思想家吉本隆明の著作の中に、子供達の問題や学校、あるいは教育を扱っているまとまった教育論はない。対談や口述による出版物を拾い集めて整理し、私の考えをまとめてみた。
今回は、中でも「十三歳は二度あるか」と「家族のゆくえ」を参考に、現在、社会問題となっているいじめや被害者生徒の自殺をテーマとしてみた。
いじめは大人の社会でも存在し、学生時代に限ってはいない。ただ少年少女期(彼は学童期という言葉をあえて使っていない) には、言動で露骨に相手を傷つけることをいとわない。相手が自分たちと異質なものを持っていれば、それに違和感を感じるものの、相手の心に思いやり、大人なら受け入れる。それが精神の未成熟な段階では、まずそのことに気づいて指摘し、言動に出して攻撃にまでエスカレートし、排除してしまう。
一九八〇年頃から報道では「いじめる」が「いじめ」という語に変わり始め、八六年に集団が個人を追い詰めるいじめで自殺者が出ている。評論家芹沢俊介は著書「いじめが終わるとき」で指摘しているが、いじめの被害者の周辺は、三層の集団が荷担する参加型の構造だと分析している。いじめの三要素として、①標的を特定化する。②身体への暴力、あるいは心への暴力とがある。③反復継続的に行われる。また傾向として、学校は認識が甘く、いじめへの危機感が欠如し、またいじめ自体を厄介視し、見て見ぬふりをする傾向があるという。不用意な教員の対応が、逆に、いじめられる被害者側に対してエスカレートし、ますます孤立化して居場所を奪われてしまうこともあるという。また荷担する生徒達は、集団に帰属することで自分の安心感を保っているようだ。
個人の性格を決定するのは、胎児期の七~八ヶ月から二歳位までの乳児期における母親との関わり方にあるというのは吉本の持論だ。母が育児が面倒だと思いながら接したり、夫や近親者に不満や不安を持続的に感じながら接していると、子供の意識の核の部分に決定的な悪影響を与えてしまう。その具体的な結果が思春期に現われてくる。そのひとつに「いじめ」の行為はある。犯罪を犯したり、他人を傷つけたりする子供達は、乳胎児期に親から十分な愛情を受けていないために、相手への思いやりの気持ちや、相手の立場に立って考える力を十分持ちあわせていない。それが原因で実行行為を犯していく。そのときになってから、子供を責めても、もはや手遅れということになる。また知り合い同士で感情的な関わりがある場合は、一方的に加害者側に責任があるとばかりはいいきれない。特に暴力事件では、双方性がある場合が考えられる。まして、いじめは加害者達が相手の立場に立ち、同じ思いを共有できるという対人関係の取り方に、大きな欠損があることはいうまでもない。それは乳胎児期の母の刷り込みに、問題がある。ただ、解決が困難なのは、社会全体との関わりの中で、なんらかの不満や加害意識、排除や執拗な嫌がらせ行為などを学習しているからだ。社会の根底から、これらの差別意識を伴う不満が発生する根拠が消失してしまわない限りは、いじめが根絶されることはない。すべては社会的背景に原因が潜んでいる。
二歳未満の赤ん坊はもちろんのこと、それ以後も子供は親の精神状態の強い影響を受けていくことは間違いない。親が精神的に不安定だと、子供も精神的に不安定になる。親が無意識に「死にたい」と思っていていれば、子供も死の方へと心は傾きやすくなってしまう。つまり自殺を選択してしまう理由は、子供自身の内部ではなく、親の無意識の中に潜んでいる。また、子供の心の中に入り、子供の不安や絶望を支える
だけの愛情を持てていないか、育児環境の中で子供と心の共有が少ないために、本人を孤立させてきていることに原因がある。
旧来の日本式の育児法は、子供が自分である程度自立行為ができる様になるまでは、添い寝をして母乳から排泄の世話、身の回りの育児のすべてを関わることで、育てていた。ところが最近は〇歳児保育や欧米式の育児も浸透し、子供は実母からの深い愛情をたっぷり受けることなく育てられている。ここにも、精神の形成過程の変化の影響が出てきていると考えざるを得ない。
