だるま親爺のブログ○

高尾のだるま親爺が、勝手気ままに書き込みます。
いい年になりましたので、まずは経験からくるぼやきを・・・

だるま親爺の履歴書 仕事編Ⅳ

2024年09月02日 | ストーリー

さて、だるま親爺はこのころ50歳

会社はまもなく倒産。

年齢も節目であり倒産するのを待っても将来性がありません。

さっさと次のステージにと思って辞表を提出しましたな。

何か新規事業はないかと模索しながら、仕事探しをすることになりました。

この頃は就職の氷河期時代ですから大変です。いくつも面接にいきましたがいずれも不合格。

よく言われたのは、何で50歳で先の仕事も決まってないのにやめちゃったの?です。(余計なお世話だ)

また欲もかいておりましたので、年収の高いところを目指しておりました。

そうこうして3か月もすると心細くなり早く何か仕事を見つけないとと焦りましたな。

幸いにも前職での経験から宅地建物取引士の免許をもっておりましたので、不動産屋の門戸をたたいてみたところいずれも採用決定の連絡をいただきました。中でも、通勤に便利なところに就職。

ホッとしましたが・・・。

いろいろな仕事を経験したなかでも他に類をみないブラック業界でありました(だから入社できたんです)。

正直、消費者金融のほうがずっとクリーンで働きやすい職場でしたよ。

朝は9時からですが、夜は12時ころまでが日常で、お客様のアポが取れなければ帰ることもできませんので、毎日遅くまで、チラシの配布です。

通勤時間も考えると家にいる時間は多くて6時間くらい。

やくざ顔負けの上司の罵声と嫌味、弱そうな同僚には蹴りも飛んできましたな。

お客様獲得のためお店の休業日も出勤、かかってくる電話のつかみ合いです。

休みもなく、毎日3時間くらいしか寝ることもできず、フラフラになりながら3か月後に1件の成約が、

半年後に更に1件の契約、以降は毎月1件から2件が成約できるようになりました。

ですが、営業には運も不運もつきものです。

契約が取れなくなるとまた元に戻って、休みも出勤、夜遅くまでチラシ配りの生活でしたな。

まあ、昭和生まれの根性、根性、ど根性で生きてきただるま親爺ですから。

なんとか10年平均年収700万くらいをキープできました。

トップセールスマンは2000万くらいはいきますよ(うらやましい)。

仲介するだけでの稼ぎですからあまり元手は必要ないんですな。

この不動産屋は私が入社後に上場をめざしたんですよ。無謀です。

消費者金融時代は上場会社(最終的に)におりましたので上場の難しさはよく知っておりました。

でも、おかげでだんだんと勤務体制も正常化しまして、後半は楽になりました。

そうこうしているうちに、だるま親爺も60歳。

あと5年働くこともできましたが、営業センスも無くなり、物件の覚えも悪くなりました。

当然営業数字も悪くなりましたので、ここらが潮時と思い、辞表を出しました。

いやな若い上司達ともおさらばですな。

あゝせいせいした。

今は、バイト生活をしながら生計を立てております。

ここから先はまだまだお楽しみの人生を歩んでまいりますよ。

これまでがだるま親爺の仕事履歴の概略でした。

それぞれの仕事では沢山の面白エピソードがありますので、これからもご紹介させていただきます。


だるま親爺の履歴書 仕事編Ⅲ

2024年08月09日 | ストーリー

前回は、お店をたたんだところまででしたな。

お金の大切さ身に染みてかんじました。

そこで当時のお仕事で最も稼げるものは何か。銀行に大きな借金をのこしましたので・・。

消費者金融というお仕事です。

その中でも、支店が神田、日本橋、新橋の3店舗と飲食店(うどんすきのお店)も経営している会社に入社しました。

外食産業の経験、飲食店の経営スキルが役に立つかもしれないと飛び込みました。(一切関係ありませんでしたが・・。)

