よく思い出す像がふたつ、宇治の平等院にあります。
宇治は好きで子どもの頃からよく行ったのですが、平等院の鳳凰堂もいつのまにか整備・復元され、昔のひなびた姿を思えば何となく残念もあるけれど、かわりに、いまの鮮やかな姿には別の力が宿ったのか、すがすがしい気持ちになりますし、また、庭にあるミュージアムも昔は無かったが、これがなかなかのもので、ここに、実に不思議な魅力を感じる像がふたつ、安置されています。
ひとつは、もとは鳳凰堂内部にあった雲中供養菩薩のうちの一柱で、南24と分類されているのですが、胸を柔らかくくぼめ、ゆえ背中もやや丸やかで、眼は閉じて雲に乗っている。その何とも言えない全身の表情が、僕にはとても落ち着きをもたらしてくれます。左手を受け手に片膝立て、右手は欠けているが、顔はやや左に仰ぎ、そのいちいちが少し内向的で、その割に不思議と明るさもあるのです。すらりと伸びた姿もよいけれど、この像には内部に浸透してゆくような力を感じます。
もうひとつは、女神座像 。これは
11世紀のもので最勝院にあった、伝来不明の一木造り。霊木だというその材は、内部に空のある歪みのあるものらしく、あからさまではないがよく見ると、座像の体躯がほんの少し片寄って歪んでいるのです。そのかんじが、樹木の姿をもらっているからかもしれないが、像のなかに何かが生きていて、それが形を内部から破って出ようとしているような印象を、受けました。
これらの像をぼんやり眺めていると、ひとりなのにひとりでないような気持ちになることがあります。
踊りとはまた違った、それでも胸奥の何かにさわりそうな、語りかけられるような、、、。
宇治は好きで子どもの頃からよく行ったのですが、平等院の鳳凰堂もいつのまにか整備・復元され、昔のひなびた姿を思えば何となく残念もあるけれど、かわりに、いまの鮮やかな姿には別の力が宿ったのか、すがすがしい気持ちになりますし、また、庭にあるミュージアムも昔は無かったが、これがなかなかのもので、ここに、実に不思議な魅力を感じる像がふたつ、安置されています。
ひとつは、もとは鳳凰堂内部にあった雲中供養菩薩のうちの一柱で、南24と分類されているのですが、胸を柔らかくくぼめ、ゆえ背中もやや丸やかで、眼は閉じて雲に乗っている。その何とも言えない全身の表情が、僕にはとても落ち着きをもたらしてくれます。左手を受け手に片膝立て、右手は欠けているが、顔はやや左に仰ぎ、そのいちいちが少し内向的で、その割に不思議と明るさもあるのです。すらりと伸びた姿もよいけれど、この像には内部に浸透してゆくような力を感じます。
もうひとつは、女神座像 。これは
11世紀のもので最勝院にあった、伝来不明の一木造り。霊木だというその材は、内部に空のある歪みのあるものらしく、あからさまではないがよく見ると、座像の体躯がほんの少し片寄って歪んでいるのです。そのかんじが、樹木の姿をもらっているからかもしれないが、像のなかに何かが生きていて、それが形を内部から破って出ようとしているような印象を、受けました。
これらの像をぼんやり眺めていると、ひとりなのにひとりでないような気持ちになることがあります。
踊りとはまた違った、それでも胸奥の何かにさわりそうな、語りかけられるような、、、。