Kの理論 「華麗なるブレイクアウト」 Breakout Magnificent.

脱走・・・ただ道は一つ。いつも道に一人。万人は来ない。脱線し続けるサイボーグ社会からの脱出。

ジャスト・ロード・ワン  No.35

2013-10-17 | 小説








 
      
                            






                     




    )  弥勒の1√2  ②    Mirokuno1√2


  沖縄本島から宮古海峡を経て南西に約290km、宮古島は直角三角形のような形をした島である。
  宮古島空港に着くと比江島修治は七色の日傘を開きながら漲水御嶽(ぴゃるみずうたき)と、ニコライ・A・ネフスキーの面影を泛かべた。そしてその眼にはもう一人の異国人を泛かべていた。すると白蛇にまかれて映る御嶽のそこに、滔々と豊かな水を奔らせる、とある疏水の流れが泛かんできた。そのとき修治は、雨田博士と駒丸扇太郎の会話を思い出していた。



                                     



「 太古以来明治維新まで荒地のまま放置されていた原野がある!・・・・・ 」
  想い浮かべたもう一人の異国人の名をファン・ドールンという。オランダ人土木技師である。1872年2月にファン・ドールンは来日し、お雇い外国人として契約を結んだ彼であるが、明治政府から求められていたのは全国各地の港湾・河川の整備であった。彼は日本初の科学的な水位観測を行なっている。そのドールンの姿を想い浮かべると、そこには幻の港湾「 野蒜築港(のびる築港)」が揺れるように重なっていた。これは日本初の近代港湾の建設であり、明治政府による東北開発の中心的な事業「仙台湾(石巻湾)に面する桃生郡の野蒜村(現・東松島市)」と位置づけられていたが、完成から3年後に台風で突堤が崩壊し、施設はそのまま放棄された。



  明治維新によって江戸幕府は崩れ去り、世相は一変するのだが、同じく水源が乏しく荒涼とした原野が広がる安積地方も一変した。
  それまで東北地方は永く後進性から脱しきれず開発が遅れ、戊辰戦争による後遺症がまださめやらぬ明治4年(1871年)新しい行政のもとに県が置かれ、安積地方は二本松県となり、直ちに福島県に変わることになった。
  そしてり明治9年(1876年)福島・若松・磐前の三県が合併し、福島県が誕生した。
  失業して生活に困窮する士族を救済する士族授産、食糧増産により富国強兵を国策とする明治政府は、全国より二千戸を移住させ、安積原野を開拓する計画を樹立、これが安積原野開墾事業である。



  この開墾事業を成功させるため、日本海に流れる猪苗代湖の水を、奥羽山脈を貫き安積原野に導く猪苗代湖疏水事業が明治12年(1879年)に着工され、十六橋水門を手始めに、沼上隧道590mを含めた水路130kmは3年後の明治15年に完成した。
  奥州街道の一宿場町であった郡山は「 安積三万石 」といわれ、用水不足に悩まされ、当地に豊かな水をもたらそうと苦心した人に、二本松領下長折の渡辺閑哉や、須賀川の小林久敬などがいた。
 明治6年安場保和旧福島県令のもと、中條政恒は生活に困窮する二本松藩士の入植と、地元郡山の豪商らを説得し開墾事業に着手、数年にして100ha余の開墾ができた。この地を明治9年に訪れた内務卿大久保利通は、この開墾の成功と入植者による桑野村の誕生を見て、大いに心を動かしたのだ。当時の政府は失業した士族の相次ぐ反乱が起こり、士族授産と殖産興業の解決策にせまられていた。そのため全国からの士族を入植させ猪苗代湖からの導水を図る疏水事業が急がれていた。



「 大久保利通か・・・・・! 」
  阿部家の伝承を白銀比に織り上げることに苦心する雨田虎哉には、万寿寺裏の笛蔵で駒丸扇太郎が語り聞かせた大久保利通像が最期まで眼の奥に焼き付いていたのだ。その大久保が暗殺されたのは明治11年5月14日のことであった。
「 大久保利通を水神として祀る大久保神社が、福島県郡山市にある・・・・・! 」
  郡山といえば幕末は天領の地、大久保は安積疏水(あさかそすい)を完成させた立役者の一人である。

                            

「 それがかの、紀尾井坂(きおいざか)の変だ。大久保が暗殺時に乗っていた馬車は、後に供養のため遺族が岡山県倉敷市の五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)に奉納して現存する。この修験道の寺院は本尊を十一面観音、天台修験系の一宗派である五流修験道の総本山で、そして南北朝時代に後醍醐天皇を奪還しようと試みた児島高徳(こじまたかのり)は当地の出身である。この一連は阿部家に連なっている! 」
  扇太郎の口調を泛かべる博士は、眼に、桜の一樹に彫られた十文字の漢詩を泛かばせた。
「 天莫空勾践 時非無范蠡・・・・・ 」
  後醍醐天皇は、先の元弘(げんこう)の変に敗れ隠岐(おき)へ遠流となる。
  このとき児島高徳は、播磨・備前国境の船坂山において一族郎党二百余騎で佐々木導譽(ささきどうよ)ら率いる五百騎の天皇護送団を強襲し、後醍醐天皇の奪還を画策した。しかしこれは、天皇一行の移動ルート誤判によって失敗に終わる。そのため高徳は天皇一行を播磨・美作国境の杉坂まで追うものゝ、そのときすでに天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近へ達しており、完全な作戦ミスの前に、奪還の軍勢は雲散霧消して終えた。
  その際に、高徳たゞ一人が、天皇の奪還を諦めず、夜になって院庄の天皇行在所・美作守護館の厳重な警備を潜り侵入する。やがて天皇宿舎付近へ迫るも、だがそれまでの警備とは段違いな警護の前に、高徳は天皇の奪還を断念する。このとき高徳は傍にあった桜の木へ小刀で『 天莫空勾践 時非無范蠡 』と、漢詩を彫り入れた。
「 天は春秋時代の越(えつ)王・勾践(こうせん)に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡(はんれい)の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう・・・・・ 」
  と、いう漢詩を桜木に彫り入れる。こうして高徳は、この十字詩の意志と共に天皇を勇気付けた。するとちなみに朝になり、桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は、そこに何と書いてあるのかが解(げ)せなかった。そして外が騒々しいために、何事か仔細を聞いた後醍醐天皇はその桜の木彫りをみて、天皇のみ、この漢詩の意味が理解できた。



「 しかし、そう伝えられるが、その陰に阿部一族の一働きの影があった。桜木に彫られた、天勾践(こうせん)を空しうすること莫れ、時に范蠡(はんれい)の無きにしも非ず、の漢詩にある言葉通り、翌年に名和長高ら名和氏の導きにより天皇は隠岐を脱出、伯耆国船上山において挙兵した際には、高徳も養父とともに赴いて幕府軍と戦い戦功を挙げたとされるが、しかしその論功行賞の記録には高徳の名前が無い。だがそれで児島高徳の否定説とするのでは無い。こゝは阿部家伝の覚書に一つの裏付けがある。これを根拠とすると、范蠡(はんれい)とは阿部家第八代范衛門(はんえもん)、そうしてこの伝承の闇は晴れたことになる・・・・・! 」
  虎哉博士は、そう闇を晴らした眼をまたそのまゝに、五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)へと向けた。
  笛蔵の壁棚をのぞき七万種あるという蔵屋敷で、一連する大久保暗殺の一件に扇太郎の話が及んだとき、虎哉は魔窟にでも踏み込んだような恐れを感じた。そのときの扇太郎の口ぶりに泛かぶ五流尊瀧院の光景とは、虎哉の眼に、じつにリアルな血痕となった。
  その眼にはまず、五流尊瀧院には頼仁親王(よりひとしんのう)の御庵室があり、庭内に「 この里にわれいくとせかすごしてむ乳木の煙朝夕にして 」と親王の歌碑がある。後鳥羽天皇の皇子は承久(じょうきゅう)の乱で備前国児島へと流された。そして院内会館には一太刀の血痕を刻み込んだ明治の古馬車が遺されていた。それは現在うるしも剥落し、経年の変化に依る損傷が著しい明治初期の馬車である。
「 血痕と島田一郎が振り上げた日本刀が当たった痕跡が130年弱経過した今日でも判っきり解る状態。大久保利通殺害時の際に犯人が使用し警視庁が証拠品として押収した日本刀。先端部分刃先が欠損しているのは、犯人の島田一郎が刀を振り上げた際に、大久保利通が乗っていた馬車に当り折損したのが原因。警視庁に依り証拠品として押収され保管されていたもの。刀に僅かな曇が見られる。関東大震災の際に警視庁本庁舎が被災炎上の際も無事。警視庁本庁舎特別資料室保存。一般非公開。特別公務用務者以外、部外者の警視庁本庁舎内部は一切立入不可 」
  と、馬車の右扉付近に一太刀の血痕をこう記している。



「 その暗殺時の馬車、その骨格材がイブキなのですよ!。しかも馬は八瀬の駒・・・・・! 」
  と、語りかけた扇太郎の眼は一段と輝きを増していた。
  そして阿部家覚書にはイブキが使用されるに至るその経緯をつゞる。また覚書には郡山の大久保神社に関わる水神について記されていた。これらは幕末から明治初期の阿部家第二十三代清衛門と次代秋一郎の出生に関わるのであった。
「 そうか・・・・・!、あの五人の修験道がいた・・・・・ 」
  漲水御嶽(ぴゃるみずうたき)へと向かう比江島修治はふと、京都・茶碗坂の古書院「冬霞」の主人を含む聖護院五流神道の修験者のいることを思い出した。それは音羽一郎(五玄)、笠羽二郎(五寿)、白羽三郎(五真)、鷲羽四郎(五学)、出羽五郎(五芳)の面々である。岡山県倉敷市の五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)が彼らの総本山であった。

                                  


  修験道の寺院「五流尊瀧院」は天台修験系の一宗派である。
  修験道の祖と言われる役小角(役行者)は、文武天皇3年(699年)朝廷より訴追を受け、熊野本宮に隠れていたが伊豆大島に配流された(続日本紀)。伝承によれば、この際、義学・義玄・義真・寿玄・芳玄ら5人の弟子達を中心に熊野本宮大社の御神体を捧持したとされる。そして彼ら5人は3年にわたり各地を放浪し、役小角が赦免となった大宝元年(701年)3月、神託を得て現在の熊野神社の地に紀州熊野本宮を遷座し、5人の高弟それぞれが尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の五流の寺院を建造した。中でも尊瀧院が中心寺院となった。さらに時代は下り明治時代になると神仏分離令により、十二社権現は熊野神社となり五流尊瀧院と分離した。明治5年(1872年)修験道の廃止に伴い天台宗寺門派に属する。太平洋戦争終結後は、天台宗より独立し、修験道総本山となった。 

                                     


「 さて・・・・・、この大久保暗殺の一件、阿部家伝にどう書き遺すか・・・・・! 」
  雨田博士は、数多くの修験道が阿部家の門を法螺貝ほらがいの音で叩くのを覚えた。そして阿部家にて毎年、黄蘗(きはだ)の花を草木染めにして黄海松茶(きみるちゃ)の細縄をない最多角念珠(いらたかねんじゅ)にその荒縄を結いつける光景を泛かべた。
  大久保利通は近代国家としての日本の基礎を築き版籍奉還や廃藩置県を断行する。しかしこれは明治維新の推進力となった士族勢力の意思に沿うものではなかった。彼らの多くは攘夷のために江戸幕府を倒したのだ。だが新政府は一転して諸外国との通商を国是とし、さらには士族の身分をも取り上げようとした。各地で士族の反乱が起こる。大久保はこれを鎮圧した。
  この遺恨が大久保暗殺に至るトリガーとなる。
「 しかし京都の阿部一族はこの大久保を陰で加勢した・・・・・! 」
  大久保利通と西郷隆盛とは、敵対勢力の首領となるが、この西南の役でも阿部一族は大久保に加担する。
  その大久保は怜悧(れいり)と評されるが、第二十三代阿部清衛門は、その大久保らしくある怜悧さを、維新の本質を露光する悧発(りはつ)だと捉えた。大久保に、倒幕の齎(もたら)した維新、齎そうとする未来への証明を求めた。世の弛緩(しかん)に対し清衛門は炯眼(けいがん)で穎悟(えいご)であった。つまり、すでに日本の士族が軍隊の世界標準と比較して完全に時代遅れであり、外国の植民地になりたくなければ解体しなければならなかったことを十分承知していたのだ。



「 阿部清衛門は、その大久保を神荼鬱塁(しんとうつりつ)の水神にして祀る。それは阿部家の守り神でもある!・・・・・ 」
  雨田博士はしかし、この大事件の多くを記し止めるにはすでに余命幾許もなく郡山大久保神社へと足を運ばす気力の余白はもう尽きかけていた。精根はもはや白々とあやかだが、その気力を振り絞る眼にはたゞ、明治10年代の明治政府において、大久保利通亡き後、国会開設運動が興隆するなかで、政府はいつ立憲体制に移行するかという疑問が持ち上がっていたのだが、どこの国の制度を参考にするかの問題は、虎哉に遺恨のごとく湧く戦禍の痛恨すら感じさせる大関心事だった。
「 天の理に、大久保暗殺を否定されゝば、かの大戦は否決されて消え、鎮火したのではないか! 」
  1881年の政変、結果として自由民権運動や大隈の唱えるフランス流やイギリス流は否定された。そして施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とするものであった。天皇が君主であらせられることは建国以来の伝統ではある。
「 しかし、この君主大権を規範した憲法の制定以後、日本国はたゞ淡々と開国殖産政策を進め、対大戦をも帝軍国の威力で淡々と進軍をみせた・・・・・ 」
  結果、戦禍の残虐を雨田虎哉は体験したのだ。そして反動の陰場にて、博士には暗殺される当日朝の大久保利通と阿部清衛門との、二人の面影が揺れ動くのであった。
「 5月14日午前7時、清衛門は、三年町裏にある大久保邸で二頭立て馬車の手配と点検を終えた後に、御者(ばしゃひき)の中村太郎を激励し、大久保に一言の挨拶を残して京都へと引き返した・・・・・ 」
  その少し前の5月14日早朝、大久保は福島県令山吉盛典の帰県の挨拶を受けた。
  二人は安積疏水の進捗について語り、そして話は二時間近くに及び、その山吉が辞去しようとしたときに大久保は三十年計画について述べている。これは明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として戊辰戦争や士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期として、大久保自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べるものであった。
                            
「 そして午前8時ごろに、大久保利通は、麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発。明治天皇に謁見するため、点検を終えた馬車で赤坂仮皇居へと向かった・・・・・ 」
  博士の逝きそうな眼には、その大久保が紀尾井坂(きおいざか)へと差しかゝる三十年計画を抱えた怜悧な残像が痛切にある。そして博士が、かの大戦を仮に空白として一体何をもって埋め償うべきかと、逝く眼をしばし堪(こらえ)たとき、大久保の影はたゞ切実残念に遺された。
「 午前8時30分、紀尾井町清水谷(紀尾井坂付近。現在の参議院清水谷議員宿舎前)において、暗殺者6名が大久保の乗る馬車を襲撃した。日本刀で馬の足を切った後、馬車を引く御者の中村太郎は喉を突かれ刺殺、次いで乗車していた大久保を馬車から引きずり降ろした。大久保は暗殺者らに無礼者と一喝したが、瞬時に斬殺され、介錯として大久保の首を突き刺した兇刃(きょうじん)は地面にまで突き刺さっていた 」
  このとき初代内務卿・大久保利通は全身に16箇所の傷を受ける。
  その内の半数は頭部に集中していた。事件直後に駆けつけて遺体を確かめた前島密(まえじまひそか)の言葉を借りると「 肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動する 」と悲鳴するごとく残虐な殺刃痕であった。

                       

  5月17日、青山墓地に設けられた祭典場で大久保の葬所式が行なわれ、ともに中村太郎および馬の遺骸も、大久保のすぐかたわらに埋葬された。この埋葬の一陰にいて阿部清衛門は涙眼のまゝ呆然とたゞ立ち尽くした。
  中村は大坂の生まれだと本人は語るが、親のない名もない捨て子であったのを拾ったのは清衛門である。鳥羽伏見の戦闘、その折に東福寺境内の法堂前に赤児が一つ転がっていた。伝えでは赤児は、大久保に拾われて「 中村太郎 」の名を与えられたという。そう清衛門が願って申し出た通り、7歳となった阿部家の太郎は以後、中村姓を名乗らせた大久保によく仕え、二頭立ての馬車を引く際には御者を務めたのだ。
「 東福寺のイブキの下で太郎と命名した、その赤児を泛かべながら清衛門は泣いた・・・・・ 」
  その古老の一樹が博士の最期の眼のなかにある。
  そして眼は見開きのまゝ合掌した。雨田君子が眠らないその父虎哉の眼をそっと手で閉じたのは、しぐれ雪の降る午前5時であった。
「 日本人は勘違いすべきではなかった。いつまでも米国と結び合う日本の将来とは不安だ!。眼には、ペリー艦隊の旗艦ポーハタン号に掲げられていた星条旗が三度みたびはためく・・・・・! 」という阿部富造のいゝ遺した言葉を耳に篭らせ、香織の整えた羅国(らこく)の香りを聞きつゝ雨田虎哉は、遺言として白銀比の数式で、山端に奏でる旋律を一冊の現代風土記につゞり終えた後、雪闇に儚(はかな)くたゞ幽(かす)かな氷輪の下、西行のごとくしずかに永眠についた。









                                      

                        
       



 安積疏水











ジャスト・ロード・ワン  No.34

2013-10-15 | 小説








 
      
                            






                     




    )  弥勒の1√2  ①    Mirokuno1√2


  人は自分の中から「 迷い 」を撃退することほど難しいことはない。比江島修治も思いあたる迷走が大いにある。しかしそんな修治は雨田博士より「現代」から「古今」への転換をはかることこそを学んだのだった。
  だが博士ほどの柔軟な志をもった者でも、人生半ばにしてそれでも失望や痛痒を感じたり、天望から見放されてみなければ、この方式による刺激を実感できないことだったのかもしれない。それほど「無」を読むということは難しい。古今へと還る姿勢をそれなりに新鮮にしつづけることは至難なことだ。そこには修治が「 無為自然 」を感じるという作業が待っていた。しかしそれが一筋縄でいくはずがない。
「 やがて朝露の滴る窓ガラスの上に、秋子の白く細い指先が手短な平和という文字を描き、手招きで誘う夢をよくみるようになった。戦後日本の資本主義から生まれた、あの鳩は一体どうしたというのか・・・・・ 」
  と、未だどうしても噛砕けなく、以来、神妙なその潮騒の揺らぎに修治の資本主義は狂おしく曵かれ続けている。
  いつも秋子の伍円笛(ごえんぶえ)の音色と逢う度に、雨田虎哉が「 焔の帆(ほのほのほ) 」の赤い火の船に載せられたのと同じごとく修治は、赤鉛筆でラインを引いた学生当時の、すっかり変色した古典の教科書をいま怖るおそる開いて、古今へと眼を遠くさせられているように、深い時間に曳き戻されてはまるで赤い紅葉が降り落ちた跡が、赤黒い古細菌の化石のようになっているかのような錯覚を抱いている。




「 志があれば利刃のごとく百邪を払うことができる・・・・・ 」
  と、阿部家の家伝ではそういうが、そうそう魂魄になどなれそうにもない修治は、たゞ宮古島へと目指し那覇空港を離陸した。
  雨田博士が還ろうとした奈良は日本仏教の萌芽の土地であるが、その仏教は過去・現在・未来の三世にわたって報応報恩を説く。雨田博士はそのころの日本仏教は十分な理論や構想をもてなかったのに、後にそれを果たしたのは浄土教や禅ではなかったのかという、修治が今機上において考えるのは、その指摘である。修治は何と5年前に、ようやくこの指摘を新鮮に感じたのだった。
  西方浄土というが、宮古島は那覇よりさらに西になる。修治はさらにその西方に向かおうとした。

                                

「 すでに日本人は浄土観すら失っている・・・・・。それはそうだろう・・・・・ 」
  兜率天にいる弥勒は、未来のいつの日にか人間の住む閻浮提(えんぶだい)に降りてくることになっている。これを「下生」(げしょう)という。降りてくるといっても、人間が8万歳になったときに下生するというのだから、気が遠くなるほどの先である。これがいつしか56億7千万年後の下生ということになった。
「 シッダッタの入滅後56億7千万年後の未来に姿を現れて、多くの人々を救済するとされる・・・・・ 」
  だから弥勒は未来仏なのである。
  沖縄および八重山一帯の島々では「 ミルク神 」とも「 ミルクさん 」とも呼び、弥勒信仰が盛んである。祭りでは、笑顔のミルク仮面をつけたミルク神が歩き回る。これは弥勒菩薩の化身とされた布袋との関係がある。
  修治はそのミルクの顔を泛かべた。
「 そもそも沖縄においては、東方の海上にあって神々が住む( ニライカナイ )という土地があり、神々がそこから地上を訪れて五穀豊穣をもたらすという思想があった。この思想にミロク信仰がとりいれられ、ミロクは年に一度、東方の海上から五穀の種を積みミルク世をのせた神船に乗ってやってきて豊穣をもたらす来訪神「ミルク」であるという信仰がこの地方に成立した・・・・・ 」
  沖縄で見られるそのミロク仮面は布袋様の顔をしており、日本の仏像にみられる弥勒仏とは全くかけはなれた容姿をしている。これは、沖縄のミロクが、日本経由ではなく、布袋和尚を弥勒菩薩の化生と考える中国大陸南部のミロク信仰にルーツをもつためである。布袋和尚は実在の人物と考えられ、唐末期、宋、元、元末期の4人の僧が布袋和尚とされている。
  彼(ら)は大きな腹をし、大きな布袋をかついで杖をつき、各地を放浪したといわれる。
  12世紀ごろの禅宗でこの布袋を弥勒の化身とする信仰が始まり、この「 布袋=弥勒 」と考える信仰は中国南部からインドシナ半島にかけて広まる中で、それが八重山へと伝播することになったようだ。

                           




  弥勒の下生は56億7千万年後とされているが、この気の遠くなる年数は、弥勒の兜卒天での寿命が4000年であり、兜卒天の1日は地上の400年に匹敵するという説から、下生までに4000×400×12×30=5億7600万年かかるという計算に由来する。
「 しかし、後代になって5億7600万年が、56億7000万年に入れ替わったのだ・・・・・ 」
  これは「遠い未来」への比喩であろうから、通説としては面白いが、たとえば浄土宗系の『無量寿経』には、阿弥陀仏の本願を後世の苦悩の衆生に説き聞かせるようにと、釈迦牟尼仏から弥勒菩薩に付属され、この未来仏の出現する時代は厳密には定かではない。仏教の中に未来仏としての弥勒菩薩が登場するのはかなり早く、すでに『阿含経』に記述が見える。この未来仏の概念は過去七仏から発展して生まれたものと考えられている。
「 この弥勒信仰には、上生信仰とともに、下生信仰も存在し、中国においては、こちらの信仰の方が流行した 」
  雨田博士は、そう語っていた。
  下生信仰とは、弥勒菩薩の兜率天に上生を願う上生信仰に対し、弥勒如来の下生が56億7千万年の未来ではなく現に「 今、現世に 」なされるからそれに備えなければならないという信仰である。
  浄土信仰に類した上生信仰に対して、下生信仰の方は、弥勒下生に合わせて現世を変革しなければならないという終末論、救世主待望論的な要素が強いのだ。そのため、反体制の集団に利用される、あるいは、下生信仰の集団が反体制化する、という例が、各時代に数多く見られた。北魏の大乗の乱や、北宋・南宋・元・明・清の白蓮教が、その代表である。
  日本でも戦国時代に、弥勒仏がこの世に出現するという信仰が流行し、ユートピアである「 弥勒仏の世 」の現世への出現が期待された。これは一種のメシアニズムであるが、弥勒を穀霊とし、弥勒の世を稲の豊熟した平和な世界であるとする農耕民族的観念が強い。この観念を軸とし、東方海上から弥勒船の到来するという信仰が、弥勒踊りなどの形で太平洋沿岸部に展開した。
  そして江戸期には富士信仰とも融合し、元禄年間に富士講の行者、食行身禄が活動している。また百姓一揆、特に世直し一揆の中に、弥勒思想の強い影響がみうけられる。
「 奈良県当麻寺金堂本尊の弥勒仏坐像は、7世紀後半にさかのぼる作で、日本最古の塑像(そぞう)と言われている・・・・・! 」
  塑像(そぞう)は、塑造によって作成した彫像などの立体造形のことだ。紙粘土による作品なども含まれるが、鋳造作品の原型作りは通常、塑造の手法を使って行われる。日本では、塑像の作例は奈良時代に集中しており、木彫が彫刻界の主流となった平安時代以降(おおむね9世紀以降)の塑像の作例はまれである。
  このために雨田博士は、奈良・当麻寺金堂の塑像(奈良時代、国宝)を訪れたのだ。



  これは当麻寺金堂の本尊(像高219.7センチメートル)である。
  如来形の弥勒像で、仏壇上に残る痕跡から、元は両脇侍像をしたがえた三尊形式であったと推定される。像は箱型の裳懸座(宣字座)上に結跏趺坐し、台座の前面に裳裾を広げる。印相は如来像に通有の施無畏与願印(右手は掌を正面にして挙げ、左手は掌を上にして膝上に置く)だが、右腕の前腕部の半ばから先と左手首から先は木製の後補で、当初からこの印相であったかどうかは定かでない。
  また、この金堂本尊の名称を「 弥勒 」とするのも、文献上は鎌倉時代の『 建久御巡礼記 』が初見で、当初から弥勒像として造像されたという確証はない。両膝部、胴部、頭部の3つのブロックを積み重ねたような造形は中国・隋代やその影響を受けた新羅の仏像彫刻、中でも新羅の軍威石窟三尊仏の中尊との様式的類似が指摘される。さらに球形を呈する頭部の造形には天武天皇14年(685年)完成の興福寺仏頭(旧山田寺講堂本尊)との類似ともみなされる。
  本像は塑像(粘土製の彫像)であるが、表面には布貼りをし、錆漆を塗った上に金箔を張っている。これは金堂は治承4年(1180年)の兵火で被害を受けており、また像表面の金箔は治承の兵火以降のものと推察される。像本体と台座は密着しており、本体、台座ともに内部構造の詳細は明らかでない。ともかくも現状は台座の四隅に木製の隅柱があり、台座上下の框(かまち)、反花(かえりばな)なども木製のものが貼り付けられているが、これらは治承の兵火以後のもので、当初の台座表面はすべて塑土で仕上げていた。
「 あの像本体は、両手部分が木製の後補であるほか、左腕、両膝などの衣文に漆喰状のもので修理した部分がある・・・・・ 」
  と、雨田博士は指摘していた。
  たしかに明治期の修理でも胸部などの損傷箇所に大幅な修理が行われている。そして螺髪は当初は塑造であったが、木製の後補のものに代わり、それも大部分脱落している。光背は平安時代後期か鎌倉時代初期頃の木製である。
  博士が言うように、本像は後世の補修部分が多いが、日本に現存する最古の塑像として貴重なのだ。
「 たしか宮古島空港にYS-11型機が就航したのは昭和43年であったはずだ・・・・・ 」
  そう思い宮古島へと機影が下降しはじめると、眼の中で七色の日傘を開いた比江島修治は、そこにミルク神と、当麻寺の弥勒塑像、そしてニコライ・A・ネフスキーの姿が重なっていた。

                            


  絶妙な機能と形態とを獲得した異空間プロセスが、じつに意外なしくみによって泛上することがある。
「 小生の脳は、ときおり、水分子と熱対流によってそうなってしまうのだ・・・・・! 」
  それはMRIがもたらす水分子画像のシンフォニーにも似ているが、阿部家に伝わる「 陰陽寮解体伝書 」には、人間および小動物の脳が非線形の複雑系であることを解き証かすいくつもの言及が交差するのだ。
  この時、阿部丸彦の脳内の時空間は反時計回りとなり、心霊は遊離して異空間を翔けめぐる。

                                       
 

「 突如、想定外の角度から脳細胞のパラダイムがひっくり返される、そんな感触に浸されるのだ・・・・・! 」
  すると回転中、まことに心地よい加速感がある。が、この加速力はどちらかというと科学の構築というより工学的な快感なのだ。このとき丸彦を止めたボルトがパラパラと外れ、落下する生体は確率、自己形成、イジング、ユニバーサリティ、相転移、カオス、可塑性といった概念を反射的に選び抜いて、一気に不思議な「 億脳を空にさせて開放させる方程式の演算空間 」に向かって行く。そして丸彦は、その異空間を細胞が次々に移動してグリア細胞のラジアル繊維を伝わってくるのであろうことを体感し実感するのである。このとき新しい非線形的な自己形成( self organization )が起こっていた。

    

「 あのときの秋子の絵葉書、それを見せられたとき雨田博士は焔の帆に載せられたのだ。そして博士は大正13年まで一瞬に引き戻された。その差出に( 佐保の菊と寅 )、宛先は( Gershwin・賀修院 )とあった。何ともそれは博士にとってたしかに母と僕ではないか。すると僕は4歳、これを鵜のみにすると、僕である博士は母と京都に来た。そういうことになる。そして京都に居たとすれば、絵柄は橋姫、そうなると母菊乃と、紙で造られた夢の浮橋を二人渡った可能性がある。兎に角に母の絵葉書は秋子に拾われていたのだ・・・・・! 」
  雨田博士の回顧帳を、丸彦は読みながらフッと嫌(いや)な閃(ひらめ)きを覚えた。
  博士と清原香織が奈良を訪ねるこの物語が、佳境を過ぎて閉じられるころに、誰かが水甕(みずがめ)に溺死(できし)するのではと、そして丸彦もまた祖の吾輩と同じように、その甕に落ちて鐘の音を聞くのではなかろうかと、そう閃くとしだいに脱力感を感じつつ、冷やされた肝(きも)が脱水されてしまうと、やがて消えるごとく全身がふわりと怪しく嫌に揺れたのだ。
「 もし、そうやとしたら、そないな変死、できしまへン。死ぬいうのやったらそ~ら六道の上等なんがえゝに決まっとる。こゝで踏ん張らなあかンのやないか。そない思うたんや。小生は吾輩のように、じィ~とは、しとられん・・・・・! 」
  そう察知した丸彦は、音羽六号の翼を借りて上空より何処へ疎開しようかと世の中の空甕(からかめ)を睨みつけた。
  すると世の中の甕とは、全ての甕が空っぽではないか。そこでよくよく考えてみると、人間とはその空からの大甕の中で零(む)を抱きながら浮遊して暮らす動物なのだ。
「 小生は、吾輩の轍(てつ)は踏みとうない。落伍などしィへん。小生は転んでも八起きしたるわ! 」
  と、そのとき丸彦は雨田博士の今際の眼、その焔の帆を熾(おこ)しては、産まれ故国の六道の辻をジッと見渡した。すると判然としなかった一切が鮮やかに泛かんできた。漱石先生は「 自己本位 」で行こうと思った時、心が軽くなり、今までにない学問の使命感に燃えたのだ。「 その時私の不安は全く消えました 」と『 私の個人主義 』にそう書き記す。そして自我と自我との対立に悩みながら、心理学や禅を研究しながら、創作を続けていたが、漱石先生は、大正四年『 硝子戸の中 』連載の頃、真に偉大なものに気がついたと思われる。『 道草 』五十七章に「 金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼にはいって来るにはまだ大分間があった 」と書いているではないか。また大正四年の『断片』に「大我」と「技巧」「絶対の境地」などの考察があり、禅の追求するところと同じところを考えていたことが分かるのだ。その漱石先生が、偉大なものに気がついてから、自分の過去を振り返って書いたのが『 道草 』であると丸彦には思われる。そしてさらに「 不自然は自然には勝てないのである。技巧は天に負けるのである。策略として最も効力あるものが到底実行できないものだとすると、つまり策略は役に立たないといふ事になる。自然に任せて置くがいいといふ方針が最上だといふ事に帰着する 」という言葉は大正五年『明暗』を書いている頃にそう先生は言われた。これは無私(無我)にて動くとき、天、おおいなる自然の意志の働きが出るということであろう。これは禅に通じる。
  まさしくこれこそが「 則天去私 」なのだ。
  漱石先生は「 こころ 」を探求して、晩年になって、思想的には「 こころ 」の大きなものに気がついたが、晩年にして「 体得 」せねばならぬと志し、ついにその中途で死んだのである。だから先生は祖の吾輩を水龜(みずがめ)に落とし水死体のままに放置しているのだ。これでは吾輩がまさしく鮮やかに則天去私なのである。その水甕を泛かべると丸彦はそっと合掌した。
                           


「 大正13年といえば、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)ご成婚・・・・・ 」
  雨田虎哉の母菊乃はこの祝賀に馳せて虎の手を引き泉涌寺詣でに出かけたのだ。
  そしていつもの道草の帰路、その日ばかりは洛中へと足を運び平安神宮を詣でた後、三条から四条へとそゞろし、河原町の京紙屋をのぞいては、ふと認めた宇治十帖の絵葉書に、さては、と祝賀にはとても姦(かしまし)くとばかりに、奇抜あるいは、さも斬新な発想を泛かばせた。眼の橋姫に鍵盤を叩かせてラプソディ・イン・ブルー( Rhapsody in Blue )の曲を奏でさせたのだ。
  そして宛先は何と大胆に亜米利加:Americaの「 Gershwin 賀修院 」、差出は「 佐保の菊と寅 」とだけ書いた。ラプソディ・イン・ブルーはジョージ・ガーシュウィンが作曲したピアノ曲。賀修院とはその彼の名にちなむ。何ともハイカラでモダンな発想であった。しかし、この一枚の絵葉書を菊乃がどう投函したのは不詳である。

                                        


「 これでは65年間、博士はさも雲水のごとく托鉢の旅でもしたくなる・・・・・ 」
  そう妙な感想を丸彦が抱いたとき、丸彦には「 雉の、ほろうち 」が閃いた。それは雨田博士が八坂神社から帰ると裏山の藪の茂みをじっと見ていた、その、ほろうちである。あのとき雨田虎哉はそして、眼をそうさせたまゝ脳裏には遠い昔の、ある弔いの光景を泛かばせていた。
「 寒さが温んだら、もう一度、瓜生山の頂に上がろう・・・・・ 」
  奈良から戻った日にそう思い雨田虎哉は今日もまた同じようにそう思った。
  M・モンテネグロに会って以来、そう思い続けてはいたのだが、老いた足取りがなかなかそうはさせないでいた。裏山に現れた雉の後影を見つめながら虎哉は「 やはり瓜生山か・・・・・ 」と思ったのだ。
  羽をバタつかせてケンケーンと鳴く。これを雉の、ほろうちという。春を告げる声でもある。早春の草原や果樹園の茂みなどで耳にする。縄張りの主張やメスへのアピールだ。4月ごろ繁殖の季節を迎えると、この時期の雉は、赤いトサカが大きくなり体も大きく見えるようになる。そして行動をより大胆にするようになる。虎哉が想う雉は、やはりどうしても瓜生山の雉なのだ。

                          

  雨田博士への見舞いの来客が去れば応接の四脚はポッカリと穴を開けたように、夕暮れの陰であるかにそう見えた。
「 アメノワカヒコの妻のシタテルヒメの泣く声が、風と共に高天原まで届いた。・・・・・そして、高天原にいるアメノワカヒコの父のアマツクニタマとアメノワカヒコの妻子達が聞いて、地上に降ってきて泣き悲しんだ。あゝやはり、これは、あの、ほろうち、ではないか! 」
  そう思えると、丸彦は応接の椅子に腰をストンと落として、もう一度阿部秋子の話を泛かべたてみた。
「 ねっ、どうして雨ェ降らないんやろ?・・・・・ 」
  と、香織から問われ、「ふーん、どうしてなんやろね。・・・・・ 」と、秋子は答えなく応えた。
  そして秋子はまことに辻褄の合わない言葉で、子供は大人社会を選べない。多くの場合、希望と化した予測は裏切られることになる。だが親としては、そこから子供を持つということの、そして子供を育てるということの喜びをいだく不思議さが始まる。意外な個性を持った子が育ち、驚かされることになるのだ、と香織に話したのだ。
  これを聴いていた丸彦には、降雨と子供との因果関係に整合性もなく妙な不可思議さを覚えた。
  しかし思い出した「 10月の雨 」が阿部秋子をそうあおり立てたようだ。
  神に摂理されながら完成に至らぬ「存在しない雨」というものが、この世には無数に存在するのかも知れない。もしそうであれば、秋子の煽(あお)られた、この挫折にも等しい裏面史は、しばしば現実に存在する降り注ぐ雨より刺激的なのだ。だが、あらかじめ自らが挫折することで「 雨を見ること 」を感じさせる時間が現実に存在していることを、丸彦は一体どう考えるべきか。そう想われると虎哉もまた、干(ひ)からびた地に立たされて熱い太陽を身に浴びるようであったのだ。
「 モロー教授は、それをPluieシャワーと名付けました・・・・・ 」
  と、秋子から聴かされると、雨田博士はシモーヌ・ヴェイユが『 重力と恩寵 』のなかで「 メタクシュ 」というきらきらとしたギリシア語を何度もつかっていたのを思い出した。メタクシュとは「 中間だけにあるもの 」という意味である。きっと雨にも重力と恩寵が関与しているのであろう。雨は重力とともに地上に落ちてくるが、その前にはいっとき重力に逆らって天の恩寵とともに空中で中間結晶化というサーカスをやってのけているはずなのだ。きっとモロー教授とは、その「 いっとき 」を追いつゞける人だったのだ。
  そう思えると、雨田虎哉は錯覚の赤い雨をふと抱かされていた。



「 何かと縮こまりがちで、虫酸が走りそうなこんな時代に、この赤い雨とは・・・・・! 」
  と、長い沈黙の中で、ふと虎哉はある種のひらめきを覚えた。その眼の中に、こゝがじつに奇遇なのだが、その赤い雨を見せらたとき、虎哉はふと涙すら覚えた。おもむろにステッキを突きたて、ふっと身体を起こすと、もう曲がらなくなった膝をあえかに固々しく曳き摩りながら静かに香織の肩にとまる鳥のようにして我家である八瀬の山荘へと向かった。その眼には日本で最も古い「記紀」が泛かんでいた。
  そして静かに眼を閉じたのだ。
「 そこには随筆ひなぶりを遺した清原茂女の姿がある。その娘の文代は古湯温泉へ養女に差し出されては花雪という芸子となる。花雪はその後、京都上七軒に上がり、やがて花背の疎開先にて労咳で他界する。この花雪の子が、祇園置屋の佳都子であった。その佳都子は芸子時代に阿部幸次郎との間に子女をなした。幸次郎とは阿部秋一郎の二男で富造の兄、すでに病で他界する。さらにその後、佳都子は置屋を営むようになると、その子女を縁戚の清原増二郎に養女として出した。その子女が香織なのだ。そうか、香織の母は祇園の佳都子だったのか。すると阿部秋子と清原香織は義理にしろ、又またとこの姉妹関係!。そうか、それであのとき芹生の千賀子は香織のことを(雉の子や)と呼んだのか。その香織は赤い勾玉まがたまを持つ! 」
  こうして眼を閉じた虎哉は、阿部和歌子がニューヨークへと旅立つ朝、狸谷から一乗寺駅へと向かう姿を凹凸詩仙堂のモノ陰より密かに見届けた光景を想い起こした。
「 あと八年は元気でのうてはあかんのやさかいに・・・・・ 」
  どうやら老いて身は細くとも気丈夫なようだ。和歌子はそういって凹凸詩仙堂の角から秋子の守る阿部家の屋根を振り返りつゝ、その眼には阿部清四郎の若き面影を湛えていた。虎哉にはしだいにそう思われてきた。千賀子の暮らす芹生には人知れず雉の鳴女の石塚がある。
「 二人の間には阿部富造には知られてはならない秘め事があったようだ・・・・・ 」
  和歌子は、アメリカより帰国後に、高野山に上がり清四郎の墓参を果たして洛北の山端に夏の気運を運ぼうとした。それを阿部家の長としての責務であったとするが、虎哉はそういう和歌子の胸の裡を秋子から聞かされている。
  しかし秋子の出生は不詳だ。しかも秋子が出生の前に和歌子は渡米している。その渡米後の足跡が不明なのだ。したがってこの和歌子と清四郎の蜜月は憚(はばか)りとして、虎哉が密かに鬼籍にて預かることにした。
「 80の老体で一人渡米など無謀とも思えるが、しかし和歌子も陰陽寮の女子である。また法衣の声の行き届く山端の狸谷に生まれたのであるから、成し遂げて満たさねばならぬ何事かの腹づもりはあったろう。それは、山端に育った女の分別として、蟠(わだか)まる一つや二つの心障りな失念を最期にふりしぼる決着の気構えであった。したがって渡米に際し未だ生きるのだと叩く減らず口は持つ。何とも晴れやかな頬笑みであった・・・・・ 」
  満願への門出なのだ。和歌子の気丈さは、すでにその出で立つ姿に現れていた。
  まず墨染めに再色し直したモンペ仕立ての京友禅が、達観した女僧さながらに見える。あるいは、その頭上に薪(たきぎ)の束でも載せれば、モダンな大原女(おはらめ)がはんなりと歩くようでもある。まさに大原女のその風俗に似た和歌子の風姿は、島田髷(しまだまげ)に手拭を被り、鉄漿(ふしかね)をつけ、紺の筒袖で白はばきを前で合わせ、二本鼻緒の草鞋(わらじ)を履いている。阿部和歌子はこのスタイルで京都から飛び出すように一乗寺駅へと向かった。
  虎哉が最期に眼に刻み残したそんな度胸の気丈さは80歳にして、若返り娘の悪戯(てんご)でも見るかの溌剌(はつらつ)とした趣であった。そんな和歌子の眼に、かって太平洋戦争に突入する直前、渡米しようとした龍田丸の豪華客船に、同じくロスまで渡航しようとする雨田虎哉の実弟定信が乗船していたことなど、和歌子は知る由もなく泛かぶはずもなかったであろう。



「 小生は、じっと帰国後の和歌子の姿を見つゞけている・・・・・ 」
  秋子は狸谷不動院から瓜生山へと上がる坂道の途中に狸坂多聞院を施した。
  日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「 多聞天(たもんてん)」、独尊像として造像安置する場合は「 毘沙門天(びしゃもんてん) 」と呼ぶのが通例である。その多聞天は、仏の住む世界を支える須弥山(しゅみせん)の北に住むとされる。また夜叉(やしゃ)や羅刹(らせつ)といった鬼神を配下とする。この坂道を清原香織は毎日のように上がってくる。
  香織がそうしつゞけるのは、雨田博士の永訣の朝、秋子がこの多聞院の庭先で朝の名乗りの篠笛を吹き、それが博士の風葬のごとく感じられたからであった。その香織曰(いわ)く、この坂を、盆暗狸坂(ぼんくらたぬきざか)という。秋子の朝に名乗る笛が終わると、次に香織は雉笛きじを吹いた。
  西洋に黄金比があるが、これではなく、日本人が古くから美しいとした比率に白銀しらがね比の1対√2という音律が大和(やまと)にはある。京都の銀閣寺や東寺、奈良法隆寺の五重塔、あるいは千利休の茶室もこの白銀比を使用するのだが、1対√2(1・4)対1の、「1」を「5」に変えると「5・7・5」となる。この数学は日本人が紡ぎ出した言葉(ことのは)であり絵巻物語なのだ。陰陽寮博士の阿部一族が連綿と享け継ぎてきた陰陽五行、天文の音羽、あらゆる笛の旋律、子子(ねこ)の暗譜、そのすべてがこの白銀比である。
  雨田博士はこの白銀比を応用して弥勒菩薩を目覚めさせようとした。







                                      

                        
       



 奈良 当麻寺










ジャスト・ロード・ワン  No.33

2013-10-13 | 小説








 
      
                            






                     




    )  狸谷  ②    Tanukidani


  沖縄では御嶽(うたき)の精子が鈴の音を揺らしていた。
  夢の中で比江島修治はそんな鈴の音を聞いていた。
  きっと就寝前に、七色の日傘を開いてクルクルと回しながら京都の早春を思い抱いていたからだ。
  踊る精子の、その音色に包まれて夢の中では昨夜眼差した久高島の夜陰の灯火が重なるように揺れている。
「 ニコライ・A・ネフスキーは、宮古島の方言に強い興味を抱いた。そうして宮古島における調査を行った。彼は6年間、宮古島以外にも琉球諸島や台湾に住む少数民族の言語と民族史を研究したのだ。この期間に数多くの雑誌や新聞にその研究内容を発表する。妻イソとの間に娘エレーナが生まれたのはこの時期であった・・・・・ 」
  修治は早朝にはホテルを発ち、那覇空港から宮古島島へと渡る予定でいる。
  日本トランスオーシャン航空便07:30発のチケットを手配した。約45分のフライトだ。宮古島市の漲水御嶽の近くに「 ネフスキー通り 」と呼ばれる長さ約90mの石畳の坂道があるのだが、二三日島内を巡る予定でいた。



                          
                                      



「 あゝ・・・・・今日は28日。そうや、星まつりの日ィや・・・・・! 」
  書斎の前に佇んでいた秋一郎がくるりと振り向くと、やゝ小首を傾かしげ何ごとかを促そうとする貌(かお)は、そのことを言いたげな目をしていたし、和歌子は一瞬、自身の目が洗われるような気がした。
「 せやけど、忘れてたこと、死にはった人に話ィすることもできィへん。ほやけど、ご先祖はんは、それでもジッと睨みはるンや! 」
  夜明け前の暗がりに和歌子が窓辺から頬杖(ほほづえ)を立てゝみる、その足音の無い冷たい雨は、裏庭のもみじ葉の青をふるえさせ山陰(やまげ)にある大きな菩提樹(ぼだいじゅ)の葉を寒々と濡らし続けていた。