つまりいじめをする子供や、自殺をしてしまう子供達は、彼ら自身に責任を求めることはできない。心が傷つけられている子供は、自分を、或いは自分の命を大切にするという観念が植え付けられてはいない。また、自分自身を慰める自己慰安の力や、目の前に立ちはだかる壁を越える意欲や努力を、生き抜く力で打破することができない。当然、核家族という孤立した家族環境が、その原因でもある。こうした新しく生じてきた都市化の流れが、時代病として私たちの心の中を蝕んでいることは確かだ。その氷山の一角が、子供達のいじめや被害者の自殺行為として噴出してきている。
現在、無差別殺人が社会現象になっている。調べてみると、犯人の子供の頃の母親の育て方があまりにも狂気じみていることが分かる。つまり、子供達の異常性は、実は母親達の世代が非常識かつ正常ではなくなにってきていることに原因があるからだ。当然、子供達と接している学校も学校制度や教育の中身或いは教師の意識の変化にも、それらの原因の一端が考えられる。
義務教育は生徒達を強制して通わせる制度だ。強制する以上は、そこに通う生徒達の安全の確保も含め、一人一人の心を抱え込み、全責任を持つという意識が求められる。報道では、いじめを見過ごしたり、間接的にでも荷担するような教師像が出現している。事実を隠蔽し、あるいは虚偽から黒を白にしたりと、教育関係があるべき人としての見本を示すどころか、最悪の手本を子供達の前で演じているではないか。率先垂範すべきなのに、こうした態度を心から是正できない限り、いじめが消えることはないと断言できる。
国の組織が政府、各省庁を頂点に、地方自治体、その構成員たる国民で、最下層に国民がいる。学校という組織も、その鏡のように文科省の大臣を頂点に、官僚、地方自治体の教育委員会、各学校長から末端は生徒と保護者になっている。国民と生徒は、実質的にピラミッドの底辺に置かれている。この組織機構を逆転し、逆ピラミッドの組織が成り立つことができれば、時代は大きく転換していけるはずだ。次回では学校の在り方について取り上げよう。
今回は、中でも「十三歳は二度あるか」と「家族のゆくえ」を参考に、現在、社会問題となっているいじめや被害者生徒の自殺をテーマとしてみた。
いじめは大人の社会でも存在し、学生時代に限ってはいない。ただ少年少女期(彼は学童期という言葉をあえて使っていない) には、言動で露骨に相手を傷つけることをいとわない。相手が自分たちと異質なものを持っていれば、それに違和感を感じるものの、相手の心に思いやり、大人なら受け入れる。それが精神の未成熟な段階では、まずそのことに気づいて指摘し、言動に出して攻撃にまでエスカレートし、排除してしまう。
一九八〇年頃から報道では「いじめる」が「いじめ」という語に変わり始め、八六年に集団が個人を追い詰めるいじめで自殺者が出ている。評論家芹沢俊介は著書「いじめが終わるとき」で指摘しているが、いじめの被害者の周辺は、三層の集団が荷担する参加型の構造だと分析している。いじめの三要素として、①標的を特定化する。②身体への暴力、あるいは心への暴力とがある。③反復継続的に行われる。また傾向として、学校は認識が甘く、いじめへの危機感が欠如し、またいじめ自体を厄介視し、見て見ぬふりをする傾向があるという。不用意な教員の対応が、逆に、いじめられる被害者側に対してエスカレートし、ますます孤立化して居場所を奪われてしまうこともあるという。また荷担する生徒達は、集団に帰属することで自分の安心感を保っているようだ。
