-B
SAKURAI IKUYA DANCE SOLO "TORA LA LA"
6th and 7th Apr.at plan-B,Tokyo













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いまは二度と、、、(向井山朋子展『ピアニスト』にて)

2019-02-18 | アート・音楽・その他





小躍りするような気分で展示空間をあるいていたが、
ひとところ雰囲気が異様に鎮まっていて、踏みとどまった。

津波を受けたピアノがあった。

そのまえでしばらく過ごした。
とても静かなのだが、いっぱい歌がひしめいているように感じた。
そこには、そこにしかない時間が流れているように感じた。

やがて演奏会となった。
音の広がりと入れ替わりに、夜が場所を満たしてゆくのだった。

気がつけば部屋の電灯が消えていて、
壁一面ガラスなのだけれど、そこに外から光が射してはどこかへ行く。

眼を閉じて音楽をきく、
あるいは街の光を見つめる。
あるいはピアノの深い黒を見つめる、
そしてまた眼を閉じて、

演奏がおわったとき、
いまは二度とこない、
ということをなぜかとてもつよく、
つよく感じていた。

もういちど、津波を受けたピアノのそばに行った。
ひたすら、ただただひたすらな静かさを感じた。

忘れられない体験をいただいた。

いまは二度と、、、。

向井山朋子展『pianist』(エルメス銀座)



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Stage info.
櫻井郁也ダンスソロ新作『トラ・ラ・ラ』
2019年4月6〜7日:東京・plan-B

↑↑チケット予約受付中↑↑




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ジョナス・メカス氏を悼む

2019-01-27 | アート・音楽・その他
光の揺らめきを見つめていた。
見つめながら、
生きるものはやはり死んでゆくということについて、
存在するものは消えてしまうことについて、
もう少しのあいだでいいから、
僕は無知でいたい。
そんな気持になってゆくのだった。

光の揺らめきを見つめていた。
遠ざかってゆく記憶のようだった。
それらは誰かの笑顔で、赤ん坊の手で、
それらは芝生で、鉄道で、煙で、つまり、
人の生活の断片であるということが、
なぜか、身につまされるのだった。

それらはピンぼけで、ぶれていて、途切れ途切れで、つまり、
人の手によって撮影されたということが痛く鮮明で、
すべての瞬間が少し暖かであったことが鮮明で、
しかしなぜか、ふいに悲しさがおそってくるのだった。

彼の映画のタイトルそのままに、
失われ、失われ、また失われてゆくものが、
あの明滅する沈黙とともに、
心に焼き付いて離れなくなった。

生きるものはやはり死んでゆくということについて、
存在するものは消えてしまうことについて、
もう少しのあいだでいいから、
僕は無知でいたい。
いままた、とてもそう思う。


ジョナス・メカス氏が亡くなったことを、
僕はまだ信じたくない。

(98歳、1月23日
 心から尊敬を。)









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ロバート・メープルソープのこと

2019-01-14 | アート・音楽・その他



メープルソープの被写体になると一体どんな気持になるのだろうか。そんなことをたまに思う。彼の作品は写真だが、僕はなぜかそれらをダンスと限りなく近いものに感じてしまう。冷たいのに燃えている。静かなのに激しくざわめいている。定着されているのに刹那的な魅力に溢れている。好きだ。

初めて知ったのはパティ・スミスのLPジャケットだった。だから彼女のささやきやさけびを聴くときは、いつもメープルソープを見つめていた。やがて写真集を買って、とりわけ百合の花の写真をよく見つめていた。見つめる。そう。彼の写真は、眺めるでもなく鑑賞するでもなく、見つめる、しか仕方がなかった。それは人間のようだったから。

それは視線と身体の関係で、身体と精神の関係で、虚と実の関係で、意味と無意味の関係で、エロスと思考の関係で、、、。何が何だか分からないが、メープルソープの写真には、とにかく関係を意識せざるを得ないような存在感を感じる。無数の関係が写真にひしめいていて、それは一つの世界を体現しているというより、いくつかの途切れたものが重なり合って同時にうごめいているような感覚を、いや、矛盾した言い方をすれば沢山のものが無関係のまま深く関係し絡まり合っているような感覚を、僕はいだいてしまう。そして、胸の奥や足の裏を、くすぐられるような妄想に呪われてゆく。