  瓜生山をこぬかに濡らしながら狸谷を地の底のように凍らす早春の雨なのである。
  この季節の雨を木芽起(こもめおこし)ともいうが、立春を過ぎて京都に降る雨は未だ氷雨のように冷たいものであった。これを春と聞かねば知らでありしを、という。
「 世間さまに対しシニカルにふるまうのは簡単なことや。そうして、背負わされるもの、心の中にたまるものを発散さして、リバタリアンで生きてゆけたら、そらぁ~素晴らしいことやァ~。せやけどそれが昨今の日本人の先行きが暗うなった理由(わけ)なのやおまへんか。せやろ、秋一郎はん!。あんた、生きてはったら、そらァ~怒らはるやろな~・・・・・ 」
  と、誰と語るでもなく菩提樹をながめる和歌子はそうしんみりとつぶやいた。
  じっと見いるそれは、阿部家に永く長く居座る菩提樹なのだ。
「 たしか、あの詩ィの吉丸一昌というお人は、豊後の国のお武家さんの子どしたなぁ~・・・・・ 」
  比叡山の山端に秋子と暮らす和歌子は、この早春の賦(ふ)に思惑という怖さを感じるのだ。
  幕末生まれの祖父二十三代目の清衛門が他界して早50年になる。父秋一郎が他界して40年目の春を迎えた。その思惑とは和歌子にとって或る種の石のような存在であり、清らかな川の流れを保つ葦でもあった。早春賦(そうしゅんふ)がこの世に生まれた大正二年、清衛門は同年に初めて秋一郎と廻り逢えたのである。それは天の思惑に違いない。かねて定められた天の配剤に違いないのだ。



「 和歌子・・・・・!。加賀にな、白山いう神様の山があるんや。その山の冬の終わりにな、淡い赤の花が美しゅう咲くんや。そりゃ~綺麗な花でな、その花がある雪の降る日、ポトリと涙ァ流しはるのや。寒いんや。それを雪が見てゝな、寒いんやなぁ~と思うんや。そしたらな・・・・・、雪は悲しくなってな、羽ェ落しはるんや。それ、お父ちゃん見てゝ、冬いうもんはこないして終わるんやと思たんや。そない思いながらみてたら雪の羽・・・・・、ふわりと、どこかへ消えてしもた・・・・・ 」
  これは父から習った呪文のような子守唄である。と、そう言うと、夢の白山に立つ秋太郎は静かに眼を閉じてそれをじっと聞いた。そして聞き届けたかのようにス~ッと姿を消したのだ。

    

「 せんないなぁ~・・・・・ 」
  こゝ数年、立春が過ぎると喜びより不安が先に立ちあがる和歌子である。
  胸の底から黒雲のように不安が湧き上がるのであった。昭和天皇がお隠れになると、塗炭(とたん)に世の中が乱れ心安らかならぬものを感じるようになった。今の世間には人々の悪意に満ちた視線(まなざし)が多すぎるのである。
「 これらは末法の世の証あかしなのか・・・・・ 」
  母ひとり子ひとりの少年によって毎朝宅配される新聞には、心にひそむ地獄を目の当たりにするし、目を伏せたくなるような惨事が多く載るようになってきた。すると、毎日ながめつゞける新聞上欄に刻まれる小さな平成という文字は、すでに血色が絶えて言霊(ことだま)は失われている。平成という意味なき姿だけが何やら哀し過ぎるのだ。
「ほんに、戦後の日本人は陰湿に奇妙なんやさけ・・・・・ 」
  そう思う耳には、チリリン・・チリリン・・チリリンと、狸谷を静かに渡る鈴がある。
  おそらくお山の御坊にも届いているであろう。
  風が東へとなびけば、琵琶湖の左岸、鈴の音は峰を下り、坂本の日枝社辺りまで届く。いや気流に乗れば彦根にも届く。雪化粧の瓜生山へと分け入り、秋子は村人が天にでも昇るような趣の神さびた鈴音をゆるやかに鳴らしていた。
  じっと居間に正座してその鈴の音を耳もとに曳きつけていた和歌子は、一度コクリと頷うなずいて、さらにゆっくりと安堵したかに二度頷くと、おもむろに裏山の方をじっとみつめた。
  そして今朝も昨朝と変わらずに比叡の空に凍える一樹であることを看取ると、阿部家のその菩提樹が、春の賦(くばり)を語りかけてくる幽かな声に耳をそっと澄ました。
「 聞けば急かるゝ胸の思を、いかにせよとのこの頃か・・・・・ 」
  と、今年もまた菩提樹は和歌子の胸にそう訴えている。和歌子はその声にまた頷いた。
  阿部家には三度頷くという覚書があるからだ。
  菩提樹の声は、阿部家が生まれつき授かる天賦(てんぷ)なのである。代々の家長が、春のくばりを聞かされてきた。そしてこの稟性(ひんせい)を授かるからこそ、阿部家は民衆を束ね集落の生を守り抜いてきたのだ。


  立春は二十四節気の一つで、冬至と春分の中間にあたり、この日から立夏の前日までが暦の上での「春」となる。吉丸一昌(よしまるかずまさ)は、大正の初期に長野県安曇野を訪れ、穂高町あたりの雪解け風景に感銘を受けて「 早春賦 」の詩を書き上げたが、狸谷の「 春は名のみの 」とは、菩提樹によって交感させられる春のくばりであった。
  鈴の音が続けば続くほどに、菩提樹の枝先は揺れた。狂うほど揺れ騒げば大吉である。
「 秋子、それで、えゝんや・・・・・。ようやくこゝまでに・・・・・ 」
  この鈴音は狸谷の冬を溶かすために、秋子が今振り注ぐ代々に阿部家が守り継がねばならぬ呪文である。瓜生山の頂から秋子は菩提樹に向かって一心に祈祷の咤怒鬼(たぬき・鈴)を振り続けていた。

                                      
          
「 やはりこの一樹は、永い絶望と失望を照らさはるための、神か仏の手による一筋の光なんやと思う。私(うち)らはその木守なんや。そないして、今、この樹ィは十代目なんや・・・・・! 」
  日本へは、臨済宗の開祖栄西が中国から持ち帰ったと伝えられるが、阿部家初代の菩提樹は紀貫之(きのつらゆき)のころと伝えられている。そして十代目は明治期に、祖父の阿部清衛門の手で長崎を経て移植された。そう伝えられるこの十代目も、和歌子が思うには、何やら伝説めいている。が、ともかくも清国五山寺院の一つ径山寺(杭州余杭)のモノを、清衛門が遠く船で運んだと伝え聞く菩提樹の老樹は、冬の終わりの雨に、たゞしっとりと濡れるに身を任せながら、一時も怠ることなく和歌子が気にかけている暗示を永年物語り続けてきたのだ。そして、くばりには警鐘の凶事を兆す声のときもある。そこには聞き逃すことが許されぬ兆候があった。
「 そや、半夏生はんげしょうや・・・・・!今年もきはるんやなぁ~・・・・・ 」
  また菩提樹は、さらに夏を告げて、修験者は深山幽谷へと分け入り修行に籠る。
  決まって毎年六月も末になると、一樹は或(あ)る花言葉と、ふくよかに誘う香りとでそのことを証明してくれるのであるから、やがて梅雨を越えるであろうそんな菩提樹をみつめていると、兄富造の声が和歌子の耳に懐かしく聞こえた。
「 半夏生の日は、天地に毒がみちるから裏の竹林には入るな! 」
  という。村衆や幼子らを戒めていた言葉が、今朝もまた自然に蘇るのであった。
  遠い空の上から聞こえてくる、そんな富造の厳格で野太い声がす~っと耳奥で籠こもると、今年もまた和歌子には確かな期待と不安が交錯して溢れ出してきた。夏が廻ることの序に従いて、小雪を散らす仕種で此(こ)の一樹の花が裏山に落ちると、決まって半夏生となる。菩提樹の淡い黄蘗(きはだ)の花は、父秋一郎や一族の面々らと和歌子に夏至を、そして今尚、同族と村衆を固く結ばせていてくれる花なのである。  夏安吾(げあんご)の山入りの前になると、数多くの修験道が阿部家の門を法螺貝(ほらがい)の音で叩いた。



  毎年、阿部家では、黄蘗の花を草木染めにして黄海松茶(きみるちゃ)の細縄をなう。 最多角念珠(いらたかねんじゅ)にその荒縄を結いつけるのである。それは修験者が使う念珠で一つ一つの珠はそろばんのような形をして、これを摺ることによって煩悩を打ち砕くという意味をもち、珠は衆生の本来的な悟りを表している。
  阿部家の黄海松茶の縄を結えば、星月菩提樹の念珠より霊験あらたかとの評判を呼び、多くの修験道が入山の際に訪れた。修験者は常に世寿(せじゅ)を求め、つゝがなく夏安居を終えると夏臘(げろう)を得て、また一つ法臘(ほうろう)を足すことになる。安居の回数が僧侶の仏教界での経験を指し、その後の昇進の基準になるなど、非常に重要視される。阿部家の黄蘗縄はいつしか飛鳥寺や延暦寺の安居院法印にも用いられるようになった。
                                     

  人知れず花を咲かせ続けるそんな一樹には、やはり語り尽くせぬ深い感慨がある。
  そうであるからこそ和歌子もまた、まだ花の無い二月の季節に無言(しじま)に立ちつくす、古老の黒い菩提樹を愛おしく大切に見届けたかった。いつも和歌子はそんな一心から、一樹が春立ちて変わり行く様子を眼を凝らしてじっと見続けてきた。



  六時前にはすでに旅支度を整え終えた和歌子には、まだ一時間ほどの余裕が残されていた。
  今日、和歌子はニューヨークへと旅立つのだ。
  旅支度を整え終えて間もなく山を下りてくる秋子を静かに待っていた。今一度言い含めておくこともある。三千院は2月になると和歌子に星を咲かせてくれ宿曜経を伝える寺であった。幼くして母を亡くした和歌子は毎年立春を過ぎると祖父や父の手にひかれて、50年前に祖父清衛門が他界し、父も他界してからは欠かさず一人で星まつりに訪れていた。
「 雲母漬ゆうんは、おそらく京都でもこのお店でしか売ってないのんと違いますやろか。穂野出(ほので)ゆう店で売ったはるのが それになります。そやかて、今の時期、予約しとかんと、もうありまへんわ 」
  という、何かと手配をこまごまとする、先日そんな話をくどくどと秋子にした。
  三千院の星まつりの日では、祖父の代から毎年欠かさずに雲母漬(きららづけ)を大原に持参する手筈となっている。
  ことしは秋子を参代させることにした。手筈とは、阿部家では仕来たり。その仕来たりとは欠かすことのできぬ神事となる。この手筈に落度とか欠落は許されなかった。
  今の内によくよく言い含めておかねばならぬことは、その一つ一つがいずれも欠落を許されるはずもなき神事なのである。
  しかし、それは宮司や禰宜(ねぎ)のように神の心を和ませてその加護を願い祭祀に専従する者の立場とは違う。また御仏に仕え経・律・論を修める三蔵でもなければ具足戒を授ける僧伽(さんが)や比丘(びく)などとも異なる。阿部の家長は、神に祈請をし、祈請を憑依させ、神意を示現せしめる六神通(ろくじんつう)の手立者でなければならなかった。そうであれば、あるいは神・仏の立場からみる波羅夷(はらい)罪者であるのかも知れない。その波羅夷罪とは波羅夷法四ヶ条を犯すこと、その犯人は僧伽を追放される。この世に必要悪というモノがある。しかし反面、不必要善というものもある。この両者は矛盾して闘争を繰り返し続ける宿命にある。阿部家はそこに介在することで存在する。だがそこには啓示をえるしかるべき手続きが必要であった。

                               

「 第二十六代いうても、未だおぼつかない・・・・・。二十五代の半分目しかあらへん・・・・・! 」
  秋子をそう憂い思えばもうさほどの余裕もない。
  整理箱の引き出しの奥から一枚のCDを取り出すと、そっとパソコンのイジェクトボタンを押した和歌子は、秋子から習った通りに、開いたトレイへとそのCDを乗せてドライブへとスルーした。秋子もこのようにスルーできたらと考えたくもなる。
  和歌子は少し笑った。それはミュラーが遺した「冬の旅」の詩と、シューベルトの旋律を思い出させるCDであった。この冬の雨には、もう決して手に入らないものへの憧れが満ちていた。
  和歌子はこれがどう自身に聞こえるのかを試みたかった。音楽は阿部家の子女に欠かせぬ素養なのだ。唯一の慰めである「死」を求めながらも、旅を続ける若者の姿は間もなく現代を閉じようとするから、今少し何かに生きようとする老人にとっては強く訴えかけるものを感じさせた。和歌子の眼には、ヴィルヘルム・ミュラーの水車小屋がある。そこに行けば、決して得られないもの、もう失われてしまったものへの憧れに満たされるに違いない。たしかにそう感じされるものがあった。和歌子はスーツケースの荷物をもう一度確認し直した。そこには河井寛次郎作の紅彩鉢が厳重に梱包されている。愛おしく改めると丁寧にそっとケースを閉じた。



「 あゝ~・・・・・、あのときの、うちの夢・・・・・、空っぽのまゝやわ・・・・・ 」
  あのとき和歌子は、日付変更線上の大海原に浮かぶ甲板に立ち東へと雲がなびく感じをさせて師走の冬空の鈍い広がりに一等の嬉しさで希望の夢を描いていた。しかし今にしてそれは空回りする夢である。たしかあと五日するとロスに着き、そこから鉄路で大陸を横断して聖夜のボストンに到着するのだ。乙女であった和歌子には、かってそんな一人洋行の大志があった。
「 あれや・・・・・、龍田丸や! 」
  出航時、みんなが持つ紙テープも華やかに舞っていた。
  日米開戦が噂される中、昭和16年12月2日、日本郵船の豪華客船龍田丸(16955トン)が静かに横浜港を出航した。行く先はロサンゼルス経由バルボア(パナマ)である。和歌子もその渡航者の一員であった。国事動乱の最中に、西洋音楽に武者修行させる親もいたのだ。音とは一大事、その父秋一郎が一人だけ多勢の見送り者から離れた位置でポツリと立っていた。このとき大本営は龍田丸の出航停止を検討していた。しかしそれでは日米開戦を知らせることになってしまう。そこで当初11月20日であった出航日を、変更させることにした。
  出航が11月20日の場合、ロス着12月3日、バルボア着17日、18日ごろになる。真珠湾攻撃日が決定されている以上、バルボアでは確実にアメリカ軍に拿捕されることが明らかであった。大本営は12月2日に日程をずらした。そして大本営の計画通り12月2日に出航した龍田丸は、12月8日には、まだ180度あたり(日付変更線)なので、敵に拿捕されないギリギリの地域でUターンし、全速力で横浜に向かい、12月14日横浜に寄港した。この計画を知っていたのは、乗船した海軍軍務局の市川少佐と本村船長だけだった。

                           

「 あの当時、花形やった。今の飛鳥より、そらァ豪華に思われたもんや・・・・・ 」
  他の客船を圧倒する大豪華客船であった。龍田丸は航海運航終了後、海軍に徴用された。昭和18年2月8日、風速20mの暴風雨の中、トラック島に向けて横浜港を出航した龍田丸は、米潜水艦ターホンの雷撃を受け、御蔵島近海で沈没した。
  乗組員198名、乗船員1283名、全員死亡、生存者は一人もいないという悲劇的な最期を遂げた。太平洋横断を100回以上にも超えた龍田丸一世は今も東京湾から南西約200㎞の御蔵島沖に静かに眠っている。その当時は、大時化ということもあって、雷撃を受けて20分後には姿が見えなくなり、翌日朝から本格捜索をするも、重油以外の浮遊物は見つからず、飛行機での捜索も行われたが、龍田丸の痕跡は何一つ見つかる事はなかった。
「 僕は彼女のところから帰る。明るい月夜だった。僕は再び頼みたい。愛する月の光よ。月はまさに僕の顔を見て、合図してくれているようだった。その時僕は月を覗き込んだ。僕には、彼女の青い両目が金色の円から見ているように思えた。ルイーゼ、きみは確かにその瞬間、上を見ていた・・・・・ 」
  と、紡ぎ出す言葉に合わせ、和歌子はもう一度、ミュラーが遺した「冬の旅」の詩と、シューベルトの旋律を頭から聴き直した。つぶやいた詩的な言葉はミュラーの日記から拾った。ヴィルヘルム・ミュラーの詩は、天体を愛する人の目に喩たとえた。渡米に際し和歌子は、その天体を愛する人の瞳を持たねばならなかった。今回、ニューヨークにては、と或るドイツ人女性が渡米を待ち望んでいる。またヴィルヘルム・ミュラーもドイツに生まれた。そしてそのドイツ人女性と会った後に、M・モンテネクロ氏と会うことになるだろう。この冬の空から一時も早く離れて、和歌子はまた春の狸谷の夜空を仰げたらと考えている。



「 遣独(けんどく)潜水艦作戦の手記・・・・・これをお還しすることで阿部家もまた本来に還るんやわ・・・・・ 」
  と、内容を未だ人知れずする古い手記を、スーツケースの一隅に、当時のまゝの包み袋の状態で入れてあるが、和歌子はその風体を眼に浮かべた。それは兄富造の遺品である。しかし正確には富造が密かに保管していたドイツ人女性の遺族者に拘わる私有物なのだ。
  ドイツによる怒涛の攻勢が落ち着きを見せた1942年も半ばを過ぎると、大西洋上に張り巡らされた連合軍の哨戒網(しょうかいもう)により、これらの水上艦にとって安全な航路はもはやなかった。このためドイツより電波探信儀(レーダー装置)導入を希望する日本海軍は、大型潜水艦をドイツに派遣することを決した。これが遣独潜水艦作戦の始まりであった。
  富造が保管して遺した手記とは、その遣独潜水艦作戦の極秘記録である。
  そして富造はこの作戦に関与していた。生前に富造は「 もしこの手記が、終戦直後に露呈していれば、違いなく俺は戦犯を免れることはなかっただろう・・・・・ 」と、手記の存在を和歌子に打ち明けたとき、そう語った。
  すると、阿部家に連なる龍神の船影には幾人もの人影が赤く重なる。
「 しかし・・・・・、これを万事解決とすれば、山端集落の再生に目途がたつ。その確約はあのときの秋子の生死にかゝっていたんや! 」
  と、思えたとき、またふと父秋太郎の言葉の遺り影を拾った。
「 山端には、そして比叡の森にはじょうさん花があるんや。その花、上手に使わしてもろうてな。木の卒塔婆やなくて、あれどうにも冷たいやないか。そうやから替わりにな、野に咲く花卒塔婆(はなそとば)じょうさん立てたろ思うとる。いつか山端いっぱいに、そうしたるんや 」
  その声の柔らかさは、加賀白山に降る秋一郎が語った雪の羽のように暖かくふわりと飛び跳ねて冬を終わらせる聲(こえ)と同じように聞こえた。和歌子はこの聲に背を押されたがために雨田博士に一切を委ねたのだ。
「 花そとば・・・・・羽そとば、・・・・・これは六(りく)の花と羽なンや・・・・・ 」
  何やら、どこに、どの花をと、思いめぐらせば、手向けてみたくなる花は数限りなくある。ようやく瓜生山から下りてきた秋子は手に小さな花籠を持って微笑んでいた。
「 うち・・・・・、見送りしィへんえ。星まつりの花、探さなならへん・・・・・ 」
  と、あっさりとしたもので、その秋子が手のひらに乗せた可憐な白花のハナネコノメの赤い葯(やく)に指先が触れた和歌子は、この娘はすでに花卒塔婆をあしらう巫女(ひと)に熟(なれ)たのだと思えた。そしてそんな秋子の健やかな表情を看取ると、あのときの雨田博士の思惑がようやく成功裏に終わったのだと思えた。



「 千賀子、京都駅に来るいうてたから、来るやろうし。秋子はそれでかまへん。星ィ~になッ、雨田博士ェも入れへんとあかンえ!。あんたの恩人やさかいに・・・・・ 」
  そういゝ返してまた秋子の眼をじっと見てみると、その眼の湖(うみ)にある静かさはやはり甥の清四郎と瓜二つである。秋子は清文やというが、和歌子に、甥の本名はやはり阿部清四郎なのである。その清四郎はやはり秋子を遺すためにこの世に生まれ山へ消えたのだと思えた。
「 籠(こも)よ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串(ぶくし)持ち この岡に 菜摘ます子 家告のらせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ居れ 告らめ 家をも名をも 」
  と、妹の千賀子は京都駅のロビーで姉和歌子の背にこの歌を問いかけた。
「 泊瀬(とまりせ)の朝倉の宮に天の下知らしめす天皇の代 」
  問いかけに、和歌子はこう応え返した。これは阿部家に継がれる陰陽の問答である。
                                     
  門出に添えるべきはこの方違(かたちがえ)の仕来たりであるが、その門出とはモノの初め、千賀子が問いかけた歌は、万葉集の巻頭を飾る矢立てなる初めの歌であり、阿部家では門出にこれを天晴(あっぱれ)の言霊(ことだま)とした。今に訳すと「 籠もよい籠を持ち、掘り串もよい掘り串を持って、この丘で菜を摘む娘よ。あなたの家を教えておくれ、あなたの名前を教えておくれ。この大和の国は私が従えているのだ。私がすっかり支配しているのだ。私は告げよう、家も名も 」となる。この歌は、もともと求婚のための民謡歌であったが、古代を代表する天皇である雄略天皇の物語と重なり、いつしか、雄略天皇の作とされるようになったようだ。



「 せっかくやして、うちもこれから、初瀬(はつせ)、いこ思いましてな・・・・・ 」
  どうやら千賀子は、和歌子を見送った後、長谷寺へと行く予定でいる。その長谷寺の初瀬とは平安遷都以来忘れ去られたようにあるが、奈良朝の当時は阿部家太祖に因む土地柄であった。海石榴市(つばいち)から東へ初瀬川沿いを進むと長谷寺のある初瀬にいたる。現在、初瀬川は大和川とも呼ばれているが、当時は泊瀬川と記された。また三輪山麓では三輪川と呼ばれていた。初瀬にむかって上り坂で、初瀬川をはさんで、北に現在の国道165号線、南側に近鉄大坂線が走っている。万葉の時代、ここは埋葬の地であった。そして泊瀬の水と狸谷の井は、代々継々にして龍田神の守る一筋の流れで結ばれている。
  昭和という時代が終焉し、平成という新時代になった今、この濁流に、和歌子は時代に褪(あせ)たその水の澱みを動かそうとしていた。
「 そうかえ、で・・・・・、長谷寺の真悟はん、今日来てくれはるいうてはったなぁ~。真悟はんなら秋子も安心やろし・・・・・ 」
  初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる長谷寺は、平安時代中期以降、観音霊場として貴族らの信仰を集めた。和歌子がそういう真悟とは、雨田虎哉が芹生の里でみかけた牛を曳く少年である。和歌子の留守中、秋子の加勢を頼んであった。
「 きっとこの時間、もう狸谷に着いてますやろ。でっち洋かん。、忘れんと一乗寺中谷(なかたに)で買うよう頼みましたさけ。毎年きらら漬だけやと何や味気ない思いましてなッ。それ、星まつりに持たせたろと真悟に頼みましたんや。ほならこれ、襟の合わせに挿してくれやす 」
  と、千賀子はそういって、さりげなく小さな一輪を差し出した。
  それは白花のハナネコノメ、どうやら秋子と示し合わせたようである。千賀子は芹生で同じ花を早朝に摘んでいた。昨夜、秋子に頼まれたのだという。和歌子はまた留守を守る秋子を案じながら指先で赤い葯(やく)に触れた。
  すると憂いた狸谷を眼に浮かばす和歌子の母心は、晴れ晴れとその花の彩りに〆(しめ)られた。
  そして阿部和歌子80歳は単身、ニューヨークへと旅立った。

                                     





                                      

                        
       



 奈良 桜井 長谷寺










ジャスト・ロード・ワン  No.32

2013-10-12 | 小説








 
      
                            






                     




    )  狸谷  ②    Tanukidani


  窓ガラスの夜景のなかで御嶽の精子が踊りはじめた。
「 京都人の口に戸は立てられぬもので村人達が実(まこと)しやかに語るように、秋一郎は石川の真言宗寶泉寺ほうせんじの修験道光雲に拾われた捨子なのだ・・・・・ 」
  そう和歌子が聞いてをり、修治も改めて確認したからであろうか。すると比江島修治の眼に蜃(しん)が泛かび上がってきた。
  阿部家の龍田丸は龍田神に由来する。この龍田神を阿部家では「蜃(しん)」という。
「 蜃は気を吐いて楼を顕し蜃気楼を示現させるのだ・・・・・ 」
  阿部家伝によると、蜃とは角(つの)、赤いひげ、鬣(たてがみ)をもち、腰下の下半身は逆鱗であるとする。そしてこの蜃の脂を混ぜて作った蝋燭(ろうそく)を灯して幻の楼閣が見られるといゝ、さらに蜃の発生について、蛇(じゃ)が雉(きじ)と交わって卵を産み、それが地下数丈に入って竜(たつ)となり、さらに数百年後に天に昇って蜃(しん)になると伝えた。
  つまり蜃は蛇と雉の間に生まれた神気楼なのであった。
  阿部秋一郎という男は、まさしくこの蜃気楼なのだ。
                           


  高野山真言宗寶泉寺は、金沢市の東茶屋街から卯辰山(うだつやま)のふもと子来坂(こらいざか)を上がると右に山号を摩利支天山とする山門がある。修験道光雲は幕末のころ清国(しんこく)に渡って修行を積んだ人で、少林寺拳法の達人でもあった。
  秋一郎は一歳半で拾われた時から、この光雲に拳法と学問と修験道を叩たたき込まれた。
  そんな秋一郎が阿部家の第二十四代目として養子に迎え入れられた経緯(いきさつ)はやや複雑である。
  このころ朝鮮半島をめぐる大日本帝国と大清国の戦争が熾おころうとしていた。
  当時の朝鮮では、明治のザンギリ頭に浮かれ、これを文明開化と謳歌(おうか)する日本人には、到底想像すら出来得ない日本敵視の民衆心理が三百年以上にも及び根付き続いていた。それは西郷隆盛らの征韓論によって蒸し返されるが、朝鮮民衆は、豊臣秀吉の朝鮮侵略によって受けた民族的苦痛と屈辱が長く人民の間に記憶されている。その上に当時、朝鮮政府の重税政策、官僚たちの不正腐敗の横行、日本人の米の買い占めによる米価騰貴とうきなどに苦しみ、打ち続く旱魃(かんばつ)において未曾有(みぞう)の飢饉に悩まされていた。
  これらに耐えかねた朝鮮の農民らが、日本への米の流出防止、腐敗する官吏かんりの罷免、租税の減免を要求して立ち上がることになる。1894年6月、朝鮮史上最も大規模な農民蜂起であった。この農民蜂起は、東学(とうがく)の信徒が主導して地方官の悪政に対する抵抗に始まるのであるが、東学とは西学(キリスト教)に対し儒教、仏教、道教を折衷した新興宗教で、先導する朝鮮政府への抵抗が多くの農民を蜂起させた。これが甲午(こうご)農民戦争という内乱である。
  朝鮮政府は、自力解決は困難と判断して清国に救援を求めた。清国は直ちにこれに応じ、清国軍第一陣約一千名の牙山上陸を開始した。清国が日本に送った通知には「 属邦保護のための出兵 」だとある。これだけを切り取ると清国の行為は明らかに天津条約違反であった。この日清間で交わされた天津条約は1885年4月(明治18年)に締結したものであるが、これと期を同じくして、当時一歳半の秋一郎が甲斐駒ケ岳の山小屋で光雲に拾われていた。そこには出生を物語るかの手紙一状が添えられていて、秋一郎は籠(かご)の中で真っ白な正絹(しょうけん)に包まれていたという。



「 昔から、甲斐の駒ケ岳ェいうお山は、摩利支天の座りはるお山やさかいに・・・・・ 」
  人伝(ひとづて)に聞き覚えた秋一郎の出生秘話を、和歌子はあらためて静かにひも解いていた。
「 秋一郎は石川県の某士族の七男として生まれている・・・・・ 」
  明治維新で父親は家禄かろくを失い、公債証書七百円の年収でもって一家九人を養わねばならなかった。今の年収で150万円ほどの暮らし向きとなる。公債700円など年50円足らずの利子しかないのであるから九人ともなると、暮らしぶりは甚(はなは)だ酷(ひど)いものであったようだ。当時の記録に、普通の大工が7円、村巡査が10円の月給とあるが、これらからして生活の水準が非常に低い。しかも家禄を奪われ、食い扶持を失くした士族らの多くが満足な仕事さえ無く、流浪に等しい難儀な身の上で、裏面の明治維新とはそういう時代でもあった。国民が右往左往するそんな最中に拾われた赤児の籠に添えられて「 出でて去(い)なば主なき山と成りぬとも 軒端(のきば)の鳥よ雲を忘るな 」という歌が遺されていた。
  これは、あたかも光雲に宛て、光雲が拾ってくれることを予知して詠んだような歌である。たとえ我が身は滅びても、この歌だけは是非(ぜひ)とも残し、歌はやがて我子が生きることを証してくれるだろう、という武士(もののふ)の静かな諦めを光雲はこの歌に認め、注がれた親の熱い願いを光雲はおもんばかった。しかと承る辞世として、光雲はこの歌は悪い出来ではないと思った。
「 お母さま・・・・・ 」
  和歌子の胸に、長い間忘れていた慕情がこみ上げてきた。
  実母お華(はな)は、和歌子が4歳のころに他界した。母と慕う秀代とは後添えの人である。その実母の、飼い馬のうしろ肥爪(ひづめ)で顔面を蹴り上げられた非業の死は、享年20歳であるから夭折といえる。潰された顔さえも分からぬまゝ死別した若き躯(むくろ)には、和歌子が泣きながら追い求め慕い続けながらも心の中に培ってきた母の温もりが今もある。
  非業の死とはかくもあるものだ。

                               

  秋一郎を抱え松明たいまつで足元を照らしながら駒ケ岳の闇道を下ったという光雲の厚情が和歌子に伝わると、顔さえ泛かばぬ亡き母の無念さが慕われ、我乳飲み子を間引くとは自分を呑み込む地獄の境地のように思え、あの世の雪をかぶって立ち尽くし彷徨(さまよ)っているように感じられた。戦争の影に覆われた日々にあって、和歌子の人生の半分もまた同様の日々であった。
  しかし野の色、海の色だけは今よりもっと鮮やかな藍か青だったと記憶している。
  諸国の下級藩士らにとって、幕末という転換期は大いなる希望を抱かせる黎明の光であったはずだ。しかし維新の功労は平等には報われなかった。秋一郎の父母もまた同様であったのであろう。大政奉還から廃藩置県までの4年、ここから大日本帝国憲法発布まで18年、この22年間の維新期に、日本政府は妙な歪(いびつ)さを遺し庶民とはいつの時代でも哀れなもので、封建の世の徳川と同じように踊らされ翻弄(ほんろう)させられた。
  そう思う和歌子の目には、鹿鳴館という存在が、まるで浮世ばなれした物語のように映るのである。
  戊辰(ぼしん)戦争の戦禍の中にあって阿部家男系の血も砕かれて希薄化の危機に晒された。
「 あんなん格好(かっこ)よしやないか。鬼やないと、あゝは踊られしまへん 」
  鹿鳴館は明治初期の急激な西欧化を象徴する存在である。東京内幸町に建てられた洋風建築の社交クラブであるが、イギリス人コンドルの設計による煉瓦(れんが)造りの二階建ては明治16年に落成し、欧化主義がとられる中、内外上流人の舞踏会などが盛大に催された。これは秋一郎が生まれる二年前のことだ。



「 一体どこまでが文明開化ァいうもんやったんやろなぁ~・・・・・ 」
  和歌子は口元に皮肉な笑みを泛かべた。
  末慶寺(まつけいじ)は京都市下京区万寿寺櫛筍上ガルにある。朝鮮半島がこの内乱を引き起こす三年前の明治25年5月10日のことであるが、日本ではロシア皇太子ニコライを負傷させた大津事件が起こっている。騒ぎのなかの5月20日の夜、京都府庁の門前で、一人の若い女が自殺しているのが発見された。当時二歳の秋一郎が甲斐駒ケ岳の山小屋で光雲に拾われるのは同月25日のことであった。そこには出生を物語るかの手紙一状が畠山という名で添えられていて、秋一郎は籠(かご)の中で真っ白な正絹(しょうけん)に包くるまれていたという。末慶寺には、事件後に自殺した烈女とされた畠山勇子の墓がある。兄富造はしばしばこの寺に墓参していたようだ。だが和歌子にはそこまでの素性は伝わってない。しかし、孫の秋子はその何らかの関わりを富造から聞かされている気配だけは感じていた。
「 まことに不可解な秋一郎の出生である・・・・・ 」
  天津条約違反と甲午農民戦争を格好の材料に日本軍は、清国勢力の朝鮮半島からの排除を大義名分に、朝鮮独立、公使館警護、邦人保護を掲げて半島へと大軍を動員した。朝鮮半島の帰属問題から勃発したこの日清戦争を日本国側が勝利する。
  その後、日本が勝利したその情勢に切歯扼腕(せっしやくわん)した仏国、独国、露国は三国干渉で日本が中国から租借(そしゃく)した遼東(りょうとう)半島などを奪い取るのだが、そのことを契機に半島へと南下しようとする老大国のロシア帝国に対し新興の大日本帝国が挑む大戦が引き続き行われた。これが日露戦争である。



  光雲から引き取られるように秋一郎が阿部家の養子となったのは、折しも日本国が欧州屈指のバルチック艦隊を破り日本国側の制海権を確定させた1905年(明治38年)5月のことであった。
  このこき秋一郎は15歳である。
  日本国は、帝政ロシアを敵視するアメリカのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得て、ニューヨークの金融街として残額五百万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得したという経緯も有利に加担してか、東郷平八郎司令長官が率いる連合艦隊の一方的な圧勝は、世界各国の予想に反する結果であり、列強諸国を驚愕(きょうがく)させ、ロシアの脅威(きょうい)に怯(おび)える国々を熱狂させた。
  ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月には血の日曜日事件が発生していたし、日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけた。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たし疲弊(ひへい)していたため、両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和することになる。こうした日清から日露戦争に至るおよそ10年という大戦の歳月は、光雲が清太郎を青年となるよう育て上げた10年でもあるのだが、阿部家の嫡子(ちゃくし)となる披露の席の秋一郎は、いぶかる村の衆らを愉快そうにながめ泰然と構えていられる器の男までに育てられていた。



  そして、狸谷に新たな春が訪れようとしている。
  その日は朝早うから阿部家の中庭に、三つの大釜を乗せた竈かまどを仮しつらえ、焚かれる大釜の上に重ねられた蒸籠(せいろう)からは、滔々(とうとう)とした真っ白い湯気が青空をくゆらすように立ち昇っていた。
「 華はん、お祝いや。こないな天上焚(てんじょうだき)、天晴れやし、豪勢かと思うてな! 」
  と、阿部家の祝儀に加勢する山端の女子衆(おなごし)らも皆それぞれに泛かれた口を叩いている。
「 せやけど、ほんに洋行でもしはる、お雛様みたいやんか・・・・・ 」
「 あれ見てみィな、あれ、ミッション・ガールいう制服なんやて 」
「 どこがえゝのか何んやよう分からへんけど、お華はんには、ようお似合いや思うけど・・・・・あれハイカラやいうンやて! 」
「 ほやけどなぁ~、なんぼお華はんが好きなかて、あないな格好しはっては世間体悪いし、家の立場よう考えはらんと、きっと檀家はん陰で泣いてはるんやないか思いますがな・・・・・」
  と、華の晴れの姿を見た村の衆が、誰彼となく面々にざわめいた。
  これは華が平安高等女学校に入学した春のことであった。



  鍔(つば)広の丸い大きな帽子、白い大きな襟と胸元にリボンをあしらった紺の上着、おそろい色のスカート、黒い革靴という華の出で立ちである。村の衆にとって日本初のミッション女学生のセーラー服がいかに眩しい存在であったか、想像に余りある。大正14年当時、女性の洋装は依然としてもの珍しい風俗であった。
  ざわめく村の衆が中庭を取り囲む中、中央に立つ祖父清衛門が満面の笑みで鼻高々に挨拶を終えると、総勢七、八十人はいる村の衆から華は一斉に喝采を浴びた。傍(かたわら)には馳せ参じるかのように集まった白装束の修験道五十人ほどがいた。
  猛々しく横一列に並び、喝采が静まると同時に、一人二人と次々に法螺貝を颯爽と繰り出し荘厳で重奏の音色は瓜生山をも飛び越え比叡山にでも奉ずるかのような勢いで山々を鳴り渡るように響いた。



「 これから皆で紅白のお餅つくさかいに、お華はんは、よう見ときやし。阿部家ェは、これより修験道の血ィと交わるンやよし!。山端もまた新たしい代にきっと栄えるんやわ・・・・・ 」
  腕まくりをした祖母の貞子がそう言いながら蒸籠を臼の上に逆さにすると、餅米から煙のように白い湯気が立ち、あたりに甘い匂いがたちこめた。この蒸米の湯立で鬼婿(おにがしら)を迎え阿部家の血は再燃した。
「 さあ、いくぞ・・・・・! 」
  秋一郎の号令で若い衆が声を上げた。
「 ほな、どっこい 」・・・・・臼が跳ねる。「 あいよ 」・・・・・秋一郎は桶(おけ)の水で手を湿した。
「 ほれ、どっこい 」・・・・・さらに臼は飛び跳ねた。
「 あいよ 」・・・餅を返すたびに山端衆の結束が固まった。
  くるくると入代わる若い衆の杵(きね)の響きに合わせて秋一郎は素早く餅を返した。
  ぴたりと息の合った掛け合いの声とともに、臼の中の餅米はみるみる餅に姿を変えてゆく。終盤になると秋一郎が一段と声を張り上げた。すると見守る村の女らは若い衆の杵に、男らは秋一郎の手に合わせて声を張り上げた。

                                  





                                      

                        
       



 京都 狸谷山不動院









ジャスト・ロード・ワン  No.31

2013-10-11 | 小説








 
      
                            






                     




    )  狸谷  ①    Tanukidani



  ダイワロイネットホテルの部屋からは那覇ベイエリアの夜景がキラキラと泛かんでいる。
  その夜景を映す窓ガラスに、ふと雨田博士の顔が重なっていた。
「 何をまず考えるべきかと問われると、やはり言語と仏教、文字と仏教の関係は密接だ。インド仏教・シルクロード仏教・東アジア仏教におけるオラリティとリテラシーの変化と変容と変格を、看過してはならない。ヘブライ語やアラブ語が文明史を大きく変革していったように、アジアにおいては仏教言語が文明の歯車をつくっていった。日本を真剣に繙(ひもと)くというのなら、これはもっともっと強調されるべきだ。ふりかえればブッダの時代はおそらく文字がなく、仏典の編纂(へんさん)に文字が本格的に使われるのはアショーカ王の治世になってからである。それらがシルクロードでは多種多様な言語として花開いた。そして日本語にねッ・・・・・ 」
  と、以前、博士が語った言葉を想い起こしたからだ。
  あれは比叡山について比江島修治が雨田博士に疑問の一つ二つを投げ掛けたときに、博士はそう係り結ぶ言葉を遺した。
  この言葉を聴き終えた時から、修治における仏教という時間が回り始め、コツコツと秒針が回り続けている。
「 博士の言葉を借りて一言でいえば、シルクロード仏教を大乗に切り替えていく原動力になっていったのが『般若経』の理解とナーガルジュナ(りゅうじゅ・龍樹)の「空」の論法だった。南インドのビダルバの出身のバラモンと伝えられるナーガルジュナ20歳は、クチャの王宮で三師七証のもとで受戒したのだが、彼は大乗仏教中観派の祖であり、日本では、八宗の祖師と称されるだからこそ、このあと大乗が漢訳されていったとき、「空」が「無」とも訳された。その過程において彼は、仏教は論理的に完全でないところがあるから仏典の表現の不備な点を推理し、一学派を創立しようと考えたのだ。だからまずここを押えなければ、日本の飛鳥や斑鳩の仏教文化は見えてこない・・・・・ 」
  そう博士の言葉を改めて浮かべると、修治の眼には飛火野を奔る鹿の姿が映されていた。



  比叡山の西麓は森閑として閉じられて遠い悠里(ゆうり)のように真夜中の闇に沈んでいた。
  雨音の途絶えた静寂がその闇の深さを物語っている。
  京都では未明から傘がいらない程度のかすかな雨が降っていたのだ。
  すると養母の阿部和歌子が居間まで起きだしてきて足元をふらりと危うくさせた。眠れないのであろう。阿部秋子は朝餉の支度には少し早いようだが、と、ふと裏山で鹿鳴が聞こえたような気がして雨模様の庭を見ていた。仙人がしばしば乗騎とするのが白鹿なのだ。奈良の春日大社が茨城県鹿島から、武甕槌命(たけみかづちのみこと)という神様を勧請したときに、この神様が白い鹿に乗ってやって来たことから、鹿は神の使者として大切にされてきたという伝説がある。
  どうやら和歌子は顕色(しろ)い夢に魘(うな)されたみたいだ。



「 ほんに・・・・・、変な夢ェやったわ・・・・・ 」
  と、ポツリという。するとしだいに和歌子はその夢を語りはじめた。
  それはどうも以前にも見た同じ夢を、再びまた見たようである。正夢(まさゆめ)ならば顕色(しろ)く、白は不用心ではならぬもので変化(へんげ)の気色に胆が冷えた。しかも同じ夢を見たときの不思議さを、何やら和歌子は三度感じたという。
「 Get up. Wake up. It rained. 」
「 起きなはれ 目覚めなはれ!・・・・・ 」
  雪のふる平原を七頭の白い猪(いのしし)が一陣の風のように走り去った。すると笠かさを目深にかぶった一人の修験道が雪の舞い込む戸口に現れて、和歌子に起きるよう呼びかけた。いや一人ではない二、三人の声を聞いたよう思える。

「 臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前。おん まりしえい そわか 」
  笠をとり樫(かし)の杖(つえ)を戸口に突き立て、真言を唱えはじめた修験道は六尺を越える大男で、頭は短く刈り込んでいる。異形の風体ではあるが、影でつま弾く異国語のイントネーションはどことなく愛敬(あいきょう)があった。声の主は、手に摩利支天(まりしてん)の印を結び、皺(しわ)の目立つ目尻を下げてやさしげに笑んでいた。
  すると、まぼろしの如(ごと)く和歌子の前に現れた修験道は、白絹に包んだ物をスッと差し出した。



「 This is entrusted. It is an important thing. Will not lose it. 」
「 これは・・・・・ 」
  と、ふるえながら訊たずねる。だが包みを手渡した修験道は、するりと身をかわし和歌子がまばたきの間に、三和土(たたき)を蹴って和歌子の背後へと回ると、上がり框(かまち)を踏んでサッと奥座の方に通り抜けていた。
「 Slowly・・・what・・・Attach running after me early.  」
  何か激しい憤りすら感じさせる足どりで居間や座敷を土足のまゝ通り抜け、和歌子の兄富造が書斎としていた離れの前で、初めて草鞋の紐(ひも)を解き、そして雪を払い落とすと静かな動作で蓑(みの)を脱いだ。昨夜、和歌子はこの離れの数寄屋で一通の置き手紙をしたゝめたのだが、床の間に雪舟の架かるその奥座だけは13年前(昭和終年)と同じように整然と保たれていた。
「 Oh this room is made like the Showa era. I seem also to have had the conduct oneself to which it had still to return.  」
「 あっ、これ氷柱(つらら)やないか・・・・・ヒィ~ッ、これは何と・・・・・! 」
  白絹と見間違えたのか。和歌子の手には凍りつく氷の棒が掴つかまされている。身はさらに固く凍えた。ツ~ンと手に痛みが奔(はし)る。



「 It did not make a mistake in it. It sees it so when there is a hesitation in the mind. 」
  冷たさの不思議さと戸惑いを手にした和歌子は、握りしめると鼻筋につんと痛みが走り、身をはがされた魚のように骨組だけが残されて皿の上に横たわるように感じられた。その皿さえ割れるようだ。
「 この皿、あの九谷の絵皿やないか・・・・・ 」
  艶(あで)やかで家伝の格式ある贅沢な大皿に盛られると、骨組だけの粗末な魚の姿が、目鼻なく口もない深い闇の頚城(くびき)のみに薄暗く縛られた我身のように思われる。
「 Do not say it is miserable. Everyone is done so from generation to generation, this house is piled up, and it has set it up. 」
「 あゝ、あのときの、祝の日ィの大皿や。落として割れた祖父が大切にしていた古九谷やわ。せやけど、なして、これが祖父ならば祟(たた)りはることも、怒りはるはずもないが・・・・・ 」
  と、喉元までせり上がった言葉を堪(こら)えると、むしょうに涙がにじみ、小刻みにふるえては耐えがたくなってきた。
  すると荒唐無稽(こうとうむけい)の絵のように不思議な景色が次々と泛かんでは消えていった。