お仕事の内容は、一般消費者の個人に対する営業、貸付、回収などです。サラ金ですな。

対面の接客による貸付から、電話申込による貸付などなど。

回収では電話の督促、郵便による督促、訪問による督促などです。

某漫画の「ナニワ金融道」のおしごとです。

この会社は当時の大手消費者金融会社からは比べ物にならないくらい小さな会社です。

貸付残高で3億くらい・・。

神田支店に入社してみると社員は10名くらい、いかにも金融屋、金貸しブローカーなる輩が跋扈していました。

初日から電話督促を何十件もやらされ、先輩に注意されての「この野郎金返せ~。」と大声をあげていました。

見よう見まねで仕事は盗むもの(コック修行時代も同じ)と思い、いつの間にか溶け込んでいましたな。

お金の大切さを身に染みて感じるようになりました。

この会社の入社時の貸付残高は4億くらい、そのうち3億は不動産貸付でしたが「レディースローン」という他社があまりやりたがらないところで大きく成長、3年後にはあっという間に40億の貸付残高です。

この頃には成長した会社になるにつけ、不良社員が行っていた不正、不動産ローンのオーバー貸付、担保価値もないのに何千万も貸付をしてお客さんから見返りに法外な手数料として個人の懐に入れるなどが明るみになり、みんな逃げてしまいました。逃げるときは会社の金庫の中身も無くなっていましたな。

彼ら金融ブローカーはその後どんな人生があったのか、推して知るべしです。

そうして会社もクリーンになり、私も2年後には店長に10年後には部長に昇格、貸付残高は100億を超える会社に成長です。

が、いいことばかりはつづきませんな。

消費者金融の過払い問題は、法廷での争いで過払い認定をされるようになります。

消費者金融の貸付金利はこの頃年利29.27% 古くは年利54.75%です。貸金業法という法律で業者登録されていれば許されていたのです。

それに対し法律に基づく一般貸し借りの金利は約18%でした。

サラ金問題が顕在化した当時、無法の個人貸付を取り締まる議員立法による時限的な法律による金利です。

10万円借りたら年間約3万円近くの利息を払わなければならなかったのです。

闇金もご存じかと思いますが、法律は関係なく十一と言われる10日で1割の金利などもあります。

世の中の闇は今も健在です。

過払い問題が最高裁判決により、業者が多くとりすぎた金利を消費者からの訴えによりお返ししなければならなくなりました。

それからというものの街中にあった消費者金融の看板が消え、業者はほとんど壊滅しました。

私もまた七転び八起の人生を歩むことに・・。


だるま親爺の履歴書 資格編

2024年07月11日 | ストーリー

だるま親爺はいくつかの資格を持っています。

まず初めに、高校を卒業して大学受験に失敗(国語・英語力がなかったもので・・。)しただるま親爺は経理の学校へ2年通いました。将来自分で商売をしたいと思っておりましたので。