グッゲンハイム美術館でロバート・メープルソープの展覧会が1年間にわたって開催されることを知った。重要な出来事だと思う。
Implicit tensions;Mapplethope now



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【活動】
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アイ・ウェイウェイ氏の、、、

2019-01-07 | アート・音楽・その他
ベルリンを拠点とする現代美術家アイ・ウェイウェイ(艾未未)氏が制作したドキュメンタリー映画『ヒューマン・フロー 大地漂流』が1月12日から公開されることを知った。
2017年の横浜トリエンナーレ出品作は記憶に残っている方も多いと思うが、彼は横浜美術館の外壁にずらりと救命ボートを掲げ、入口の大きな柱を大量の救命胴衣でびっしりと覆って、それらは中東や北アフリカからの難民たちが実際に着用していたものだった。
昨年見たものでは森美術館『カタストロフと美術のちから展』にも氏は巨大な壁画(写真、同展)を出品していて、これはまだ1月20日まで観ることが出来る。まずその大きさに圧倒され、古代エジプトの神殿やボロブドールやアンコールワットの絵を思い重ねたが、近づくと、そこには避難する人々の姿やデモを鎮圧する警官隊の姿など、膨大な量の絵とメッセージが描きこまれている。胸をつかまれた。立ち去りがたいような複雑な思いもあった。なぜだろう、アイ・ウェイウェイ氏の作品の力強さと悲しさは、透明なレクイエム音楽を聴いた時のように染み込んでくるのだった。









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ジョーン・ジョナス(Joan Jonas)さんの

2018-12-30 | アート・音楽・その他



ジョーン・ジョナス(Joan Jonas)さんの作品に触れることができたのは、ことしのなかでも特別うれしいことだった。自ら関わったもの以外では、一年でもっとも観る喜びを感じたのが彼女の個展『Simple Things』だった。観に行ったのは11月27日だった。3つの作品が展示されていた。旅の、犬の、そしてライブパフォーマンスの記録。そこには、いくえにも時間が重なっているようだった。彼女は途切れた時間を結びつけ直したり時間のなかを行き来するようだと思った。彼女の作品は、行為と映像と言葉によるものと言っても良いかもしれない。たとえば映された像にジョナスは線をかき入れる。映像のカットは切り替わり別のものが映るが、ジョナスは線をかきつづけている。描かれる線のなかで、別のなにかが生き始めてるのを、僕は感じる。あるいは、スクリーンの中で、何層にも映像は重なってゆくこともある。それはイメージの重なりであるけれども、時間が堆積してゆくようにも思えてくる。像とは切り取られた時間とも言える。像とは歴史とも言えるし、像とは死とも言えるかもしれない。犬をモチーフにした作品では非常に強く、遠い世界を感じた。ただただ犬が歩いているのだけれど、その足がどこに向かってゆくのかが、わからなくなってゆくのだった。犬の、あの独特の細かいステップのリズムとともに、僕はまだ知らない世界に、連れてゆかれるように感じ始めていた。ライブパフォーマンスの記録はとても興味深く楽しく観ることができた。実体と映像が重なり絡み合いながら、僕らの棲む場所に僕らが知らない別な世界を招きいれようとしているみたいだった。彼女の一瞬一瞬の行いがとてもデリケートで思索と直観に満ちているように感じた。(写真はギャラリー発行のカタログ)



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断片12/27(Lee Kit)

2018-12-27 | アート・音楽・その他









「悲劇が起こったのは予見できなかったからじゃない
 The disaster is not a lack of vision」


上は大崎付近の夕景。
下は原美術館で行なわれていたリー・キット(李傑/Lee Kit)展にて。
言葉は、同展の作品から印象的だった字幕のひとつ。


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