「 It is the street. It is possible to recall, and recall it more. Be stirred up more of the mind.  」
  東の空に白い虹が架かってる。西の空には五色の虹が現れている。星もまばらな夜空にかゝる白虹(はっこう)も五色の虹も、和歌子はそれぞれが美しいと思った。しかしこれは五行陰陽吉凶の虹なのだ。
「 東みたらあかんえ。西ィ向きなはれ。和歌、悉皆(しっかい)しなはれ。忘れたらあかン教えたやないか!。東みたら家ェのうなる! 」
  行き迷う耳に、どこからともなく湧くように母秀代の声が懐かしく聞こえてきた。
  だがしかしそれは和歌子を罵倒(ばとう)する声のようだ。
「 Ah the voice is mother's voice. It does so and my Kiyoko is watched, and it gives and it gives it. It will ask suitably in the future.  」
  京都では明けたばかりの東の空に白虹のかかることが稀(まれ)にある。
  科学的には琵琶湖の水温に係わる自然現象であるのだが、古い時代に公卿(くぎょう)らが叡山の荒法師を恐れ、東の空に白虹が立つと忌み事として怪しんだことから、お秀はその空の兆しをみると戒めていた。
  東の白虹はお家の滅亡を、西の五色はお家の繁栄を暗示させるのだ。こんなとき秀代は決まって西の空に目を向けたし、東のお山へは決して近づこうとはしなかった。これを思い起こすと、祖母や母の手で育てられた和歌子はやはり東の空から顔をそむけた。



「 あゝ、言いはッた昔の通りなんやわ。せやけど未だに叱らはるンやなぁ~。鬼籍やしてもほんに気丈夫なことや・・・・・ 」
  西空を見上げていると、天井がぽっかり二つに割れ、五色に輝く虹が大きな渦を巻きながら流れ去ると、そこにはキラキラと白銀(しろがね)の舞い踊る美しい吹雪の空が広がっていた。しかし、それにしても、なぜ異国の言葉が、和歌子の耳に届けられたのかが不思議であった。  だがそう思えると、次は広くて青い海原が目の前に広がってきた。
「 あゝ・・・・・、そうやったわ。うちなッ、雨田の君子はんに手紙書こうとしてたんや。千賀子からそう頼まれたんや・・・・・ 」
  その和歌子からの手紙が八瀬の帆淵庵(はんしんあん)に届いたのは、新春に奈良へと向かった雨田博士が、来日したM・モンテネグロと再会したその一夜から季節は二巡した春のことであった。
  したがって昨年の冬一月に雨田虎哉は他界したのだ。
  和歌子はその間の博士との約束を果たすために鬼籍宛ての手紙を長女君子宛に書いた。
  それは博士への返礼と弔辞とが込められていた。すべては三回忌の法要のためだ。
「 佐保姫(さほひめ)の 糸染めかける青柳あおやぎの 吹きな乱りそ春の山風 」
  と、二年前に宛てた手紙には、この一首がしたゝめてある。そして和歌子の本旨が追ってつゞられている。和歌子は何よりもまず、この歌を手紙の枕に据えること決めた。こゝには納音(なっちん)を暗譜させた。薄墨で細く白蝋金(はくろうきん)とし、そこには臨機応変に事に対処する心映えを伏せている。
「 そう認(したため)た和歌子の目線であるから、これは二年前の話となる・・・・・ 」
  飛火野(とびひの)に舞うぼたん雪を眼におさめつゝ親密に夜なべ談義などして過ごした一夜から、明けて翌朝8時、雨田虎哉は寝ぼけ眼まなこの呑気のんきな香織を急かせて身支度を整えさせた。そして二人は、さも湖畔に取り残された北帰行の白鳥が泪眼(なみだめ)で後追いに羽ばたくがごとく奈良ホテルを後にした。二人はその後、奈良市内から予定には無かった長谷寺はせでらへと向かう。そうした強行が骨身に堪(こた)えた。北の八瀬に帰るはずの予定でいた白鳥が、なぜ、にわかに南の長谷寺へと羽ばたく事態になったのかは、阿部和歌子がしたゝめた手紙にその経緯が記されている。そこで虎哉の眼に音羽が翔けたのだ。
  奈良ホテルでの一夜、このとき雨田虎彦はM・モンテネグロと香織に伏せた何事かの密約を交わした。そしてその虎哉が和歌子に宛てた手紙をみた翌月に、和歌子は単身ニューヨークへと飛んだ。これで虎哉は阿部家への一応の使命は終えたことになる。
「 佐保姫・・・・・と・・・阿部家・・・・・ 」
  そのとき虎哉は眼に佐保姫の姿を浮かばせていた。
  奈良時代、五行説では、春が東の方角にあたる。このため平城京の東にある佐保山が春の象徴とされ、春をつかさどる神は「 佐保姫(さほひめ) 」とよばれるようになる。伝えでは、佐保姫は白く柔らかな春霞をまとう若い女性。染色が得意で、野山を春色に染めあげていく。佐保山は虎哉の生まれ在所の懐かしい山である。その山神なのだ。また五行説では、秋は西の方角にあたり、平城京の西にある龍田山が秋の象徴となり、秋の女神は「 龍田姫(たつたひめ) 」と呼ばれた。その龍田姫は織物が得意で、野山を錦織なす風景へと変える。これは川神なのだ。この二人の姫君に和歌子は互いに綱を引かせた。
「 佐保姫・・・・・と・・・龍田姫・・・・・ 」
  染色と織物が得意なこの二人の姫は、どうやら互いに好みの色が違うようで、佐保姫は桜の薄ピンク色をはじめとして、やわらかいパステル色に野山を染め、一方、竜田姫は、鮮やかな赤や黄に野山を染める。この対照的な二人の姫君によって、彩り深く季節は染め上げられていくのである。こゝにまた二つの神に関わる問答が産まれた。
「 しかし、枕に、この歌を打たれたのでは、雨田博士はしばらく静観するしかないだろう。堪忍や、もう少し待ってくれやす・・・・・ 」
  と、和歌子が添えた一首を思えば、やはりその通りに虎哉は二年前に動けないでいた。和歌子の採った歌、これは平兼盛(たいらのかねもり)が詠んだ和歌である。兼盛は平安時代中期の歌人、三十六歌仙の一人。和歌子は兼盛を引き出して虎哉を山風にした。その風は凪(なぎ)よとばかりに呼び止めた。



「 佐保姫が染めて青柳にかけた、その糸を風で乱さないでくれ春の山風よ 」
  と、解釈される。平兼盛はこれを、糸がもつれると織物をする佐保姫が困るだろうから山風よ乱さないでほしいと詠んでいる。この歌と係り結ぶ形で和歌子は、やはり兼盛の歌から別の一種を採って後付けに添えた。こうして手紙は、歌の先付けに、歌の後付をして〆(しめ)た。
「 しのぶれど 色にいでにけりわが恋は 物や思ふと人のとふまで 」
  手紙を読み終えた虎哉は、そのときこの歌で〆(しめ)た和歌子の心情が吐露されて探索への軽率に顔を赤らめた。歌は「 知られまいと秘め隠していたが、顔色に出てしまったことだ、私の恋心は、思い悩んでいるのかと、人から尋ねられるまでに 」と、でもなろうか。つまり阿部家の内情や暮らしぶりは世間には控えていたのだが、虎哉に気遣いをされたと、和歌子は胸中あからさまに返歌して応えた。この言ノ葉(ことのは)の手配りこそまさに陰陽(おんみょう)の術である。雨田虎哉は長谷寺を訪れて以降、阿部和歌子の渡米へ向けた決断の是非をしばらく静観することにして、M・モンテネグロとの連絡を密にした。
  80の高齢をして単身渡米するという女史の気丈夫さには、彼女が一念発起して担保した宿題を果たそうとする気概を虎哉に感じさせる。それはおそらく山端の小集落社会の再生に向け、どう生き抜いて行くべきか、その示唆を村衆に与えることであろう。そこには自身が生身でいれる間にそれを秋子に受け継がしたい思いがそこにはあった。血統を継ぐ若者は秋子しかいないのだ。それが最期の和歌子の自責であり、果たすことが自負なのであろう。要件ではあるが本質は他家のこと、虎哉は無理強いを憚(はばか)り一歩譲ることにした。
「 龍田丸・・・・・! 」
  1941年12月2日、横浜からロサンゼルスを経由してパナマのバルボアへ向けて出港したが、日米開戦を受けて引き返し、12月14日に横浜に帰港した一隻の船がある。M・モンテネグロが来日したのはその名「龍田丸」に関する要件であった。どうやら長谷寺は阿部家にして結界であったようだ。虎哉はその結界を踏もうとした。
  しかしその寸前に、和歌子からの手紙を読んで待機することになり、以降、虎哉はじつに多忙であった。洛北八瀬の地で暮らしながら眼を向けるべき現実と向かい合ってきた十年という年月を振り返ることにした。
  すると現実は、読み切れぬほど問題が噴出してきた。
  そして現代の日本人が正しい日本人になるための、その視点が社会に欠落していることを痛く自覚させられた。さらに虎哉は日本国憲法を幾度も読み返してみた。憲法は日本と日本人を規定する基本法であるからだ。国民である以上、山端の再生もこゝを踏み固めた上で日本人としての理論立てが必要となる。同じように虎哉は地方自治法にも目先を入れた。
  日本の憲法の主たる法源は、日本国憲法である。しかし国際化社会のこゝでは、日本国憲法には述べられていない憲法上の解釈について行動を規範することが重要なのだ。現憲法を踏まえるも時代は流動しつゞづけている。山端再生の課題となるものは、国家と国民の自己表現なのであった。つまり山端衆の個性表現の定義を指し求めることになる。
  近現代の国際に挫折した体験をもつ虎哉は、このことに懸命にならねばならなかった。
「 奈良の生駒郡斑鳩町に龍田神社(たつたじんじゃ)はある・・・・・ 」
  この神社は、明治の神仏分離により法隆寺から離れ、三郷町立野の官幣大社龍田神社(現・龍田大社)の摂社となった。独立の請願の結果、大正11年3月に龍田大社より独立し、県社に列格した。法起寺を後にした阿部富造と竹原五郎は、この龍田神社へと向かったのだ。
  二人がこの寺に向かったことゝ、虎哉と香織が長谷寺に向かったことは一軸で連なり深く関わるのであった。
  それはあの芹生(せりょう)から牛を曳いて長谷寺に向かった少年の影が虎哉の裡で符合したことだ。
  阿部家でタツタとは「竜を治す」という。それは、竜を治め操り、波を鎮め、火を消すのだが、すなわち竜は水をあやつる支配能力を持つのである。この龍田神は法隆寺の鎮守とされてきた。
  またこの龍田神を阿部家では「蜃(しん)」という。蜃は気を吐いて楼を顕し蜃気楼を示現させた。
  阿部家伝によると、蜃とは角(つの)、赤いひげ、鬣(たてがみ)をもち、腰下の下半身は逆鱗であるとする。そしてこの蜃の脂を混ぜて作った蝋燭(ろうそく)を灯して幻の楼閣が見られるといゝ、さらに蜃の発生について、蛇(じゃ)が雉(きじ)と交わって卵を産み、それが地下数丈に入って竜(たつ)となり、さらに数百年後に天に昇って蜃(しん)になると伝えた。つまり蜃は蛇と雉の間に生まれた神気楼なのであった。



「 この神の名に肖(あやか)るよう海神(わだつみ)を形而(けいじ)にして、龍田丸は造船されたのだ! 」
龍田丸は日本郵船がかつて保有していた遠洋客船、1927年から1930年にかけて三菱造船長崎造船所で建造される。龍田丸は隔週で運行されていた北米航路用の船であった。
  主な寄港地は、香港・上海・神戸・横浜・ホノルル・ロサンゼルスおよびサンフランシスコである。そしてこの船は姉妹船で、姉の名を「浅間丸あさままる」という。両船とも神の名に肖る。また姉はその美貌ゆえに「太平洋の女王」と呼ばれた。これは和歌子の遠い記憶の底に洋行する龍田丸であった。
「 さて、和歌子が見た夢の話に、また戻ることにする・・・・・ 」
  和歌子は、どうしてもアメリカの言葉が耳に触れると、その度に頭の芯(しん)をつゝき、指の爪先までがピリピりとした。しかも複数の声で語りかけてくる。耳までもがジリジリと激しく響いた。そう聞こえたのだが、それが物音であるのならば、言葉ではないのかも知れない。そこがどうにも和歌子には判然としない。だが、それが耳慣れた声か音ではないことだけは判った。その何かをさらに確かめようとして耳を澄ませば、身体の先が疼くほどに、しだいに空が大きく広がって行く。すると和歌子はいつしか地吹雪の白い世界にいた。この白い大地のそこは自身さえ居るか居ないか解らない遠い時間の中にいるようである。和歌子はそこにたゞポツンと立っている心持であった。
  雪はそんな和歌子を巻き包むように舞いあがり、そしてまた舞い降りてきた。しばらくその舞い上がる、舞い降りるの、繰り返しに晒されていた。それは、ひらひらパラパラと、冬のサクラのような仕草なのだ。
「 やわらかァ~な、紙吹雪ィ散らすような、ほんに美しい雪やこと・・・・・」
  天井から雪が舞いかゝるのも構わず、そこに立ち尽くしている修験衣の白い体は、雪景色の中で闇の底がほんのりと雪明りで照らされるように泛き立っていた。そして書斎と真向き合う修験道の、やゝ右肩上がりの肩筋と太い猪首の気配は、たしかにあれはと思える写し絵のような鮮やかで、どうやら和歌子だけが判別できる懐かしい面影があった。気配に温かい血生臭さを匂わされた。
「 At last, it seems to have recalled it. Thank you. However, does Kiyoko understand I think now?I have the doing leaving. It is empty.  」
  するとやはりこれは人の言葉だ。瞬時に、そう感じ取れた。しだいに耳に馴染んでくる。だがその背中が和歌子に語りかける寒々とした侘しさは、消え去ってしまったものを、もう一度この世に呼び戻そうとしているのではないか、と思えるほど寂しげにみえた。密やかな眥(まなじり)はすでに何かを決めているかのようにもある。鍛えられた筋太の白い影の手がふわりと動く。やがて影の男はその指先でそっと目頭を押えた。和歌子にはそんな修験者の身辺をくるくる回りながら確かめている自身がいることが不思議だった。
「 It returned now my Kiyoko. It is reunion after an interval of 13 years.  」
  と、呼びかけられたその時、今まで陰で聞こえていた何かの呪文かと思えた小さなさゝやきが鮮明な言葉として聞こえたのだ。
「 It waited just now. It ..training.. has returned laden. 」
  と、さらにまた確かに聞こえた。それは日本語ではなくとも、そこに聞き覚えた吃音(きつおん)の癖があることが判った。たしかにその癖は忘れようもない声の仕種しぐさだった。曾の血の聲は、血の子には理屈なく判る。
「 ようお帰りやした・・・・・ 」
  亡き父のふせたまつ毛が涙にぬれるのを感じると、和歌子はそう言わずにはいられなかった。
  そうして、ようやく旅支度を整え終えた阿部和歌子が寝床についたのは深夜二時ごろである。和歌子は未明にも早寝付けなくさせられていた。今日、ニューヨークへと旅立つのだ、という逸(はや)る思いが80歳の眠りを浅くしている。そんな和歌子はうたゝ寝の夢の間に、今は亡き父秋一郎の白い面影をみせられ、揺らぐ影の動きをみたのだ。そして浅い眠りに肩口をそっと撫でられて誘われるようにす~っと目覚めさせられていた。すると、寝床から半身をひよいと抱き上げられるかのように起こされて、おもむろに仰がされた顔の眼をそのまゝに、あやつり人形のごとく天井の一点をしばらく見すえさせられていた。そしてしだいに、頭上の紋様が泛き立ってくる。すると、みるみるうちに紋の渦に曳き込まれて行く。天井材は京都の家屋には珍しい津軽檜葉(ひば)が使われていた。
「 そうや。このヒバいう木ィは、比叡のお山から吹き下ろさはる小雪まじりの風にィ打たれながら育たはるこゝらの木ィより強いんや。あゝあの時そない言うて自慢してはったなぁ~ 」
  和歌子は父秋一郎と共に一度みたことのある北陸の海を思い出して、その荒々しい景色の中を訪れていた。空はどんよりと曇り、海は鉛色だった。そして父の腕を握りしめている。風は次第に激しくなり能登の七尾港に打ち寄せる波も高さを増していた。
  餌を求めて飛び回る鷗(かもめ)でさえ、時折吹きつける突風に押されて横にすべるような動きを見せていた。腕組みをして宙(そら)を睨(にら)みつけた秋一郎は、鋭い鷹(たか)の眼をして沖の波濤をも睨み返していた。

                      

「 阿部家の嫡男(ちゃくなん)いうは代々、村が己(おのれ)のために錆びれてゆくのを恥としたものだ・・・・・ 」
  という秋一郎のたゞ一言の、あのときの鬼か鷹の目をして張り上げた口調が幼い和歌子の度肝を抜いた。家では恵比寿(えべす)はん、外では不動(みょうおう)はんやと思った。
「 人が恐れはる荒海に命ィ張らはって、いさぎよう船を漕ぎ出さはッた、そんなお人らが大勢いてたからこそ阿部家が今こないしてあるンやわなぁ~・・・・・ 」
  天井に映える年輪が描く風雪を見すえている和歌子は、秋一郎が買い付けた檜葉の丸太を見せようとして冬の七尾港まで連れて行ってくれたのと同様に、二十五代継ゝてこの家屋の様式を守り続けながら、千年余を世襲し続けてきた阿部家の永い幾歳が目に痛く映るのである。その血の気質は平安京、いや奈良京より連綿とある。
「 これらは皆(みな)、先祖代々、京都より遥かに雪深い北の果てから集めはった木材なんや。我家(うち)とこだけやない、山端の家が皆そうや 」
  十二代の清之介に係わる覚書には「 嵐が迫っていることは明らかであった。九兵衛ははち切れんばかりに帆をふくらました龍田丸が、荒海の彼方に消えていくまで欄干を動こうとはしなかった。九兵衛がこれほどの危険を冒してまで龍田丸を出港させたのは、清之介が手彫りの摩利支天像を握りしめていたからである 」と、伝え記されて阿部家に遺されている。
  その九兵衛というお人はおそらく北前船の商人あきんどであろう。
  当時は阿部家の屋敷にまで北前衆が出入りした。その十二代の清之介であるが、北前船で北海の昆布を載せては、商いの越中衆らを加えて、また薩摩藩と密商を交わし、遠く南方の琉球にまで昆布や薬種を運んだ。この証として現在の沖縄に昆布という浜の名がある。龍田丸はそうした船団の中心にいた。
  夢うつゝに見た父秋一郎の印を結びながら呼びかける影の在り様を改めて噛みしめると、和歌子は全身に圧(の)し掛かる重さを感じ、そっと天井からは顔をそむけ、蒲団(ふとん)の上にへたりと座り込んだ。上半身を下支えする気の鎹(かすがい)が消えていた。だがそれは妙に安らかな脱力だった。
「 The what went wrong?Does not Kiyoko have great vigour? Recall me wanting meet me because the vase on the desk in study is seen. Kiyoko's mother also is entering in that. 」
  と、風音のように聞こえると、自然と和歌子の目は机の上に向けられていた。腰も胸も頭までもが風神にくるまれるようだ。
「 あゝ~・・・・・あの花入れのような、お人やった・・・・・ 」
  書斎の机の上に、古伊賀の焼き物が、今も生前と変わらずに置いてある。野の風はその花入れに巻き起こされている。
「 It is so. It is it. Embrace it closely when it is lonely.  」
  それは見る者に強烈な作意を窺わせる、桃山期の伊賀耳付花生であった。秋一郎はこれに「 あざみ 」と名付け裏山の茂みに咲く折々の野草の花色を借りては、花を入れない花生の景色を楽しんでいた。此の花の、あざみは形見の花である。そして家伝の薊笛(あざみぶえ)もこの名から産まれた。
「 It comes to have understood tasting and the earthenware. It is a daughter who still pulled my blood. 」
「 野薊(のあざみ)の棘(とげ)を連想させることからそう命銘したという・・・・・ 」
  胴の部分に突き刺さるように付着した窯変の細かな焦げが飛び散るように口辺まである。裾の濃い焦げの上に若草色のビードロ釉がかゝり「 自然の変化がこの花生の味わいだ。関白などに分かるまい 」などと、まるで利休を気取るかに語っていた。
「 It is an important treasure brought when Kiyoko's mother marries from Iga. 」
  母秀代は伊賀上野に生まれた。この古伊賀は秀代が阿部家に嫁ぐとき花嫁道具の一つとして持参したものだ。端正な形態の一切が拒否された古伊賀の、緑釉(みどり)に父の姿が、そして母の姿が泛き上がると和歌子はまたふと遠い目をした。
「 お母ちゃんが生きてゝくれはッたら、阿部家ェもまた違ちごうたんやろなぁ~・・・・・ 」
  明治、大正と足早に終わり、昭和の時代もまた遠のいて、和歌子はその徒然を懐かしく泛べた。阿部秋一郎という男は、古い家柄を鼻にかけるような人ではなかった。それゆえに誰からも信用され信頼された男であった。その誰もが信用しきれる男の値打ちに、和歌子はいつしか秋一郎の長女として生まれてきたことへの自負を芽生えさせた。京男の値打ち、このことを疑わず永らえて80歳になる今も変わらずに健悟でいるのだから、亡き父の蜉蝣(すがた)を偲ぶ和歌子の眼差しには細石(さざれいし)のような得心が現れていた。嫡男富造の亡き後は、和歌子が奮起せねばならないのだ。
「 I boast of an old standing of a family and the person never proudly has behavior.  」
  と、などと、秋一郎からまたそう言われそうだと想った和歌子は、静かに辺りを見渡して苦笑した。洛北の高野川沿いには古びて狭い集落が、里山のような存在として点々とある。着道楽などと囃(はや)される洛中の雅さとは一定の距離をおのずと保つことで、これらの山里は特有の営みと穏やかな暮らしぶりを守り続けてきたのだ。
  暮らしを守り抜こうとする里人達は、集落の中に里山という共通の鎮守を据え、何よりも要(かなめ)となる結(ゆい)を重要視し、人心の結束に努めるのである。人々は京に都が遷(うつ)される前の原住であることを心の寄りどころとし誇りとした。祖父や父はその山端衆を後押し続けた。これらを崩され壊されることを恐れるから結垣をつくり掟とする集落では、もの珍しき者、抜け駆けを企てる者、異形なる存在は、些細(ささい)なことまでが穿鑿(せんさく)の火種となった。
「 秋一郎はんは京都ではのうて、石川の出ェなんやそうすどすなァ~ 」
  と、少しの仇瘡(あだきず)でもみつけようものなら小噂(こうわさ)を立てた。
「 えゝ・・・・・ 」
  女学校に通うころの和歌子は、村人から父の不可思議な出生を問われると、いつも笑顔で弁(わきま)えのある物言いをして明るく答え、そう心構えして通り過ぎると、そうした流言が、妙に意地悪く聞こえるから決まって眉をキッとひそめたものだ。
「 秋一郎はん、天狗さんの子ォや聞きましたが、あれほんまやろか 」
「 へえ、せやえど天狗さんのよう鼻ァ高こうはあらしまへんしなぁ 」
  このように母の秀代から頂くように諭(さと)される知恵で、しだいに和歌子も村の人間となり結(ゆい)の仲間入りをするようになるのだが、村長(むらおさ)の立場であった阿部家に係わる者として、村長とは頼られることによってしか存続できないものであるから、一人前になるに従って隙の無い、火の打ちどころの無い、あらゆる結のための企てを胸に秘めて備えねばならなかった。そんな母秀代の知恵は、そのまゝ祖母の富(とみ)から頂く英知でもある。女であれ阿部家の人間として性根は見せねばならなかった。
  京都人の口に戸は立てられぬもので村人達が実(まこと)しやかに語るように、秋一郎は石川の真言宗寶泉寺(ほうせんじ)の修験道光雲に拾われた捨子なのだ。
  それは、まことに不可解な秋一郎の出生である。






                                      

                        
       



 佐保姫伝承の狭岡神社









ジャスト・ロード・ワン  No.30

2013-10-10 | 小説








 
      
                            






                     




    )  氷輪    Hyorin


  古代ジャパンの至高の「月の神」を『ツクヨミ』という。
  古代オキナワは至高に「海の神」『アマミキヨ』をもつ。
  そして頭上には顕色(しろ)の氷輪がある。
「 日本神話・・・・・、これほどに戦闘と葛藤にひそむ知と知識の行方を高遠に謳(うた)ったものは、琉球には見当たらない 」
  斎場御嶽から離れつつ比江島修治は眼に抱き合わせた月光にそう考えた。
  ツクヨミはスサノウに「 闘いなさい、アマテラスは平静になれる 」と不思議なことを言っていたからだ。久高島のイザイホーは、後継者の不足のために1978年に行われた後、1990年、2002年は行われていない。イザイホーは、12年に一度の午(うま)年の旧暦11月15日からの6日間、島の30歳から41歳までの女性がナンチュという地位になるための通過儀礼として行われる。これにより一人前の女性として認められ、家族を加護する神的な力を得るとされる。
「 富造は午の骨を拾ったが、琉球の2014年はどうなるのであろうか・・・・・! 」
  久高島における放擲(ほうてき)とは人智のすべてをアマミキヨに捧げることだが、顕色(しろ)く現れた氷輪と別れながらそう思う修治は那覇市内へと向かいながら、もう幽・キホーテの影を消していた。
  そして丸彦も京都へと消えた。
「 久高島は海の彼方の異界ニライカナイにつながる聖地なのだ・・・・・ 」
  そこは遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる異界なのである。またそれは琉球にとって豊穣や生命の源であり、神界でもある。年初にはニライカナイから神がやってきて豊穣をもたらし、年末にまた帰るとされる。また、生者の魂もニライカナイより来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられている。琉球では死後7代して死者の魂は親族の守護神になるという考えが信仰されており、後生(ぐそー:あの世)であるニライカナイは、祖霊が守護神へと生まれ変わる場所、つまり祖霊神が生まれる場所でもあった。道々にそう考える修治は、ふと祇園精舎に泛かぶ月の色彩を想い描いていた。
  イザイホーを思えば不思議なもので秋の夜空に冬の氷輪がある。
  そしてその冬月は、京都でも琉球と同じ氷輪の月となる。
  円(まる)いその冬の月に照らされると、阿部秋子は胃のあたりに鈍い痛みが走るのを感じた。




「 氷輪がこの地を透かすと、百年に一度下りてくる天女がいる・・・・・ 」
  瓜生山(うりゅうやま)にはそんな言い伝えが昔からあるのだ。その天女は星を数えるという。それはカタルシスの仮身なのだ。
  それにしても百年一度とは、よほど運好く生きなければ見られる景色ではない。
  その天女の衣を身にまとうカタルシスは、巨大な石舞台がすり減るくらいに、長い長い時間をかけてこの世で起きた悲劇と未来で起きる悲劇とを演じた。そして舞い終えると、また長い時間をかけて弔いの無量寿経を唱えるのであった。
  この世に何かを思いをめぐらす修行者は、皆、このカタルシスの石舞台を観つゞけることになる。そして視た者だけが浄化され修行を終えて山を下る。山の頂には小さな祠(ほこら)があるが、瓜生山とはそんな山なのである。




  北米のアマーストから帰国した阿部秋子の一日はつねに時間で縛られていた。
「 失感情症やなんて・・・・・、阿呆(あほ)なこと言いはるもんや・・・・・」
  と、気がへこみ、指につまんだ錠剤を呑み込めないまゝでいた。
  そんな晴れない気分でいる秋子は、誤診とも思える病状がそう度々あっては困るのだと、コップを握りしめながら泛かんでくる鬼頭次郎の赤鼻のとんがりを、さも五月蠅(うるさい)とばかりにしかめた眉先でピンと窓の外に弾き飛ばした。
「 これ・・・・・、テクノストレスいうやつや。しばらくパソコンいじるの、やめときや! 」
  と、チョボ髭をパッサリと剃り落した医師はいう。
  カルテをながめながらそう軽口を叩くと、さらさらと軽く処方箋を書き終えたその指さきで、小娘とばかりに秋子のおでこをピンと弾いては、さらに赤い小鼻をくすっと斜(はす)にひねり曲げて意地悪く笑った。
  じつに小憎らしい態度で診察を終えた鬼頭次郎の顔を思い出すと、無性に腹が立つ。癪(しゃく)に障るから、いつか仕返しをしようと思うその次郎とは、烏丸(からすま)アガルに医院を構えて、少し癪なので認めたくはないが、京都ではなかなか評判の良い秋子の伯父であった。

                       


「 そういうたかて、仕方(しょう)ないことや、とは、ほんに阿呆かいな・・・・・ 」
  次郎の診断に不満な秋子は、刺し違えてやる、といわぬばかりにポンと口に錠剤を放り込んだ。
  家事をこなしながらの合間に、秋子は日替わりランチのようなメール原稿を、毎日、五通りは品揃えして工面する。そうしてそれらを、午前3時から午後4時までの間に五つのアドレスへと時差をみはからって送信しなければならなかった。この作業を毎日、秋子は滞りなく終えることになる。これは留学から帰国後にそう決めたのだ。
「 いじるの、やめときや言われても、そんなん出来へん・・・・・ 」
  これはアマーストから帰国後に立ち上げた秋子の密かなプロジェクトなのだ。
  毎日、世界中にメールの電子鳩六号を飛ばした。
  そうして日毎パソコンの電源を落とし終えた秋子はいつもきまって一冊の表紙の面を指さきでなぞりながら、この後に課せられた夜支度の手順を、しばらくは手ざわりの中に泛かべるのであった。

                  

  それは手垢にまみれた随分古い表紙の庭で「 百匹の蟻 」が行進する思い出深い手作り本である。
「 カタルシスか・・・・・! 」
  診療の間合いに、医者の次郎がさりげなく語った一言が、秋の耳奥でさゝやくようだ。転ぶようにコロコロと聞こえてくると、このときモロー教授の顔も重なり妙な障りを感じた。そうした気障りな連想には、瓜生山の小さな祠が見えてくる。
「 アリストテレスなら・・・・・、あれはミメーシスやったなぁ~。そして左がプラトン、右がアリストテレス、手前に寝転んではったのがディオゲネスやった・・・・・ 」
  秋子はラファエロが描いた「 アテナイの学堂 」を思い起こして泛べた。
  直筆ではないが高校生のころ夏季に訪れた、イギリスのヴィクトリア&アルバート美術館に展示された小さな複製画を一度だけ観たことがある。その中央に師のプラトン、右脇に青い衣に身を包んだアリストテレスが立っていた。



「 あの本・・・・・、何ィ記(しる)しはった本なんやろか・・・・・ 」
  秋子はアリストテレスの左手にあったと思う、大きな本の内容の彼方が興味深く思い起こされた。ラファエロなら本を開いた内容を眼に刻みつけていたはずだ。人物像に超人的清明さと優雅さを与えられる、ラファエロとはそんな画家である。
「 ビュシスいうんは、うち、あると思うわ。せやけど、ディオゲネスのキャベツかて・・・・・ 」
  自己の自然(本性)を実現することが全ての存在者の使命であり、そして人間の自然(本性)とは理性(ロゴス)に従う活動であるとアリストテレスはいう。しかし秋子には壊れた樽の中で暮らしていたというディオゲネスが最高だと賛美したキャベツと、風変わりな野良犬のギリシャ哲人の方が、秋子の心の中に住み続けていて欲しいような気がするのだ。



「 彼となら一緒にキャベツを川で洗って食べてみたくなる・・・・・ 」
  幼いころの秋子はアンデルセンの絵本の城で遊んでいた。さらに小学生になるとファーブルの昆虫記で野原を歩き、中学生では観察範囲をさらに拡げて東山から比叡山を越え、琵琶湖周辺にまで小さな友達を訪ねては記念写真を楽しんだ。
  現代社会は、幼い子供でも読書テクノストレスから失感情症を引き起こす時代である。しかし秋子にとって夜は、痛みを伴うからこそ、他に代えようもない大切な時間であった。悲しみや苦悩というものは、浅いようで深い、深いようで浅い、なまなましくも儚い姿でしか普段は現れてこないものである。だが一度でも現れてその舞台を杳(よう)として知れない奇妙と観ると、秋子はしだいに暗い闇の淵へとまねき寄せられた。
  歓迎するのではなく、秋子にはそこに深く眼差す時間が課せられている。
  愚かさ、弱さ、卑しさ、残酷さなど、もろもろが泛かび上がると、秋子はしだいに暗い闇の淵へとまねき寄せられて、今という時代のいびつを銀幕のごとく体全体で映し出してくる。砂粒ひとつ落ちてない石畳を歩き、箒目(ほうきめ)で波の紋様を掃き入れた裏庭を一回りし、手抜かりの無いことを確かめた秋子は、さも来客でも訪ねてきたような仕種で初々しく門前に立つと、す~っと一息呑み込んでから、小袖の袂たもとに入れた青白い友禅染の巾着(きんちゃく)袋をそっと取り出した。
「 これで〆や・・・・・! 」
  とつぶやき、おもむろに結びを解くと、門の左右それぞれにお鎮めの塩を丁重に盛りつけた。
  日毎このように繰り返しながら秋子の一日は暮れるのである。
  こうして真昼間の忌みを祓い真新しい夜を出迎えることが阿部家代ゝの習わしであった。しかし秋子はそのたびに魔屈(まくつ)にでも踏み込むような怖れと嫌悪(けんお)を感じた。一通りの儀式を終えてみると、澱(よど)んだ空気にただよう自らの匂いに、みずからがむせ返るのである。秋子のこれは陰陽(おんみょう)や巫女(みこ)の拘わりと似ていた。忌み事に拘わる媒介者は、ときとして封じ祓うべき忌みを自らに背負いきせられる。こうなると厄介であるから、阿部家の代ゝが鎮めの塩の盛りつけを終えると、しばらくは月の明かりの下にみずからを晒(さら)して清め、背負いきせようとする怨霊を鎮めた。

                          

  秋子もこうして月より言霊ことだまが降ろされてくるまでを待ち、身の清めを授かるのである。
  このとき秋子の顔は言霊を降らす月を見上げさせられることになる。
  この言霊をうける間の心の怖がりが最も胃を痛ませるときであった。
「 冬の月には歯切れの良さがある 」
  という、数日前の新聞がこんなコラムの見出しを載せていた。
  西行の本名が佐藤義清(のりきよ)という文字を拾い、いかにも有触(ありふ)れた名であったなと再確認できたことの面白さから、興味深く秋子がていねいに目を通し終えてみると、文面にはコラムニストの月見観が淡々と述べられていた。
  某大学教授は西行を気隋に語りかけようとする。しかし書き手に生活臭のないというか実態がない。その筆で西行の名をたゞ楯に述べて連ねたとして、その矛先やつまるところ、机の上で西行の名をペン先につゝいては空想の花をいじり散らし陶酔の形骸(けいがい)をのみ嗅がされる、秋子にとってじつに屁(へ)のような記事であった。
「 モノにィは、肉体、幽体、霊体とあるんや。先生、ほんに、どこ見て書きはったんやろか。霊は憑つけてみんと分からへん 」
  見上げて月を愛でるという観念を持たないで育った秋子には、コラムが文字を連ねてもたらそうとしている月見観という日本人の美意識への誘(いざな)いが、どうにもこの世から遠くはなれた不自然で不条理な悲しいものに感じられたのである。
「 月は人の勝手で見るもやあらへん。愛でるのが模範やなんて、ほんにおかしなこと書かはるわ。人に月を慰めるだけの力はないわ 」
  こう秋子が感じるように、阿部家の代ゝに身のしのぎ方は変われども、天より強いられて夜を迎えねばならない習わしが、宿命として受け継がれ、阿部家の平安を今日につなぎ留めていたのである。無論、その平安は山端集落の平穏を念じた。
「 西行さんやかて、歯切れ良いとは感じはらんやろ。そないなこと、思いもしはらしまへんわ。畏(こわ)いから月の淵におりはったんや 」
  きさらぎの月が玉のごとく宙(そら)に凛として座るから、西行が譬たとえて「 願はくは花の下にて春死なむ その如月きさらぎの望月のころ 」と、詠んだのではないのだ。死期を悟った西行にとって重要であったことは「 如月の望月のころ 」という、釈迦の命日に自身の崩れを符合させることであった。西行のサクラとは幽霊な使徒なのである。

  


  人は息をする幽霊なのだ、と阿部家では八瀬衆にこう指南する。
  幽体の儚(はかな)さを知る西行は霊体となった釈迦の命日をみずからの死の際に曳きつれてきて、山桜の花の幽けさにたゞ埋もれることを願いながら辞世とした。西行という人は、出家後も長く煩悩に苦しんでおり、迷いや心の弱さを素直に歌に込めているのであるから、漂泊の人であり、いわゆる聖人ではなかった。幽体を手探るそんな月と花をこよなく愛して歌を認(したた)めたこの西行の終焉の地、南河内の弘川寺(ひろかわでら)の裏山の丘に、秋子は何度か訪れたことがある。
  弘川寺は役小角(えんのおづ)の行者が開き、空海も修行をしたし、阿部家とは秋子の先祖が何度も生死を繰り返している間に結ばれた他生(たしょう)の縁が少なからずあった。弘川寺もそうであるが、さらに吉野あたりは、御所谷に暮らす竹原五郎とは益々もって縁が深い。五郎の出た竹原の在は奈良十津川である。その竹原家は後醍醐天皇の代に南朝に加勢した一族としての因みをもつ。竹原の一族は皇子護良親王(もりよししんのう)や河内の楠木正成(くすのきまさしげ)らに役小角の霊験をもって手助けした。そうした血筋が後醍醐天皇に従ってやがて京都に移り棲むようになった。竹原五郎とはそうした流れに連なる小さな一つの末裔である。その五郎はまたいつしか阿部家にも出入りするようになっていた。
  阿部家は山の仕事で人を繋ぎ止めている。五郎には彼でないと出来ない山の技術があった。その一つが岩塩の探索である。そして採取と精製である。秋子が使う清めの塩も五郎がせっせと密かな場所より運んでくる。またその塩は、山端集落の命を支えていた。さらには宮廷の命も支えていた。しかし岩塩だけは五郎にしか判らぬ採掘場があったのだ。
  日本は岩塩や塩湖などの塩資源に恵まれていない。また四方を海に囲まれているのに、気候が高湿多雨なので天日製塩にも適さない。このため、日本では、昔から、海水から鹹水(かんすい・濃い塩水)をとる採鹹(さいかん)と、鹹水(かんすい)を煮つめて塩の結晶をつくる煎熬(せんごう)という、二つの工程から成る製塩法が行われてきた。
  そして江戸時代以降、入浜式塩田と呼ばれる日本独特の製塩法が盛んに行われた。つまり日本では岩塩は採れないことが定説となっている。しかし竹原五郎は少量ではあるが岩塩の採掘を密かに行ってきた。それは未だそうした竹原の血筋が京都とは縁がないころ、皇子と阿部家は塩によって深く結ばれていた。



  後醍醐天皇の皇子である護良親王は6歳のころ、尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入る。さらに2度にわたり天台座主となる。そんな三千院の皇子に阿部家は塩で仕えていた。そしてその塩の多くを阿部家が地頭となり村衆を束ねては若狭から運んだ。その若狭モノより、手短な比良山系の岩塩を竹原の血筋が探索し、阿部家に供給してくれるようになるのはそれ以後のことである。
  五郎はそれを継ぎ、滞りなく阿部家へと届けてくれている。竹原五郎が塩を届けてくれる度に、秋子には匂われる芳しい花があることを覚えた。潮の満ち引きは人の生死と密接である。花はその潮の香りをさせていた。
「 紅色五弁の花、ほんにうつくしゅう咲いてはったなぁ~・・・・・ 」
  と、秋子のいう花は、桜の花が散り終えるころに咲く海棠(かいどう)である。
  弘川寺の本坊には樹齢三百五十年余の海棠がある。秋子がそれを好んで訪れた四月半ばごろは、じつに花信は按配よく、この海棠の花が見ごろを向かえていた。それは、桜の痕(あと)を鎮めるかに咲く花であった。
「 うちが花ァ選ぶんやしたら、そら~桜ァより海棠の花やわ。西行はんにもあの花の方がお似合いや思う。賢(かしこ)い花やさかいに、きさらぎの望月のころ、と願いはっても、結局間に合わんと一日遅れやして、願いも叶わんと亡(のう)なったお人や。せやから、遅れて咲きはるあの海棠や思うけどなぁ~・・・・・ 」
  と、秋子がこんなふうにつぶやくには秋子なりの理由があった。
  たしかに弘川寺は古刹には違いないが、もし西行がこの寺で終焉とならなかったら、後世にこれほど弘川寺の名は広まらなかったであろう。元は、この寺とは無縁の男であった西行である。身近に悟った終焉を、あえて無縁の地と選んだ二年間であったからだ。桜の下を望みながら果てた西行の、その桜の後に海棠は西行の死を弔うかに咲いている。

                  

  阿部秋子は祖父富造のたっての願いもあって国學院神道文化学部に進学した。
  さる事情が家庭にあって二回生で自主退学したのであるが、今、阿部家には養母の和歌子と二人暮らしであった。留学中、その和歌子が一人阿部の家を守ってくれた。
  つまり秋子は少なからずとも国学院に育まれた憂国の乙女であった。そんな秋子が学生であったころに訪ね、弘川寺でみて西行に似つかわしいと思った海棠がそろそろ咲き誇ろうとする月夜が、狸谷の阿部家を照らし出していた。
  正しくはきさらずの月とは言えないが、月の趣はそれに似て、地上の梢の下で秋子はいつもこの高い氷輪を見上げさせられてきたのだ。その氷輪の下にある秋子の鳩舎では、音羽六号がグ~クル、グ~クルと鳴いている。

                      

「 なして弘川寺なんや。出家しはるお人は、身軽うてえゝなぁ~・・・・・。なして縁ある吉野や高野山やのうて無縁な寺、選ばはったんや。お人がご縁、断ち切らはるなんて、ほんにそれこそ、えらい殺生なことやないか・・・・・。馬や牛、魚ァ殺すンが殺生やとしたら、ほしたら自分の命ィ殺しはるの、大殺生やないか・・・・・ 」
  秋子は急に眼尻を細くつるし、眼の色を晃ひからせた。
  これは気を強くしようとして高揚するとき秋子がいつもみせる癖のようなものでもあるが、そうして氷輪を見上げさせられる度にしだいに無言となる秋子には、遁世(とんせい)の身の許されようが恨めしく思えた。
「 隠遁しはるお人やらに、狸谷の森はよう守り通せへん。人は死を掴まえてこそ生に逃れるものや。その死は手放したらあかん! 」
  その眼には、さやかに冷めて星の従う月がある。月のめぐりは、春、夏、秋月と、見上げさせられてきた。だが冬の月は、それら他の月とはあきらかに異なるのだ。今、秋子の頭上にある月は、頚城(くびき)が結び、責められて見上げさせられる月でしかなかった。
  秋子の眼だけがそうされるのではない。春咲く花の命までも月は責める。甘美の欠片さえ抱かせることのない此(こ)の冬月を、秋子は毎年冬の間、幾度も幾度も見上げさせられてきた。比叡山のさらなる上に冴えともるこの冬の月には、狸谷に暮らす秋子をそうさせしめるだけの記憶の粒子を空に溶かしてはぐらかすような不思議な力が込められていた。
  それは空から落ちる白い涙が秋子のもので、足跡のない雪の上へと落ちると、記憶の中でその無音の足音を聞かされるかの不思議な足場に立つ力である。聞かされると、帰る居場所を忘れてしまうほどの秋子がそこにいた。
  そんな冬の狸谷の暮らしには、秋子が首を擡(もたげ)たくなるほどの非情さがあった。
  それは阿部家の代々が千年という十世紀にも及ぶ狸谷での営みを継承し続けてきた重みと比例する。さらにそうした道程は、奈良に都の造られる以前から阿部家の血の流れには連綿とある。またそれは、代々が苦心した痕跡と対峙せねばならぬ立場へと、25歳の小娘が一歩踏み入れようとする試練でもあった。
  やがて80歳になろうとする養母和歌子は、その秋子の脇にいて見届けようとしていた。
  屹立(きつりつ)と凍えるほど照らされてみると、血の温もりを奪われる人や獣は、どことも知れぬ闇を果てしなく落ちて、これを耐え忍ぶことになるのだ。比叡山の西麓、陽の射(い)さすことの遅い洛北の山端(やまはな)の、冬の間の暮らしの辛抱はことさらである。
  芹生(せりょう)の里がまた酷くそうであるように、秋子と和歌子が暮らす狸谷もまた同等の寒冷の地であった。だが代々の阿部家がその苛酷な頚城を尊ぶようにして今日までを継いでいる。
「 もう清明(せいめい)やいうのに・・・・・あゝ、冷やっこいなぁ~ 」
  啓蟄(けいちつ)が過ぎて早一ヶ月も経つというのだが、颪(おろし)に晒さらされる狸谷は、まだ冬籠りの最中のように人肌を震撼とさせていた。標高差800メートルの延暦寺ではきっと銀世界である。しかも真夜中のお山は魔界のごとく凍えたであろう。この日、そう感じつゝ奈良方面へと出かけた秋子は、八大神社の森付近からためらうような仕種をみせて振り返ると、しばしじっと瓜生山の方をながめた。
「 あれは、やはり気のせいやなかった。やはり泣き声やったんや・・・・・ 」
  その二日後の午後、あどけない仔猿の杏子(ももこ)が行き倒れて死んでいた。群れをはなれ、親とはぐれ、山を彷徨(さまよい)ながら苦しい身体からだをひっぱって、見覚えのある阿部家の裏庭にある餌箱までたどり着きながらも、ついに息絶えたようだ。

                                      