個人の性格を決定するのは、胎児期の七~八ヶ月から二歳位までの乳児期における母親との関わり方にあるというのは吉本の持論だ。母が育児が面倒だと思いながら接したり、夫や近親者に不満や不安を持続的に感じながら接していると、子供の意識の核の部分に決定的な悪影響を与えてしまう。その具体的な結果が思春期に現われてくる。そのひとつに「いじめ」の行為はある。犯罪を犯したり、他人を傷つけたりする子供達は、乳胎児期に親から十分な愛情を受けていないために、相手への思いやりの気持ちや、相手の立場に立って考える力を十分持ちあわせていない。それが原因で実行行為を犯していく。そのときになってから、子供を責めても、もはや手遅れということになる。また知り合い同士で感情的な関わりがある場合は、一方的に加害者側に責任があるとばかりはいいきれない。特に暴力事件では、双方性がある場合が考えられる。まして、いじめは加害者達が相手の立場に立ち、同じ思いを共有できるという対人関係の取り方に、大きな欠損があることはいうまでもない。それは乳胎児期の母の刷り込みに、問題がある。ただ、解決が困難なのは、社会全体との関わりの中で、なんらかの不満や加害意識、排除や執拗な嫌がらせ行為などを学習しているからだ。社会の根底から、これらの差別意識を伴う不満が発生する根拠が消失してしまわない限りは、いじめが根絶されることはない。すべては社会的背景に原因が潜んでいる。
二歳未満の赤ん坊はもちろんのこと、それ以後も子供は親の精神状態の強い影響を受けていくことは間違いない。親が精神的に不安定だと、子供も精神的に不安定になる。親が無意識に「死にたい」と思っていていれば、子供も死の方へと心は傾きやすくなってしまう。つまり自殺を選択してしまう理由は、子供自身の内部ではなく、親の無意識の中に潜んでいる。また、子供の心の中に入り、子供の不安や絶望を支える
だけの愛情を持てていないか、育児環境の中で子供と心の共有が少ないために、本人を孤立させてきていることに原因がある。
旧来の日本式の育児法は、子供が自分である程度自立行為ができる様になるまでは、添い寝をして母乳から排泄の世話、身の回りの育児のすべてを関わることで、育てていた。ところが最近は〇歳児保育や欧米式の育児も浸透し、子供は実母からの深い愛情をたっぷり受けることなく育てられている。ここにも、精神の形成過程の変化の影響が出てきていると考えざるを得ない。
つまりいじめをする子供や、自殺をしてしまう子供達は、彼ら自身に責任を求めることはできない。心が傷つけられている子供は、自分を、或いは自分の命を大切にするという観念が植え付けられてはいない。また、自分自身を慰める自己慰安の力や、目の前に立ちはだかる壁を越える意欲や努力を、生き抜く力で打破することができない。当然、核家族という孤立した家族環境が、その原因でもある。こうした新しく生じてきた都市化の流れが、時代病として私たちの心の中を蝕んでいることは確かだ。その氷山の一角が、子供達のいじめや被害者の自殺行為として噴出してきている。
現在、無差別殺人が社会現象になっている。調べてみると、犯人の子供の頃の母親の育て方があまりにも狂気じみていることが分かる。つまり、子供達の異常性は、実は母親達の世代が非常識かつ正常ではなくなにってきていることに原因があるからだ。当然、子供達と接している学校も学校制度や教育の中身或いは教師の意識の変化にも、それらの原因の一端が考えられる。
義務教育は生徒達を強制して通わせる制度だ。強制する以上は、そこに通う生徒達の安全の確保も含め、一人一人の心を抱え込み、全責任を持つという意識が求められる。報道では、いじめを見過ごしたり、間接的にでも荷担するような教師像が出現している。事実を隠蔽し、あるいは虚偽から黒を白にしたりと、教育関係があるべき人としての見本を示すどころか、最悪の手本を子供達の前で演じているではないか。率先垂範すべきなのに、こうした態度を心から是正できない限り、いじめが消えることはないと断言できる。
国の組織が政府、各省庁を頂点に、地方自治体、その構成員たる国民で、最下層に国民がいる。学校という組織も、その鏡のように文科省の大臣を頂点に、官僚、地方自治体の教育委員会、各学校長から末端は生徒と保護者になっている。国民と生徒は、実質的にピラミッドの底辺に置かれている。この組織機構を逆転し、逆ピラミッドの組織が成り立つことができれば、時代は大きく転換していけるはずだ。次回では学校の在り方について取り上げよう。