資格は日商簿記2級を取得、1級は怠けて失格以後放置。

この頃、アルバイトをしていたファミレスの調理経験から大阪あべのの調理師学校で調理師免許を取得。

大型客船のコックにあこがれていましたな。

しかしながら進路指導の先生に船のコックは火の取り扱いが限定されていて、料理の勉強にはならないと言われました。

しばらく資格とは縁もなくなっていましたが・・。

消費者金融時代に、不動産担保ローンを担当することがあり、宅建の資格に興味を持ちました。

30歳のころ大した勉強もせず惨敗です。

40歳の頃将来のことも不安だったものですからファイナンシャルプランナー2級を受験やはり惨敗。

これはいかん大学も出ていないだるま親爺は資格くらい持っておかないといかんと思い猛勉強。

一念発起して、参考書、問題集を買いあさります。

家計簿作成からの人生設計、税金のことから貯蓄、保険、住宅ローンのことなどなど幅広く勉強します。

資格取得にもなりますが、自分自身の人生設計に役立ちます。

晴れて2級合格後は日本AFP協会のAFP資格も取得しますが、こちらは勉強を継続しなければいけません。

セミナーの参加、定期冊子の購入とその問題集を解いて協会へ提出などめんどくさがり屋の私は5年くらいで資格放棄しました。

資格取得に勢いがついたもので、どうせやるなら・・と宅地建物取引主任者(今は宅地建物取引士)に再チャレンジと行政書士にもチャレンジ。

民法の問題は勉強をする時に重なり相互理解してより効率的に勉強できると思いました。

偶数月は宅建、奇数月は行政書士の勉強をしました。

猛勉強半年で、みごと宅建に合格。行政書士は駄目でしたな(記述問題があり国語力がやはり原因)。

しかし、行政書士の勉強をすることで一つ上の民法の問題を解いていたので、宅建が今回は一発で合格することになりました。

やればできる、人生七転び八起きじゃあ。

こうして私の人生を資格がサポートしてくれたのです。

今チャレンジしているのは、心理カウンセリング。まったく新しい分野です。

これからの人生では人のお役にたてることを・・・・と考えているだるま親爺はこの勉強を生かそうと考えています。


だるま親爺の履歴書 仕事編Ⅱ

2024年07月05日 | ストーリー

だるま親爺は26歳で結婚をしましたな。

結婚を機にかねてよりの夢お店を持つことにしました。

世間一般ではバブル絶頂の時期、怖いもの知らずでした。

調理師免許はあるものの厨房での修行からマネジメントの経験に変更しただるま親爺。

お店は、珈琲専門店からのいろいろな展開を・・・考えていました。

珈琲専門店は何よりもお店の雰囲気づくりと接客姿勢と考えておりましたので、

看板となる家具として英国アンティークのミラーバックサイドボードを備え付け。

床は濃いブラウン系のフローリング。テーブルや椅子も木製の同系色のものを。

縁あって珈琲カップは山形の平清水焼 七右衛門窯を使用。

参考: 七右エ門窯 | 山形 平清水焼の窯元

BGMは懐かしいポピュラー音楽を流しました。

和・洋取り交ぜた落ち着ける空間です。

すぐに常連さんも増えて自分らしい自分のお店をもって良かったなと実感。

お店も初月からの売上はまあまあで、計画通りのつもりでした。

ところが、バブル絶頂期が突然の崩壊。

今でも何が何だかわからずに夢の珈琲専門店は1年で経営破綻となりましたな。

破綻の原因は金利です。

銀行の借入金利は当初年4%これが一年後には3倍の年12%です。

1500万の借入で年間の利息払いが180万円

月の売上が40万円くらいで約4.5か月分利息のために働くことになっていました。

経営は一年間様子を見ながら次のステップを踏むという算段でおりましただるま親爺は大誤算。

このままお店をやっていたら破産しなければいけなくなる状況です。

いや、実際生きていくのもしんどくなりましたな。

夢破れてお店を畳むことになりましたな。

バブル期に大笑いした人も多かったでしょうけど、バブル崩壊後の大泣きした人はさらに多かったと思います。

こんな時期、何もしないでいられたら平和な人生だったかもしれません。

この後には金利で大きく稼ぐこともできたでしょうから。

ま、後悔はしていませんよ。

だるま親爺は、「七転び八起き」をモットーにしていますのでな。


だるま親爺の履歴書 仕事編

2024年06月30日 | ストーリー

だるま親爺はどうも一つ所に定まらずいろんな仕事をしてきましたな。

初めての仕事はアルバイトでファミレスの調理担当です。

アルバイト時代には住み込みでスキー場でのフロント兼お部屋のお掃除、お風呂のお掃除、たくさんの雑用もこなしました。

ファミレス経験から、料理の面白さを知り調理師学校を経てステーキ屋さんに就職です。

ところが、すぐに調理場には入れないのが有名なレストランなどの常でしてフロアーでのウェイター経験からのスタートです。

将来、店を持って独立が夢だった私にこの会社の偉い方たちから、もっと接客やマネージメントを勉強した方がよいと勧められウェイターとして更にお仕事をすることになりました(コックの道が・・・)。

接客の面白さを知った私はウェイター修行のため都内のホテルに配属できる配膳事務所(ウエイターの派遣会社)からホテルで働くようになりました。

派遣の主なお仕事は、結婚式場でのお料理お飲み物のサービスです。

この当時のだるま親爺は若くはつらつとしていたものですから、すぐに料理担当から宴会場の責任担当者となりました。

主に結婚式披露宴会場のキャプテンと呼ばれるお仕事です。新郎新婦の入場、退場から宴会の進行、お料理のサービスのタイミングなどを含めた調理場との連携、お飲み物の追加などお客様との打ち合わせなども行います。

披露宴のお時間は約2~3時間忙しい日は一日に3回も披露宴を担当します。朝早くから夜は10時ころまで、宴会と宴会の間には「どんでん」と呼ばれる会場のレイアウト変更から和食なら料理のセット、洋食ならお皿ナイフフォークのセッティングと休む間もなく働きます。

今では考えられないくらいハードです。

でも毎日が充実して楽しかったな。

今日はこれまで、七転び八起きだるま親爺の履歴書は続く。