「 うちの気ィ遣い足りへんよってから、ほんにごめんなァ~・・・・・ 」
  冬場はこんなこともあろうかと、切れ目なくサツマイモ等を補充しているのだが、折悪く、このときばかりは、たしかに餌箱は空であった。野生は餌漬けぬほどの施しを守ることが人の責務なのだが、苦心が足りなければ冬場の命は一粒の糧でそれを絶つ。秋子の気配りが不足した。秋子が杏子の死を手放したのだ。
「 あのとき、うち、あそこから引き返すことしィへんやったさかいに・・・・・。うち、あのときなら、杏子の死をまだ掴めてたんや 」
  八大神社から瓜生山の方を振り返るとき、秋子は耳に障るものを確かに感じた。
  潮騒のうねりのような感じの中、人がさゝやくに似た音に曳かれるような妙な気が確かにしたのだ。
  もしやそれが「 雁(かり)の文ふみ 」であったとしたら、手にむすべない我指の不甲斐なさが秋子にはとても堪(こた)えた。雁の文を感じ損ねて手から落とすようでは、未だ秋子の修行が足らぬのに等しい。杏子の刺殺体に愕然とした。右の片耳が欠けていたから、あの杏子だと秋子には明らかに判る。まだ死後硬直はなく仄かな温もりを感じとれたが、蟻が山なりに群がり、ブンブンと蠅が托鉢を叩くごとく残り血にでも集(たか)るかに杏子の上を飛び回っていた。
  唖然とし、何と惨(むご)たらしい晒されようか。蟻、蠅が集たかるそこに雀蜂(スズメバチ)までが参戦し、杏子の丸く見開らいた眼球をねらい、半開きの口をめがけ何度も侵入を試みていた。山に生き、山で死すモノの掟(おきて)には、まことに凄(すさまじ)き宿命がある。人や獣らより虫達の方がはるかに生命力に長けているではないか。人や獣が感じ取れない啓蟄という節目を敏感に捉え、女の秋子が羨(うらや)むような生命を、見事にうごめかせながら生きる機会を狙っている。
  杏子の息絶えた日は、前日とは一変を転じて小春日となっていた。どうやらこの日、天は虫達に力添えしたようだ。そう思えると秋子は少し足がよろけた。命は小さくともそこに陰陽の差配がある。
「 うちが人やいうんなら、もうちょっと長(たけ)とらなあかんなぁ~・・・・・ 」
  これは二日ほど家を留守にした迂闊(うかつ)な秋子が、みなくてはならなかった然るべき光景であった。山の死が一つ消えると、秋子は死を一つ増やすことになる。
  摂理とはいえ、留守をしたことを悔やむ秋子は、いてもたってもいられずに箒(ほうき)で虫たちを追っ払うと、死体(なきがら)をそっと裏山の草むらに運び、二度と掘り起こされぬよう涙ぐむ手でしっかり葬りながら秋子だけが判る杏子の小さな墓をこしらえた。
「 そうや、あの花や。あれしかあらへん・・・・・ 」
  翌朝、未明そうそうに起き出して朝餉(あさげ)の下ごしらえを終えた秋子は、闇に覆われて暗がりにある杏子の墓の鎮まりをあらためて確かめると、弔いに手向けたいと思う叡山すみれの花を採りに出かけた。
  この花は他のどの花よりも聖なる叡山に似つかわしい花なのだ。だがそれは杏子への償いではなかった。比叡山に生きるモノへの畏敬(いけい)を表そうとしたのだ。これが杏子の死にも似つかわしいと思うと、秋子は逸るようにして瓜生山の頂きをめざした。エイザンスミレは、葉が特徴で大きく菊のように裂けて、雪解けのころに淡紅色の花を咲かす山野草である。その葉の形は、ノジスミレやタチツボスミレ、スミレサイシン、スミレ等とはあきらかに異なるのだ。比叡山に生える山野草のことなら、秋子はあらゆるルートについて熟知していた。



「 あそこ辺りや。違いあらへん。きっと咲いてはる・・・・・ 」
  この季節なら陽当たりのよい琵琶湖側の東なのだから、と秋子はにんまりと笑みを泛べ、なごり雪のある滑りそうな細い山路を慎重に踏んで、西塔から不動谷辺りに目星をつけていた奥山へと分け入った。
  三塔十六谷三千坊の比叡山は谷が深く杉や檜ひのきが生い茂る鬱蒼とした聖なる京の北嶺である。
「 あゝ、せや、六時の声明(しょうみょう)や。ほんに夢のようや・・・・・」
  鹿によって樹皮がめくれた木々の森の闇間をくゞり、根本中堂の近くまでくると、あさぼらけの淡い光に抱かれて石段を上がる秋子は、声明にくるまれて波濤にでも身を浚さらわれるかの別世界を感じた。
  規則正しく耳奥に並ぶ声の大小が変化することで、大師の画像の濃淡が再現されてくる。人の人生のあらゆるイメージが声明により還元されて、受け手である秋子の心や網膜上に天界の像を結ぶのである。
  階段を上がり終えて根本中堂をみつめる秋子は青い水玉が顔面いっぱいに広がっていた。
「 六時いうは、最澄はんの、お目覚めなんやかもしれへん・・・・・ 」
  朝のお勤めの妙法蓮華経如来神力品第二十一〈作如是言南無釈迦牟尼佛南無釈迦牟尼佛〉の読経にしばし耳を傾けたが、秋子はそのまゝ丹(あか)い文殊楼の前を横切ると、もう何の迷いもなく不動谷へとするすると降りた。



  そこからまた杣(そま)道を踏んでたんたんと、もたて山の方へと上がる。この山の平たい野原には紀貫之(きのつらゆき)の墓がある。こゝからなら朝陽にきらめく琵琶湖の風景がくっきりと泛びあがることも知っているのだが、たゞ杏子への花を求める秋子は躊躇(ためらい)もなく墓の後ろに回り込むと、そこからさらに藪奥へとすっと押し入った。
  こうして秋子がまた阿部家の裏山に戻ったのは午前9時ごろである。
「 この世の日々は短くして、死後の黄泉の年月は長いのやそうや。それが天命なんやそうや 」
  杏子の墓前に今朝あらためてきて手を合わせる秋子は、かって叔父の清文から聴かされた九想の詩をおもい泛べながら、杏子が安らかに瞑(ねむ)れるように呪文をそっとつぶやいた。亡くなって高野山にいる清文さんはかつて、「 比叡山でいう(さる)とは、阿部家に伝わる古文書に曰いわく、有尾のものは『猿』、無尾のものを『猴』と記し、尾の有無のみで区分しているのだから、無尾の人生とは、端的に言えば(けもの心をどう遠くに鎮めるか)ということだ 」と言っていたのだ。そう聞かされている眼で杏子の尾を想い起こしてみると、尾が有るようで無いようで、どちらとも区別し難い仔サルなのである。清文は子猿については何も触れてない。仕方ない、猿とすることにした。
  清文とは養母和歌子の義理の弟であった。和歌子からそう聞かされていた。
  しかしそれは清文が他界するまでの話であった。真相は幼い秋子には密かに伏せられてきた。清文は出家を祖父富造に勘当されて高野山へと上がった。清文とは出家後の名、本名は阿部清四郎といゝ祖父富造の四男である。その清四郎のことを、秋子が実父であることを聞かされたのは四年前、20歳のときであった。

                     

  幼いころに伯父と思って親しんだ清文さんが、十数年後に、じつは実父でそれを今まで伏せていたのだと養母和歌子に詫びられて明かされたとき、秋子はそんな和歌子を素直に許すことができた。他界後に、しかも祖父阿部富造の遺言としてそれが告白されたからだ。その遺言を、秋子はすべてを過去形で物語る他人事としての単なる紙切れぐらいに思おうとした。本名を阿部清四郎だと確認はしたが、それは本人よって捨てられた名でしかない。望んで捨てた名を子が大切に抱くのも妙なモノに思われたのだ。もしも父であれば、父というものは、自身の信念を貫くそんな男であって欲しかった。養母和歌子にしても祖父富造の遺言を預かり、祖父の存命中は固く口止めされていた。その和歌子を責めることは筋違いではないか。そう冷静に思えると、秋子はじっにあっさりとしていた。
  動揺を案じ続けた養母和歌子が不思議がるほどに、それほどじっにあっさりとしていた。裏切りによる悲しみや動揺よりむしろ逆に、もしそこに何かを偲び挿むのだとすれば、それはたゞ一つ、ぼんやりとした結び目の見えない少しの空白を覚えたことであろうか。何よりもまた、和歌子とは二十ほど歳下の、その清文は秋子の胸にじつに数多くの薫陶を遺してくれていた。幼いころに触れた心根の優しかった清文ならば、出家して高野山に上がっても何の不思議さはない。人として生きられずとも僧となれば生きられる。少し日が経つと、清四郎より先に清文の方に照らすことで感じられる実父の像(かたち)が思いの他快く面白いとも思えた。
「 アキ・・・・・、この蟻なッ、ほらよう見てな。このぎょうさんな行列、これお弔いしてはるとこや。どこに向かいはるか解るかアキ。あっち御堂あるやろ。御堂の下、お墓なんや。そのお墓なッ、あそこに入口の穴ァあるんや。ほんにお山の蟻さんは、偉いなぁ~・・・・・。よう学問してはる蟻さんたちや・・・・・ 」
  と、嬉しそうに語る、その笑顔のまゝにいる清文が鮮明に泛かぶ。そうした顔が清四郎などとは思いたくもない。秋子は、清文が語りかける少年のような眼差しと笑みが大好きであった。父か兄が幼子に語り伝える童話のように、清文は優しさを湛えて、あるときは滑稽にジャン・アンリ・ファーブルの世界とロマン・ロランの世界とを噛砕いて真剣に面白く話してくれた。
  あゝ、あんな難解な二人の関係を、あゝも興味をそゝらして解り易く教えてくれたのか、と今更ながら秋子が思い描くその天才の姿は、すでに10年前にこの世から亡くなっている。清文は比叡山でみた蟻の話を「 百匹の蟻 」と題して絵本を創ってくれた。その本を読み聞かせながら、その度に清文は表紙に蟻を一匹づつ描き足してくれ、そして百匹目を描き切る日に蜜蜂の弔いをする蟻の大行進が終わった。




「 きっと・・・・・、そのとき、じつは実父が死んでいたのだ・・・・・ 」
  てっきり清文伯父さんは延暦寺の若いお坊さんだと思っていた。
  あるときその姿を突然見なくなったが、和歌子は伯父さんが高野山に移られたと語った。幼いころの秋子には明らかな宗派の違いなど解るはずもない。比叡山の僧が、高野山の僧に移り代わることは余程のことだ。そして勘当された身の上の亡きがらは、その父の富造より、さらに勘当されて高野山へと葬られた。それが山端を捨てゝ生きようとした嫡男への阿部家が裁く定規(じょうぎ)であったのだ。
「 ああ、憂国の蜜蜂さん達よ。ほらほらどうして君たちは、そんなに楽しく飛べるのかい。ブンブン笑顔で飛べるのかい・・・・・ 」
  と、野山を歩きながら昆虫や他の生物をみつけては語り聞かせる清文の「 ああ、憂国のOOさんよ 」で始まる定形の口調が独特のまゝ耳奥にある。対象として扱って面白い昆虫が、身の回の比良の山々には数限りなくあったから、清文はその生物の研究に人生の大半を注ぎ込もうとした。清文はそんな野山の達人であった。幼いころより清文の背の上で秋子は共に野山を歩いていた。あるいは延暦寺の僧の生活を二人で怖々と覗きみた。阿部家の定規から外れた男だが、清文とはそんな静謐(せいひつ)な男であった。
「 出家しはって勘当され、死にはって、次ィお墓まで勘当やなんて 」
  そう思えると、しみじみと切ない話になる。しかし、それはそれ清四郎は継がねばならぬと請われた頚城(くびき)から逃避したといえる。裏山の崖のくぼみで、今年もまた秋子は冬の終わりを感じた。裏庭から仰ぐように見上げると、柱状の高い崖の頂きには猿復岩(さるまたいわ)という二つ瘤の奇岩がある。その奇岩の両端に、注連縄(しめなわ)を渡した山水の落とし口がある。比叡山の雪解け水がこの猿復岩をくゞり、岩肌の凹凸でこぼこをつたいはじめると、崖の中程にあるくぼみの岩垣は、いつしか石清水を湛える小さな池となる。
  群れをはなれた野生猿はこの池に、するりと崖の上から伸びさがる葛の根をつたって降りてきた。
  あの杏子(ももこ)も上手にするすると降りていた。それは仔猿一匹が身を洗う盥(たらい)ほどの岩垣で、夏の盛りに涼をとる山猿の、股開きに尻をひたし逆立ちで面つらを洗う、秋子がみかけて呆あきれるほどの、天衣無縫の霊怪な夏安居げあんごは、いさゝか滑稽である。呆れたついでに、密かに待ちうけて撮り、その記念写真の数枚はアルバムにある。
  秋子は、その写真を、雨田博士を弔う棺(ひつぎ)へと入れた。
「 あゝ、八瀬の博士、亡くなりはって、もう三回忌やわ・・・・・ 」
  それらはすべて山端に訪れる春の姿なのだ。藪柑子(やぶこうじ)の赤い実が落ちて水ぬるむころに、くぼみの淵よりあふれしたたる清らかな水辺には、毎年決まって瓜生山から鼠(ねずみ)もめんの小さな客人(まらうど)がやってきた。石清水に心惹かれてやって来る、この客人の澄みやかな奇瑞の声が聴こえると、阿部家の裏庭では秋子の育てる笹ゆりが、新しい花芽のさやを小さく細く孕(はら)ませる春が訪れるのである。

        

「 ああ、六部ろくぶさんや・・・・・、来はったんや。ほして、皆ァ来はったんやわ・・・・・ 」
  と、丸く愛くるしい顔をして秋子は今年もつぶやいた。
「 六部さん、来はりましたか。おこしやす・・・・・ 」
  とまた、秋子はお迎えの挨拶でもしたくなる。阿部家の春は、まずこの来客に始まるのだ。
  そんな奇瑞の客は、黄鶺鴒(きせきれい)である。
  澄みやかな声でチチチッ チチチッとさえずり、トントンと尾羽を上下させる奇瑞の客である。
  合わせて博士から譲り受けた音羽六号もクル―クル―と鳴いた。
  雨田博士の声に似せて「焔の帆・ほのほのほ」と、鼠もめんの六部(ろくべ)が、あゝ、今年もまたチチン チチンと鳴いている。






                                      

                        
       



 比叡山延暦寺(坂本方面より)









ジャスト・ロード・ワン  No.29

2013-10-09 | 小説








 
      
                            






                     




    )  泥の坂  ②  Doronosaka



  河井寛次郎の記念館は、和風の空間なのに、ズドンと洋館のごとく吹き抜けで突き破られていた。
  雑多で未体験の違和感がある。それにしても、そこに場違いな滑車が吊るしてあった。恐らく作品や資材を運ぶためのものだったのだろうが、記念館らしからぬ不純物のごとくに感じられ、突如それによって、なんだかえらく大きいもの、比江島修治の全身はそんな重い胸倉のようなものに包まれた。圧迫される、その理由がしばらく修治にはわからなかった。
  なぜなら、そのころの修治は、河井寛次郎の陶芸のすべてに嵌(はま)っているわけではなかったからだ。
  書も恣意に嬲(なぶ)られた筆感がして好みではなかった。
  そもそもそこらが、どうにも底が浅い。自身でも感心するほどの晴眼に乏しい。たかが本数冊を読みかじっただけの修治は、寛次郎については先が見えない未だ晩生でしかなかったのだ。



  ここは、大正から昭和にかけて京都を拠点に活躍した陶芸作家・河井寛次郎の作品を展示する記念館である。
  寛次郎自身が設計し、亡くなるまで過ごしていた住居をそのまま公開しており、暖炉や板の間、書斎や居間も彼が暮らした当時の姿のまま遺されている。そうした遺品は、彼が制作・デザインした家具や調度品の数々や作品の一部が無造作に、ごく自然に配されていた。また、中庭奥には実際に使われていた窯や陶房もそのまま残されている。
  しかし自然体であるが故に、そこらは乱暴な寛次郎の形骸なのだ。
  気魄は何となく伝わるが、民藝運動論のみでゴリ押しをする、やはり門外漢の修治には最初から一つ一つ積み上げて精査するしかなかった。本来、そこには闊達なユーモアが溢れた空間なのであろうが、その一つすら推しはかり難い比江島修治なのであった。
  大学卒業後に考古学に携わろうと思いたったときに、修治はこっそり一つの目標をたてた。
  それは分類学的に「 新しい場所 」という問題を自分なりに追いかけようということだった。卒業に至るしばらくのあいだ「 墓場と形骸 」という研究論文を編集してみたのも、そうした一つの試みだった。
  新しい場所について本気で考えてみたかったのは、卒論として纏めた「 墓場と形骸 」でも触れてきたことだが、研究過程で明治・大正期に蠢(うごめ)いた人々の死に遭遇したこと、および柳宗悦の『 用の美 』という哲学観念を見て、そのときに初めて新しい場所というものを感じたからであるが、そのすぐあと、アンリ・ベルグソンの卒業論文「 場所について 」を読み、そのまま白水社のベルグソン全集をだいぶん読んだが、さらにそこからアリストテレスのコーラとトポスをめぐる場所論の周辺の道をあれこれさ迷ったせいでもあった。
  しかし幾度かのさ迷いとは、さしたる前進の足しになるほどのモノではないようだ。
  そして迷いは、拓かれる道に憚(はばか)る棘(とげ)のようなものだ。
  一つ一つ抓んで引き抜くしかない。そうした未だ主軸の定まらない中にあって、開館されたことを知ると、一度、河井寛次郎記念館にも足を運ばねばならないと考えていた。

  昭和50年(1975年)6月3日、佐藤栄作元首相が逝去する。
  築地の料亭「 新喜楽 」で財界人らとの会合において脳溢血で倒れた後、東京慈恵会医科大学附属病院に移送されたが一度も覚醒することなく昏睡を続けた後のことで74歳だった。16日には彼の国民葬が行われた。ジョンソン会談に向けて彼が沖縄の勉強を始めたときには「沖縄の人は日本語を話すのか、それとも英語なのか」と側近に尋ねて、とんでもなく呆れられたとの逸話を遺して他界した。非核三原則が梅雨空に実態も虚しくカラカラと泳いでいるように感じられた。
  その翌月、梅雨明けの7月14日、暑い盛りの京都盆地は、三方の山々が屏風、地を這う南風の熱射で酷く汗ばんだ。
  学生時代に古跡調査で何度か訪れていたが、その大半は春か秋の穏やかな日和ばかりだった。今回の背景には社会風俗の精妙な観察もあり、さらに社会に組み込まれた民衆が、どんな生き方を選ぼうとしているか、彼らの精神風俗をあざやかに描きだしていることが、肝心な読みどころでもある。そう思うにつけて夏の京都の祭り日を選んだ。
  それはまた祇園祭りの、宵々々山の日、その午後のことであった。
  四条河原町から八坂神社界隈は、16日宵山の大本番の佳境を兆す人いきれに噎(む)せ返るようである。
  豪壮かつ華麗なこの祭は、千百年の伝統を有する。
  阿部秋子の湯呑を撫でてみると、比江島修治は、たしかに夏の賦(くばり)の告白を手のひらに感じた。
  祇園祭は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く。京都の夏の風物詩で、7月1日から一ヶ月間にわたって行われる長い祭であるが、そのなかでも「宵山」(7月14日~16日)、「山鉾巡行」(7月17日)、「神輿渡御」(7月17日)などがハイライトとなっている。



  宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、動く美術館とも例えられる。
  京都三大祭り(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、さらに大阪の天神祭、東京の山王祭(あるいは神田祭)と並んで日本三大祭りの一つに数えられる。また、岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭の1つに、前述の高山祭、滋賀県長浜市の長浜曳山祭と並んで日本三大山車祭の1つにも数えられるなど、日本を代表する祭である。
  河井寛次郎記念館に何度も足を運んだ修治は、いつしかこの一連の祭礼を見学するために京都へと足を運ばせたことになる。
  その修治がそうしてようやく心得たことは、祇園祭が「 古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、貞観11年(869年)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を 祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈ったことにはじまる 」ということである。
  またそうする祇園祭とは「 7月1日の( 吉符入 )にはじまり、31日の境内摂社( 疫神社夏越 祭 )で幕を閉じるまで、一ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられる 」という一連の期日で決済され、禊がれることである。だがそのためには蘇民将来子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)の護符を身に纏うことであった。




  八坂神社御祭神、スサノヲノミコト(素戔鳴尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなした。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「 蘇民将来子孫也 」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束された。その故事にちなみ、祇園祭では「 蘇民将来子孫也 」の護符を身につけて祭りに奉仕することになる。
  神事終日の7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「 疫神社 」において「 夏越祭 」が行われ、「 茅之輪守 」と「 蘇民将来子孫也 」と「 粟餅 」を社前で授与される。
  この夏越祭をもって一ヶ月間の祇園祭が幕を閉じるのである。
  八坂神社では茅の輪から抜き取った茅を参拝者が自分で小さい茅の輪にして持ち帰って玄関などに飾ることで、夏を健康に過ごせるご利益があるとして、「 蘇民将来子孫也 」と書かれた紙縒りを、作った小さな茅の輪に結べば完結となる。
  6月3日に雲仙普賢岳で大規模な火砕流が発生した1991年、7月1日にエフエム京都(α-station)が開局したこともあり、今回は祇園祭の各鉾町が鉾、曳山を組み立てる山鉾建(やまほこたて)をじっくり見学したいという思いもあって9日には京都へと向かった。
  山鉾建は、10日から14日までの5日間で行われる。京都を訪れるのは3年振りのことであった。
  この山鉾建で祇園祭山鉾巡行が近づいたことを感じさせる。山鉾建は大きな筐体を複雑に組み立てる鉾や曳山、簡単に組み上げられる傘鉾などそれぞれ工程が異なるので、組み立てが始まる日は異なっている。



  昔から伝わる「 縄がらみ 」と呼ばれる手法で、専門の大工方が釘を一本も使わずに重さが12トンもある鉾を組み上げる。大きな鉾の組み立てには3日程も要する。また20メートルほどもある長い真木(しんぎ)を空に向かって立ち上げる場面は圧巻である。
  真木をつけた櫓(やぐら)を道路に寝かせ、太く長い綱を人力で引き垂直に起こす。立ち上がった瞬間には見物の人達からいっせいに拍手が湧き上がる。形態の異なる船鉾は鉾建ての方法も異なるのだが、組み上がった鉾や山は飾り付けをして、それぞれの定められた日に曳初が行われ、前掛、胴掛、見送、水引などの豪華な織物の飾り物は17日の巡行本番に使われる物と、それまでに飾られているものとは異なることが多いので、連続した組立に興味を抱く比江島修治は14日、15日の正午近くまで各鉾町を見学した。



  そうしてまた18日には東山五条の河井寛次郎記念館を訪ねた。
  1890年(明治23年)に当時の島根県安来町(現在の安来市)の大工の家に生まれた河井寛次郎が、陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも優れた作品を残しながら、師弟関係を重んじる陶工の世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工となっていく姿は、惹かれて調べを進めるうちに、これはものすごい思想者であることがたちまち伝わってきた。
  五代目、清水六兵衛の技術顧問を務めた。これは六兵衛40歳のときだ。
  このとき清水六兵衛(のち清水六和)は55歳。この六兵衛が、それまでの清水(しみず)の読みを「きよみず」に改めた。寛次郎が技術顧問のころ後六代となる長男の正太郎は京都市立美術工芸学校絵画科を卒業する。
  時代性に鑑みて寛次郎という男の実在のかくれた側面が、すでに比江島修治の裡(うち)ではダントツなのである。連続性と複雑性、差異と内包、秩序と組織、変化と適合といった問題意識にみられる具体的な提起は、ほとんどこの男によって修治の知覚のバリアを食い破っているといってよい。
  しかし、河井寛次郎が最高にすばらしいところは、「 用の美としての人間の精神 」というものを「 観念として測定されたこと 」に対して、つねに「 具体的に設計したこと 」と「 変化させたこと 」によってたえず照射しつづけようとしたことだった。しかも日本伝統の心髄でもある京都に根付こうとして、その古都に居を構えて気魄の生涯を貫き、それでも無位無冠の陶工として晩年まで創作活動を行い1966年に76歳で没したことである。
  寛次郎を取りまく人物たちの言動が縺(もつ)れあって、波瀾に富む生涯が躍動すらする。
  彼らはそれぞれ何かに反抗していたのだ。がしかし、反抗は個々ばらばらで、限りある時間の中では何の実りもなく終わるのだ。彼らは精神風俗を重んじる日本人のエッセンスを汲みとった上で、人間の創作意識を自家製に仕立て上げた。さらに西欧を望見するばかりに終わらせるのでなく、日本の伝統に深く分け入っていた。
  また、考えられる限りの冒険を尽くして、河井寛次郎は人間の魂の深層に辿りつこうとした。



「 存命の内に、お会いしたかった・・・・・ 」
  そう悔しく思うにつけても、寛次郎の遺した業績の多面さ、広大さにあらためて感嘆を深くする。されど流れ去った過去から実体と正体を把握することは不可能に近く、二十度目となる今回も修治はやや肩を落とした。そうして一先ず記念館を出たものゝ、一呼吸して汗ばんだ身なりを整えると、修治は改めてもう一度記念館全体を見渡した。
  だがそれでも立ち去り難い修治には、奇妙に去り難くさせる輝きで記念館の庇瓦が琥珀色に夕映えているように思われた。棟方志功の筆による看板も淡い茜に絞られて妙にしんみりとさせられる。
  たゞに日本の民芸品に触れ研究をするのであれば、都内目黒区駒場四丁目の日本民藝館でいい。柳宗悦によって創設され運営され、木造瓦葺き2階建ての蔵造りを思わせる本館には、柳宗悦の審美眼を通して蒐められたものが、日本および諸外国の新古諸工芸品約17,000点を数え所蔵されている。
  中でも、朝鮮時代の陶磁器・木工・絵画、丹波・唐津・伊万里・瀬戸の日本古陶磁、東北地方の被衣(かつぎ)や刺子衣裳、アイヌ衣裳やアイヌ玉、大津絵、木喰仏、沖縄の陶器や染織品、英国の古陶スリップウェアなどは、質量ともに国の内外で高い評価を受けている。また、民藝運動に参加したバーナード・リーチ、濱田庄司、河井寛次郎、芹沢介、棟方志功ら工芸作家の作品も収蔵している。これらを常設展と特別展とで見比べれはこと足りるわけだ。
  すでに足しげく日本民藝館には通っている。通えば見えてくるものはある。だがそれらは、やはり蒐集済みとなった先人の形骸でしかない。修治はより生身の寛次郎に近づきたかった。観念ではなく、その人肌の実体に触れて見たかったのだ。



  古萩と呼ばれる萩焼の茶碗が茶会で使われていたことが、十八世紀半ばを過ぎたころの大名家の茶会記に表れていて、また幕末に至るまで、松本御用窯を率いた八代坂高麗左衛門は、その御用窯の開業から後年に没しした三代坂高麗左衛門までの時代の製品を「古萩」と呼ぶとする、漠然とした言い伝えのあることを述べていたのだが、それらのことから、十八世紀前半には萩焼茶碗を古萩の茶碗と、そうでない当代作の茶碗とに区別する認識が生じていた。
  しかし一方で、古萩の茶碗がどのような造形的特徴をもった茶碗を指し示すのか、またその古萩が古窯から出土する実に豊かな造形性を示す陶片のどれに相当するのか、その実態が明らかにされているとは言い難い焼き物の一つであった。
  これを為体(ていたらく)だと寛次郎は名指した。
  茶人贔屓目の有名無実、それは実態の底知れぬ虚説だと喝破した。
  日用の美意識から隔絶した勝手な主観論には手厳しかった。
  たしかに古くから「 一楽、二萩、三唐津 」と謳われ、侘数寄に適う茶の湯の具足として、高い声価を得てきた萩焼である。高麗茶碗を生み出した朝鮮半島由来の作陶技術を伝え、江戸時代を通して、萩藩御用窯で制作させた萩焼の精品は、しかしその流通規模は極制限されたものでしかなかった。藩主の御遣物として、貴顕への献上、諸侯への進物、家臣への下賜に用いられるなど、限られた階層とその周辺にのみ流通した。
  とくに、その主力器種である茶碗は、領内で採れる特定の土や釉の素材感を前面に押し出しながら、茶の湯における美意識の深化や流行など、折々に重視された使い手たちの趣味性を意識的にかたちへと編んでつくられてきた。だが、こうした当代の数寄者に好まれ続けた萩焼の茶碗のあり方が、桃山時代以来の侘びた風情を濃密に伝承する茶陶という、「古萩」イメージの形成に強く作用し、伝世の茶碗のごとく巧みをこらす逸品の銘として作為されるようになった。
  制限された用の美とは、それが日本人の美意識の限りではあるまい。寛次郎にとって普段の用の美こそが重要であったのだ。寛次郎は茶の湯文化成長のなかで日本人が忘れたはずの「 普段の美意識の正体 」を問い直すことになる。その正体を怖い顔で睨んだのだ。
  そう思うと、維新後の日本に、戦後の日本に、高度経済成長後の日本に、苦い記憶が多過ぎる。
  遠い眼をさせて、寛次郎の眼の奥底にあった光り、ここを思い起こした比江島修治は、さらに幾度かの出直しを覚悟し、改めて足を運ぶために一旦仕切り直さねばならないことを意に決した。
「 安木での調査が未だ残されてるではないか・・・・・ 」
  河井寛次郎は明治23年に島根安来の大工の棟梁の家に生まれている。安来は松平不昧(まつだいらふまい)出雲松江藩の第7代藩主の影響で茶の湯がさかんだった町である。大工と茶の湯は、寛次郎の幼な心になにものかを植え付けたのだろう。松江中学の二年のときすでに「 やきもの屋 」になる決心をしていた。そこには叔父の勧めもあったようだ。母親は寛次郎が四歳のときに死んだ。
「 ああも、あの猫に、こだわる、その眼差しとは・・・・・ 」
「 誰にでも分る、風情ある色合いと形・・・・・ 」
  安木を悉皆(しっかい)と眺めたら、またこの記念館に戻って来る。そうでもしないと全容を正しく見通せないであろう。物事のケジメにそう思い当たると、修治の出直すべき足取りも少しは軽くなっていた。
  書棚のガラスケースに、秋子の蟋蟀が棲んでいる。もう8年以上にもなる。
  そうして書斎で一緒に暮らしてきた。時折そこから引き出しては、修治と問答をする。
  湯呑の底でつくばる虫の音は、何事かを懸命に語ろうするのだ。
「 秋子さん、狸谷のあの篠笛、どうしたでしょうね?・・・・・ 」
  と、蟋蟀にそう語られると、いつも手の動かなくなる修治がそこにいる。なのに、どういうわけか今日の慎五郎は、ありがたいことに、夜の稲妻に照らされたように、時代がみた夢の、一気にその夢が物語る骨格が泛かんできた。
「 いつか必ず光りが見える・・・・・ 」
  これは日本と、修治と沙樹子と、阿部秋子とのつながりを語るのに、とても大切な言葉なのである。
  秋子は自分自身に言い聞かせるように修治に話してくれた。
「 ・・・・・この道の、トンネルを進んで行けば、つらい経験をするほど、人間はそれを乗り越え、強くなる。それを伝えたくて狸谷に残るの。そして共に生きるの。だから篠笛は哀しみを歌う。歌うことで生きる誰かを幸せにできると信じてる。狸谷の人々が、やすらかな暮らしに戻れる日々であることを願って歌う・・・・・ 」と。祖父阿部富造が、そう言い残して最期に眼を閉じたという。その遺言を自身に置き換えて秋子は言った。その長いまつ毛の下の眼には、涙がいっぱい溜まっていた。

                               

  その阿部秋子について比江島修治が認めざるを得ない事実を少し付け加えておけば、あれはたしか安来から帰ったその翌年夏のことだが、また河井寛次郎に会いたくて記念館を訪ねた。否(いや)、1955年なのだから安否に駆られ足を差し向けねばならなかった。また京都では、疫病や戦乱といった災害からの復興に、祇園祭が大きな役割をはたしてきた。1月17日早朝、その大震災時に修治は奈良の宿にいた。その半年後に五条坂を訪ねた。
「 ふ~ん。五条辺りまで届くのか・・・・・! 」
  南風の中に、祇園の音が五条坂で聞こえるとは意外だった。
  記念館を後にして東山五条の大通りへと出ようかとしたときに、ふと笛の音が右耳を突き、しばらく足を止めて聞き入っていた。清水寺へ向かうため五条坂を上がるつもりでいたが、自然と足と両耳が笛の音の方へ歩いていた。これが最初の立ち去り難い事実で、聴いているとその笛の音色が次第に、新しい生命を吹き込めてくれそうなそんな気にさせたことだ。たゞ全身をふわ~ッとさせられた。
「 いや・・・・・!、これは祇園のではない・・・・・ 」
  奏でる笛の手を辿ると、音色は細い路地奥にある慈芳院から流れ洩れていた。
  聞き惚れて門前までくると、どうしても笛の手の姿が見たくなった。いつしか修治は花々が風にそよぐ野原の真ん中に立っていた。しだいに汗ばむ肌が爽やかな風を感じ、ゆらぐ花が見えた。
「 何だこの音色は・・・・・、この涼しさは・・・・・! 」
  まず耳朶でそう感じ、にわかに五体の肌が快く感じた。
  慈芳院は臨済宗建仁寺派ではないか。その法衣の手かとも思えるのだが、どうも教理の節とも違う。簡素な門を入ると左手に、丸い薬師の石仏が座っていた。笛の音はその丸く目鼻が摩滅して柔らかな頬の辺りを巻きながら流れ、その石の薬師さんが、何やら旅人を見守る野仏のごとく思われた。佇むとその音色は、金管ではなく、明らかに和の竹管の洩れである。しかも、風は吹くのではなく、人を逆しまに風に晒してくれる篠笛であった。



「 こんな娘が・・・・・! 」
  何よりもまず若すぎる女性の意外さに驚いた。
  半袖の白いブラウスにストライプの赤いネクタイは、すぐに女子高生と判った。
  驚きもし、感心もさせられると、さらに魅せられ惹かれながらしばし聴かされた。
  その手の笛の興趣もさることながら、そこで阿部秋子という名を初めて知り、話が寛次郎の作品や境涯に触れた折りに、比江島修治は熱い感動を抱いた。当時の政治趨勢に疑いの眼を向ける寛次郎の「 精神風俗 」の顕れではないか、という秋子の見解はまことに鋭く説得的であったことだ。
  阿部秋子もまた修治と同じところで、そうして寛次郎の魂の深層に辿ろうとしていた。
  そんな秋子は修治のことを「 古層の人 」だとズバリ呼称した。
  なかなかどうして能(よく)した考古学的な言葉繰りの巧みさに、門外漢である修治はハッとさせられ感心したのだが、その古層の人の言語に、自らが新しい生命を吹き込められるようになれたら良いという覇気をみせた口調には、堅さ一つなく、やはりそこは女子高生らしく、けろりと爽やかで、修治は胸の塞ぎをさらりと漁られて新鮮であったのだ。
  聞けば秋子は寛次郎の妻つねとは縁戚の身で、つねは京都の宮大工の娘でもあることから、秋子もまた同じように宮大工の家系に近く生まれた。そのことは妻沙樹子から聞かされた。
  そして四時に秋が訪れる度に、あのときの秋子の「 古層の人の言語 」という言葉がしきりに思い出されるのは、決まって秋子という名の趣きがそうさせるのではあるが、狸谷の森を守る宮大工方の家柄に生まれ、戦争の混乱にあって嫡男に恵まれ無かった家系の秋子には、先祖伝来の田畑や山林を守り継ぐ担い手としての責務があった。
  秋子の暮らしの大半はそのことへの憂いが常に占めていることを、修治は沙樹子からそう聞かされて知っている。
  近隣の里人に任せている田の収穫は今年も無事できるのであろうか。収穫の季節を迎え、刈り入れの進む高野川沿いの美しい水田をながめながら、この国の「農」すべての無事を御田植の神に秋子は強く願わねばならなかった。何よりもまた秋子は八瀬童子の縁に深く連なっている。その身上はまことに宮家の秋の豊穣と縁深くあったのだ
  天皇崩御の折りは八瀬童子が先祓う仕来りとなる。新嘗(にいなめ)の「生」と風葬の「死」は常時一体の備忘事であった。
  ぎりぎりの緊張の中で秋子は日々の暮らしを守り、祈りの篠笛に手を触れていた。あのとき秋子は篠笛で恵みの風を呼んでいたのである。それらを知り得ると、いつしか修治もしきりに京都の秋の気配を気に止めるようになっていた。
  秋子の母秀代もその苦悩のため老いた両眼はほとんど灰色に見えたという。そうした巖倉(いわくら)の巫女(みこ)である秋子は、常に厳格な軛(くびき)を保たねばならなかった。女系の細腕で、しかも女子高生の年齢で、比叡山の、その山端(やまはな)の村人らの生死、農の生死、山の生死に責任を負っている。秋子はできるだけ多くの死に休止符を打たねばならない。さもなければ神が秋子の生に休止符を打つ。

                              

「 そんな秋子の篠笛は巫女の手による音色であったのだ・・・・・ 」
  しかしその彼女は、ついに「 転向 」したのではないか。何かとんでもない王道を歩き始めるのではないか。と比江島修治が肝を冷やりとさせられる妙な構図の可笑しさがあり、危惧すべき行動をいつも身に纏わせていた。
「 不用意に近づこうとする旦那の足元には、地雷が多すぎてどこで爆発するか分からない。重すぎる負担を分担してくれと誰かに訴えることもできない。むしろ誰も住んでいない島にでも向いたかったのであろう・・・・・ 」
  と、妻沙樹子は解釈したのだが、しかしながら、どのように秋子が自由な振る舞いをしようとも、生死を左右しうる最たる巫女であることは変わらない。神は死しても負担するべきではないか、というわけだ。
  養母の和歌子を除けば、それを至極まっとうに思えるのもじつは修治と妻の沙樹子だけであったろう。その修治はいつしか知らぬまに責任の一端を担いでいる。何よりも和歌子が喜んでいた。そして妻沙樹子が懇願した。安倍家の女系たちが心を一同にして家系の存続を願っていた。ここも認めざるを得ない確かな事実だが、修治がそのことを強く感じ始めたのは、やはり愛用のショートピースを秋子が指先一本で転がしたころからだった。
「 あのときの日と同じように 彼女は日常を遊戯し続けた・・・・・ 」
  神は常にその秋子に死の矛先を向けている。神との意見が異なれば、いつでも切って捨てられるのだ。そんな秋子は、辛い日々も、笑える日々につながっていた。
「 だから赤い小銭入れから1NOK(Norwegian krone)硬貨一枚を抜き出しては、彼女は微笑んだ! 」
  これは秋子が最もご機嫌なときにみせるシグナルである。
  さらにもう一つのシグナルは、最高の一日であることを期待するためにする風変わりなジンクスをみせた。
  それは朝食前に決まって振舞うのだが、秋子はさも上品な仕草で財布から引き出した1000NOK紙幣に白いハンカチを添えると、丁寧にていねいにアイロンを掛けるのだ。



  沙樹子と三人で訪れたある日、エドヴァルド・ムンクはフィヨルドの近くを歩いている時に「 自然をつらぬく、けたたましい、終わりのない叫びを聞いた 」と彼女は言っている。『叫び』はその経験を絵画化したものである。すなわち、しばしば勘違いされるが、この絵は「 橋の上の男が叫んでいる 」のではなく「 橋の上の男が叫びに耐えかねて耳を押さえている 」様子を描いたムンク自身の肖像なのである。単品のごとく感じるこの作品もじつは「 生命のフリーズ 」の中の一作品であり、単独の絵画としてではなく、連作として鑑賞することがムンクの本来の意図であった。
「 秋子という巫女は、この連作の中にいつもいた・・・・・ 」
  別にそこにムンクが居なくても、その意図の、序に従えばしばらくその空間には懐かしいムンクの匂いが滞留することになる。『叫び』は、その遠近法を強調した構図、血のような空の色、フィヨルドの不気味な形、極度にデフォルメされた人物などが印象的な作品でもっともよく知られ、ムンクの代名詞となっている。そのため、構図をまねたパロディが制作されたり、ビニール製の『叫び』人形が売り出されるなど、美術愛好家以外にも広く知られる作品である。
「 あの秋子はそのムンクの代名詞をいつも借用した・・・・・ 」
  夫婦共働きでがむしゃらに頑張る日本のバブル時代の「 家を買う物語 」のテレビ小説を、村人の生活から逃れられない民衆を束ねる視線で、彼女も同時期に幾つもみたであろう。今さらに同じ題材が、特殊な国情を加味した懐かしい思い出として、日々演じられているではないか。秋子にとってその俗世は常にゴシップなのであった。欲求は決して新しい状況を生むとは限らないことを秋子知っているのだ。
  しかし、だから今日の日本を悩ませる、あらゆる社会問題に触れながら、人間も暮らし振りも狂気に暴走して行くのだが、その死とは逆の場に彼女は立っていたいのであった。このある種、奇怪とも思われる嘆きとは、特殊な宿命を宿した人たちの衝撃的な行く末に限ったものだろうか。21世紀の彼女にとっては、酷く、ぐちゃぐちゃな22世紀へと送り返され、すり減らした魂を、そこでまた消し潰されることが怖いのである。だから秋子はムンクの「叫び」までを日常の計算に入れて、逆に喜びへと奔走してしまうのであった。



  エーケベルグの丘は秋子と沙樹子の三人で二度訪れている。
  オスロ中心部から路面電車で坂道を上るとその丘に着く。高台からオスロとその先のオスロ・フィヨルド港湾を望む景観に三人して佇んでみた。ムンクの言に従えば、そこに『叫び』のパロラマが実在するはずだ。
  ムンク美術館のテンペラ画と重ね合わせて窺う・・・・・『 私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた 』という彼ムンクの光景を、秋子の眼が果たしてどのように写したのかは分からないが、夕暮れから月明かりに照らされるまで三人はただ静かに佇んでいた。そのオスロとはムンクにとって愛憎半ばする町でしかなかった。
  秋子はオスロ・フィヨルド港湾を望みながら即興で篠笛を吹いた。
「 ムンクに風を呼んであげたの・・・・・ 」
  と、秋子は言った。そうして、たゞ潮風に吹かれていた。
  ムンクもまたノルウェーの国を悩ませるあらゆる社会問題に触れながら、人々も俗世も狂気に暴走して行く姿を傍観できなかったに違いない。叫びの描写ごときで発禁だ裁判だと大騒ぎされたではないか。ムンクは両刀使いの変態どもが混合する中で、必然な悪態をつきつつ自身のクローンを創って「叫び」いう連作を描きながら自らを叫び続けたのだ。



  オスロのガーデモエン空港を離れるとき、秋子が家伝の篠笛にそっと触れさせてくれた、その笛の音の名残り香を抱いて、比江島修治にはそう感じとれた。宿命の違いとはいえ、すれ違う人である三人はそうした場所で一瞬重なり、またそれぞれの生活に戻って行くのである。束の間ではあるが、そうした意図的に訪れる異国の旅は、秋子のその一瞬を温かく描いてくれるのであった。
  空港は秋子にとって大好きな場所だ。祖父富造が健在であった10代のころはよく、京都駅からリムジンバスに乗って伊丹空港へ行き、行き交う人々や飛行機の発着を眺めて、一人夜までを過ごしていた。
「 ここは、日本とは区別された外国とつながっている・・・・・ 」
  と、思えることがあの頃の秋子には重要だった。
  そのときに見ていた昼夜の風景は、積み重なった記憶となって、どこか未来の自分史につながってゆく。意識的にする「ムンクの顔」もまた小さな異国への旅の記憶なのだ。いつもそう思って叫び直し、「 なんて不自由な生きっぷりだろう 」と自らで驚いてみる。阿部家の仕来りを守り継ぐ女が重宝だからという理由で人生が始まるなんて、と思い悩んでも、しょせん宿命の奔放さに人はかなわない。そこで果たせるものは、自らで独特のスパイスを楽しく利かせるしかない。それがいつも旅に似てると思えるのは、少し歩いてみて不思議なのだが、歩き終えてみたら、こんな人生の物語であったのかと驚くことだ。
「 いつも、未知の場所に行く感じなのだ 」
  と、その気になりやすいのだとは思うが、到着ロビーから出てきた人たちを見るだけで、自分も旅から帰ってきた気持ちになる。空港で見たり、実際に空港から具体的な旅をすることで、秋子は色々な人生を一瞬、生きることができた。
  三人がオスロのガーデモエン空港を離れるときは、秋の夜更けであった。



 
「 遠方とはそもそもなんだろう・・・・・ 」
  と、比江島修治は、ふと淋しい場所を考えた。
「 遠方に行けば、秋子の淋しさは本当に減るのであろうか・・・・・ 」
  と、沙樹子はぼんやりとした不安を抱いた。
「 今、こうしていても、私の死の淵は、しだいに近づいている・・・・・ 」
  と、阿部秋子は、震えそうな硬い躰をじっと抑えた。
  お互いには何一つ見通せない、そんな三つの問いが、それぞれの心に長い余韻を残しながら、互いはすでに運命が交錯していることも知らずに、三人それぞれに寂漠としたものを抱えさせて、オスロ上空へと機影は消えた。
  そうして夜空へと消えいて行く機影を感知して想い見ることが、またそれが秋子の新しい旅なのであった。
「 あの秋子の眼の湖(うみ)には、小椋池の夏の泥鰌が棲んでいる。それは河井寛次郎の胸に棲んでいた泥の泥鰌なのだ。日本オオカミはその泥鰌が大好物だった。それが同じ焔の帆(ほのほのほ)となって秋風の中を進もうとする。私はその帆の膨らみをみた・・・・・ 」
  雨田博士は、そう修治に語りかけた。
  駒丸慎太郎が博士に語りかける話は、阿部一族の復活の出来事だが、同時にそれは博士が日本奈良までを訪ねる日本人の諸端を省みる渾身を振り絞る最期の旅であった。その眼は縄文の港川人が三輪三山で聞いた、日本オオカミの遠吠えを眼差していた。

                                 





                                      

                        
       



 祇園祭









ジャスト・ロード・ワン  No.28

2013-10-07 | 小説








 
      
                            






                     




    )  泥の坂  ①  Doronosaka


  秘太刀(みくにのまち)を握りしめた阿部富造だが、高野川の揺らぎ流れる瀬音が響き、朝まだきころは峰々をたどり比叡山延暦寺まで聞こえるという、清原香織にはその秋子の奏でる神寂びた篠笛の音色が泛かんでいた。
「 斑鳩(いかるが)の午(うま)の骨・・・・・ 」
  法隆寺のすぐ西に広がる西里のこの集落は、近世初期の日本で最も組織的な力をふるった大工棟梁中井正清の育った集落である。南に大和川が流れ、北には法隆寺の裏山にあたる松尾山を中心とした矢田丘陵を仰ぐ。西部には在原業平の和歌で知られる紅葉の名所、竜田川が、東部には「富の小川」として詠われている富雄川が流れる。
  古代の大和国平群郡夜麻(やま)郷、坂戸郷の地で、龍田川が大和川に合流する地点の北西にある神南備・三室山山頂に延喜式内・神岳(かむおか)神社が鎮座する。飛鳥時代には聖徳太子が斑鳩宮を営み、当時創建された法隆寺、法起寺、法輪寺、中宮寺は現在に伝わり法隆寺と法起寺が世界遺産に登録された。
「 正徳太子の薨去後は、太子の王子山背大兄王一族が住んでいたが、皇極天皇2年(643年)に蘇我入鹿の兵によって斑鳩宮は焼き払われ、山背大兄王以下の上宮王家の人々は、法隆寺で自決に追い込まれたとされる・・・・・ 」
  すると斎場御嶽(せーふぁうたき)にいた幽・キホーテは、ふと眼の前の広がる沖縄の闇が途切れて、ふんわりと紫煙のシャボン玉で包まれた中に、笛の音に踊るようにして二匹の蝶が羽ばたいていた。
「 ああ、あの鳩は、斑鳩を具象するもので、あったのかも知れない・・・・・ 」
  比江島修治は、かって阿部秋子との接点にそんな白い翼の記憶を持っていたのだ。
                                           
              



  あのとき阿部富造は伊勢の亀山を想い起こして、日本武尊の白鳥を泛かべたのだが、と、修治がそれをじっと感じて胸に拾い上げようとしたことを瞬時、幽・キホーテは脳裏に白いその姿を過(よ)ぎらせたのである。
「 あのとき秋子は、レイモンド・ロウィーの小鳩を指先でたゝいた・・・・・ 」
  彼女は軽くポンと爪弾くようにノックした。むろん、応えるはずもない。ノアの方舟のくだりで帰還する逸話の鳩である。このときクラムシェルの藍箱には、まだ残り五羽の鳩がいたはずだ。その一羽の頭を爪先でつまむと、彼女はピッと引き出した。
  もちろん、飛べるはずもない。鳩は身を火炙りにされる順番を、たゞひたすらと待っているのだ。修治の鳩は、我が身を荼毘に差し出せば大空へ飛ぶ自由を貰えることをよく自覚していた。それが買われた鳩の認識というものである。鳩は資本主義社会の常識を心得ている。
  彼らは火を神と崇める「 Tues Muslims 」なのだ。藍箱の方舟は教会である。
  殉教の道を歩もうとしていた。毎日二十羽が天昇する。
  しかし、彼女につまゝれた一羽は驚いた。残りの四羽は次ぎもそうするのかと愕然とした。火炙りを待つ鳩は、火を灯されることもなく、たゞ無用で不要な棒切れのごとく転がされた。
  秋子は静かに修治の愛用するショートピースを自在に転がしたのだ。転がる鳩は拝みながら眼をたゞ閉じていた。そのとき修治は煙草を一服し、彼女の白い爪先がする始終を眺めていた。
  飼うために箱に入れているのではない。空へ放つために買ったのだ。

          

  そのまゝ放置された鳩は、さり気なく修治のポケットに入れ、一時間後に空へ放したのだが、比江島修治が保有するアルゴリズムの色見本には、阿部秋子の転がしたその色がない。
  幽・キホーテは今、その細い指先の静かな「 わが衣手は 露にぬれつつ 」という哀れ香が果たして何色であったのかを漠然と想像している。あのとき、姿見の中の老婆を見て、阿部秋子は仰天したではないか。修治はあの顔色を見たのだ。
「 ああ、血のような空の色 」
  と彼女は叫び、両耳をギュッと圧さえ、顰(しか)めた小顔の眼を一瞬丸くした。
  その歪んだ顔を見詰め終えてみると、秋子はあどけなく笑い飛ばした。
  そうして「 今日も秋色やねッ 」と明るく爽やかに言う。
  秋子のこれが日常の遊戯である。そうすることで秋子は気分を切り換え、実際それによって新しい知識を効率的に蓄えていき、人生を面白く進捗させることができたのだ。
                              
          

  秋子の「秋」は祖父の清太郎が与えたという。雁が音の羽擦れすら淡く感じさせサラサラと光る栗梅の髪は母から貰った。
「 手短な平和・・・・・ 」
  秋子はそう言ってテーブルの上でショートピースを転がした。
  上句だけポンと転がして煙草を喫うとは文句なく斬新で意外だった。
  和訳して喫煙をいとも美しく咀嚼(そしゃく)してしまったのだ。
  たゞの紙切れが風で空へ飛ばされるように、いとも簡単に比江島修治の定形が崩れ落ちた。
  修治はその風圧でしばらく不正咬合の状態であったが、さりげなく手短でいかにも物臭なその言葉使いの妙な紫艶に巻かれながら修治はまたしばらくのまゝその軌跡の幽さに曵かされていた。
  やがて朝露の滴る窓ガラスの上に、秋子の白く細い指先が手短な平和という文字を描き、手招きで誘う夢をよくみるようになった。以来、神妙なその潮騒の揺らぎに修治は曵かれ続けている。





  そんな秋子と逢う度に、比江島修治は、赤鉛筆でラインを引いた高校当時の、すっかり変色した古典の教科書をいま怖るおそる開いてみると、まるで紅葉が降り落ちた跡が、古細菌の化石のようになっているかのような錯覚を抱いてきた。
  微化石として多産するもの以外については、通常、断片的な知識しか得ることができないが、化石として生き残る生物は偶然に左右され、その身体の部位、条件、その他きわめて限られた場合だけである。しかし秋子の場合は「種」とよばれる連続群によって最も意味深くあらわれた標本に触れるようであったのだ。
  そこに歯ぎしりするマルテルの顔が現れるかと思うと嬉しくもあった。
  祖父の名の「秋」を引き継いだことがそうである。祖父の本名は清太郎であるが、阿部家の嫡男は代々「秋一郎」を世襲するという。戦禍にて嫡男の生存を危うくしたという体験から、祖父は子女にも秋の名を残そうとしたこともあるようだ。また、栗梅の髪を母から貰ったことがそうである。 さらに、父譲りの白い指先がそうである。何よりも秋子が白露月に生まれたことがそうである。そうして白秋の詞をよく歌うことがそうである。
「 生まれ落ちた地の「生命」やその「命名」とはすでに生きる化石であろう・・・・・ 」
  修治は、その秋子の名に赤い潮騒のような緩やかで懐かしい日本の音を幾たびか聴かされた気が、生半可じゃなく絶対にするのだ。
  秋子という数奇な女が抜群に面白く滑稽な古風の存在ということもあるが、日本人にはどうしても硬軟両義の感慨をともなって語らざるをえない「秋」という主題に、ひたすら一心に向かっているところがたいそうロマンチックに見えていた。また一途にも見えていた。
                                 
  可視化ではそう白くみえる。だが御嶽から覗く不可視化では青白く感じるのは一体どうしたことか。
「 裏返せばこれは、明治維新における日本人が見誤って假定(かてい)した一つの青い照明なのであろう。それを踏襲した戦後の日本は、せわしくせわしく消滅させようとしている。新たなジステンバーの猛威とも知らずに、いかにも、もっともらしく灯り続けているのではないか!。幕末までは日本オオカミは生存していた。彼らが滅亡したのは明治になって異国よりジステンバーが襲来したからだ。青い輝きはこれと等しいウイルス性疾患の感染色帯ではないのか・・・・・ 」
  秋子が転がした白い鳩が、幽・キホーテには羽を散らされて青白く輝いて見えるのだ。
  そしてその眼には滅亡したという日本オオカミ、耳にはなぜか慟哭の遠吠えが聞こえてきた。
「 阿部秋子の留学先である北米を追いかけた、あの黒丸は、あの後一体どうしたというのだ・・・・・! 」
  しだいに修治の脳裏では、安倍家に伝わる陰陽の黙示録をめくり始めていた。
                          


「 ああ、東京の書棚に、秋子から借りた一冊の古本がある・・・・・ 」
  借りてからもう十数年、借り忘れでもなく返さないでいる。それは河井寛次郎の『火の誓い』という一冊だ。
  後、数年すると紅蓮の赤シャツを着せてあげたい。その姿で一緒に散歩でもしよう。長らく生きてみて、そろそろ一つに生まれ還る、そんな年齢の古本である。
  彼女は返却を迫る質(たち)ではない。もう返さないことに決めた。
  そもそもこの一冊が秋子との馴れ初めであった。妻の沙樹子には悪いが、これこそが絶えない潮騒の独り占めのようで、今さら返せないのである。未だ返せない事情が、じつはもう一つこの本にあるのだ。
  河井寛次郎の『 ・・・・・これこそ病む事のない自分。老いる事のない自分。濁そうとしても濁せない自分。いつも生き生きとした真新しい自分。取り去るものもない代りに附け足す事もいらない自分。学ばないでも知っている自分。行かなくても到り得ている自分。起きている時には寝ている自分。寝ている時には起きている自分。「 火の誓い 」・・・・・ 』という本にある下りである。
  この辺りの寛次郎が言い聴かせる問答が何ともじつに奥が深い。

                                 

  真っ向から渡り合うには、分かち合うだけの想像力が問われ隔たりを埋め尽くす間を修治は自覚せねばならなかった。
  そうした自覚を導くには、さしづめ道元禅師の言葉「 自己をはこびて万法に修証するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり 」に突き当たることにもなろうから、いずれ秋子に案内を頼み、駒丸家とは結び付きの深い修学院の赤山禅院にでも訪ねて、千日回峰行の大阿闍梨による八千枚大護摩供の加持・祈祷の比叡術など請い学べねばならないと考えていた。
  赤山禅院(せきざんぜんいん)は比叡山の西麓にある延暦寺の塔頭である。
  慈覚大師円仁の遺命により888年(仁和4年)天台座主安慧が別院として創建した。




  本尊は陰陽道の祖・泰山府君(赤山明神)、かけ寄せの神として、また、京都の表鬼門にあり、王城鎮守、方除けの神として信仰が厚い。拝殿屋根に瓦彫の神猿が京都御所を見守っている。これは阿部家とはじつに親しい神なのだ。 この方除けの神として、古来信仰を集めた拝殿の屋根の上には、京都御所の東北角・猿ヶ辻の猿と対応して、御幣と鈴を持った猿が安置されている。
「 あんた、猿にでもならはるつもり・・・・・ 」
  かと、 秋子はきっとそう冷やかしてから承諾しようかと、問答の一つでも仕掛けてくるに違いないのである。そこに説き伏せの備えがいる。何かとてんごしたがる質であるから秋子との問答を、修治は用意し、まずその門をすり抜ける必要があった。
「 禅院の猿と、寛次郎が自宅に置いた猫とが問答する 」
  と、さて軍配や・・・・・いかに、とでもなろうか。だが、おそらくこれは理屈なく即決する。
  手に何も持たない寛次郎の猫に、やはり軍配が挙がる。猫は一言も口を開かずとも猿に優るのではないかと比江島修治はそう考えている。しかし、比叡山延暦寺の千日回峰行においては、そのうち百日の間、比叡山から雲母坂を登降する「 赤山苦行 」と称する荒行がある。これは、赤山大明神に対して花を供するために、毎日、比叡山中の行者道に倍する山道を高下するものである。
  かけ寄せの神仏として人を招くとは、屁理屈がどうにも鼻や耳に障る。かけ寄せは、五十寄せとも五十払いともいい銭をかけ寄せ、五と十のつく日に集金や支払いを行うというもので、京都をはじめ関西では集金日を五十日(ごとび)と隠に称する商いの手習いが産まれ、これを赤山明神がかき寄せた。神仏に仕える身が民衆の銭集めを先導するとは、この本末転倒の屁理屈を、禅院は法衣で平然と語り過ぎる。禅院の猿が手にする御幣と鈴は、銭かき寄せの無慈悲な旗に過ぎない。

                             

  自らの巧(うま)さを人に悟らせぬのが、本物の名人だ。知るものは言わず、言うものは知らずという。物事を深く理解する人は、軽々に語らないものである。磨きあげ積みあげた研鑽と技術をひたすらと庶民の幸福へと捧げ、市井の人であり続けた寛次郎とは、民衆の民芸に心優しい職人であり、それがための哲人であった。そうした彼の作品は、未来の民芸への温かい視線に培われた。 明治という洋風偏向の真下(さなか)、日本民芸に新たな装いを加え、和を厚くするなどして風前の灯であった陶芸の弱さを補強してみせた。
「 色彩もなく、手には何一つなく、眼を上げて何をかを招く、この男が置いた語らない猫 」
  改めてしんみりとそ思う修治は、そっと出窓を開くと、青のなかに白さをつよくしばるような高い空に向かってそのまゝ眼を西の彼方に遠くした。修治は、そう思った秋の日のことを眼に泛かべた。
  鯖雲のふらりと流れる空である。そこに、眼をそうさせていると、自らが足を運んだ35年間の京都への道を想い起こし、しだいに初めて阿部秋子と出逢った五条坂や、二人して歩いた京の都の細道が想い泛かぶのだが、五条坂の出逢いの記憶と鮮やかに結びつくもと言えば、それはやはり秋子の篠笛であった。
「 あの寛次郎の猫が、秋子の笛に合わせてスイングする・・・・・! 」
  修治の記憶を泛かべると、幽・キホーテは躍動するかの猫のトキメキを感じた。

                    


「 野の花のごとく・・・・・か 」
  あのとき、ひょいと笛の音がどこからか聞こえてきた。
  最初は祇園の祭囃子かと思ったのだが、しかしその手の鳳輦(ほうれん)に踊る節音とはどことなく違う。修治はいつのまにか佇み、しばらく野の風に揺らされる心地で神妙な笛の揺すぶり遊(すさ)ぶ音を聴かされていた。踊るでもなく、雅びるでもなく、侘びるでもなく、鄙びるでもなく、錆びるでもなく、市井の明暗から漏れ響く五感の音とはどことなく無縁のようで、どうにも裸体にさせられる。柔らかくはあるが人への手加減などない、それは逆しまに吹き野晒しに荒ぶ風神であった。
  あのレイモンド・ロウィーの小鳩をたゝいた指先と、あの人への手加減を感じさせない野に逆しまに吹き荒ぶ風神を操るような篠笛の指先と、やはりあの二つの白い指先が、高野川の春の流れに浮かんでくる。たしかにあのときは、野の風に揺り動かされる心地がした。
  修治はショート・ピースに火を点すと、いつもその燻ぶりが眼に顕れてくるのだ。
                                   


「 まだあどけない15歳ほどの娘が・・・・・ 」
  あの手の篠笛をどう習い覚えたのかは不明であるが、陰陽寮の阿部家の孫である秋子が宮家の影響を受けたことは間違いない。しかも、あのとき「 野の花のごとく 」という表現はそもそも可笑しいと、秋子にはクスクスと笑い返され、会釈とでも思ったのか軽く弾かれた。たしかに秋子は当時から世間摺れした少女ではなかった。
「 それでは、キリストはんの、あの聖書のフレーズといっしょや 」
  と、 そうあっさりと、機嫌良く微笑まれて、す~っと脇に置かれてしまったのだ。 だが、そう言われてみると、逆にそうされた去(い)なし方に薀蓄(うんちく)の一味がある。修治には益々讃美歌のように聞こえた。
  京都という市井の形成には、多くの社寺や宗派が深く関わっている。
  そうした仏派の中でも真宗は、プロテスタントと類似するではないか。京都人の質素・節約といった生活倫理の源泉を、その真宗の教えの中に見い出せば、市井にあって多様の商いに従事し、それぞれの家業を全うすることこそ凡夫の仏道と説いた蓮如の教えは、プロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神を生み出したとするウェーバーのテーゼと、二つは結ばれて似たるものとして重なるのだ。 実際、京都の気質にはそうした宗教の基層があるではないか。またこの基層の上に、秋子のいう言葉もある。どうもそう感じたのだが、またそう感じさせる少女の妙に揺らがされた。
  宮家なら営みの目線は常に大君なのであろうから、キリストとなれば讃美歌そのものである。
  秋子の笛はシンプルな旋律ではあったが、微妙な抑揚をよく拾うと、深々と静謐(せいひつ)の漂うその曲の調べは「 野の花のごとく 」風にそよぐ草むらの野花そのものであった。



「 美(うるわ)しのさくら咲く林ぬち・・・・・ 」
  自然とついて出た歌詞を呟くと、これは都内桜美林中学の秋子は到底知らないであろう古い時代の校歌なのであるが、これは駒丸慎太郎の父誠一がよく口吟(くちずさ)んでいたという歌で、ふと過ぎる慎太郎の思い出のその記憶とも、秋子の篠笛の音は修治の脳億でピタリと重なってきた。篠笛は旋律であり、旋律と詞を切り離せる人はいいが、修治は切り離せない。そう秋子には説明した。するとどうだろう彼女の笑顔たるや、それまで笹ゆりの慎ましき常態だった筈の顔が、まるでカサブランカが突然咲いたような別顔の綺麗で鮮やかな艷めきをみせた。
「 笛を愛でるにも、そんなルールがあるのですね 」
  と、一転して上品に切り返し、魂でも行き来させるかのように声を弾ませたのだ。
  秋子はさも虫の歌声を楽しむように、笛の音を楽しもうなんて、風流な人ですねと能(よく)した言葉遣いでそう言った。しかし修治はそう仕切られたことに思わずハッとした。秋の虫を籠で楽しみ、風流に愛でようとするのは都人の十八番(おはこ)ではないか。それでは上手に修治が仕返しされたことになる。だがそれだけでは秋子の嬉しい仕返しは終わらなかった。
  篠笛を仕舞い入れようと秋子が手にした西陣の筒袋の直ぐ脇に、目敏(めざと)くみると三品の湯呑が黒漆の丸盆の上にシャンと佇んでいる。その佇まいが洗練を感じさせた。門外漢の修治が眺めても、その陶器である湯呑は、その場に似合う景色を創りシャンとした姿勢で佇んでいた。お世辞抜きに正直そう思えたし、ありていの直感として素直にそう感じた。何か簾(すだれ)越しに中庭を見るような風通しのよさを感じさせたのだ。そうした修治の視線を鋭く感取った秋子は、篠笛を仕舞い終えようとした手をピタリと止めて、さも嬉しそうな笑みを零しながら、丸盆ごと修治の手前にす~っと引き寄せた。瞬間、互いの頬と頬とが擦れそうになり、修治にはたしかにそう思われたので、一抹の危うさを感じ、咄嗟に彼女の頬を片手で遮ろうとした。
  しかし彼女の所作は、片手をスルリとくゞり躱(かわ)し、はしゃぐような素早さで瞬く修治の顔を横に向かせると、さらにその耳元に頬を寄せて密やかに囁(ささや)いたのだ。



「 これ、秋の賦(くばり)という名のゆ・の・み・・・・・ 」
  と、だけ囁かれて、秋子のつるんとした指先は湯呑の中をさしていた。
  そう促されて湯呑一つを強ばる手のひらに乗せられてみると、意外にその陶器の肌触りは軽やかで、仄かな温もりを帯びていた。しかも万辺なく枯れた秋景色を眺め見渡すと、誰にでも分る描かれ方、あるいは巧みな削り方で、湯呑の底に澄み透る羽をしてくつばる一匹の蟋蟀(こうろぎ)が、さも草場の陰で啼くかのように棲んでいた。そして一言、湯など注いで殺さないでと言った。
「 そうか、湯を入れると、蟋蟀が死んでしまうよねッ!・・・・・ 」
  と答え返すと、一度小さく頷くが、さらに首をさりげなく左右に振った。
「 死にはるのも、そうやけど・・・、湯ゥ注ぎはると、黄蘗(きはだ)の釉薬が効かへんようになるんやわ 」
「 えっ、効かなくなる・・・?。綺麗に効いているようだけど・・・・・ 」
「 そうやないわ。この釉薬なッ!、菩提樹の涙やして、私(うち)それ入れてるさかいに、湯ゥ入れはると菩提寺の声消えてしまいはる。そしたら、ほんに可哀そうや・・・・・ 」
  今、その湯呑の蟋蟀が、比江島修治の書棚の硝子ケースの中に棲んでいる。書斎のそのケースだけは常秋の国だ。春開く小さな硝子戸の密かな楽しみがある。何よりも妻沙樹子が秋の訪れを喜んでいる。



「 いつもよりうまく作れた気がする 」
  と、あの時、じつに福々しい笑顔で陶器を手にして、寛次郎作品の魅力を伝えることに夢中にみえた秋子の姿が愛らしくある。しかしそんな彼女と出逢ってから、また方々を訪ね歩くまでの間、寛次郎という男の作品を見定めるようになる修治には、そこに至る半世紀ほどの長々しい見極めにのめり込む道程があった。
  床屋に行ってバリカンで刈り上げた後、修治は五厘の頭をスウスウさせながら書店の片隅で文庫本を手にとり、中学生だから無心で小銭を数えつゝ、さんざん迷ったすえにやっと念願の一冊を手にするくらいなのだが、それでもその一冊を箱詰めのダイナマイトのようにもち抱えて部屋に戻ってページを開くまでの出会いの緊張というものは、今でも思い出せるほどに至極ドギマギさせるものであった。
  秘密のトンネルにこっそりと足を踏み入れ、宝石箱の鍵を密かに握りしめている、そういうドギマギの繰り返しによって修治は、古い時代の生き物の死がいは、海や湖の底にしずみ、砂やどろが積もった層にうずもれていることを知ることができた。
  15歳のころの文庫本とは、一冊ずつが予期せぬ魔法のようなものである。装幀が同じ表情をしているだけに、ページを繰るまではその魔法がどんな効能なのかはわからない。さまざまな領域を横断し、しだいに修治は志賀直哉の『 城の崎にて 』や里見トンの『 極楽とんぼ 』岩波文庫などともに柳宗悦の中公文庫『 蒐集物語 』に耽った。
  少年にとってそれら白樺派の一ページ一ページが霞んだプレバラートなのであるから、それはそれで記憶の粉塵のなかを歩くようで、じつに懐かしい。いつしか白樺派云々の垣根を越えて明治・大正という時代に癒される懐かしさに共感を抱いた。
  そうさせた懐かしさと言えば、白樺派作品を読み足していくと、柳宗悦から派生して引き出された河井寛次郎とう男の存在に注目するようになったことだ。つまり生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え、民藝運動を起こした同志たちに強く感心を抱きはじめた。
  同志を一つ完成するには、長期の期間を必要とする。想像力を全開して構想を組立てるのに手間がかかるし、そうやって築かれる物語の基礎の部分は、丁寧に調べ尽くした現実的な細部に、支えられねばならない。良書とは何よりそうした堅苦しく思われるところから綺想に富むアイロニーが加味されることになる。
  柳宗悦という男はそういう方法を踏みはずさなかった。
  朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳は、朝鮮の人々に敬愛の心を寄せる一方、無名の職人が作る民衆の日常品の美に眼を開かれた。そして、日本各地の手仕事を調査・蒐集する中で、1925年に民衆的工芸品の美を称揚するために「民藝」の新語を作り、民藝運動を本格的に始動させていく。

                              



  柳宗悦の朝鮮陶磁器や古美術を収集した幾多の話などを漁り手繰ると、民藝運動のそこから波打つ人脈の一人が泛き彫りとなって、比江島修治の眼の中に潜在し燻るそれが京都の河井寛次郎であった。
  阿部秋子の篠笛に乗せて、寛次郎が生きた面影を思えば、この男もまた風神のようである。そこに秋子の言葉を借りるなら、寛次郎の作品は、ゆく春の賦(くばり)、くる秋の賦を訴訟させている。
  気随な旅人のように、たゞ漠然と京都を訪れたわけではない。
  ささやかな糸口でも丹念に掘り起こせば、万に一つの手掛かりを得ることになる。考古学は最初の入口がすでに迷宮である。手数足数を重ねながらも、報われることは当初から切り捨てている。常日頃、修治はそんな迷宮の暗渠の中で地道に手探りの作業をし続けてきた。
  その修治は、長年さる植物に適する土壌を探し求めてきた。
「 あのとき・・・の、あれが・・・。私に、夏の賦(くばり)を告白していたのかも知れない・・・ 」
  振り返ると、聞き漏らした声が、ようやく産声を上げたように思えた。
  聴くとロウソクの光でもきらめくような音色だが、どこか悲しみも帯びて聞こえる秋子の笛の音を、静かになぞりながらショート・ピースをくゆらせていると、やはりそう思われてならない。人は、たしかに、どこかの土の上に立っている。その土は干からびてから香気を立てるのだ。しかしその香気は常に地底深くにある。修治はたゞ掘削の地点に立ちたかった。

                  

「 菩提樹の、黄蘗(きはだ)の釉薬か・・・ 」
  秋子から貰った蟋蟀の湯呑をそっと握りしめた。
  握りしめると微妙に指先が震える。この土の匂いは、そこにまた風神がいることを感じさせる。神寂びて感じる漂いを人の数式で割り出せぬのと同じように、風土という匂いは、人の理屈なのでは成立しない。指先が改めてそのことを感じ取っていた。
  風土を、理屈なく人は特定して嗅ぐではないか。やはり秋子のように、そこに風神を立て、風袋で煽られた風が風土を焦すものだとすれば、固有の匂いが香りたつこともあろう。すると、やはり風神は本能として風土のなかにいる。修治はそんな仮説を立てると、す~っと鼻から紫煙を吐いた。ある特殊な匂いが、修治に五条坂のモノだと直感させたのは、古い文芸誌の対談をスクラップにするために切り取ろうしたとき、ふと眼に止まった「 その土を、泥鰌(どじょう)は好んで食べていました 」という男性の言葉であった。
  比江島修治はこの一言から五条坂を訪ねようと思い、しかし未だ探し求めて歩き続けている。終点はもう少し先にあるようだ。くゆり昇るピースの紫煙にそんな五条坂が泛かんできた。
                            
                    

  関東という東京からは箱根で関西となる。長いトンネルをくぐる辺りから京都駅に着くまでに関西の泥鰌について考えていた。駒丸慎太郎の父誠一は京都伏見の育ちである。その伏見から南に淀川を越えて巨椋池(おぐらいけ)はほどなく近い。学童のころ駒丸誠一はその巨椋池の痕(あと)でよく遊んでいたという。
  ある日、慎太郎は新幹線の車窓に父誠一の思い出話を泛かべては面影を痛く感じたそうだ。
「 私(誠一)は子どもの頃、よく泥鰌(どじょう)を掘った・・・・・ 」
  池のすぐ脇に、水のなくなった田んぼに小さな穴がある。そこを掘っていくと泥鰌がいる。かなり太い泥鰌が捕れた。あれは冬眠しているのだろうか。泥鰌も随分と災難だろうよね。
  小学校から帰ると直ぐに、友だちの幸太郎と、弘子と、「 ドジョウ掘りにいこか 」などといって、ブリキのバケツを持って稲の刈り取られた田んぼに行った。穴を見つけそこを掘ると必ず泥鰌がいた。何匹か捕ると飽きてしまって家のほうに戻り、ベーゴマとかビー玉などをやった。しかし少し大人になって京都の歳時記で「泥鰌掘る」を見つけ、ふと、また泥鰌を掘ってみたくなった。
  泥鰌掘る、は季語として使われる。そう書いてある。冬になると泥鰌は田や沼や小川、水溜りなどの泥の中に身を潜め、冬期は水も涸れているので、泥を掘り返して容易に捕えることができる。だから、冬の季語だという。
「 だがな。これは少しおかしな話だと思った・・・・・。巨椋池の跡地辺りでは、夏場でも掘るとよく泥鰌は捕れた。たしかに冬場は田んぼを掘ったが、夏場は沼地の泥を掘ると泥鰌はいたよ 」
  四条河原町から鴨川の右岸を下りながら、三十三間堂付近まで、修治は慎太郎の父がそういう泥鰌のことを考えていた。
「 夏場に掘っても泥鰌は捕れる・・・・・! 」
  どじょうの歴史的仮名遣いは「どぜう」とする。この「どぜう」は江戸時代に鰻屋の暖簾や看板にそう書かれていた。しかしそれ以前の室町期、文献に「土長」「どぢゃう」の表記がある。だとしたら「どぜう」に泥鰌の起源を求めてもさほど意味はない。また泥鰌は、泥土から生まれる意味で「土生(どぢゃう)」ともいう。その泥鰌が水中の酸素が不足する夏場の池を掘ると捕れたと慎太郎の父はいう、そんな小椋池の泥鰌がいることが不思議であった。
「 泥鰌は池の泥を食べれるのであろうか・・・・・? 」
  巨椋池は干拓されて農地ではあるが、往年は多様な動植物の生息地として、豊かな環境を育み多くの人に恩恵を与えてきた。歩きながら泥鰌が一体何を食べていたかを考えていると、もう目前は五条坂であった。清水寺に程近い、東山五条。大通りからひと筋それて路地に入ると、そこは静かな住宅街である。河井寛次郎記念館はその京都五条坂にある。

                              


  車一台がやっと通り抜けられるほどの狭い道沿いに、鐘鋳町の古民家が建ち並んでいるのだが、いかにも人通りが少ない若宮八幡宮を少し南に入ると、京都の人々の生活に溶け込むようにして閑静に建っているのが、かつての寛次郎の住居である。タクシーの運転手に「 東山五条西入一筋目下がる 」と伝えるとよい。寛次郎が他界したのは1966年(昭和41年)11月のことだが、その9年後の昭和50年、比江島修治は四条河原町からとぼとぼと歩いた。建仁寺を過ぎた辺りから徒歩10分ほどであったろうか。
  記念館は昭和48年に公開された。修治はその二年後に訪れたことになる。
「 阿部富造が斑鳩で午(うま)の骨を拾い直したとき、雨田博士は(ほ・の・ほ・の・ほ)と吐息を漏らした・・・・・! 」
  そう感じた修治である幽・キホーテは、河井寛次郎記念館のある京都五条坂の界隈、そして祇園祭の7月に暮れる落日の光景をふと泛かべた。そうすると雨田博士のいう、河井寛次郎の腹にある泥の湖(うみ)で一匹の泥鰌が泳ぐ光景が五条坂の夕暮れに重なってきた。






                                      

                        
       



 河井寛次郎記念館









ジャスト・ロード・ワン  No.27

2013-10-07 | 小説








 
      
                            






                     




    )  午の骨  ②  Umanohone


  古事記の中巻に倭健命(やまとたけるのみこと)の望郷歌で「 倭(やまと)は国のまほろば・・・ 」とある。
  この健命の人生こそ悲劇そのもので、この歌は彼の辞世である。
「 この歌は大御葬歌だ。天皇の葬儀に歌われる 」
  富造はおもむろに東へと向き直り、足を止めて伊勢・亀山の能褒野(のぼの)の地を泛かばせた。
  久しく足が遠のいていたが、古事記の舞台をはるばる訪ね、あるいは対峙するようにたたなづく青垣を望郷する人の肖像を描き出そうとすると、今はひからびてみえる奈良の盆地が、いかにも瑞々しく見えてくるではないか。
  ここのところが古事記という作品の中巻を成す富造にとっての要(かなめ)なのだ。
  その源泉は現在までの阿部家に息づいていた。
  子代にしか見えぬ風景がある。それは現代人に、あたかも直じかに創世の絵巻を見せつけているかのようで、まことに迫力に満ち、息継ぎさえ許してくれないほど、不易なる時の筆捌(さば)きが感じられ、異国にて白鳥となって果てるしか手立てのなかった人の哀しみが鮮やかによみがえるのである。
               


  八瀬童子はそれと同じく小さな哀しみに生きている。これが一つには古事記のもつ底力であり、ひからびた奈良の魅力なのであろう。富造がそうしたことを確かめるための法輪寺とは、法隆寺の夢殿、中宮寺の前から北へ約10分ほどのところにある。
  しかし、斑鳩(いかるが)の里の小道を歩き、法輪寺、法起寺をたずねる人影は、今はあまりないようだ。やはり法隆寺にて見疲れをして、その多くが奥を見過ごしにして戻るのであろう。春の斑鳩は、まず虚空蔵(こくうぞう)をみて、春の芽ぶく法輪寺あたりから、きた春泥の道をみかえれば法隆寺の塔がひときわ輝いてみえるのだ。
  この哀しみには誰もが、この次はきっと、法隆寺を素通りして法輪寺を志した方が、どれほどのびやかであろうかと思うはずだ。そうした哀しみは、北に座して朱雀(すじゃく)を守護する天使の哀しさであった。
  そして虚空蔵は淡々として掴みどころのない表情で立っていた。
  虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)という修法は、頭脳を明快にし、記憶力を増大させる法力をもっているという。大和法輪寺の虚空蔵は、大変すなおな六等身の立ち姿である。だから、他の飛鳥像よりその法力もさらに自由自在なのであろう。飛鳥(あすか)の匂いは面ざしに濃いが、相変わらず斑鳩のそれは、まったく素朴な木像であった。



  このうつし世に立ち、その何気なく上むけてさし出した右のてのひらに、今まで有ることも知らないでいた、虚空とやらが確かにのせられていた。富造はのせられている虚空を確かに見た。そんな仏の法力に茫然として、ながめて苦しくなるような御光にくるまれていると、小石をぶつけられたように苦々しくさえ思う怠情さの中で、仏の仕事とは、人の心に石を投げつける仕事なのだ、と、それがわかる。
  するとその石を抱きながら、正しいことをくりかえし言う、この世にある人の言葉を、噛み刻みながら、石を投げた仏の前に衿(えり)を正して座ることになる。奈良とはそうした富造を蘇らせてくれる国なのだ。阿部家の先祖代々がそう教わってきた。
  538年( 日本書紀によると552年。元興寺縁起などでは538年 )、百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上したことが仏教伝来の始まりとされている。
  その後、公伝によると、推古天皇の時代に「 仏教興隆の詔(みことのり) 」が出され、各地で寺院建設も始まるようになる。命ある者がこの世で受ける恩の中でも最も大切な親の恩に対して、感謝をし冥福を祈るために仏像を身近に置きたいと考えた。これが日本における仏教信仰の始動であり、その仏教は、まず飛鳥から広まり斑鳩へと継がれた。
  そう語り詰めた扇太郎は、少し間を置くとかるく唇をなめた。すると虎哉は、その一瞬、鋭く眼を光らせた。
「 そうか・・・・・、午(うま)の骨か! 」
  虎哉はおのれの記憶と向き合うかの声を甲高くあげた。
「 えッ、どうして・・・・・それが・・・・・」
  扇太郎には虎哉のその声が、横紙破りのように響いた。
  法隆寺を総本山とする斑鳩の里の、法起寺、法輪寺、門跡寺院の中宮寺などの末寺は、聖徳太子を宗祖とする聖徳宗であるが、この宗派創建の基もといには係わる一冊の本があった。
  日本国内で現存する最古のその本は、かの聖徳太子の自筆だと伝えられる『 法華義疏(ほっけぎしょ) 』である。
  伝承によればこの本は、推古天皇23年(615年)に作られたもので、日本最古の書物だとされている。
  日本書紀によると推古天皇14年(606年)聖徳太子が勝鬘経・法華経を講じたという記事があることもあり、法華義疏は聖徳太子の著したものと信じられてきた。そうであるならば、この本は、現存する最古のモノであると同時に、残存する日本最古の写本形でもある。 つまり中国の書が600年ないし607年の隋との交流から日本にもたらされ、これらを聖徳太子が写し著作したことが推察される。
  また、このようにして太子が写し執った法華義疏とは『 三経義疏(さんぎょうぎしょ) 』の一部でもある。



「 富造さんは・・・・・、それらの書と、八瀬に伝承される諸紙を、重ね合わせるために、法起寺あるいは法輪寺を尋ねたのではないのかい。どうもそんな気がする・・・・・ 」
  塗炭に扇太郎を圧倒させた虎哉の喋りは、数多くの臨終に立ち会ってきた医師が説く最期の匙でも投げる宣告ような鋭い響きを伴って扇太郎の耳を叩いた。虎哉のそういう三経義疏とは、「 法華義疏(ほっけぎしょ) 」、「 勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ) 」、「 維摩経義疏(ゆいまきょうぎしょ) 」この大乗仏教経典三部作の総称であるが、この、それぞれ法華経、勝鬘経、維摩経の三経を写し、注釈書( 義疏・注疏 )として書き表したモノの一部が法華義疏なのである。
  現在では法華義疏のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存しているが、勝鬘経義疏、維摩経義疏に関しては後の時代の写本のみ伝えられている。虎哉はそろそろ確信を得たようだ。こうなると、虎彦は逆説的に語りはじめた。 厩戸皇子(うまやどのおうじ)である聖徳太子は、このように仏教を厚く信仰した。聖徳太子自筆とされている法華義疏の写本(紙本墨書、四巻)は、記録によれば天平勝宝4年(753年)までに僧行信(ぎょうしん)が発見して法隆寺にもたらしたもので、長らく同寺に伝来したが、明治11年(1878年)、皇室に献上され御物となって秘蔵の品されている。
  元来、「本」という漢字は、「 物事の基本にあたる 」という意味から転じて書物を指すようになった。古くは文(ふみ)、別に書籍、典籍、図書などの語もある。そんな虎哉の解き明かしに、逆に扇太郎が身を乗り出してきた。
  英語のbook、ドイツ語のBuchは、古代ゲルマン民族のブナの木を指す言葉から出ており、フランス語のlivre、スペイン語のlibroはもともとラテン語の木の内皮(liber)という言葉から来ている。日本で作られた本、いわゆる和書の歴史は、洋書の歴史とは異なり、いきなり紙の本から始まっている。
  日本書紀によれば610年に朝鮮の僧曇徴が中国の製紙術を日本に伝えたと言われ、現在残っている最古の本は7世紀初めの聖徳太子の自筆といわれる法華義疏であるとされている。また、奈良時代の本の遺品は数千点にのぼり、1000年以上昔の紙の本がこれほど多数残されているのは世界に例が無い。また、日本では製紙法の改良により、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)などで漉(す)いた優れた紙の本が生まれている事も特筆すべき点である。
「 さて・・・・・、そろそろ、山背大兄王(やましろのおおえのおう)だね! 」
  と、そう言うと、扇太郎はさらに眼をグィと光らせた。
  推古天皇の時代(7世紀前半)、聖徳太子と蘇我馬子の娘・刀自古郎女とのあいだに生まれる。
  誕生の地は岡本宮( のちの法起寺 )で、三井の井戸の水で産湯をつかったと伝えられる。異母妹の舂米女王( 上宮大娘姫王 )と結婚して7人の子をもうけ、聖徳太子没後は斑鳩宮(法隆寺夢殿の辺り)に居住した。
  太子および推古天皇薨去後、皇位継承をめぐる政争に巻き込まれ、蘇我氏より迫害をうけたのち、皇極2年(643年)に、蘇我入鹿らの軍によって生駒山に追い込まれた。
  しかし大兄王は、聖徳太子の遺訓「 諸悪莫作、諸善奉行(すべての悪いことをするな、善いことをなせ )」を守り、蘇我の軍に戦を挑んで万民に苦を強いることをいさぎよしとせず、斑鳩寺で一族とともに自害した。
  富造の訪れた法輪寺は、推古30年(622年)に聖徳太子の病気平癒を祈って山背大兄王とその子由義(弓削)王が建立を発願したとするほか、聖徳太子が建立を発願し山背大兄王が完成させたという伝承も伝えられている。
「 この気魄!、これでは・・・・・、私が攻め陥落(おと)されるようだ!・・・・・ 」
  虎哉の導こうとする結論に、息をつめてその先を聞き急ぐかに居る自分であることにハッとした扇太郎は、それでも古文書の「ぬめり感」を手堅く攻立てる虎哉のそんな口調が、どうにも時代ぶる風神のようで、逆に圧倒されそうであった。
  不動の姿勢で虚空蔵菩薩を、たゞじっと見据えていた。
  法輪寺を訪ねた阿部富造の目的は、虚空蔵求聞持法を修めることにあった。だが、これは、そうそうに会得できるものではない。修法は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというものだ。
  空海が室戸岬の洞窟「 御厨人窟 」に籠もって虚空蔵求聞持法を修したという伝説がある。空海のように、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。富造は、この現世利益を京都八瀬に持ち帰るため法輪寺へときた。
  日蓮もまた12歳の時、仏道を志すにあたって虚空蔵菩薩に21日間の祈願を行っている。
  虚空蔵菩薩の像容は、右手に宝剣左手に如意宝珠を持つものと、右手は掌を見せて下げる与願印(よがんいん)の印相とし左手に如意宝珠を持つものとがある。後者の像容が求聞持法の本尊となる。



  明星をもって虚空藏の化身とし、ゆえに虚空藏求聞持法を修するには明星に祈祷する。
  富造はその明星を待たねばならなかった。
  またさらに、眼を巽(たつみ)の方角へ向いて祈祷する場所を富造は探さねばならなかった。
  心得として行者用心というものがある。
  行者は「 修行中は他の請待を受けず。酒、鹽(しお)の入りたるものを食はず。惣じて悪い香りのするものは食はず。信心堅固にして、沐浴し、持斎生活し、妄語、疑惑、睡眠を少なくし、厳重には女人の調へたものを食はず。海草等も食はず。寝るに帯を解かず。茸等食ふべからず。但し昆布だけは差し支えなしと云う。要するに婬と、無益な言語と、酒と疑心と睡眠と不浄食、韮大蒜(にらにんにく)等臭きものを厳禁せねばならぬ。浄衣は黄色を可とす。どんな場所が良いのかは、経中に、( 空閑寂静の処、或は山頂樹下・・・・・其の像、西或は北へ向かう・・・・・ )とある。見晴らしが良い東、南(西も開けていれば最上)は開けている。修行者は東方又は南方へ向かう 」とある。これは明星を虚空蔵菩薩の化身とし拝むためであった。
「 このとき・・・・・、空海には、口中に明星が飛び込む神秘体験が起こったのだ・・・・・ 」
  法輪寺の虚空蔵菩薩は飛鳥の古い仏像である。
  みつめると、しだいにその虚空に空海の姿が泛かぶように映る。
  富造は虚空の上の空海を現世へと引き出すために、五芒星と九字が描かれた安倍吉祥紋を虚空蔵菩薩の左手に押さえつけた。
  その富造の眼は鋭く輝いている。

           

  眼には、阿部晴明がある時、カラスに糞をかけられた蔵人少将を見て、カラスの正体が式神であることを見破り、少将の呪いを解いてやったことが一つ、また、藤原道長が可愛がっていた犬が、ある時主人の外出を止めようとし、驚いた道長が晴明に占わせると、晴明は式神の呪いがかけられそうになっていたのを犬が察知したのだと告げ、式神を使って呪いをかけた陰陽師を見つけ出して捕らえたことが二つある。
  十訓抄の記述から引きだしたその二つの故事を富造は泛かばせていた。
  このとき富造には、陰陽道によって占筮(せんざい)せねばならぬことが一つあったからだ。
「 11月1日・・・・・。知花昌一ちばなしょういち・・・・・ 」
  虚空蔵の文殊は、この男の行為をどうみなすのかを、阿部富造はしずかに考えた。
  11月1日とは、「大化改新」のはじまる2年前の643年、蘇我入鹿そ(がのいるか)が、聖徳太子の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を自害させる事件がおきた日である。
  子代(こしろ)を今に継ぐ阿部一族は、代々この日を忌日として畏れてきた。
  昨年の11月1日、その6日前の10月26日に掲揚されていた沖縄国民体育大会会場の日ノ丸を富造は浮かばせている。
  国体は「 きらめく太陽 ひろがる友情 」をスローガンに開催された。



  読谷村のソフトボール会場に掲げられた日の丸が引き下ろされて焼き捨てられる。知花昌一は、天皇の戦後初の沖縄訪問により強まる日の丸・君が代の強制に対する抵抗だと主張した。彼は学生時代に自治会委員長として復帰闘争に参加した。そして沖縄戦の集団自決の調査などの平和運動を行っていた。1948年5月の戦後生まれの男である。建造物侵入、器物損壊、威力業務妨害被告事件の扱いとなる。 国内は地価狂騰のころ、この事件発生に、富造は忌日の前兆としての嫌な危うさを感じた。
  さらに何よりも9月23日には、皆既日食が起きていたからだ。
「 太陽が覆われる日食・・・・・その後に・・・・・日ノ丸の焼き打ち・・・・・ 」
  連続して重なると、富造にとって、それらはじつに暗い兆候であった。
  聖徳太子が亡くなって約20年後、蘇我入鹿は古人大兄皇子(ふるひとのおうえのおうじ)を独断で次期天皇にしようと企て、その対抗馬とされる山背大兄王を武力で排除しようと、巨勢徳太(こせのとくだら)に命じて斑鳩宮(いかるがのみや)を急襲した。大兄王と側近たちはよくこれを防ぎ戦い、その間に、大兄王は馬の骨を寝殿に投げ入れ、妃や子弟を連れて生駒山へと逃れた。宮殿を焼きはらった巨勢徳太は、その灰の中から骨を見つけて大兄王らは焼け死んだと思ったのだ。
  囲みを解いてあっさりと引きあげた。
  大兄王たち一行は生駒の山中に逃れるのだが、十分な食糧を持ち合わせていなかったため、部下のひとりが「 いったん東国に逃れて、もう一度軍をととのえて戻ってくれば、必ず勝つことができます 」と進言した。
  すると大兄王は「 一つの身の故によりて百姓を傷やぶり残そこなはむことを欲りせじ。是を以って、吾が一つの身をば入鹿に賜う 」 
 ( 自分は人民を労役に使うまいと心に決めている。己が身を捨てて国が固まるのなら、わが身を入鹿にくれてやろう)と答え、生駒山を出て、斑鳩寺に入った。
  大兄王たちが生きているという知らせを受けた入鹿は、再び軍を差し向けたところ、大兄王は、妃や子どもたち20人以上と共に自決して果てていた。この事件からおよそ80年後に編纂された『 日本書紀 』には、悲惨な上宮(かみつみや)王家である聖徳太子の家系の滅亡に同情して、「 おりから大空に五色の幡(はた)や絹笠が現れ、さまざまな舞楽と共に空に照り輝き寺の上に垂れかかった 」と、昇天の模様を記している。
  入鹿の父である大臣(おおおみ)の蘇我蝦夷(そがのえみし)は、山背大兄王の死を知ると、「 ああ、入鹿の大馬鹿者め、お前の命も危ないものだ 」と、ののしる。そして、2年後にそれが現実となった。
  中大兄皇子( のちの天智天皇 )や中臣鎌足らが、入鹿を殺害するクーデター( 大化の改新のきっかけとなった事件 ) により、古墳時代から飛鳥時代を通して巨大勢力を誇っていた蘇我一族が滅亡することになった。馬の骨とは、素性の解らない者をあざけっていう言葉である。どこの馬の骨か解らない、などと使われるが、八瀬童子もその馬の骨であった。
              
「 さて・・・・・、絹笠を掛けるか・・・・・ 」
  そう言うと富造は、脇にいる竹原五郎をチラリと見た。
  あらかじめ住職には許しを乞うている。おもむろに五郎は、笈の中から白絹の一枚取り出した。そして富造はその白絹で、さも虚空蔵菩薩を包み隠すかのように包んだ。
「 一時間ほど・・・・・、この状態を保たねばならない 」
  その言葉が合図なのか、二人は法起寺へと向かった。
  法起寺(ほうきじ)は、法輪寺と同じ聖徳宗の寺院。斑鳩町岡本にある。
  その岡にあるため、古くは岡本寺、池後寺(いけじりでら)と呼ばれた。山号は「岡本山」。ただしこれは、奈良時代以前創建の寺院にはもともと山号はなく、後世付したものである。この寺院は聖徳太子建立七大寺の一つに数えられるが、寺の完成は太子が没して数十年後のことであった。富造にとってはこの寺院の位置が重要であった。
「 北緯34度37分22.75秒 東経135度44分16.40秒 」
  長年の親しみもあり、富造は「 ほっきじ 」と読む。この法起寺の位置から北に直線を引くと、京都市北部の桟敷ヶ岳とが結ばれ真南北に向かい合う関係になる。
  三重塔をみつめる二人はしばらく境内に佇んでいた。
  火中の栗を拾うという例えがある。猫が猿におだてられ、炉で焼けている栗を四苦八苦して拾わされる話だ。
  これは、お人好しを戒める寓話ともなっている。だがこれは、身を捨てて難儀を背負った話ともなろう。
                       
「 さて、火中の、馬の骨を拾うぞ・・・・・! 」
  見る側の五郎は、興ざめを通りこして呆れた。しかし、倒れた古老の大樹の切り株からも、新しい芽が吹くことを富造は知っている。創建当時の建築で現存するものは三重塔のみである。その三重塔の建立時期、および寺の建立経緯については、『 聖徳太子伝私記 』(仁治3年・1242年の顕真著)という中世の記録に引用されて「 法起寺三重塔露盤銘 」の史料をよりどころとする。
  それによれば、聖徳太子は推古天皇30年(622年)の臨終に際し、山背大兄王に遺言して、岡本宮を寺院に改められることを命じている。そして富造は広く境内と連なる景観を見渡した。佇む法起寺は、法隆寺東院の北東方の山裾にある。さらに、京都の北山に桟敷ヶ岳(さじきがだけ)という山がある。
  この山は伝説のある山で、王位継承の争いに敗れた惟喬親王(これたかしんのう)がこの山に桟敷を作って京の街を眺めた。
  山名の由来はそこにある。
  ここ桟敷ヶ岳は北山の奥地だけあって、今の季節、山頂付近の樹木はやっと芽吹き始めたばかりであろう。惟喬親王が京都北山に隠棲の時、桟敷ヶ岳山頂より京の都を眺め、懐かしみ、小亭いわゆる桟敷を建てさせた。建てたのが阿部家の祖先らであった。
「 惟喬親王は聡明なお方であったようだ・・・・・ 」
  父の愛情もことのほか深く、皇太子になる筈のところ、当時、権勢高い藤原良房の娘で藤原明子が、第4皇子惟仁親王を誕生させると、天皇は良房をはばかられて、生後9ケ月の惟仁(これひと)親王を皇太子とされました。この方がのちの第56代清和天皇となられた。
  さて、惟喬親王は858年(天安2年)、清和天皇の即位に先立って太宰権帥に任命され、その後は太宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守などを歴任され、872年(貞観14年)、病のために出家なさり、比叡山麓の小野の地に隠棲された。それ以後、惟喬親王は時勢を観察され、山崎・水無瀬みなせに閑居し、河州交野で紀有常(紀名虎の二男)在原業平(紀有常の娘を妻とする)らと観桜されている。さらに京都雲林院の傍らにしばらく新居を構えて住まわれた。さらにその後、江州・小椋庄へ移られ、轆轤ろくろを開発して、緒山の木地屋に使用を教えられた。その間、阿部富造の先祖らが従事し、以後阿部家では、惟喬親王を轆轤の始祖として崇拝をし続けてきた。 都に戻られてからの親王は、洛北の大原、雲ケ畑、二ノ瀬、小野郷・大森にと隠栖され、貞観14年7月11日(872年)疾に寝て、仏に帰依し素覚浄念と号された。
  そのように聞かされてきた祖先の声が『伊勢物語』の中につづられている。
「むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に宮ありけり。年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける。その時、右の馬頭なりける人を、常に率ておはしましけり。時世経て久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩はねむごろにもせで酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、上中下みな歌よみけり。馬頭なりける人のよめる・・・・・ 」
  阿部富造は、その「 馬頭なりける人の 」という祖先の人の影をそっと泛かべた。
  以前から探しあぐねていた敷地がある。
  八方手を尽くした。だが輪郭ほどの消息しか掴めていない。
  十三参りの帰路、後ろを振り返るようなことはしていないと思う。嵯峨野の法輪寺で授かった智恵を使い尽くすほど働かせたかと問えばそれほどの自信もないのだが、返さなければならないというほどの罰あたりもない。 富造にはその未探索が心遺しで、半ばその決着を諦める高齢の息切れが何とももどかしくある。未だ埋め得ないでいる京都市井図の赤い丸囲いの部分が泛かんでいた。惟喬親王が出家される以前に住んでいたのは、大炊御門(おおいみかど)大路の南、烏丸(からすま)小路の西詰まりであったはずだ。そう伝えられてはいる。
  親王の没後、その広い邸宅は、藤原実頼(さねより)から実頼の孫で養子の藤原実資(さねすけ)へ、そして、実資の娘の千古へと伝領されていく。もとは親王の御所であって「 小野の宮 」と呼ばれた。しかし、どのような経緯で藤原氏の物になったのかは明らかでない。富造にはそこが、どうにも不可思議なのだ。いくら阿部家の伝承を遡って漁(あさ)るも確たる先の見通しがない。隔世にいつしか欠落したようである。



「 ああ・・・・・、あれは・・・・・むかしおとこ・・・・・ 」
  法起寺(ほうきじ)の三重塔の上に薄暗い雲がのっぺりとある。流れようとはしないその雲と、真下にある甍(いらか)との空間が少し揺れるような気がした。どうやら空気だけは動いているのであろう。しかし富造がよくみると、燻銀の甍が、じんわりと炎立てるように見える。すると雲と甍のそこに挟まれたかのように在原業平(ありわらのなりひら)の姿が泛かんできた。
  何とも雅なその馬上の男こそ、伊勢物語の「 馬頭なりける人の 」姿であった。
「 忘れては夢かとぞ思う思ひきや 雪ふみわけて君をみんとは 」
  と、甍の上の浮雲で、その男が歌を詠んでいる。その歌は、親王と縁深い在原業平が、冬の一日訪ねた時のものである。親王は「 夢かとも何か思はむ浮世をば そむかざりけむ程ぞくやしき 」と返歌された。在原業平とは伊勢物語で「むかしおとこ」として語られる主人公である。その在原業平が心からお仕えしていた方こそが惟喬親王であった。
  在原業平は「薬子の変」を起こした平城天皇の第一皇子・阿保あぼ親王の第五子として天長2年(825年)に生まれた。
  惟喬親王よりは19歳年上であったが、業平の義父(紀有常)と惟喬親王の母(紀静子)が ともに紀名虎(きのなとら)の子供で 兄妹の関係にあったことなどから、藤原氏の圧倒的な勢力のもと、同じく不遇を託っていた業平は、紀有常らとともに 惟喬親王に仕えた。業平はその無聊のサロンで和歌に親しむことにより、親王の無聊さを慰めでもするかのように仕えた。
  主人は28才の時、剃髪して出家し「 小野の里 」に幽居する。
  伊勢物語に描かれる時の人々は、そんな親王を「 水無瀬の宮 」「 小野の宮 」などと称した。その親王は御在世中、小椋庄に金竜寺、雲ケ畑字中畑に高雲寺(惟喬般若)、大森字東河内に安楽寺、長福寺を建立されて、東河内で寛平9年(897年)54歳で薨去される。
御陵墓は左京区大原上野町と北区大森東町にある。
「 伊勢物語は、それ以後の古典作品に大きな影響を与えた歌物語でもあるね・・・・・ 」
  どうにも聞かされる話が感慨深い虎哉は、目尻を指先でつつきながらそう言った。
  源氏物語もその例外ではない。源氏物語には伊勢物語からの引き歌が多くある。内容にも伊勢物語を意識して書かれたと思われる箇所が散見される。そう虎哉が口を挿むと、扇太郎はポンと膝を鳴らした。



「 大鏡の内容にも、・・・・・ありますよねッ 」
  と、そういう扇太郎が持ち出したのは、裏書きの話だ。大鏡の裏書には、文徳天皇が惟喬親王を皇太子にと希望されながらも 周囲の反対をはばかられ、また、右大臣藤原良房に気を遣われて、その娘・明子(あきらけいこ・染殿后)所生の惟仁(これひと)親王(後の清和天皇)を皇太子に立てられたことが伝えられている。
「 平家物語だって・・・・・、しかりだ 」
  と、虎哉はさらにし返した。江談抄や平家物語には、立太子を巡って、惟喬親王の母方である紀氏が惟喬親王を立てて真済僧正を、また、藤原氏が惟仁親王を擁して真雅僧正を、それぞれ祈祷僧に起用し、死力が尽くされた。という話まで伝えられている。虎哉はそこらを丁寧に解説した。こうした伝承が後世に度々発生するほどに、生母「 紀名虎(きのなとら)の娘静子」の出自の低さにもかかわらず、惟喬親王への信望が高かったことが覗えるのである。
「 五郎・・・・・、みくにのまち、をそこに据えてくれないか 」
  そう言って、富造は三重塔の角下を指さした。そして五郎は指された裏鬼門の角へとすばやく動いた。その角が東大寺に対する裏鬼門であることを、すでに五郎も心得ていた。まずその封印を解き外す必要があった。そうせねば新たな封じ手が効かない。そこまでは五郎にも解る。しかし、角にこれをどう据えてよいのかが見当もつかない。木彫りの椀を手に握る五郎は、角隅に立つもたゞ足踏みをした。
「 ところで雨田博士・・・、今夜お会いになるM・モンテネグロ氏、それは日本刀の件ですよね!・・・・・ 」
  と、流れを絶って挿んだ扇太郎の言葉が、虎哉には突飛だった。
「 そろそろ・・・・・、その御霊太刀のことに触れますが・・・・・ 」
  さも神妙な顔をして扇太郎は虎哉を見た。そして香織の顔色もみた。
「 ごれいたち・・・・・? 」
「そうです・・・・・、御霊太刀です。お探しの・・・・・! 」
  ハッと虎哉はしたが、微妙な間合いの意外な外されように、妙にぼんやりともさせられた。
「 椀の底を逆さに、地に伏せるようにして角に据えてくれ。そうして動かぬよう両手で押さえといてくれ! 」
  何かに覆い被せるかのようにして五郎は木彫りの椀を角に据えた。するとその椀の正面に富造は晴明桔梗の護符を貼った。
  紋様には呪文が記されている。
  それは、急急如律令の呪文を文字で書きつけた呪符である。その急急如律令とは元来、中国漢代の公文書の末尾に書かれた決り文句で「 急いで律令(法律)の如く行え 」の意であるが、それを転じて「 早々に退散せよ 」の意で悪鬼を払う呪文とされた。それによってすでに五郎も気づかぬ内に、東大寺の裏鬼門封じは解除されている。次に富造は太上神仙鎮宅霊符を加えた。
  この霊符を司る神を鎮宅霊符神というが、それは玄武を人格神化した北斗北辰信仰の客体である。京都行願寺(革堂)から出されたこの霊符を祭ることで、すでに南北の運気が開かれたことになる。
  そうして次に「 式神(しきがみ) 」を呼び出すために、富造は禹歩(うほ)を始めた。
「 ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・・・ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・・・ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・・・ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・・・夜芸速(やぎはや)の十拳剣(とつかのつるぎ)此れ火産霊(ほむすび)と成り 」
  神威の発揮を強く求めるために、富造は禹歩に合わせて呪文を唱えた。
  しばらくは法起寺の境内をその富造の呪文が地を祓うごとく舞い立っていた。
  椀を押さえ続ける五郎を巻くように舞い廻っていた。足で大地を踏みしめて、呪文を唱えながら、富造は千鳥足様に前進する。その禹歩とは、歩く呪法を指す。阿部家伝承の基本は、北斗七星の柄杓方を象ってジグザグに歩くものであった。それは魔を祓い地を鎮め福を招くことを狙いとする。この起源は、葛洪『抱朴子』に、薬草を取りに山へ踏み入る際に踏むべき歩みとして記されている。
  奇門遁甲における方術部門(法奇門)では、その術を成功させるためにこれを行った。
「五郎・・・・・。さて・・・・・その椀を表返しに直してくれ。もう手を放してもよい。手を放したら静かに声を立てずに寺の外で待て。出たら門のところで般若心経を唱えてくれ。俺が後を終えて門を出るまで・・・・・ 」
  そう言って五郎の姿が消えるのを待った富造は、また新たな呪文を唱えはじめた。
「 イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・・・イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・・・イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・・・石楠(いわくす)の 船に鳴れしも雷(いかずち)の布都(たまふり)・・・・・ 」
  長い呪文であった。唱えながら富造は神威の顕れを静かに待っていた。
  これを反閇(へんぱい)という。この秘伝だけは人知れず密かに行わねばならない。富造の額は汗を滲ませていた。反閇とは、道中の除災を目的として出立時に門出を祓う呪法である。また自分自身のために行うこともあるが、その多くは天皇や摂関家への奉仕として行われた。その反閇では、まず最初に玉女を呼び出して目的を申し述べる。
  呼び出すときにはやはり禹歩を踏む。最後は6歩を歩いて、そのまま振り返らずに出発する。家伝の掟(おきて)である、その詰めの6歩を踏み終えた富造は、もう何事もなかったかのよに静かに門前へと向かった。門前で心経を唱え続けていた五郎は、その富造が門を出て、立ち止まることもなく法起寺へと向かう後ろ姿が消え去るのを待ってピタリと般若心経を止めた。
  陰陽道には「 魂清浄 」という呪文がある。魂清浄を唱えることで御魂の輝きの増やし、魂の正しい位置への鎮まりや、心と精神面の安定を整える。五郎はその呪文を唱えながら富造の後を追った。
「 一魂清浄・二魂清浄・三魂清浄・四魂清浄・五魂清浄・六魂清浄・七魂清浄・八魂清浄・九魂清浄・十魂清浄 」
  五郎はそう唱えながら、腹の底より息を長く吐いた。 陰陽道に触れると、不意に霊体に憑依されてしまうことがある。気の流れを変えた。奈良も同じなのだが、平安時代は、平安という言葉とは裏腹に、闇と迷信が支配した恐ろしい時代だった。現在の価値観では到底計り知ることの出来ぬ感覚が根づいていた。遺体の処理にしても現代とは、だいぶ異なるものであった。
  人が死ぬとそのまま川に流したり、一か所に集められて放置されるのである。もし、疫病が流行ろうものなら、人がバタバタと死に、たちまち、どこもかしこも死体だらけとなる。それが一つには陰陽道がこの世生まれ出た背景であった。
  何千何万という死体が方々に山積みにされ、野犬が人間の手足の一部をくわえて、街中を走り回るという身の毛もよだつ光景が展開されるのである。鴨川は、遺体を水葬にする場所と変わり、清水寺は遺体の集積所に成り果てた。
  雨が降って水かさが増すと、半分腐りかけて死蝋化した死体が、プカプカと民家の床下にまで漂って来るのである。そして、災害や疫病の大流行などは、恨みを残して死んだ人間の怨霊や悪霊の祟りであり、わけの分からぬ奇怪な自然現象は、物の怪など妖怪変化の起こす仕業であると信じられるようになっていった。
  こうして、人々は、闇におびえ、ないはずのものに恐怖するようになった。
  貴賎の区別なく、人々はさまざまな魔よけの儀式を生活に取り入れるようになる。大きな屋敷では、悪霊や物の怪が入り込み、人に取り憑くことがないように、随身(ずいじん・護衛の者)が定期的に弓の弦をはじいて大声を上げるという呪いなどが夜通し繰り返されていた。
  そういう時代を阿部一族をはじめ八瀬の童子は継ぎ継ぎにくぐり抜けてきた。


「 ああ・・・・・、秘太刀(みくにのまち)・・・・・が空を翔けた・・・・・! 」
  再び法輪寺の境内に立った富造は、そう五郎に呟くと、静かに閉じた眼にその秘太刀を泛かばせた。
  惟喬親王の母方(紀氏)の末裔である星野市正紀茂光が、紀名虎(祖父)の秘蔵していた御剣を、親王が御寵愛されていたことを知り、これを親王の御霊代として奉祀したと伝えられている。
「 その御霊太刀の銘を・・・・・、みくにのまち、という 」
  富造はそう聞かされていた。
  惟喬親王には兼覧(かねみ)王と呼ばれた息子があった。神祇伯、宮内卿などを歴任し古今集にも歌を残している。
  その兼覧王の娘は兼覧かねみ王女とも呼ばれて、これもまた和歌をよくし、後撰集に一首が残っている。富造は、この王女あたりから、藤原実頼へと親王の邸が伝領されたのではないかと思っている。だがこれは推測の域を出るものではない。しかし阿部家の家伝によって確かなことは、惟喬親王には「 みくにのまち 」と呼ばれた娘があったことだ。
  星野市正紀茂光は御剣を親王の御霊代として祀るに当たり、その秘宝の娘の名を御霊太刀の銘として偲ばせた。それが富造が眼に泛かばせる「 秘太刀(みくにのまち)」であった。
「 このとき・・・・・、富造さんは、馬の骨を拾った、とそう確信したはずです 」
  という、扇太郎のその眼は、夢でも叶ったかのようにキラりと輝いている。
  しかしそう見える虎哉は、未だ狐にでも耳を抓まれて動けぬ悟りの悪い坊主のようだ。
「 拾ったことになるのか・・・・・? 」
  ただ空を切るような始末に、眼がくるりとぼんやりとする。
「 ええ、拾ったことになりますね。言霊(ことだま)の世界では・・・・・! 」
  と、念を押されても、巨漢に伍(ご)して抜くにはおのれの刀が鈍(なまくら)なのか、虎哉は竹光でも握らせられたような心もちであった。しかし、香織は、うんうんと、やはり眼を輝かせて何度も頷いている。いずれも得体の知れぬ連中だと思われた。
  どうやら人が伍して掛れる世間話ではなさそうだ。

「 しかし、そんなことよりも、惟喬親王についての最大の謎は、なぜ惟喬親王が木地屋(きじや)師の業祖とされるに至ったのかということですよね。八瀬の集落は、そのことを固く語ろうとしません。理論立てについては障りとして始末されている。そこを・・・・・ 」
  扇太郎は一つ長い溜息をついた。
  そうしておもむろに香織の顔をみて微笑んだ。おそらく香織に木地屋師の匂いを感じ取れるのであろう。虎哉も同じ匂いを嗅いでいる。それが生地屋師の匂いかどうか分からないが、京都の山端の人々にはたしかに森の匂いを放つ人が多い。あるいはそれは、森深いところの土の匂いではないかと以前から感じていた。木地屋は「 ろくろ 」を用いて木材を削り、鉢や盆などの木製品を作る人たちであり、中世には、山中に原材を求めて、山から山へと渡り歩いた漂泊の山人たちであった。
  彼らは、惟喬親王が藤原氏から差し向けられた刺客を逃れて、滋賀県神崎郡永源寺町の山奥の小椋谷(おぐらだに)に隠れ、ここで里人たちに「ろくろ」の技術を教え、これより木地屋は始まったとしている。もとよりこれは史実ではなかろう。しかし今、小椋谷の金龍寺は親王の御所「高松御所」であったとして、親王の木像なるものを伝え、全国の木地屋たちの総名簿である「 氏子狩(うじこがり)帳」を蔵し、筒井八幡宮は「 筒井公文所(くもんところ)」と称して「木地屋木札」「通行手形」を発行する。そして小椋谷よりも更に山奥の君ガ畑にある「 皇太器地祖神社 」は惟喬親王を祀る。
  各地の木地屋たちは、しばしば親王の随身従者の末裔と称し、「 木地屋文書 」と云われる木地屋の由緒書や、親王が与えたとする諸役御免の綸旨を所有し、墓には皇室の紋である菊水紋を用いるのだ。これらは、非定住民であるために下賤視された彼らが、定住民たちの軽蔑の目への反発として作り出したものであると共に、原木伐採の自由と、山中通行の自由を得るためのものであることは論ずるまでもない。民俗学的には虎哉はそう考えてきた。
「 しかし・・・・・、なぜここで惟喬親王の名が使われたのか・・・・・ 」
  と、考えると、そこは一定の領域を超えた、学識では割れぬ異界の摂理でもあるようだ。
  中世、小野巫女と呼ばれた「 歩き巫女 」たちがいて、「小野神」という神に対する信仰を全国に流布したことに起因するという見解が、あるといえばある。これはすなわち、惟喬親王が隠棲した山城愛宕郡の小野とは、比叡山を隔てて東側、近江国滋賀郡にも小野という所がある。いずれも小野氏と称される人たちの住んだ所である。この琵琶湖湖畔の小野に住む小野氏の人たちは、自分たちの祖先である「 タガネツキオオミ 」( 鏨着大使主、または米餅搗大使主 )を「小野神」として信仰した。この神は「タガネ」という文字から鍛冶の神と考えられている。
  その小野氏の女たちが小野巫女として、近江の製鉄地域などに小野神信仰を広めていった。
  小野小町や小野猿丸の伝説を全国に広めたのも彼女らであるという。そうした鍛冶師も木地師もいずれも山の民である。またその分布地域も重なっている。その木地師たちが、その信仰を受け入れた時、「小野神」と「小野宮」とは習合して、そして、小野宮惟喬親王が木地師たちの業祖とされるに至ったと見立てられている。
「 しかし・・・・・、それにしても何か漠々とした話ではあるがね・・・・・ 」
  日本史には虚と実が、じつは混在している。古文書の存在のついては、歴史過程を査証する手本となるかも知れないが「 不都合な過去を消す為 」と言う政治的効用も在り、「 必ずしも事実とは受け取れないもの 」と心得るべきである。古典もそれと同様な側面がある。そう改めて思う虎哉もまた深い溜息の一つもつきたくなる。
「 しかし・・・・・、秋子さんご存じすよね。彼女こそ、小野巫女です。そうだよね香織ちゃん・・・・・ 」
  そう促されて耳にした香織は、妙にぼんやりとしていた。
  だが、しだいに、うっとりして虎哉に向き直ると、丸い瞳をほんのりと潤ませている。
  その潤む瞳の湖(うみ)では、秋子の吹く篠笛の音がさざ波のように揺らいでいた。






                                      

                        
       



 秋子の笛









ジャスト・ロード・ワン  No.26

2013-10-06 | 小説








 
      
                            






                     




    )  午の骨  ①  Umanohone


  昭和20年の秋に降りたって、その上を踏むことを許されてはいないことが、唯一老人にはこころの救いであり、千鳥ヶ淵の花影が散り惜しむかのようでじつに嬉しいことであった。その東京の夜は満月だった。
  夜天の一画は度肝を抜いてくれた。阿部富造は、李白の煌々たる満月に出会えたのである。
  少し前までは眼の前を通り雨が走っていたのに、一転、雲を切り裂くような夜空が出現したのだった。
  煌々たる月光の下にいると、さて、地球という生きモノは、何者なのかという気にさせられるものである。富造は天体が及ぼすさまざまな影響のうち、とくに月齢が人間にもたらす効能をとりあげて、ふだん気がつかないような「 就寝する社会 」ともいうべきに焦点をあてた。多分やはり人間は気づかないだろうが、その就寝する社会の夜道を人間は常に走り続けている。しかも月光のある限り、それは永遠の歩行なのだ。
「 月は照らしているときが月だけなのではなく、大気にひそんでいる月光こそが地上に影響を与えている。そして、そこに月齢が大きく関与しているのだ・・・・・ 」
  月齢と動植物とに蜜月関係があるとすると、人間の生活や社会の循環は月に無縁ではいられない。吉兆のみつる機会の判断を、阿部家では、平安このかた「 月がふくらんでいくとき 」がいいとされてきた。




  国会議事堂前の都営バス停から、捧げ銃(つつ)で見送られるなど知る由(よし)もない日曜日の観光リムジンである。おそらく新橋方面にでも消え去るであろうセルシオの後姿を老人は陸軍式に確認すると、くるりと霞ヶ関の高層から背を返して、もう振り返ることもなく並木道の左右に広がる洋式庭園へと歩きはじめた。
                                   

                                   

「 東京の秋はいつも埃(ほこり)っぽく霞んでいる・・・・・ 」
  阿部富造は、部屋のドアを閉めながら帽子をかぶり、水玉の黒い蝶ネクタイのふくらみを、革手袋をはめた手でちょっと直した。そうした午後二時の、この頃まではまだ雨は降っていなかったが、空を見上げると富造は小一時間前のことを思った。
 道玄坂上交番前から首都高速三号の高架下に向かう南平台までは、緩(ゆる)やかな坂になっている。その坂道を下る途中で、富造は何台かのタクシーを見送ったあとで、来かゝったリムジンと思えるセルシオに手をあげて止めた。
                        
「 おたく日の丸リムジンだよね。今日予約していた阿部だが・・・・・ 」
「 えっ、・・・・・おたく様が・・・・・ 」
  運転手は、さも長い信号待ちの時間に乗客探しなどするようなつき刺した視線で長々と老人の風体を眺めた。
「 たしか三日前のご予約では、この先の東急電鉄渋谷ビル前だと・・・・・ 」
  予約で指定された場所とは違うからだ。
「 あゝ、たしかに昨日まではね。だが・・・・ 」
  このとき富造はその先の経緯(いきさつ)を説明することが少し億劫(おっくう)であった。昨夜遅く、急に宿泊先を変更することにした。少々のトラブルでそうなってしまったが、今、その内容まで運転手に語る気にはなれなかった。
  長い沈黙があった後に、運転手はようやく降りてきて後部左ドアを開いた。
「 とにかく、予約した阿部だ。予定通り、お願いしたコースで頼むよ・・・・・ 」
  たゞ、その言葉だけを返した。
  そして車は玉川通りから東急南口の交差点を過ぎ、渋谷警察署前で左折すると、青山通りをたゞひたすらに直進した。
「 まもなく三宅坂ですが、桜田門、半蔵門どちらからなさいますか? 」
「 時計回りとは逆に回ってはくれないか・・・・・ 」
  遠目からもあざやかに輝く黒いセルシオは、内堀通りを桜田門へと走った。
「 申し訳ないが、見終えるまで語りかけないで欲しい。少し考え事をしたいのだ。無愛想で悪いが、それとスピードだが、ゆっくりと。できたら時速十キロ程度がいゝ。何なら時々止めてくれてもいゝ。その他は君の判断にすべてお任せするよ・・・・・ 」
  あらかじめポイントの詳細は予約する際に伝え終えていた。
  二時間ほどの、ガイド無し案内で頼んである。時計回りとは逆だから時を巻き戻せそうな気になる。静かに帽子をとって脇に置いたこのとき、富造老人は自身の髪の上に、肩に、背に、梢をはなれて土に着くまでの清浄で白いサクラの花びらをとまらせたいと願っていた。
  かって軍人として生き、敗戦の虚しさを体験した老人にとって、桜とはやはり自身の棺(ひつぎ)に納めねばならぬ永遠の花なのである。阿部という家柄がそのようであった。そう扇太郎の語る富造という男の気質を聞いていると、虎哉は富造という男の体臭もまた、香織、御所谷の五郎らが感じさせる体臭に何かしら似て、秋に匂い舞う桜がどことなく共通させるものを感じた。

                                



「 1988年4月24日 」
  阿部富造はこの日の出来事をしっかりと眼に焼きつけていた。
  それは昭和天皇、生涯最後の誕生日記者会見がおこなわれた日である。記者会見というのは「 4月29日の朝刊 」に掲載するために、実際には誕生日の前におこなわれることに毎年そうなっていた。
  1988年は「4月24日」であった。阿部富造は、その記者会見の言葉を一字一句欠かす事なく暗記している。山端の阿部一族は、毎年そうやってきた。それは理屈ではない阿部家に生まれた富造が懐にする生理なのだ。
「 黙礼すると富造はその文言をしずかに泛かべた・・・・・ 」
  爽やかな陽春の気候である。気温も20度くらいであろうか。林鳥亭南側の庭に向かって中央に陛下の御席が設けられた。
  その御席に向かい合ってやゝ細長い和室の中に、廊下まではみだして二列に15社、30人の椅子席が用意されていた。奥の床の間の棚には、明治21年に島津忠義が献上した薩摩焼子など五点の調度品が飾られ、床には清風作の玳白磁花瓶が置かれ、堂本印象画千代田城の画幅が掛けられていた。
  亭の南面に広がる芝生は澄みきった空からの光を浴びて輝いている。芝生の西側にハクショウの成木が一本立っていた。その傍らの桐が花を開いている。陛下は昨日の日曜日の午前のご散策で、桜林のクサノオウの花の群落をご覧になった後、竹林でウラシマソウをご覧になり、竹林の脇の門から吹上の外へお出になられて、林鳥亭までいらっしゃってハクショウをご覧になられたらしい。



「 午後3時10分前に吹上御所御車寄せをお車でお発ちになって、3時5分前に林鳥亭にお着きになる。お席につかれるとすぐ、3時ちょうどに質問がはじめられた・・・・・ 」
  幹事記者「 昨年の手術から半年余りたちましたが、最近のご体調はいかがでしょうか。ご健康についてどのようなことを心がけていらっしゃいますか。ご回復に伴いご公務が増えていますが、ご感想などお聞かせ下さい 」
  陛下「 体調は良く回復したし、四月に入ってからもほとんど毎日宮殿や生研に出かけていますが一向疲れる様子もなく、大分余裕があると思いますが、侍医の意見を尊重して、無理のないように努めています 」
  笠原記者「 産経新聞の笠原と申しますが、陛下はもちろん昨年の手術は初めてのご経験であったのですけれども、手術が決定した時陛下はどうお思いでしたか 」

                                

  陛下「 えー、医者を信用して、何ともそういうことは感じませんでした 」
  朝比奈記者「 毎日新聞の朝比奈でございますが、陛下、最近の皇后さまのご体調はいかがでございますか 」
  陛下「 皇后は腰の痛みは安定したようでありますが、まだ膝の故障があるので、歩くのに不自由でありますから、女官の介添えが必要なのであります。その他のことについては落ち着いたようであります 」
  幹事記者「 御生研での研究が再開されましたが、ヒドロゾアの研究や『皇居の植物』の執筆などについてご苦心された点などをお聞かせ下さい 」
  陛下「 えー、普通の学者は研究に専念することができますが、私の立場では、公務の余暇にしなければならないので、研究がどうしても断続的になりますから、成果をまとめるためには長い年月が必要であります。その長い間には分類の進歩や材料の進歩のために、今までの研究を見直す必要があります。材料の、材料や情報の入手には困難な時もあります。出版については、陛下の出版については、えー、準備中でありますから、ここでは話はできません。なお、私は語学力が少ないために十分の研究ができないのであります。植物の場合には、林道等の開発のために植物が消失することもありますが、多くの場合はその位置にあるので観察は便利であります。たとえば、佐藤人事院総裁が城山付近で発見したアズマシライトソウが林道の開発のために消失する危険が非常に大きかったので、人事院総裁は私に寄贈してくれましたので、皇居にその植物を植えたのでありますが、幸いに皇居の庭の様子が現地の林相と非常に良く似ていましたので、生長が非常に良くあります。私が人事院総裁と一緒に散歩した時に人事院総裁が悲しみと共に喜びを私に語ってくれました。動物の方は、どうしても動くことが多いので観察はなかなか困難であります。健康のために磯採集や海底の観察ができないこともあります。えー、えー、できないこともあります 」
  こうして陛下は、とつとつと、時々考えこまれるように途切れながらお話をなされた。
  そして質問は大戦のことに触れた。
  幹事記者「 先日、五十年以上にわたって陛下にお仕えした徳川さんが退任され、退任の記者会見で終戦直前の御前会議や録音盤事件の思い出を印象深い思い出として語られましたが、陛下の徳川さんをめぐる思い出をお聞かせ下さい 」
  陛下「 えー、えー、この徳川侍従長に対しては思い出が深いのでありますが、特に終戦の時に、録音盤をよく守ってくれたこと、戦後全国を巡遊した時に岐阜の付近で歓迎の人波にもまれて、肋骨を折ったことがあります。徳川侍従長はよく裏方の勤務に精励してくれたことを私は感謝しています。また、ヨーロッパやアメリカの親善訪問の準備のために、語学力を利用してその準備を良くしてくれたので親善訪問がだいたい成功したように思われます 」
  幹事記者「 今年は陛下が即位式をされてから六十年目に当たります。この間、いちばん大きな出来事は先の大戦だったと思います。陛下は大戦について、これまでにも、お考えを示されていますが、今、改めて大戦についてお考えをお聞かせください 」
  陛下「 えー、前のことですが、なおつけ加えておきたいことは、侍従長の年齢のためにこのたび辞めることになりまして私は非常に残念に思っています。今の質問に対しては、何と言っても、大戦のことが一番厭な思い出であります。戦後国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後共そのことを国民が良く忘れずに平和を守ってくれることを期待しています 」
  朝比奈記者「 陛下、先の大戦のことでございますが、昭和の初めから自分の国が戦争に突き進んでしまったわけですが、その時々に陛下は大変にそのことにお心を痛められたと聞いておりますが、今戦後四十数年を経て、日本が戦争に進んでしまった最大の原因は何だったというふうにお考えでいらっしゃいますでしょうか 」
  陛下「 えー、そのことは、えー、思想の、人物の批判とかそういうものが、えー、加わりますから、今ここで述べることは避けたいと思っています 」
  幹事記者「 陛下は昨年、沖縄県民に、健康が回復したらあらためて訪問したいとのお言葉を示されました。現在大変お元気そうにお見受けしますが、沖縄訪問について、今のお気持ちをお聞かせ下さい 」
  陛下「 えー、私が病気のために、沖縄の旅行を中止したことを今も残念に思っていますが、えー、健康が回復したらばなるべく早い時に旅行したい考えを述べましたが、今日もその精神につきましては何にも変わっていません 」
  幹事記者「 沖縄で一番になさりたいことは何でしょうか 」
  陛下「 そういうことは、えー、えー、今後の県の希望もありますから、そういうこと、将来のことについては述べることは躊躇したいと思います 」
  記者会からの質問はあらかじめ調整して届けられており、卜部侍従が打ち合わせに上がっておよそのお答えの内容はできていたのだが、陛下は幹事の記者の質問に対して漏らされることもなく、少し余分につけ加えられたりして、無難にお答えになられた。幹事以外の記者からの突然の質問にも当意即妙にお答えになっておられる。
「 ほゞ予定どおり、3時16分に会見は終了した・・・・・ 」
  そして3時20分に林鳥亭をお発ちになられた。
  この日は、地主山の辺りでコジュケイの大きな啼き声が聞こえていたという。御所の東玄関の前には白い花が泛かんでいる。二株のシロヤマブキが枝いっぱいに満開の白花を咲かせていた。



「 そして天皇陛下は29日、一般参賀のあと、宮殿・豊明殿で午後0時50分から開かれた宴会の儀で、気分が悪くなられ、途中退席された。体調に異常は認められなかったが、午後4時からの駐日各国大使らとの茶会は大事をとって欠席され、皇太子殿下が代わって祝賀をお受けになった。天皇陛下が公式の席で途中退席されたのは、これが初めてで、宮内庁の発表によると、陛下は食事中に少し食べ物を戻されたため予定より15分早い午後1時15分、歩いて退席された・・・・・ 」
  この発表を聞いたとき、阿部富造は有り得てはならない昭和の最後を予感し、近くその日が来ることを運命づけられた立場の者として悟ったのである。そうした抱いてはならぬ予感から富造は、陛下存命の内に、昭和の時間を巻き戻すために京都から宮城まで出向いてきた。もっとも未だご存命であらせるから平癒平安が第一義ではあるが、この務めはすでに亡き長兄倫一郎の名代を果すことで、子代(こしろ)としての家長が責務を担い継ぐ大義を秘めていた。
  その子代とは、后妃の皇子・王子の資養にあてられた部民である。
  大化前代、大和朝廷に服属した地方首長の領有民の一部を割いて、朝廷の経済的基盤として設定した部(べ)の一族は孫子代々、天皇・后妃・皇子などの王名や宮号を担い、その生活の資養にあたってきた。阿部富造もそうした子代の家に生まれた宿命をもつ。
「 これで・・・・・よかったのでしょうか・・・・・ 」
  誕生日記者会見での文言を、文殊の五字呪のように唱えた阿部富造は、至極当然のごとく皇居外堀の空気と融け合うかの影となっている。
その富造はおもむろに上を仰いで長兄倫一郎の面影を泛かべた。
  やはりその眼には、倫一郎に連れられて上野山から展望した東京がじつに広大であった14歳当時のよき思い出がある。時代は東京大震災の直後であった。またそれは富造が帝国陸軍人となる第一歩でもあった。
  父秋一郎も未だ健悟であったので、嫡男の倫一郎は東京に出て役人となった。その兄の助勢で富造もまた東京の地を踏んだ。そこには五体を奮い立たせた兄の戒めがあった。



「 よ~く見ておけよ富造、これが今の帝府だよ。そして宮城(きゅうじょう)があれだ。維新では、士族から職も誇りも奪ってしまったではないか。この国の計画は、そうした無念の礎(いしずえ)の下にあるが、軍人が国力ではなく、つねに国民が国力である。お前がやがて軍刀を握るとはそういうことだ。その軍人は生あれど死が常だ。もし死のときは・・・・・、そのときは、国民の力のために、富造は、真っ逆さまに落ちて行け・・・・・」
  泛かべるその兄の面影が、当時と同じ言葉で語りかけてくれる。 そう戒めてくれている。
  またその兄は「 昭和天皇が、最後の最後まで戦争を避けたいと願われたことは有名な話だ。あれは昭和16年の9月だった。いよいよ開戦を決意せざるを得なくなった御前会議の席で天皇は、明治天皇の( 四方の海みなはらからと思ふ世に など波風の立ち騒ぐらむ )という御製を繰り返し奉唱されたではないか 」
  と、涙ながらにいうと肩や両腕を震わせていた。倫一郎は終戦直前に他界した。その亡き兄の涙ながらに、また富造も泣けた。
  バス停でセルシオから降りると、姦(かしまし)き夜行性はさも首都東京の宿命であるかのように振舞っている。このコスモポリタン種の温床と化した、何事につけても覚えるこの一種の危機意識を、どのように解釈し暮らしたらよいのであろうか。
  感覚的に同じものを同じ感動で眺めることができても、心の理想は全く食い違うのであるから、それは戦前の青春を知る老人にとって、自分の感覚や生き方に対する疑いでもあった。都会の姦しい最中にあって、永田町二丁目の夜だけは、いつも暗闇のようにひっそりとしている。その日もまた同じ無言の闇間だった。富造を乗せてきたセルシオが遠ざかると、日本の闇には、異国からも悪魔が渡来したことが分かる。路傍にはそんな富造が立っていた。
  この悪魔とは、すべからく世にまつらわぬモノらである。
  それは西洋の善が輸入されると、同時に、西洋の悪が輸入されるという事は、至極、当然な事だからであり、世にまつらわぬモノはそこに生まれた。日本人には、西洋と折り合えない血というものもある。そもそも、それらは大化改新前にはじまることだ。阿部の家系もそこに始まる。連綿としてやがて平安京に連なり現在は京都八瀬集落の山守の家系に連なっている。
  その原点は奈良にあった。富造は陛下誕生日記者会見の模様を奈良に居て知った。その一か月ほど前から奈良にいた。



「 よほど・・・・・、あれが・・・・・、気になるみたいだね。香織ちゃん!」
  と、ふと扇太郎は話を止めた。
「 あゝやって吊るしているのは、秋子さんなのだ・・・・・ 」
  香織は始終、赤いトウガラシの吊るしをみつめては、時々まばたきをさせていた。そして扇太郎の語り口が皇族のことに及んでくると、その眼をしだいに輝かせていたのである。
「 何や・・・・・、やはりそうなんや。せやけど・・・・・ 」
  そう答えながら香織は、言葉尻をぼんやりとさせた。
「 せやけどッて、香織ちゃんは、あれと同じものを、どこかできっと見ているはずだけどね 」
  扇太郎にはそう言える確信があった。御所谷の五郎の家にも吊るされていたはずだ。香織ならそれを見ていると思われる。扇太郎は竹原五郎の暮らす御所谷で同じものを見た。
「 五郎さんの家に吊るされていたのではないかい・・・・・ 」
  塗炭に香織の黒い眼は、大きく丸くなった。
  そう言われてみると五郎が印(いん)を切る気配の中に赤いトウガラシの吊るしが浮かんでくる。五郎は朝夕必ず印を切っていた。臨兵闘者皆陣烈在前( りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん )と唱えながら一文字につき一つの印を結んで、最後に刀印を結ぶ。その頭上に同じものが吊るしてあった。その赤い色が香織の脳裏で鮮明になる。その赤はしだいに形まで明らかに顕れた。

                               

「 雨田先生、阿部は、あの、平安の阿部清明の家系に列します。その清明は、ご存じのように平安期に始まるものではありません。原子は奈良ということになる。つまり阿部富造の阿部家は子代にして、陰陽師阿部清明の陰陽道を現在に継ぐ唯一の家系です。御所谷の五郎さんはその一脈。したがって和歌子さんも、秋子さんもその一族として生まれました・・・・・ 」
  その阿部富造には最後に訪ねたい場所があった。
  セルシオを降りた富造は、議事堂前の洋式庭園へと歩きはじめた。国会前庭庭園は、国会議事堂正門前にある庭園である。
  面積は約5万平方メートル。国会議事堂に向かって道路の左側が和式庭園の南地区、 右側が洋式庭園の北地区となっている。和式庭園の南地区はかって江戸時代は九鬼氏の屋敷で、明治になって有栖川宮邸を経て霞ヶ関離宮であった場所である。
  庭園南側の入口から入ると左側に泉水があり小さな滝から流れ落ちた水が庭園の北へと流れている。富造が目的とする場所は、北地区の洋式庭園にあった。その中心に三権分立を象徴した三面塔星型の時計塔が建てられている。
「 雨田先生、きっと日本水準原点標庫は、ご存じですよね! 」
「 えゝ・・・・・当然。佐立七次郎(さたちしちじろう)の・・・・・あれでしょうが・・・・・ 」
「 はい・・・・・、その佐立七次郎の設計した標庫です 」
  扇太郎は虎哉の顔をみて、さすがとばかりにニヤリとした。
  日本全国の統一された標高決定のための基準として、水準原点が創設されたのが明治24年(1891年)5月のことだ。
  標庫はその水準原点標を保護するために建築された。設計者はエ部大学校第一期生の佐立七次郎であった。石造で平屋建の標庫は、面積は約14㎡で、軒高約4mほどである。この中に水準原点がある。 水準原点の位置は、建物の中心である台石に取り付けた水晶板の目盛の零線の中心で、その標高は24・4140メートルと定められている。この値は明治6年から長期にわたる東京湾の潮位観測による平均海面から求めたものであった。
  富造は標庫の正面で足を止めると、じっとそれを見据えた。



  これは、軍事的な理由から全国の測量を進めた参謀本部陸地測量部がこの地に置かれていた名残である。その日本水準原点は、全国の標高の基になる。阿部の家系は代々そうした標高算出に深く関わってきた。
  一族は日本国内の標高を求め続けてくまなく山岳を渡り歩いた。これほど山を知り尽くした一族は他にない。阿部家は各地の木地師(きじし)や山窩(さんか)の労を束ねた。富造はその標準原点に向かって、九字印を唱え、印を結んでは、最後に印刀を結んだ。そうし終えた富造は、またおもむろに、そこから振り返る地へと眼差しを向けた。そこは半年前に歩いた奈良の道辺(みちのべ)である。
「 まず法隆寺駅で富造は降りた。その日のことをじっと眼に泛かべていた・・・・・ 」
  目当ての、その門がみえるところまできて「 あゝ、あれが 」とひと足、近づいてゆくのは心うれしいものである。その日はちょうど雨あがりの曇天日であった。足もとは、べったり泥で、あやうく水溜まりにはまりそうである。ついこの間まではもっと古びた門や土塀だったはずだが、と回想などして懐かしむ田舎道も、いつの間にやら、きれいに修復がなされていた。



  法隆寺あたりの畑には、一斉にやわらかな緑のえんどうの芽がのびている。えんどうの芽の愛らしさからは、するすると天にまで伸びて、やがては蝶のような花を咲かせる無限の彩りが連想されてきた。法隆寺とはあまりにも見事で、いつもそこだけで時間をとられ見疲れしてしまうのだが、あの、典麗な伽藍構成と、豊富な古美術群を堪能すれば、もう、余分な出逢いは避けて、そのまゝ戻りたくなる心境になる。しかし、そうなりつゝも、かの門だけは、富造にそっとまた手を差し伸べてくれるのであった。





  法隆寺駅は小さく軒下を控えた駅逓(えきてい)である。息づかいが絶えたように人影は少なく、さらに法隆寺までを歩く人影の無さはじつに淋しい。しかしそれは人が生臭みを忍し殺すように背を低くして暮らそうとする揺らぎでもある。おそらく、それは太子への畏(おそ)れ。それゆえに斑鳩(いかるが)の里が広大な大地となって輝きを深くする。
「 京都の失ったものが、こゝにはある・・・・・ 」
  そう思うと、曇天の空に胡蝶が白く変化して舞い踊るようなエンドウの花はどことなく愛嬌がある。その花の白さは人とふれあう極意でも気前よく披露してくれているように感じさせる。
  戦闘に不向きな土地は遮(さえぎ)りがない。阿部富造はその春泥の道を歩いた。

                             

「 手術をなさったのが、たしか昨年の9月22日、陛下は御歳86・・・・・ 」
  病名は「 慢性膵臓炎 」だと聞かされている。そう聞かされたときから富造は、近づこうとする昭和の終焉を、少なからず胸の内で温めていた。無事に越冬されて87歳となられる春の門出を寿(ことほぎ)たい。だが天命とは人の不可視、八瀬の集落では密やかな心積もりが必要であった。陛下が歴代天皇で初めての開腹手術をされたのは1987年(昭和62年)9月22日。その前夜、子代(こしろ)の富造は八瀬童子50名ほどを家に集結させて万一に備えさせた。
  その年の天皇誕生日の祝宴を陛下は体調不良から中座された。以後、体調不良が顕著となり、特に9月下旬以降、病状は急速に悪化した。9月19日には吐血されるに至る。前代未聞の開腹手術はそうした経過の悪さに決断された。非常の事態、そのため八瀬の集落では誕生日の祝宴を中座された以降、村人の華やかな振る舞いを自粛することを申し合わせた。度々比叡山に上がっては総出で陛下の平癒祈願を行っていた。
「 せやッた・・・・・。うち、まだ三つやったけど、お山ァ上がったんよう覚えとる! 」
  香織は、父増二郎に背負われて何度か比叡山に上がった暗い夜道を思い出した。
  そして年末に向かうころ富造は、12月には公務に復帰され、回復されたかに見えたが、陛下の体重が急速に減少していることを宮内庁より密かに聞かされていた。



「 お健やかそうに手を振られてはいたが・・・・・ 」
  年を越して1988年1月2日、その日は曇天に時折しぐれる例年にない肌寒い日であった。
  穏やかに感じさせた一般参賀の光景を遠巻きに確かめた富造は、京都に帰る暇もなく、その足で急ぎ奈良へと向かった。
「 阿部のお家は、八瀬童子助けはる、その長(おさ)なんや!。五郎はんは童子なんや・・・・・! 」
  と、香織はポツンと消えそうな小声をそこに足した。
  八瀬童子(やせどうじ)とは、山城国愛宕郡八瀬郷(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指す。室町時代以降は、天皇の臨時の駕輿丁も務めた。伝説では最澄(伝教大師)が使役した鬼の子孫とも伝える。寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため八瀬の童子と呼ばれた。
  比叡山諸寺の雑役に従事したほか天台座主の輿を担ぐ役割もあった。
  また、参詣者から謝礼を取り担いで登山することもあった。
  比叡山の末寺であった青蓮院を本所として八瀬の駕輿丁や杣伐夫らが結成した八瀬里座の最初の記録は寛治6年(1092年)、それが記録上確認できる最古の座とされている。延元元年(1336年)には、京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬郷13戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を取って奉護した。この功績により地租課役の永代免除の綸旨を受け、特に選ばれた八瀬童子が輿丁として朝廷に出仕し天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことを主な仕事とした。
「 明治天皇が初めて江戸に行幸した際に、八瀬童子約100名が参列していますね 」
  明治元年10月13日のことだが、扇太郎は時々そんな言葉をていねいに挿みながら語った。
  八瀬童子は、比叡山の寺領に入会権を持ち洛中での薪炭、木工品の販売に特権を認められた。永禄12年(1569年)、織田信長は八瀬郷の特権を保護する安堵状を与え、慶長8年(1603年)、江戸幕府の成立に際しても後陽成天皇が八瀬郷の特権は旧来どおりとする綸旨(りんじ)を下している。
  綸旨とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書のことだ。その綸旨の本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。
  富造は法輪寺への道を辿りながら、大正天皇崩御の報に接し、ただちに葱華輦(そうかれん)を担ぐ練習を始めた八瀬童子らの姿を想い浮かべていた。富造10歳が眼に遺している映像である。

                     

「 大正天皇の大喪儀は、霊柩を乗せた牛車を中心として組まれた葬列であったが・・・・・ 」
  その眼には、葬列はたいまつやかがり火等が照らす中を進行した残像がある。明治天皇の母親である英照皇太后の葬儀の時は、八瀬童子74名が東上、青山御所から青山坂の停留所、汽車に乗り京都駅から大宮御所まで葬送に参加した。さらに明治天皇の葬送にあたり、喪宮から葬礼場まで棺を陸海軍いずれの儀仗兵によって担がせるかをめぐって紛糾したが、その調停案として八瀬童子を葱華輦(天皇の棺を載せた輿)の輿丁とする慣習を復活させた。
  明治天皇の際には東京と京都、大正天皇の際には東京、なお、昭憲皇太后(1914年)の場合は東京と京都で葬儀に参加した。明治維新後には地租免除の特権は失われていたが、毎年地租相当額の恩賜金を支給することで旧例にならった。この恩賜金支給の例は大正天皇の葬送にあたっても踏襲された。
  阿部富造の50メートルほど後方を、とぼとぼとやってくる小柄な男の影がある。
  山法師のごとく笈(おいづる)と鳩籠を背負い、付かず離れずに一定の距離を保ちながら富造についてくる。御所谷の竹原五郎である。背負うその笈の中身は、後醍醐天皇綸旨、後柏原天皇綸旨など公武の課役免除に関わる文書、明治天皇・昭憲皇太后の大喪、大正天皇の大礼および大喪に関わる記録類であった。鳩籠には鳳羽四神(ほううししん)、青竜・朱雀・玄武・白虎の四羽の鳩がいた。
「 この四神の鳩に、陰陽呂律の陽音符を結び、陽気を四方へと放ち陰気を破り解くのだ! 」
  富造はにわかに責任のある立場に登用されたわけではない。そういう家系に生を得た。子代を継ぐ重責ときちんと向き合うことで、村落の童子らに伝えるべきものを内面に育んでいく立場なのだ。
  嫡男を亡くした阿部家は富造が継いだ。予期せぬ「穴」に落ちたときにどうするのか、常に「六(ろく)」に備えねばならなかった。つまり宀部(べんぶ)の悪あしきに亠部(なべぶた)で抑え鎮める。京都の南にある伏見稲荷大社の神は、弥生人と共存した縄文の神である。秦氏と称する渡来人が入って来て平地を稲作農業の田畑としたとき、土着の縄文人は山に逃れてその誇りを保ったのだ。そしてそういう縄文人と里の弥生人との妥協の上に稲荷の神が生まれた。
  しかし叡山に逃れた縄文人は再び山を追われる運命を経験した。
  叡山が最澄という渡来系の天皇の寵僧の仏教の根拠地になった以上、彼らは山を追われなければならなかった。
  そしてその一部は東へ滋賀県の坂本へ、一部は西へ京都市の八瀬の里へと逃れた。
  またそして西へと山を下りた人々が八瀬にて邑(むら)を結(ゆう)ことになった。八瀬の人たちは、比叡山の薪を採り、その薪を宮中へ入れ、また都で行商を行うとともに、叡山や皇室の輿舁きや警護の役をして辛うじて生計を立てていた。
  そこには八瀬の人たちを山から追い出した叡山と朝廷のせめてもの慈悲があった。御所谷は鳳羽四神の飼鳩舎、万乗(ばんじょう)の忌いみに備えその慈悲に報いた。
「 なるほど、これが鬼の子孫、その童子らを阿部家は守り続けた! 」
  扇太郎が語るにつれて虎哉には過ぎるものがある。ふつふつと柳田國男の41歳の論文に「鬼の子孫」の下りがあったことを思い出していた。その柳田國男の民俗学は山人の研究から始まっている。
  斑鳩(いかるが)を歩きながら阿部富造は山並みを飛ぶ一羽の白鳥を眼に映していた。

               





                                      

                        
       



 皇居一周 桜









ジャスト・ロード・ワン  No.25

2013-10-05 | 小説








 
      
                            






                     




    )  亡国の泡  ③  Boukokunoawa


  雨田虎哉の老いた眼に、鮮やかに闇市の光景が蘇っていた。
「 たしかにあの( 闇米という名の米は、百姓は作らない! )という前垂(まえだれ)に、阿部和歌子の気骨と、それを助太刀する佳都子の気魄が飛び跳ねていた。二人はまだ若くて懸命だった。ああ、虎姫(とらひめ)か・・・・・ 」
  その関西ブランドの代表格が近江虎姫産の「 虎姫米 」であった。虎哉は虎姫米を思い泛かべると、栄養失調に伴う肺浸潤(初期の肺結核)のために苦しむ民衆の姿に、銃後という守りの真髄を突き付けた女性二人の衝撃が重なってくる。
「 私は、あのとき、はッとして眼を覚まし、空をみ上げたのだ・・・・・ 」
  夜明け前の滋賀県湖北の虎姫駅には密かな賑わいがあった。虎姫駅から闇米が京都駅へと輸送されていたのだ。このとき阿部一族は戦争に男手を狩られた山岳の集落を助けようとして大量の虎姫米をばら撒いた。
「 闇米列車・・・・・ 」
  と、呼ばれていた。鮮明にその記憶が虎哉の耳奥と脳奥に遺されている。





  終戦直後の北陸線は闇米を輸送する「闇米列車」という鉄道史には正式に実在しない呼称の列車が、同じ軌道上の北陸線には実在した。虎哉はこの闇の列車を何度も見かけ、また実際に乗車もした。
  そして密かな観戦者となる。大津からの列車が山科駅を過ぎるとまず次々に窓を上げ開かれる。そして鴨川の鉄橋を渡り終えた瞬間、近江米「虎姫」は九条の堤防付近で開いた窓から一斉に跳び降りた。機関車に潜伏した「闇米の運び屋」は、列車が京都駅に差し掛かる手前の鴨川の鉄橋の上から米俵を河川敷に放り投げる。投げられた米俵は大八車に載せられて闇市へと運ばれた。
「 河川敷には闇米を待ちうける役割分担の人々が立っていた。投げる人、受ける人、その完璧な手際のよさには誰もが感心した。思い返せば蒸気機関車の運転手も「運び屋」に協力していたのであろう。あの鉄橋付近での極度な失速は、そうとしか思えない・・・・・ 」
  大津駅と京都駅間の海抜高度差は大きい。琵琶湖の高さが84mで、京都駅の標高が24m、少なくとも60mほどの落差がある。したがって東山トンネルの勾配は大きい。蒸気機関車は猛烈なスピードでトンネルの中を快走した。
「 しかしトンネルを出ると鴨川の手前では急に減速し、そして鉄橋の前後では極端なほどスピードを殺した。止まるのではないかと思うぐらいのスピードの落差は明らかに意図的であった・・・。その機関士の一人は見覚えている。たしかに満鉄で見かけた貌(おとこ)だ 」
  京都駅の南界隈には戦前の1920年代に何度か訪れている。




  界隈は当時、国鉄の東海道線の工事や、東山トンネル工事、鴨川の護岸工事、九条通りの拡幅工事などの大規模な土木工事で活況に潤い、京都の地場産業のひとつである友禅染め関係の染色工場が多くじつに逞(たくま)しい下町の賑わいをみせていた。
  これによって京都駅の南、鴨川より西に位置する東九条地域は多彩多様な人口集積をみせることになる。
「 松ノ木町40番地・・・・・ 」
  虎哉はそんな密集地の一区画を指して人々が呼称した町名を記憶している。九条ネギ畑が広がるその南に、虎哉は戦前に生まれ出ては敗戦直後に集約されて行く新しい街角の光景をみた。そして耳奥に未だ止まる町名となっている。中・小の染色工場が点在するその一区画だけが未だ鮮やかにあった。
「 なるほど・・・・・。一つしかない自分の命なのだ。どうせ拾った命で再び生きるのであれば、世間体がどうと、体裁を重んじて今がどうなる。目の前に糧なくて、一体そこに何の意味があろうか。納得などまず生きてみて、その後にでもすればいゝ。そうなのだ・・・・・ 」
  と、鴨川と高瀬川に挟まれた蟹の棲む低地帯、その夕暮れの町を見つゝ虎哉は励まされた。
  終戦直後、虎哉は度胸というものをそこに拾った。そして敗戦の地にも九条ネギの畑が大きく広がる風景を突き付けられて勇気まで湧いた。すると他人でもそこに生きてさえいれば擦違う皆が「 同胞(はらから) 」に思えた。
  そのはらから等に阿部一族は焚き出しで振る舞った。



「 松ノ木町40番地、ここでの同胞の花形産業は、古紙・古着・古鉄などを回収して売りさばく(寄せ屋)で、その親方は多くの子方(バタヤ)を低賃金で雇い入れていた・・・・・ 」
  当時、東九条の人口は約3万人余、そのうち朝鮮人は約1万人が住んでいた。
  しかし戦後の復興と、高度経済成長の終わりとともにこれらの産業は廃れ、20代~40代の若い世代の多くはこの地域を離れた。一世を中心とする高齢者家族だけが残された。松ノ木町40番地は、しだいにまた戦中・敗戦直後の状況に引き戻されている。
  劣悪な居住環境は、一度火が出ると大火災となり、多くの人命が失われた。また、鴨川と高瀬川に挟まれた松ノ木町40番地(現:東松ノ木町)は、国・行政から「不法住宅」と呼ばれ、長い間放置され無視され続けてきた。
「 京都に九条(くじょう)という地名は遷都に因む由緒なのであるが、そこを(トンク)と呼称するのであれば、それは日本語でもなければ他国語でもない。人に殺生な話など都には似合わない・・・・・ 」
  万寿寺の裏筋へと廻る虎哉の背は、そんな東九条の光景を泛かばせている。
「 昭和初期、たしかに社会は暗い深刻な不安のなかを揺れつゞけていた・・・・・ 」
  阿部富造が生まれたのは大正七年、第一次世界大戦が終戦した年である。
  古閑貞次郎が坂道で口にした「1000円」という大金には、雨田虎哉も少なからず心当たりがあった。
  大正中期ごろより「説教強盗」なる犯罪が連続に横行していた。
「 あの・・・・・、松吉のことだな・・・・・ 」
  虎哉は阿部富造とは二歳下の年齢だ。ほぼ同年代の直感がある。
  昭和4年2月6日に銀座松屋前で模倣犯である「説教強盗二世」岡崎秀之助が逮捕された。岡崎は、三宅やす子宅、下田歌子宅など有名人の家を襲い、7箇所で強盗を働いていたが、この男は警視庁が追う「第一世説教強盗」ではなかった。
  2月16日警視庁は再調査の結果、1926年夏の犯行も説教強盗によるものであることを突き止め、現場に残された指紋から、かつて甲府刑務所に服役した妻木松吉のものであると断定した。
  捜査員が出所後の松吉の行方を追う中で、ついに2月23日午後6時50分、松吉は自宅にて逮捕された。
  何の抵抗もなく「お手数かけてすみません」と神妙な態度だったという。逮捕に至るまでに動員された警察官は1万2千名に及んだ。朝日新聞が懸けていた賞金1000円はその警官たちに贈呈された。
  懸賞金1000円のことは、当時12歳であった小学生の虎哉でさえ耳にしていた。



「 どうも・・・・・、やはり普段ではなさそうだ・・・・・」
  どこが、どうと、要領はえぬのだが、虎哉は妙な尻の座りの悪さを感じた。
  扇太郎が用意した部屋、庭に面した8畳の座室である。その欄間の角隅に小さな赤い束が括り吊るされていた。それはどう眺めても万願寺や伏見唐辛子ではない。その吊るされ方に、ふと、満州でみた遠い記憶が虎哉に蘇ってくる。あるいは終戦直後の東九条界隈で見かけた赤い影が曳くような気もぼんやりと湧いた。
「 老先生・・・・・、あれ、何やろか?・・・・・ 」
  と、漏らした。香織も気づいていたみたいだ。やはり京都では普段見かけない趣のモノなのであろう。そう言って香織は虎哉の袖口をツンツンと引っ張った。
「 よしなさい香織・・・・・、後にしなさい! 」
  虎哉は手の指を取って、香織へとその手をそっと突き返した。香織はつまらなさそうな顔で鼻をツンと揺らしたが、その場はどうしてかそうする方がよさそうな感じに虎哉はさせられていた。
「 寺の一部屋ではない。裏手に設えた古い数寄屋、どうやら法衣の手とは無関係な別の慣習のモノのようである・・・・・ 」
  神仏の教理とは異なるその特殊な用い方に、ひとまず距離を置こうと思った。
  明らかに日本種とは違う辛みが少ない大きめの唐辛子が魔除けのごとく吊るされている。隣国のそれを感じた虎哉は、トウガラシの赤から視線を逸らすようにして腰を少し泛かし、やゝ体を斜はすに座りなおした。
  正座にはすでに耐えきれぬ片足である。虎哉は座り直しゝつ定まらぬ片足に自らがじれったくて苦笑した。それをみて扇太郎も微笑んだ。
「 まずこの音をお聴きください。水鶏(くいな)鳴くと人の云へばや佐屋(さや)泊・・・・・ 」
  そういうと扇太郎は、一句を引き出した後、ていねいに脇の包み袱紗(ふくさ)を開き、さらにていねいに丸い陶器を取り出した。
  句は芭蕉、丸い緑釉の陶器は水鶏笛(くいなぶえ)である。
  すると扇太郎はかるく口にあて、涼しげにその笛を吹いた。この笛の音を聴かされていると、耳に覚えの湧いた虎哉には俄かに重なり想い泛かぶ一筋の細い坂がある。その坂道は、すでに虎哉の記憶する二人の奇遇な坂道であった。



  日比谷高校の正門前から外堀通りへと下り通じる一丁ほどの坂道がある。
「 これを遅刻坂という・・・・・ 」
  現在は、メキシコ大使館がある舗装された80メートルほどの坂道である。
  大使館の北裏には衆議院、参議院、両議院長の公邸などがあるが、かっては、坂と呼ぶには極短い切り通しの道であった。終戦久しく時を経て阿部富造はまたこの坂へと向かっていた。
  富造の眼に泛かばせるその坂道には、一中が日比谷から現在の永田町の敷地に移転した1929年(昭和2年)以降の人物として水野惣平(そうへい・元アラビア石油社長)、嶋中鵬二(ほうじ・元中央公論社社長)、岡義達(よしさと・政治学者)、木原太郎(物理学者)らの青春期の沓音(くつおと)が記されている。これらの同輩らと共に雨田老人もまたこの坂を歩いた。
  したがって扇太郎が語ろうとする坂道は、今は「 新坂 」ともいうが、旧制一中に係わる世代にはやはり「 遅刻坂 」が好ましい。
「 これは、あのときの坂、そしてあの笛の音だ・・・・・! 」
  にわかに現れた自身の過去の姿を、目の前で露(あら)わにみつめられる人の眼の輝きというものが虎哉には妙に尻をくすぐられ可笑しかった。
「 剃髪の仏頂面に肩首から丹あかい半袈裟(はんげさ)を吊るした、ちょつとあやしいネクタイ姿の老人である。その夜は闇間を濡らす雨夜であった。そして、この笛の音は、たしかにこの耳で聞いた。そうか、あのときの、この音色が、水鶏笛(くいなぶえ)だったのだ 」



  そのとき老人には高みから傘をかざして坂を下りる人影がぼんやりと見えていた。
  白と思えば白、青と思えばほのかに青く、動きに不規則な輝きがある。ときおりくるくると傘を回したりするらしく、暗い秋雨の中に老人は眼を凝らしつゞけていた。
  人ひとりが通れるほどの細い道であるから、坂下でその人影を待つことにしたが、者影が背の高い男だと判る間合いまで互いに近づくと、また同じく老人であるらしきその男は、ふと道中で立ち止まり、ていねいに一礼をするや老人を待ち構えていたかに道を訊(たず)ねかけた。そしてふと高貴な香りをふわりと散らして富造の鼻に飛ばせた。
「 私の道はどこでしょうか・・・・・ 」
  と、背筋をピンと張った隙のない一声の響きである。
  なぜか老人には、ぴかぴかと粒の輝く白い朝ごはんが泛かんだ。焚きしめた虎哉の匂いが朝の白米だとは、おもしろいリアリティーだが、そんな風変わりな臨場感も露(あらわ)に演みせて、ていねいに扇太郎は語り続けた。
「 あなたの前にあります。真っ直ぐにお行きなさい・・・・・ 」
  富造老人は直(ただち)にこう答え返していた。正覚を求めて修行する法師にでも強引に仕立てたのか、それとも坂を下る老人は、上る老人の身なりを暗がりに禅僧だと見間違えたのであろうか。夜道に狸の化かしでもなかろうに。富造は得体(えたい)の知れぬ老人と摩訶不思議な問答を交わした。しかし互いが、ふしぎにきれいに息をのんで、たまたま出逢うことのできた秋雨の白さをひとつ心に大切にしようとする厳粛なほどの姿勢がそこにあった。
  小さなトゲにでもチクリと刺されたかの富造老人が、それでも清すまし顔で脇により、道を譲ると、その老人は深々と一礼を残して静かに下り去った。たしかに阿部老人は頭陀(ずだ)袋をさげ半袈裟を肩首から吊るしていた。虚無僧の類に見間違ったとしても何ら不思議ではない。平然と行くその老人の後影が消えるまでの間が、もし無理問答であれば、すでに阿部老人は敗者となっている。間合いにそんな風が吹いた。そこが老人には嬉しかった。そのとき今晩わ、と声掛けなどされるよりも、老いさらばえる身上を爽やかに見透かされたようで下る老人の影が嬉しさを曳(ひ)いた。だから富造はその老人への返礼としてそっと水鶏笛を吹いた。





「 そう、あのとき、この笛の音を背に、私は坂を下りた・・・・・ 」
  そして虎哉がしばし眼を閉じていると、扇太郎はそこで笛を吹き、また語り始めた。
  小さな茅葺の門はしっとりと濡れていた。この門前に「面会謝絶」の立札がある。
  但し書きには、やはり「 やむなく門前に面会御猶予の立札をする騒ぎなり 」と添えられている。庇(ひさし)からの雨だれが、かすかな光をともなって立札の字面(じづら)をしたゝりながら落ちていた。それらは終戦直後から、四半世紀もそのまゝであった。
  門をくゞるとすぐに手水(ちょうず)がある。薬臼(くすりうす)の刳(く)り貫きを活かした古風なものであるが、左右庵を訪ねる来客は、まず最初にこの手水と向き合うことになる。あるいは問答しなくてはならない。あえて人の道を塞(ふさ)ぐように真正面にそうしつらえてある。
「 これも昔のまゝだね・・・・・ 」
  老人は思わず懐かしさを覚えて言った。この日は午後から雨であったが、冷たさを感じさせない雨である。
  ふと見上げると、黒々と暗い欅(けやき)の梢(こずえ)が、さも蛇の目傘をさしかけるように、陽の消えた雨空を支えてくれていた。初めてみたのは四半世紀ほど前の晩春、たしかあの日は晴天で、満月の夜空を支えていた。終戦後三年のとき、土埃(つちぼこり)をかぶった褪(さめ)た茶のくたびれた軍靴の足で老人は初めてこの庵にやってきた。
  直立する高札は、官弊(かんぺい)大社としての格位が廃止された昭和21年の騒動を記すもので、未だに仮の世の、仮の住いの、仮の札なのである。手水もそのまゝに在(あ)るのだから、老人はしばらく、諸々が語り掛ける景色の前に佇(たたず)んでいた。
  東京大空襲で焦土となった当時、この界隈はまだ人気もまばらで白い蛾がひっそりとした道端の街灯に集まっていたことをよく覚えている。焼失した日枝神社の本殿、星ヶ岡茶寮の痕(あと)もそのまゝに人家もなくあたりは低く風の中に眠っていた。
  左右庵という命名は手水のしつらえ方に現れている。それは客人を、この手水の前で不惑(ふわく)へと立ち変えらせる、能(よく)したしつらえである。戦禍の爪痕の中に、隠れ棲むように逃れて処世の楽しみを風雅に施した、その先代貞次郎もすでに他界して久しいのだが、同時期から老人の足もこの場所から遠のいていた。
  こゝに穢(けが)れを祓う禊(みそぎ)の工夫があることを、鎌倉極楽寺の忍性(にんしょう)に教化されての趣向であることを、先代古閑貞次郎から度々そう聞かされている。以来、好んで老人は足を運ばせていた。
  敗戦の衝撃にうつ伏せしたくなる老人にとって、じっと日本という国と真対まむかう場を与えられたことは、心しずまる喜びの一時であった。終戦の時代とは、限られた眼の行方ゆくえしかなく、誰もが俯きながら暮らす毎日であった。
                              
「 忍性といえば、奈良信貴山朝護孫子寺で文殊の五字呪を10歳にして唱えたという・・・・・ 」
  扇太郎の話が忍性に触れると、虎哉の眼には生まれ在所が泛かんだ。
  忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚めた。
  日蓮から祈雨法くらべや法論を挑まれる。何よりも救済に専念した。
  奈良の北山十八間戸(きたやまじゅうはちけん)とは彼が施設した療養院、在所はその跡に近く虎哉は佐保山に生まれた。当時の奈良坂は、京都と奈良を結ぶ街道沿いにあり、交通の要所であると同時に、賑やかな市中からは少し離れた場所であったため、旅の行き倒れや、はじかれ者、世捨て人など底辺の人々が最後にたどりつくような場所であった。忍性が出会った患者の多くも、もはや体が不自由で、奈良市中へ物乞いに出る事すらできなくなっていて、その事をしきりに嘆いた人々である。
  富造老人が貞次郎のお節介をやわらかき懐紙にくるむように温(たず)ね、できうれば三途の川の渡し場でよいから、また貞次郎という男と相塗(あいまみれ)ることを願うまでに、貞次郎の死後20年近くを費やしたことになる。
  駒丸扇太郎は、こゝまで語るとキュッと拳を握り、庭の方に逸らして眼を遠くした。
  すると二人の会話に交わらなくぼんやりと中庭をながめていたように思われた香織は、どうやら耳だけは二人の口調に澄ましていた。何かと感取りは早く器用な娘ではある。
「 秋子はん・・・・・、富造はんにえらいこと苦労しはったんや。何んぼ家のためいうたかて小さい子やし皆可哀そうやいうてはったそうや。うち、そんなん聞いたことある・・・・・! 」
  と、プィと頬を膨らませてスッと妙な口ばしを差し入れた。
「 香織ちゃん・・・・・、それはねッ。以前に、たしかにそんな話があった。せやけど、阿部家は戦争で男を全部失ったんや。その阿部家は他所の家とは違う。家継がして山端守らんとならん。そらぁ~香織ちゃんの言うのも分かる。そやけども阿部の家ェ残すのは大変なことや。若い人いうたら秋子はんしかおらへん。継がすからには悉皆修行せんことにはどうもならん。あゝ見えても富造はん、孫娘やさかいに手加減してえろう工面しはったんや。阿部家ェ継ぐの、男のわてかてそら~しんどいことや。陰陽博士、わてにかてよう務まらん話や・・・・・ 」
  扇太郎は、せっかちな香織を軽くなだめながら笑った。
「 その秋子はアメリカ、そして芹生の千賀子さんの甥おいの娘、その千賀子の姉が和歌子、そして富造という兄がいた。その富造の上に兄二人、しかしいずれも戦前に他界・・・・・! 」
  虎哉はそう思い起こすと、ふと眼にまた黒牛の鼻先に竹籠をかぶせて、手綱を引きつゝ通り過ぎた少年の姿が泛かんだ。少年といえど阿部家にとって男手は貴重なのであろう。その少年は牛の背に鳩籠を載せていた。そしてあのときもやはり笛の音が聞こえた。
「 少し訊くが、千賀子さんは笛を吹かれるのかね・・・・・ 」
  うとうとと居眠りをはじめた香織に目配りをしつ、虎哉も一つ口数を挿んだ。



「 えゝ、阿部家の血ィは、まず笛で継ぐことになります。私でもそうですが、四、五歳ぐらいまでにまず基本の篠笛、そして次の笛へと、何しろ五十種ほど笛がありましてね・・・・・ 」
  そういうと扇太郎はやゝひくりと奇妙な笑い方をした。
「 じつはその笛のことで、この屋敷に、まあご覧ください・・・・・! 」
  その笑みのまゝ、扇太郎は隣間の襖をす~っと開けた。
「 こゝは阿部家の笛蔵でしてね。笛だけを納めた屋敷です・・・・・!。壁に掛る笛と棚に納めた笛とで約七万種あります。これらは皆、阿部家伝来の品で、その多くが自家手製のモノ、じつは笛の用途は多様、主なものに、大和笛(やまとぶえ)・主笛(おもぶえ)・能笛(のうてき)・狛笛(こまぶえ)・唐笛(とうてき)・明笛(みんてき)・笙(しょう)・尺八(しゃくはち)・天吹(てんぷく)・簫(しょう)・一節切(ひとよぎり)などがあり、手前側の壁に掛る笛が一般的によく知られた篠笛(しのふえ)、これも約二千種はありますか。主笛は、龍笛(りゅうてき)とも呼ばれます。さらに他の用途になりますと擬音笛の、鶯笛(うぐいす)・鶉笛(うずら)・牛笛(うし)・雉笛(きじ)・烏笛(からす)・蝉笛(せみ)・鹿笛(しか)・駒笛(こまどり)・虫笛(むし)、そして先ほどの水鶏笛などがございます。笛は気渦をつくることで音をだしますが、陰陽道家は陰陽の渦音を奏でます。したがって富造さんが博士の背に吹きかけた水鶏の音は、おそらくその陽音かと思われます。もしあの坂道のとき陰音であれば!、雨田先生はすでに鬼籍へかと・・・・・? 」
  別に驚きもせず虎哉はこくりと頷いた。そして遅刻坂と芹生の、二つの笛音を改めて泛かべ、想い比べてみた。そう泛かび立つと、たしかに二つは似通っている。虎哉はもう一度頷いた。
                        


「 香織ちゃん・・・・・、お父さんの笛は、大和笛だったはずだよ。よく神楽笛ともいう。増二郎さんは阿部秋一郎さんに習ったのだ。そしてお母さんも一緒に・・・・・雉(きじ)笛を・・・・・ 」
  そういうと扇太郎は、言葉尻をクッと止めた。そして貌(かお)をハッと赤らめ渋々と固くした。
  塗炭に香織は黒い瞳を丸くした。
  しかし、そんな香織の表情にも、扇太郎は話を先に進めた。
「 ここから先は、昭和という時代が終わるころの話になります。したがって13、4年前のこと。東京の一件から、しだいに奈良に触れることになりますね。そこはまた雨田先生の故国でもありますね・・・・・ 」
  そう言われて、虎哉の眼はさらに輝きを増した。
「 この話は、どこかでM・モンテネグロとの件で辻褄を合せることになるのだ・・・・・ 」
  きっとそうなるのだと思われる。それを確かめる目的で、こうして扇太郎と会っている。
  そもそも虎哉が八瀬の地に、山荘を構えようとした動機が阿部富造と出逢ったことに始まるのだ。虎哉はこれまで心の隅に置いていた、終わらない終戦が明日にでも終わることを期待していた。
  それはまた阿部家の抱えた終戦が、終わることでもあった。そして扇太郎はまた阿部富造に関わる東京の話の先を語りつゞけた。その扇太郎も待ち侘びた今日に拘りがある。
  そして乗って来た黒いセルシオが遠ざかるのを、老人はさも嬉しそうに見届けた。
  その眼差しの裡うちには、ふりみふらずみの間の車窓にかげろうた外苑の残像があり、皇居の森の大きな木の下は、こんもりとした茂みの陰を掘面にうつして、いっそう暗く、小雨にけむるうす暗い空には、古閑貞次郎という傷痍(しょうい)者がかって見遺のこした十月の秋空にでも架けるかに宮城(きゅうじよう)が泛んでいた。
「 阿部富造が新しい生命を生み出そうとすることは大和精神の陰陽性に達することだった。そしてそれは肉体と魂の永遠に近づくことを象徴する。阿部家は陰陽寮博士としての使用力と行使力をもちうるのだから、それは日本社会における至高の幸を意味するにちがいない。富造は皇居の淵に立って、その眼を奈良の青垣へと向けていた・・・・・ 」
  そう思えると阿部丸彦には、富造が乗ってきた黒いセルシオの影が、さも黒い泡音の立つ乾いた車道を回想するごとく、逆回転させながら過去の時間を洗い鎮めるように感じられた。

                     






                                      

                        
       



 昭和の映像









ジャスト・ロード・ワン  No.24

2013-10-04 | 小説








 
      
                            






                     




    )  亡国の泡  ②  Boukokunoawa


  誰それ一途に浮世は誰だって他人の噂話や事件の裏話などスキャンダラスでトリビアルな話題が大好きだ。
  戦後突然に、登場したテレビの話題が日本の茶の間を独占するようになったせいもあって、それまで表向きは何やら敬遠していたバラエティ調の暴露意識が、テレビに火をつけられて平然となり、多くの視聴者を一層浮世好みの妙なその「つもり」にさせてきた。こうして日本人はアメリカンファッショのテレビにデレっと冒されては、劇的危険な妖しい魅力をカラダの中に入れてしまったのである。
  戦後の日本人はそんな滑稽な時代を勝手気ままに切り裂き、21世紀というその先へ劇薬的独創をもって突っ込んでいった。どうやら日本人は、B29に爆撃されて以来、誰もがアメリカの呪文を忘れられなくさせられたようだ。そして沖縄は、日本国の最初にして最大のパトロンとなったアメリカが依頼した。しかし依頼後、その新ルネサンス社会は常軌を逸するめちゃくちゃの社会だった。
  このようにしてアメリカが要請した社会は、一見、使徒マタイ伝のごとく映るが、これが「 反マタイの使徒 」という主題なのだ。神仙怪異のごとくあるが、ふと丸彦はその使徒を必要とする脳圧を昂進された日本人のジグザグな歩みをふりかえってみた。そして新たな「地質」と「図案」の差し替え回路をぐるぐるまわしてみると、やはり奈良の当麻寺が見えてきた。
                                       

  中将姫伝説で知られる当麻曼荼羅の、あの当麻寺が主題の舞台となる。
「 そう主題したこの縄文猫のイマジネーションはとんでもない。これは今日のわれわれ猫がふだん使いするニャンニャンする類のイマジネーションではない。生体すべての観念が想定した世界のそこかしこを、双頭の面貌と律動に満ちた翼をはやして、あらゆる空間に展観していくようなイマジネーションなのだ。とくに「 おいらん 」においてはそれが著しくも喜ばしい。小生はとりあえず彼女のことをハイパーイマジネーション猫とでも言っておきたい・・・・・ 」
  何か未来でも膾炙しそうなこの主題を、彼女はきっとこれは、さぞかし広大な宇宙でも見据えた人間への暗示だと思ったのだが、彼女はこれを野晒しの小さな祠(ほこら)の軒下にあるごくちっぽけなダンボール箱の中で考えていた。
「 親友の阿部幸四郎などには、あらかたバレているかもしれないけれど、何を隠そう、小生にはずっと以前から交際中の恋猫がいる 」
  阿部丸彦は、そっと彼女の愛くるしいお茶目な顔を泛かべた。
  ともかく丸彦は、その恋猫に、埋没的な準備運動をしながら、ようやく丸彦なりの「日本という方法」で雨田博士の行動を読み解きたくなってきたのだ。そこは丸彦の「おもかげの国・うつろいの国」である。
  そして真っ先に思い浮かぶものといえば、やはり中将堂本舗の「中将餅(ちゅじょうもち)」であった。香り高い一口大のよもぎ餅にこしあんをのせ、ボタンの花びらをかたどったもので、これまでに何度も何度も食べているが、本当に美味しい草餅である。想うだけでフワッとよもぎのいい香りが漂ってきた。当麻の里に野生する蓬(よもぎ)をふんだんに使っている。

                           

「 手土産なら、やはりコレだろう!・・・・・ 」
  古くからショーキャットとして認められるペルシャ種であるこの彼女は、ときにふわふわとした遊仙感覚を、ときにカラダの内奥に響きわたる疼くような官能と膨よかな母性感覚を、またときには神秘的な魔女感覚を、さも七変化のごとく丸彦にもたらしてくれるのだ。
  ある日、彼女は「 日本人が想像力を喪失した単なる動物になってしまったのだとしたら、我々はむしろその動物の方から適当に想像力などをもらって、そこに「 もう一人の有能な猫 」を引っ越しさせたって、いいではないか 」と、起伏の少ない低いピークフェイスの小鼻をクスリと啜りながらを語ったのだ。これはたいへんな猫生転換である。丸彦はそんなシャレた才覚に惚れた。
「 奈良は半年振りだ。当麻寺の本堂でも雑巾(ぞうきん)がけなどしてみるか!・・・・・ 」





  イタリア生まれで沖縄育ちの彼女は、名を「おいらん・花魁」という。非常に温和な性格で、わがままを言ったり、神経質になる事もあまりない。この、おいらんは、行く末ずっと絶対老婆ではありえないのである。そうした彼女が時々発する言葉は、時と大地と天上の行方を暗示する日月とを、大きく係り結ぶほどに広大だった。そうして二人の猫は、何度かにわたっての理由のない離反と何もおこらない淡い逢瀬をくり返してきた。それが丸彦には何とも焦れったい。1年も会わないこともあれば、急にどちらかが訪ねることもある。
「 そのため小生は、ザワザワとすれば、わざわざ何度も奈良の当麻野に行った・・・・・ 」
  この当麻野は丘陵地の原っぱにすぎない。だがそこは昼の時間と夜の時間がまっぷたつに入れ替わる天変地異の境い目なのだ。またそこは本来、役小角(えんのおづの)行者が特定の日に遊猟するための禁苑の土地だった。古代よりじつに多くの修験道者の思い出が辺りに充ちている場所なのである。
「 おいらんは、この実景を目の前にしていつも、その時その所の前後に出入りする観念の中でひしめく遠大な光景を眺め続けてきた 」
  雨田博士と清原香織が奈良へ行くということは、奈良を感じるとはこういう格別のイマジネーションに付き合えるかどうかということなのだから、丸彦のこちらにもそれなりの覚悟が必要であった。
「 きっとそのために、おいらんは、古代日本を叙景するための舞台を用意して二人の客人と小生を待っている・・・・・ 」
  そっと奈良を眼差した丸彦は、おいらんの居る当麻野が、滲み出る言霊(ことだま)を秘めているようにも感じられ、長らく彼女の縦横呑吐に揺らされて、きっと沖縄の未来も浄化されるように思えた。

                                   


  さてフランス西部で眼を閉じてみた駒丸扇太郎の脳裡に眼差してみる。
  あの日、ノルマンディー海岸を見終えてドーヴィルを経由したパリまでの約二時間、扇太郎はA13の高速道路をひたすらと走り終えた深夜に、パリ7区街にある「 Hotel du Cadran(ホテル・デュ・カドラン) 」に着いた。
  入室さえ曖昧(あいまい)で、だから朦朧(もうろう)と寝て、たゞ暗い闇の泡をみる。それでもやはり早朝には目が覚めていた。そして扇太郎はとりあえず新聞を買いにホテルを出た。7区街にあるホテル・デュ・カドランは市のほゞ中央、このホテルからは、エッフェル塔やシャン・ド・マルス公園までほんの数分である。
「 あゝ~、今朝はカブト虫(Beetle)の夢に、起こされずに済んだ。ようやく・・・・・ 」
  と、歩きながら朝一番の背伸びをする扇太郎は、仰いだパリの青い空に、もうカブト虫が飛んでいない事が何よりもまず爽やかな出来事であった。南フランス地方では、収穫期を控えたフランス葡萄(ぶどう)の「カベルネ・フラン種」に大量のカブトム虫が集まり、果汁が吸われてしまう被害が発生していた。その防除のために扇太郎はフランスまで出向くことになった。
  普段は、日本の森林を巡ることが多い扇太郎である。甲虫類学を専門とする。最近の扇太郎の仕事はもっぱらナラ枯れ被害の調査と対策であった。そんな日本での調査実績が、フランス政府に高く評価された。
                                    




  南フランス地方のぶどう畑の収穫は八月には終わる。その収穫前に扇太郎はエクス・アン・プロヴァンス、ボルドー、ブルゴーニュのぶどう畑を巡る調査研究を依頼された。約一月の長丁場の仕事を成し終えた扇太郎は、帰国前に、束の間の休暇を取ることに決めパリ近郊で過ごすことにしたのだ。
「 休暇ほど早く過ぎ去るものはない。あゝ、残り後六日か・・・・・ 」
  パリでの休暇滞在は十日間の予定である。扇太郎はすでに四日を使い果たした。
  せめて後十日欲しいがと未練がましい扇太郎は、欲張りな目配りを左右の建物に触れさせながら、シャン・ド・マルス通りを右に曲がると、足早にセーヌ川に向かうブルネド通りへと出た。
「 父誠一は、今、どの上空辺りか・・・・・ 」
  と、ふと仰ぐ朝の上空には、パリの灯りを待ちわびて機上にひとりいる亡き人影が懐かしく想われた。
  その大空もまた夢の浮橋であったようだ。
「 父さん、こゝがパリだよ!。二人して昨日はオハマF地区の波濤をみたよ。しかし貴方はついに来られなかったではないか・・・・・ 」
  昨日、9区オマル通りのホテルから7区街へと変えたのは、こゝがセーヌ川の南岸に面しているからで、明日には、父誠一が日本から初めてのパリに到着する予定だが、それはついに果たせなかった父の願望であった。セーヌ川に沿った地域のうち、イエナ橋より上流の、約8キロの区間は、この都市が辿(たど)ってきた歴史を色濃く表している。扇太郎は特にその中のマレ地区、16世紀から17世紀にかけて王侯貴族の豪華な館が建てられた界隈を、どうしても亡き父の面影と過ごす最後の日にあてたくてホテルの位置を7区街へと変えたのだ。



  ホテルを出ると、新聞というより、じつは、パリの朝市が見たかった。
  と、そう思うも、マルシェによって売っているものも違えば集まる人も違う、亡き父の嗜好を決めかねながら歩いた。
「 郊外のアントニー、そのマルシェにでも、バスに乗って出かけるのも悪くはないが。七月のマルシェなら「 ペッシュ・プラット 」を探すのもいゝ。これは日本人には形が珍しい饅頭(まんじゅう)をパンと手で叩(たた)いて潰(つぶ)したような平らな桃で、酸味を抑えた感じは、ほどよく甘さを引き立たせてジューシーでもある。だが、フランス各地で生産されているチーズの種類は、400近くにのぼると言われている。ソーセージ同様その魅力にはまり込んでしまう食品であるから、今日はチーズの集まるマルシェで、カマンベールとシェーヴルをひとつずつ購入しよう 」
  と、扇太郎は誠一の面影の淵にそう考えた。そしてシェーヴルは非常に種類が多いのだが白くてフレッシュなものほど淡白で、かたく乾燥したものほど香も味も強くなる傾向があると聞いていたし、郊外のマルシェならば期待できると、灰をまぶしたタイプを選べるかどうかを楽しみにしていた。
「 父さん・・・・・、シェーヴルで、終戦後初めての祝杯だ!・・・・・ 」
  パリに来たのなら、あちこちのマルシェで専門のスタンドを見つけては「 食の国・フランス 」を実感したいものだ。十日間の休暇となると、そうそうに取れるもではない。しかも亡き父の影と丸三日はパリの休日を過ごすことになる。オハマF地区を除けば今回のパリは眼と口の滋養、亡き父の目的は復讐や反逆ではなかった。彼は文学への愛着を深くし過ぎた。そうであるから、誠一のためにフランスの活字も補給したい。とりあえず扇太郎は新聞を買うことにした。
「 ふむ~う。やはり、日本は不参加か。フランスは参加、しかし入場式には出ないのか・・・・・ 」
  扇太郎は朝刊「 Le Figaro(レ・フィガロ) 」に眼を通しながら、どうやら、日本を含む六十七ヶ国のIOC加盟国がモスクワ五輪に参加しないことを表明しそうだという記事に、予想は抱いていたが、ソ連のアフガニスタン侵攻の影響を強く受け、西側諸国の集団ボイコットという事態に至ろうとする経緯が妙に胸を暗くさせた。
  その影で小さく、小さく、鈴木善幸首相内閣誕生の記事がかすむように載せられていた。



「 昨日までの暑苦しさ、あれは、一体どうしたというのか。日本の中春ぐらいの陽気じゃないか・・・・・ 」
  しかし七月とはいえ、パリの盛夏にしては、めずらしく爽やかな気温で、適度な潤いで街を包む空気は、扇太郎におだやかな日本のやゝ南風の春を感じさせた。
「 さあ~、今日でこの街での一人暮らしとも最期か。午後にはきっと亡き父が鳩籠を下げて到着してくれるであろう 」
  どうやら昨日の微妙に快適な爽やからしき気温は、乾燥し過ぎた翌日にはありがちな気まぐれであるらしい。朝食を終えた扇太郎は再リフレッシュしようと、予定通りマルシェへと出掛けるための道順をたしかめるためフロントに立ち寄った。
  すると「 古い歌の中に、パリはやはり春が一番、たとえ天気が気まぐれでも 」という一節があることを聞かされた。先日のオハマF地区の体験を見通せるはずもないのだが、外出しようとする客人の背に「 パリはどの季節の時期でも活き活きとしていますからね 」と、さりげないが、禊(みそぎ)のさも爽やかな言葉を掛けて送り出してくれた。
「 La ville d'amitiés de Paris il comme vigueur qui devient en permanence libre de danger par toutes les saisons. 」
  休暇の一切を素敵な花束の良き出来事として束ねてくれた。
  しかし「 Une bulle, une bulle, une bulle. 」と、聞こえたあの余韻は一体、何だったのであろうか。それがフロントクラークの言葉の余韻であったのかどうかは解らない。送られた言葉の後を追うようにして、あれはたしかに「 泡、泡、泡 」とさゝやくような声が聞こえた。しかし扇太郎がそうこだわるのには、さゝやいたと思うその声は、栗駒系♂一乗寺六号が飛翔した瞬間にも聞こえたのだ。
  そしてエッフェル塔の上空を三度旋回した後に、日本の方向を見定めた彼が一翼を一矢のごとく鋭くして天心へと飛躍したときに、泡、泡、泡と六(ろく)の声は、たしかにそう聞こえたのだ。

                                

「 哀悼の、あの一乗寺六号は、パリから京都の鳩舎へと飛び発った 」
  かの大戦の戦場には、人間のために命を捧げた鳩がいた。
  父誠一は、1000羽の軍鳩にそれぞれ2薬用オンス(約60グラム)ずつのカプセル型爆薬を装着させている。
  陰陽寮の誠一は通信兵の特業教育師範として歩兵連隊に応召し、新設された軍鳩班の要員として中国大陸を転戦した。鳩籠をさげて、あるいは背に担いで戦場を行く姿はおよそ近代戦の兵士とは見えなかったが、有線も無線もほとんど役に立たないとされた近代戦にあって軍鳩班の遊撃戦力は奇特な重責を担う存在であった。それらの軍鳩の多くは、旧陸軍がフランスから輸入した鳩の直仔が基礎鳩となっている。
「 誠一の指揮した栗駒系の直仔もそうであった。彼らの血の故国はフランスなのだ。父が最期に指揮した戦略が、軍鳩千羽による特攻であった。その先頭に一乗寺六号はいた。六号は先陣を斬る特攻鳩として飼練された。その一乗寺六号は直系♂のみが世襲する!・・・・・ 」
  イエナ橋(Pont d'Iéna)より放った一乗寺六号は、父誠一の遺した種鳩の第26代直系である。血統の故国より放鳩することが亡き父のあこがれであった。そして戦地にて国難に殉じ血翼を散らさせた軍鳩への追悼を捧げ果たそうとした。
  陰陽を零(こぼ)すから名を「六号」とした。
「 戦場の特攻鳩・・・・・か、その扇太郎はまだ着いてないようだ・・・・・ 」
  東福寺駅に着くと雨田虎哉はまず腕時計をみた。
  その眼には黒く弾ける泡から哀悼の一翼が泛かんでくる。戦場に斃(たお)れ、あるいは国内で戦火に焼かれた戦没者の御霊もじつに甚大であるが、その陰に多勢の英霊と呼べる鳩たちがいた。そして洛北には、その鳩らに哀悼の涙を注ぐ一族がいる。

  東福寺駅は相対式ホーム2面2線を持つ地上駅である。
  駅舎と改札口は下りホームの東側にある。上りホームにも改札口があり、JRの駅舎および外へ直接出られる通路に通じている。
「 かさね!、どこへ行く。そうじゃない・・・・・ 」
  虎哉は慌てゝ香織の手をステッキで引き掻いて止めた。互いのホームへは地下道で連絡している。したがって三条方面からJRに乗り換える場合、上りホームの改札口から出て、JR駅舎への階段を上ることになる。香織はそのJR側へと行こうとしたのだ。
「 何や、JR乗りはるんと、違うんかいな? 」
  東福寺駅は、京都の玄関口である京都駅の南東部に位置する駅である。京阪電気鉄道の京阪本線と、JR西日本の奈良線が乗り入れている。しかしかっては、京阪駅への出入り口は東側の本町通側のみ、JR駅は橋上駅舎のため両線の乗り換えは跨線橋を渡らなくてはならなかった。虎哉は改札口近くで扇太郎の到着を待った。



「 ヴェルレーヌと、亡国の泡か・・・・・。そして一乗寺六号は7月のパリから9月の京都へと無事帰還した。正確には63日10時間34分18秒後に、夏から秋の奇跡の時差を超えて帰国した・・・・・! 」。
「 9千キロ・・・・・あれは奇跡ですよ 」
  と、嬉しそうに語っていた駒丸扇太郎が東福寺駅に姿をみせたのが午前9時であった。
「 香織ちゃん・・・・・、おはよう 」
  と、突然、背後から肩を軽くポンと叩かれて香織は驚いた。臨済宗東福寺派の大本山として、また、京都五山の一つとして750年の法灯を連綿として伝える東福寺、駅で落ち合った三人はその東福寺へ行く予定である。
「 何やまた寄り道かいな。いつ奈良ァ着くんやろか・・・・・ 」
  扇太郎と落ち合うなど聞かされてない。香織は少し泛かぬ顔をした。
  源氏物語は、現実の歴史とは逆に、常に藤原氏が敗れ、源氏が政争や恋愛に最終的に勝利する話となって物語を構成させた。そこを藤原氏の一員である紫式部が書いたとするのは虎哉の眼にどうにも不自然なのだ。初出は長保3年(1001年)、このころには相当な部分までが成立していたと思われるが、後世においてこの物語が読み砕かれるのは東福寺造営の始まる時代であった。
「 近代文学観の呪縛(じゅばく)から離れてみれば、源氏物語は、近代の心理小説を遥かに超越する描写がみられるではないか 」
  と、扇太郎の父誠一は語っていたという。
  その小説は虚構の連続性と因果律のある話の構造を持たねばならないことを条件とする。九条道家によって造営された東福寺とは藤原氏と密接である。虎哉の眼は密かに輝いていた。そうして三人はその360余ヶ寺の末寺を統括し信仰の中心となっている境内へと向かった。
  そこは東山の月輪山の麓、東山三十六峰、南の恵日山は三十五峰目にあたる。



  人の眼に一目瞭然とは映らないほど広い東福寺。渓谷美を抱くその広々とした寺域には、平安仏教の変遷を重ねて結実したごとくの由緒ある大伽藍が勇壮に甍をならべ佇んでいた。そんな東福寺の名は「 洪基を東大に亜つぎ、盛業を興福に取る 」と奈良の二大寺にちなんで名付けられる。摂政九条道家が、奈良における最大の寺院である東大寺に比べ、また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で、「東」と「福」の字を取り、京都最大の大伽藍を造営したのが、慧日山東福寺の始まりであった。
  そして嘉禎二年(1236年)より建長七年(1255年)まで実に19年を費やして完成した。
  通天橋より眺める洗玉澗(せんぎょくかん)の紅葉の美しさには、通天もみじ(三葉楓)というトウカエデが京都で一味違った紅葉の趣を添えてくれるのであるが、今は一月、冬枯れた木立に埋もれるようにある天通橋の肌を刺す静けさは、本堂へと渡ろうとする三人の心を引き締めていた。方広寺のものとは違う「京の大仏」がこの東福寺の本堂には半ば幻の大仏として存在する。それは高さ15mほどの坐像で、奈良の大仏を意識して作られた京の大仏である。だがそれは明治14年の大火で焼失した。現存するものはその片手のみだ。五体が壊滅したといえ巨大な大仏の片手は、本堂の天井を天上のごとく指して安置されていた。
「 当時、本尊の高さ5丈というのは、あながち誇張ではなかったようだ。火災から救出された大仏の手、とはこれか・・・・・ 」
  指先までの高さを見て驚いている香織をみつめながら、虎哉にはそう思えた。
  その約2mはあろう左手の指のしなりがまたじつに美しい。奈良の大仏を男手とするなら、これは女手であろう。そう見渡して福よかな手相などみつめる虎哉に、駒丸扇太郎は静かな口調で阿部家について語りはじめた。
「 じつは・・・・・、焼け遺されたこの大仏の片手と、阿部家とには密かな因縁がありましてね・・・・・ 」
  現在の仏殿は昭和9年(1934年)に再建されたものだ。虎哉はそう聞いている。
  延焼が明治14年というから再建まで53年間の歳月がある。密かな因縁と聞かされゝば、自然、虎哉は明治14年の政変を想い泛かべた。



「 あの政変と・・・・・、阿部家? 」
  それは当時、自由民権運動の流れの中で、憲法制定論議が高まり政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上毅が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を、政府から追放した政治事件である。
「 1881年政変ともいう・・・・・ 」
  近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったともいえる。
「 当時、大隈は政府内にあって財政政策、つまり西南戦争後の財政赤字を外債によって克服しようと考えていた問題を巡って松方正義らと対立していた。密かなとは、そのような事かね。あるいはその三年前の紀尾井坂の変、大久保の暗殺・・・・・ 」
  と、声低く響かぬように篭(こも)らせていうと虎哉は眼を鋭くさせた。
「 やはり雨田先生は鋭い。大本(おおもと)はそこに繋がるといえます。その政変に絡んでは、宮中にいた保守的な宮内官僚も「天皇親政」を要求して政治への介入工作を行うなど、政情は不安定でありました。薩長土肥四藩の連合が変化し、薩長二藩至上主義的方向へ姿を変えていましたからね。またこのとき、太政大臣・三条実美が薩長と談合し、(自由民権運動と結託して政府転覆の陰謀を企てた)として、大隈の罷免を明治天皇に願い出た場面がありました。ご存じのように阿部家と天皇家とは密接な因縁がありますからね。その大元の人物と・・・・・ 」
  政変の大元、やはり大久保利通(おおくぼとしみち)なのだ。
  そう眼を晃(ひか)らせた扇太郎もまた一段声を重くして答えた。そうして何か心奥に潜む見果てぬ夢の美でも語るかに、扇太郎は溌剌(はつらつ)とした貌(かお)に切り替えた。真冬の広い法堂は、たゞ凛としている。
「 これが、印象(いんしょう)の蒼龍か! 」
  本尊の真上を龍が翔けている。しかし、どことなく想定していた印象の描き方ではない。扇太郎の話を聞きながら虎哉はそう感じた。
「 これなら衣笠と対になるが 」
  すると見上げる天井の一面に、きぬかけの路を敷き、そこに夏の雪を泛かばせてみた。
  自身でもよく判らぬが、ふと、そんな思いが衝(つ)いて出た。
  金閣寺から龍安寺、仁和寺へといたる沿道の立命館大学衣笠キャンパス正門前に、虎哉が何度か足を運んでみた堂本の美術館がある。堂本印象(どうもといんしょう)は明治24年京都に生まれた。
「 たしか彼が逝去したのは、昭和50年の9月だった・・・・・ 」
  同年には版画家の棟方志功(むなかたしこう)が死去したこともあり、同時期に二人の芸術家を亡くしたことから、印象の死も虎哉の脳裏には鮮やかにある。何しろその同月には、昭和天皇と皇后が史上初めてアメリカ合衆国を公式に訪問した。
「 たしか志功は享年72、印象は享年83、昭和天皇74歳 」
  だったと記憶する。それぞれの年齢に自分の年齢を比べ合わせて、昭和という時代を省みた記憶が虎哉には明らかに刻まれていた。
「 その天皇といえば・・・・・ 」
  衣笠山に、宇多天皇が真夏に雪見をしたく白絹を掛けたという。印象の美術館からその衣笠山を望むことになる。本名を「堂本三之助」、彼は京都市立美術工芸学校を卒業後しばらく西陣織の図案描きなどをした。またその西陣といえば応仁の乱。しだいに虎哉には戦後は抽象画も手がけた堂本印象と東福寺本堂の再建とが重なり合ってきた。
「 そうか、印象は、二面性とも思える画家・・・・・、そういうことか 」
  印象の画風は、戦前と戦後とでは別人のように違うからだ。
  堂本印象は、戦禍や敗戦の惨状をみて画風を大きく変えた。龍は戦前に描かれたものだ。東福寺は明治14年(1881年)に仏殿と法堂が焼ける。その後七年を経た大正6年(1917年)から再建工事にかゝり、昭和9年(1934年)に本堂は完成した。入母屋造、裳階もこし付きの高さ約25メートル、間口約41メートルの大規模なその堂は、昭和期の木造建築としては最大級のものである。
「 阿部家と・・・・・、この本堂と、どう交わるというのだ・・・・・? 」
  雨田虎哉は駒丸扇太郎が粛々と語る阿部富造の話に耳を傾けながら、静かに天井の蒼龍をまた睨にらんでいた。
  どうにも眼をむく龍の視線が妙に意外で心なし気障りに感じられたからだ。



「 どこに、何をみようとしてるのか・・・・・? 」
  よく見据えると、逆に龍が虎哉を睨み返すかのようにある。あるいはその鋭い両眼を輝かせた天井の龍の絵は、描いた堂本印象が虎哉を睨むような姿にも見えてくる。
「 龍は釈迦の説法を助けるというが・・・・・ 」
  印象の龍は見ようによって、穏やかさと迫力の両方が感じ取れた。すると印象がそう感じさせる筆の勢いをたどりながら飛天する蒼龍の全体を眼で追うまゝに、視線をグッと真下に落とすと、虎哉の眼は本尊の両眼とピタリと合致した。
「 なるほど、こゝを見ていたのか 」
  妙心寺で見た天井の龍は「八方睨み」で、どこから見ても龍と目が合うのだが、印象の龍は視線の先が一定で正面をただ睨みつけている。虎哉がこの蒼龍と眼を合わせるには、人の立ち位置というものが定められていることになる。
  虎哉はそこに新たな堂本印象がいることを発見した。
「 かってこゝに大仏が座っていた。本来ならそうだ。全寸15mの・・・・・ 」
  眼を閉じては、眼を開き、また閉じては開きと、虎哉はそのしばたきを繰り返してみた。すると、焼失した大仏の大きな面影でも抱くように印象の蒼龍が空を翔けている。
  そして、龍頭から龍尾までの先を眼で追いかけてみる虎哉には、今では片手しか現存しない大仏であるが、往時の仏殿本尊の釈迦像高さ15メートル、左右の観音・弥勒両菩薩像の約7メートルという巨大仏の御姿が、鮮やかに泛かぶようにみえてきた。
  幻の大仏となって、御姿の一切はこの本堂から消えてはいるが創建当時、これは新大仏寺の名で喧伝され、足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ、その大仏を保持することで東福寺は永く京都最大の禅苑としての一大面目を伝えてきたわけだ。
「 消滅した・・・・・大仏・・・・・! 」
  この大仏の行方が、京都の変遷をすべて物語っている。
  そもそも遷都の経緯からして穏やかではなかった。堂本印象の龍が妙心寺のモノと違うように感じさせるのは、どうやら印象は、消滅した大仏が本堂に座ることを想定して描いたと思われる。印象は描き摂とる視点をその一点に据えた。京都の歴史とは、世にまつろわぬ者を集約させては離散させて生きてきた。
  そう思えた虎哉は堂元印象の美術館の様相が訝(いぶか)しくも滑稽であった。そこには京都人の表裏を垣間見るようだ。



「 あれは・・・・・、きっと反骨なのであろう・・・・・ 」
  京都の町屋とは共存しそうもない堂本印象美術館の風景を、虎哉は眼に泛かばせていた。
  それは、本堂天井の蒼龍を入れるには、どうながめても似つかわしくない容器なのだ。
「 陰陽の不調和は彼が体験した内面の落差なのであろう・・・・・ 」
  戦前と戦後、二人影の堂本印象がいることに虎哉はぼんやりとしていた。そのぼんやりとは、日本人が戦火に愕然(がくぜん)と立ち竦(すく)んだ体験の放心である。無論、その焦がされた地に虎哉も立っていた。
「 冷えてきましたね・・・・・、万寿寺(まんじゅじ)の裏に一部屋、ご用意しています。移りましょうか・・・・・ 」
  膝の震えを感知したのであろうか。にわかに扇太郎は、くるりと虎哉と香織の方へ目線を向けた。そうして香織に止めた扇太郎の眼は、やさしげに微笑んでいる。どうやら患う脚への気遣いではなさそうだ。虎哉もまた香織の顔をみてニヤリと笑った。
  二人は香織の大欠伸(おおあくび)を見過ごしてはいない。しかも香織は扇太郎が語る間、始終つまらなそうな顔をして俯いていた。どうやら早起きの香織には刺激のない退屈な長話のようであった。
「 香織ちゃん。昼食は、駅前の大黒ラーメン、あれを食べようかね 」
  やはり花より団子の乙女なのである。香織はそう扇太郎から促されると丸い両眼を輝かせてニコリとした。とたんに、その眼に濃厚かつ軽やかな豚骨醤油のスープが泛かんでいた。
「 京は和だけやあらへん。中華(しな)もあるんや。そう言うてはった 」
  それは祇園時代に、置屋の佳都子に何度か連れられてきて食べた佳都子一押しの京風支那ソバなのであった。
  そんなことなど扇太郎が知るよしもないことであろうが、香織に憑(つ)いた睡魔は大黒の一言で退散して消えた。何しろストレートの細麺は喉越しもいゝ。東福寺駅前店とは別に本店が桃山にあることも佳都子から聞いていた。ふと香織は腰にある赤い勾玉(まがたま)をみた。
「 具は太めのもやし、多めのネギは・・・・・じつに嬉しい 」
  眼に大黒ラーメンのスープを注がれた香織は朗らかになった。
  何とちゃっかりした質(たち)であろうか。香織は本尊にこっそりと諸手を揉んで密やかに合わせた。何やら賽銭泥棒が礼儀でもするようで虎哉は可笑しかった。香織の拝んだ本尊は大仏の代身として現在の法堂に座る。その本尊釈迦三尊像(中尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)は、明治14年の本堂焼失後に同境内の万寿寺から移されたもので、これは鎌倉時代の作である。
  万寿寺はかつて下京区万寿寺通高倉にあった。京都五山の第五位として大いに栄えて、天正年間に現在地に移された寺で、本堂を後にした三人はその万寿寺へと向かうことにした。
「 少し歩くことになりますが・・・・・ 」
「 あゝ、構わない。そう気を遣わないでくれ。大丈夫だ・・・・・ 」
  と、虎哉はチラリと香織の顔色をみた。気丈夫にみせる物言いに香織がけげんそうな眼をみせる。
  患う脚に気遣いをされ、労わりだと分かるが、施しの眼ほど心苦しいのだ。しかしそこは苦笑して始末した。肩に手を添えようとする香織に合わせ、虎哉はステッキの柄を固く掴みなおした。
  向かおうとする万寿寺は、昭和10年(1935年)には京都市電と東山通、九条通の開通により境内が分断され、東福寺の飛び地のような位置に置かれている。だが幸いに東福寺駅には近い。このときまで虎哉は、扇太郎がなぜ距離のある東福寺本堂へと先に案内したのかがよく解らないでいた。
「 大仏の片手と・・・・・、先に・・・・・、この一樹を見て戴きたいと思いましてね・・・・・ 」
  虎哉のそんな内心を射抜くかのように、扇太郎は本堂外の一樹を指している。
  虎哉はぼんやりとその指先をみた。
  漠然とながめても図太い古老の大樹ではないか。寒空の下に毅然と立っていた。
  しかしこの老木と大久保利通とに何の因みがあるというのだ。
「 どうです見事な大樹でしょう。樹高およそ16メートル幹回り4メートルほど・・・・・ 」
  扇太郎がそう説明したが、虎哉も樹木に関してはプロである。しだいに虎哉の眼は鋭くなった。
  この大樹が1780年の「都名所図会」や1700年前後に書かれた「東福寺境内図」にもすでに大樹として描かれていることを想えば、400~500年の樹令でもおかしくはない。たしかにその一樹だと思われた。
「 これが・・・・・あのイブキか! 」
  ビャクシンともいうのだが、目前にある大樹は、そのヒノキ科の常緑高木であることは明白であった。
  虎哉はおもむろに大樹に近寄ると木肌に両手で触れてからそっと樹皮に鼻尖(はなさき)を押しあてた。
「 明治の火災のおり損傷を受け、北側の樹皮が失われていますが未だ健在の古老です。火の伽(とぎ)であり明治の語部(かたりべ)ですね。じつはこの古老樹には兄弟がいましてね・・・・・! 」
  みずからの祖父でも讃えるかの口調で、扇太郎はやゝ自慢気に言った。
  虎哉はかって山口県西部の「恩徳寺」という寺の境内にある「結びイブキ」という国定の樹齢450年と伝わるイブキを見たとき少なからぬ驚きを覚えた。これはそれ以上の樹齢だと推察できた。
「 この樹は、空に向かって伸びようとするのだよね。しかも兄弟の樹があったとはね! 」
  葉の付いた枝はすべて上に向かって伸び、一樹全体としては炎のような枝振りになる。虎哉はそのことを言った。それは以前に一度大徳寺仏殿前にあるイブキを見上げながら感じたことだ。
  イブキは開山国師が宋国(中国)から携えてきたと伝わる。大徳寺のイブキの方が大ぶりだが、香気は東福寺のイブキが強いように虎哉は感じた。
「 この一樹を誰がどこから運び、植えたのかゞ、重要なのです。先に見て戴いたのは・・・・・ 」
  と、そう言って扇太郎はイブキの高みをじっと見上げた。
「 なるほど・・・・・、どうやら阿部家との関わりは兄弟樹の方にあるようだねッ・・・・・! 」
  扇太郎の鋭く見上げた眼光がすでにそう語りかけるように言っていた。
  駒丸扇太郎も樹木に関しては職業人である。その筋で飯を喰っているわけで、すでにお膳立てはできているのであろう。大久保利通と大仏の片手、そして兄弟のイブキがじつに密やかであった。
「 えゝ・・・・・、詳しくは、万寿寺の裏の方で・・・・・ 」
  こゝで話を一旦絶って、万寿寺の近くにて語るという。その口調から虎哉の脳裏には、ふと赤星病のことが浮かんだ。
「 赤星病とは、垣根等に植えられるビャクシン類が寄生植物となり、病原菌が春先の風によって飛ばされ梨の木に感染し、葉を落としてしまう恐ろしい病気で梨の大敵の一つとされている。イブキもそうなのだ。そうしたビャクシン類が梨の果樹園から1・5キロ圏内にあると、必ずといって良いほど病気が発生する・・・・・ 」
  扇太郎はその果樹の専門家だ。その男が、場所を方違(かたがえ)のごとく変えて万寿寺の近くで語り直そうとする姿勢に、どこか赤星病から梨を保護でもするかのようで虎哉には少し可笑しみが感じられた。

                              

  その万寿寺の正面までやってくると、誰もが胸をジ~ンと叩くものを見る。虎哉もやはりその鐘楼の佇まいをじっと見た。上層に鐘を吊り、下層は門を兼ねている。
  これを「東福寺鐘楼」といゝ、なるほど京都五山の禅宗(臨済宗)寺格、小ぶりだがその風格はいかにも重い。ちなみにその京都五山とは、南禅寺を別格として位づけすると天龍寺第一位、相国寺第二位、建仁寺第三位、東福寺第四位、そして万寿寺第五位の寺格となる。今日では京都五山は、京都禅寺の格付と一般に勘違いされやすいが、しかしそれは決して正しい解釈ではない。京都五山とはあくまで足利氏の政治、政略的な格付けである。大徳寺は同様の理由から格を下げられ、後に五山制度から脱却した。
「 そのような権力の寺格とは何と愚かなことか・・・・・ 」
  静かに万寿寺の鐘楼をみつめるとその正体を暴くかに覚えさせられる虎哉は、鐘の重みに包まれた界隈に、ふと真逆の喧騒を感じた。
「 またなぜ今、万寿寺の、この鐘楼なのか・・・・・? 」
  万寿寺は京都でも一般公開されてない寺の一つである。どうやら扇太郎には何か特別の謀り方があるようだ。寺の裏に用意したという一部屋が妙に密やかで気にかゝる。
「 それにしても随分、静かになったものだ・・・・・ 」
  界隈が様変わりしている。鐘楼をみつめていた虎哉の脳裏にはふと、終戦直後の京都駅南口界隈での光景が泛かんだ。
「 あの当時、闇米(やみごめ)の買出しで賑わっていた・・・・・ 」
  東京から岡山へと向かう途中、関ヶ原を過ぎて車窓から伊吹山の頂きが見え始めると、久しく眼に触れていない京都の景観が懐かしく思われた。列車が米原駅を通過してみると、にわかに予定を変えて途中下車することにした。そして東寺に立ち寄ってみたくなった1945年9月、虎哉は京都駅でその列車を降りることにした。

「 虎姫(とらひめ)・・・・・か! 」
  と、当時、京都駅南口界隈で聞いた「 だんな、虎姫だよ 」という男らの呼び声が妙に懐かしく思い出された。
  終戦直後、八条通り一帯(現在のJR新幹線京都駅八条口)にできた大闇市での光景である。小さな改札口が一つしかない京都駅南口は「闇米」の買出し客で混雑していた。
「 阿部和歌子・・・・・、そして祇園の佳都子・・・・・ 」
  闇市で幾度となく聞いた「虎姫」の響きには、どうしても思い出す勇みな女子の名前があった。
  敗戦によって満州・朝鮮・台湾といった穀物の供給源を失い、またそれら外地からの引揚者によって人口が激増、日本の食糧事情は極めて劣悪なものとなっていた。その最中、阿部和歌子という女性の奮闘は、洛中の闇に衝撃をもって迎えられ、無法の太陽論争を巻き起こした。太平洋戦争の終戦後の食糧難とは、食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で死亡する時代であった。
  和歌子はその食糧管理法違反で起訴された被告人らを真正面から助勢した。佳都子はその子分である。二人は、配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きていけないのに、それを取り締まる側こそが非国民だと堂々と絶叫しては太陽のごとく暴走した。
  そして二人は、配給のほとんどを多くの子供達に与え、自分らは共にほとんど汁だけの粥などをすゝって生活した。虎哉は戦後の闇市に、そんな女性戦士二人と出逢った。虎哉にはこの馴れ初めがある。そこには未だ青年の和歌子と少年の佳都子がいた。
「 闇米という名の米は、百姓は作らない! 」
  と、そう書かれた前垂(まえだれ)を締めて二人は闇とは与(くみ)しない闇市に立っていた。

                               




                                      

                        
       



 東福寺 秋








ジャスト・ロード・ワン  No.23

2013-10-03 | 小説








 
      
                            






                     




    )  亡国の泡  ①  Boukokunoawa


  デリケート・アーチをくゞり映る紫陽なラ・サール山脈の雪渓を眼に入れてたゝずむと、阿部秋子は記憶の奥底から目醒めるように、泛き上がる回想を早めぐりさせては、何度も何度もうなずき返した。そして比叡の深山を想いながら篠笛を吹いたのだ。
  そのデリケート・アーチを連想し、笛の音を感じる雨田博士の背中には、阿部一族のかげろう夢の浮橋がある。
  赤く枯れた塩岩のアーチ、それはまた逝く我が妻の渡る浮橋、香織の母影を求めた夢橋であった。
  夢の浮橋跡に来て駒丸扇太郎のいう「 亡国に生まれた黒い泡の酒 」を胸に含ませたせいか、雨田虎哉は妙に今、背でも叩かれるごとくまた今朝けさ方の夢のこと、あらゆる夢の記憶のことに黒く泡立つごとく急かされていた。
  依然として日中が不発弾をかかえ、竹島をめぐっては日韓に亀裂が走っている。北方四島問題もロシア有利のままに再燃している。

      


「 そうか・・・・・、今夜は、氷輪(ひょうりん)はない・・・・・! 」
  常世(とこよ)でも月光は常に移ろう。もう七年前とは違う月の像かたちであること、雨田虎哉は今宵の下弦がふと細く過ぎった。
「 明慧(みょうえ)の夢記・・・・・。そして一乗寺六号・・・・・! 」
  虎哉の夢の記憶といえば、外国から伝えられた仏教が日本人の魂との触れ合いのなかで変貌してゆく時代に遺された一冊の夢記があった。この書は、紀ノ国和歌浦(わかのうら)の風土に因む人のつゞり遺したものである。幽けきこの一冊も虎哉を揺らし起こしてくる。虎哉がそれを思い起こしたのは、今世紀の初頭に、フロイド、アドラー、ユングという三人の巨人が互いに同様の接触を重ねつゝエレンベルガーの「 無意識の発見 」の仕事に力を尽くしてゆく過程があった記憶を強く引き出したからだ。



  その過程を見事に描写したエレンベルガーの書に想いが重なる虎哉の眼には、自然と明慧(みょうえ・明恵)の『夢記』が泛かび、さらにその夢に夜の海峡を越える一乗寺六号という銀の羽ばたきがあることを覚えた。
「 銀翼と言えば、日本には、あの零(ゼロ)式艦上戦闘機があった・・・・・ 」
  一乗寺六号の飛んだ遥かな夜空を想うと、またそこにはあの暗闘の大戦にあった悲劇の夜空が泛かんできた。
  零戦の出現当時、零戦はいかなる戦闘機に比べても空戦性能がすぐれていただけではなく、航続距離においてまさっていた。当時、零戦は2200キロの航続距離を持っていたが、当時連合軍の戦闘機がロンドンとベルリン間(片道約900キロ)を飛行し帰ってくることは夢物語であったのだ。この二つの銀翼は雨田博士に「国境とは何か」を問いかけてきた。
                                 
  ゼロ戦は、日米双方でこの格闘性能の高さが評価された。横須賀航空隊戦闘機隊長であった花本清登少佐(横須賀航空隊戦闘機隊長)は実戦でゼロ戦が敵機を制圧していたのは速度だけではなく格闘性能が優れているためで、次期艦戦機の烈風でも速度をある程度犠牲にしても格闘性能の高さに直結する翼面過重を低くすべきと主張し、空技廠飛行実験部の小林淑人中佐もこれを支持している。 鹵獲(ろかく)した零戦を研究した米軍も決して零戦と格闘戦をしてはならないと厳命したほどだ。そして米軍は低い急降下性能などを突く対処法を考案した。
  さらにゼロ戦の航続力も強みとなった。長大な航続力は作戦の幅を広げ戦術面での優位をもたらす。実際、開戦時のフィリピン攻略戦などは、当時の常識からすると空母なしでは実施不可能な距離があったが、ゼロ戦は遠距離に配備された基地航空隊だけで作戦を完遂した。
「しかし、ゼロ戦が空の王者を誇ったのも大戦半ばまでで、ミッドウェー海戦、さらにマリアナ沖海戦の手痛い敗北により、日本は主力空母と、パールハーバー以来の優秀な操縦士を多数失い 次第に劣勢に追いこまれた。零戦は徹底した軽量化による機動性の向上を重視して開発されたため同世代の米軍機に比べ、被弾に弱かった・・・・・ 」
  大戦末期に老兵となったゼロ戦は、その背にあまたの若き日本兵を乗せ、ある者は敵艦へと、またある者は撃墜され、命そのものを弾丸とした哀れな特攻撃に身を供し、彼らの魂を黄泉へと運んでいる。それら栄衰をはらんだ運命は、まさしく帝国の興亡と不断一体であった。




「 アメリカ軍に占領されたマリアナ諸島などから日本本土に襲来する新型爆撃機・B-29スーパーフォートレスの迎撃戦においては、零戦の高高度性能に不足があったため撃墜は困難であった。大型爆弾用懸吊・投下装置を追加した末期型は代用艦爆(戦爆)として、また特別攻撃隊(神風特別攻撃)にも用いられ、レイテ沖海戦や硫黄島の戦いでは空母を撃沈破するといった戦果を挙げている。しかしやはり沖縄戦では、特別攻撃隊に対応して更に強化されたアメリカ軍の警戒網を突破するために日本側も戦術を工夫して突入を成功させ、空母を含む艦船を撃破したものの、艦隊到達前に撃墜される機も多く、アメリカ艦隊を撃退するまでには至らなかった・・・・・ 」
  海底に今も遺棄された銀翼から滲み出る黒い泡音を感じ、そして香織を後に伴わせた虎哉は東福寺駅へと、宝樹寺と龍尾神社の角を南へと曲がった。
  その東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町にある臨済宗東福寺派大本山の寺院である。山号を慧日山(えにちさん)という。本尊は釈迦如来、開基は九条道家(くじょうみちいえ)、開山は円爾(えんに)で、京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(たっちゅう)を有する大寺院である。

                              

「 それにしても一万キロの帰還とは、何と比翼(ひよく)なことか・・・・・ 」
  東福寺駅へと歩きながら驚異的な一乗寺六号の生還を想い描く虎哉は、扇太郎から昨年のフランス話を聞かされつゝ手土産に貰って味わった、黒いカルヴァドスの一瓶を想い泛かべていた。
「 たしかに、一杯のカルヴァドスには、人を騙(だま)して奇跡を起こす力でもあるようだ。比翼はその酒のせいなのか・・・・・! 」
  扇太郎はフランス留学を体験した男だけあって「 南フランスでは呑まない北西部フランスの酒である 」と言っていたが、醸造されながら完成に至らぬ(存在しないワイン)というものが、葡萄の育たないノルマンディー史には無数に存在した。またそうした日陰の存在を扇太郎は「挫折の裏面史」だとも物憂い顔で語っていた。そう聞かされてみて口に含んだワングラスの味わいには、たしかに挫折の裏面史にあるカルヴァドスならではの哀しい土に醸された慟哭でも嗅ぐような香気があった。
「 しばしば現実に存在するボルドーやブルゴーニュの上質ワインよりも、やはり刺激的なようだ。それはノルマンディー地方の風土を抜きにしてはやはり語れそうもない、その快い刺激はあらかじめ挫折することで、やはり生まれたのだ。奈良や京都の都こそが、あのカルヴァドスの一瓶と同じではないか。夢の浮橋、広島や長崎の被爆、これらもやはりその闇の泡なのであろう。そして今、日本人はその暗い泡立ちに泳いでいる 」
  と、そう思える虎哉には、戦乱絶え間なく継いできた日本の都なのであることが、一瓶のカルヴァドスが醸し出す香気を聞くと、現実に存在して図太くも繊細な林檎の隔世(かくせい)な味わいなのであった。
  そんなカルヴァドスが珠玉の一瓶であるというには、虎哉にとって、この酒がひたすら凝縮されたものだということがなければならない。それは天体を語る長大なものではなく、わずか2000年ほどの土地に織りこまれた一片の布切れのようでありながらも、そこからは尽きぬ物語の真髄が、山水絵巻のごとくにいくらでも流出してくるということである。
  日本の国が古来からそうであったと考えれば、源氏物語の作品が、日本の近代文学史上の最高成果に値する位置に輝いていることを、虎哉は改めて重く思わねばならなかった。



「 この一作だけをもってしても紫式部の名は永遠であってよい。したがって物語には、光源氏が数多の恋愛遍歴を繰り広げつゝ王朝人として最高の栄誉を極める前半生で始まり、源氏没後の子孫たちの恋と人生で結び終えるこゝには、主題から文体におよぶ文芸作品が孕(はら)む本格的な議論のすべてを通過しうる装置が周到に準備されているということではないか。源氏物語にはそう準備した紫式部のロジックがある。しかもそこに六(ろく)の密言があるとは!・・・・・ 」
  時間を経過させ人が読み砕くほどに、仏教思想を織り交ぜて描く源氏没落後の恋物語は未完なのだ。その未完ゆえにこの装置は常に希望を蓄えている。そしてその六(りく)の密言には、星一つ分ほどの空白がある。この空白こそが人間への許しなのだ。
「すると光源氏が抱えこんだ陰陽の世界というものが、現代の我々の存在がついに落着すべき行方であって、そのことを紫式部がとっくの昔から見据えていたということ、しかもその存在の行方を描くには、いっさいの論争や議論から遠のく視点をもって叙述しなければならないことを彼女は知っていた。あの式部は、その上で知らぬ振りか・・・・・! 」
  と、いうことを、奈良に向かう虎哉は今そのことにこそ触れなければならぬように思えた。
  眼で追えば届きそうな平凡な東福寺以南の宇治までの距離にある風景が、地の底をなぞると橋姫、椎本、総角、早蕨、宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋の十帖なのである。しかし式部の一人筆は、現代のつまらない立体を一呑みにして往時に凌駕(りょうが)する。
「 紫式部の文体が言霊(ことだま)であり密言(みつごん)であるのなら、人はたゞ唱えるだけでいゝ。人は式部の吐いた平安の言葉をたゞひたすらに聞くだけでいゝ。それが言語装置本来の効能なのであろう 」
  東福寺駅へと香織と向かいながら扇太郎の顔を泛かべる雨田虎哉は、さきほど夢の浮橋の暗渠をみた感触を抱きつゝ宇治十帖でも覗き見るごとくに眼を細く鋭くさせていた。
「 源氏物語が単なる女子供の手慰みという、そんなことはないでしょう 」
  と、陰陽を継ぐ駒丸扇太郎もそんなことを言っていた。その扇太郎という男は、幼い時からそばにいて父を見ていて、扇太郎にはその父が、学問や芸術に対して、山の頂を極める人のようなきれいな熱情を持っていた人のように、見えたという。またそう語る扇太郎とは、そのような父の「きれいな熱情」をひたむきに追う影とでもなるように生きているようだ。
「 やはり根の髄に、かって京都を歩いた馬借(ばしゃく)の風土が沁みついている。そうした駒丸家の馬借の披歴は、阿部家の披歴と同体を成して個性豊かな伝統を継いできた。その陰陽は摂理に真摯なのだ・・・・・ 」
  虎哉の眼には、それが彼らの上に一生つゞく道のように思われる。何事も迷信という言葉に投げ捨てられてしまう現代の車社会に馬借気質(ばしゃくかたぎ)とは不思議だが、一乗寺の扇太郎は、どこか懐かしい日本の何かを背負おうとする男なのである。そんな扇太郎が間もなくして東福寺駅に姿をみせる。虎哉は扇太郎が語ったフランスで過ごしたという彼の休日をもう一度思い起こした。



「 フランスには、葡萄(ぶどう)のワインやコニャックでは語れない潮騒があるようだ・・・・・ 」
  と、そういって彼は語り始めたのだ。
  その潮の音が幾重にも重なる駒丸扇太郎には、いつしか綻(ほころ)びの醜聞に耳を塞ぎたくなる惨めな色音の泡立ちとなっていた。とはいえ、人間への潮流のストレートな攻撃衝動はすでになくなっている。
「 このまゝでは過去の話には戻らないのである・・・・・ 」
  戦禍の正体は、勝利者のシンボルでみごとに華麗に風化していた。
  何一つ汚れのない瞳のような海がじっと扇太郎をみつめている。しばしそう見入ってみると、その大罪を訴えてやまない。扇太郎は不可思議な地上の星でも見る心地がした。人間とは、かくもゆゝしいことをする。丸い目にカミソリの刃を細く引き貌(かお)を厳(いかつ)くした。
「 いつでもそうだ。どこでもそうだ。痕(あと)はいつも机上の空論とさせる。日本の海も同じだが、やはりフランスの海も同様だ 」
  と、扇太郎は開口一番に怒りに近い気勢をあげたのだ。
  香織の肩を借りて片足を曳きながら駅へと歩く雨田虎哉は、そう扇太郎がまず気勢をあげて語り始めたフランス滞在時での旅の話と、いかにも空しく語り続けた姿とを、眼に強く鋭く泛かばせていた。核の拡散と分有は、現在もアメリカを頂点に巨大なコンパスを拡げている。
  眼の前の波に、たゞ美しさだけが遺されている。すでに「1944年6月6日」という時間が当たり前ではなくなっていた。造作であれ微笑む顔を突き出されては、握る手の拳(こぶし)は熾(おこ)せないのだ。
「 これでは、落胆を忘れ、人間は苦しまなくても済んだのではないかと、誤解してしまうではないか・・・・・ 」
  扇太郎はたゞ手を拳(こぶし)にしたまゝ震わせた。やはりそうでしかないのかという予測した震えなのである。しかし理不尽な埋没を許さない矜恃(きょうじ)さえあれば、腐ったリンゴはひと噛みでわかるのだ。

                            

「 アメリカ軍は中部南太平洋の島々を次々と陥落、6月にはサイパン、テニアン、グアムなどマリアナ諸島への攻撃を開始した。その海は、この海とつながっている・・・・・ 」
  すでに半世紀を過ぎた時間、本来なら煮詰まって一連の海は腐りきっているのだが、そうは感じさせない。扇太郎は父誠一の眼に成り変って前方をじっとみた。常に、勝利者は悲しみの手応えを亡くそうとする。因果まるのみして全ては抹殺されて終えようとする。
  扇太郎は、どのように向き合うべきかについては、その「 近現代の彫琢(ちょうたく) 」をどう理解するかゞ、自身は今後どこにどう立ち向かおうとしているのかを、読み解くヒントとなることを密かに期待していたのだ。しかし不毛な反目を見せるべき海の姿はすでに消えていた。
「 闘争の心理を、美しく誤魔化そうとする・・・・・ 」
  この世には、誰にも感謝されない非情の泡沫(あぶく)というものがたくさんある。扇太郎にとっては、弾ける泡のその一つが、明治末期に編集された前衛の一冊であるのだ。この浜辺では何よりもその手垢に染められた一冊が示唆的であった。
  日本人に西欧の風物文物へのあこがれを『海潮音』が抱かせてくれた。
  上田敏の象徴派訳詩集の「 選ばれし者の不幸 」をそう思う者は、永井荷風がそうである。北原白秋がそうであった。あるいは三木露風がいた。「calvados・カルヴァドス」の黒いボトルを片手に揺らしながらその「秋の歌(枯葉)」をつぶやくと、棄てられた戦場の淵を濯(あら)う異国の海峡は、神への冒涜さえもダンディーで、たゞ深く静かな淪(さざなみ)を聴かしてくれた。
  それは一粒の人間でしかないと、あざ笑うかのように揺れるさゞなみだ。しかし「 Erich Maria Remarque(エーリッヒ・マリア・レマルク) 」による第二次世界大戦後の逸作「凱旋門」にはたびたびカルヴァドスが登場し、この酒を有名にしたが、ドーバー海峡には、どうやら、この「りんごの酒」が確かに似合うようである。
  レマルクは、第二次世界大戦中のパリを舞台に、ナチスの影におびえ復讐相手を追い続ける日々を生きる医師ラヴィックと女優ジョアンの鮮烈な恋を中心に、時代に翻弄されながらもひたむきに生き抜く人々を描いた。
  この物語は2000年に宝塚歌劇団によってミュージカル化されている。そして初演のS席に虎哉と香織はいた。
「 おれは復讐をし、恋をした。これで充分だ。すべてというわけではないけれど、人間としてこれ以上は望めないほどだ・・・・・ 」
  という。これは最悪の時代と境遇の中で精いっぱいに生きて、望みを果たし、ついに心の動揺が鎮まったときの主人公ラヴィックの心の底からの感慨であった。著者レマルクは、敗者の国を抜け出し、勝者の国で生き延びる人間を描いた。
  扇太郎がパリにあこがれたのは、まだ高校生のころに読んだこの「凱旋門」からである。
  ゲシュタポに追われるユダヤ人亡命医師、ラビックと天涯孤独な端役女優、ジョアンが、ナチの暗雲迫り来るパリで繰り広げられる絶望的な恋の物語を読んで、まだ見たこともない異国の町に思いを馳せたものである。
  この小説には凱旋門近くと思われる通りの名前がしばしば登場した。そしてエトランゼにパリの夢を灯した。シャンゼリーゼ通りはもちろんだが、マルソー通りとか、エトワール広場、ピエール・プロシェール・ド・セルビエ通りなどといった、いかにもパリらしい通りの名前が次々に出てきて、小説を読んでいるうちに自分が行ったこともないパリの街中をうろついている思いにさせられたのである。だから、いつか海外に行けるようになったら、まず真っ先にパリに行って、ラビックとジョアンが歩いた街を歩きたいとずっと思っていたのであった。
  その望みが扇太郎にかなったのは1973年(昭和48年)である。
  凱旋門を自分の目で見、シャンゼリーゼの裏通りを歩いて、それがレマルクの小説と同じイメージであったことを確認した。しかし小説の中でどうしても理解出来ないことが一つだけあった。それはラビックとジョアンがパリの裏町をさまよった後に、必ずお酒を飲んでいたことだ。それも水代わりにである。ジョアンが「 喉が渇いたわ 」というと、「 コニャックを飲むかい。それともカルヴァドスにする 」と、ラビックが聞いている。
  これを読んでフランス人とは、喉が渇くとコニャックのような強いお酒を日常的に飲むのかと、そう思い驚いたのだが、後でレマルクが無類の酒好きから書いた文章だと分かった。じつはカルヴァドスという林檎の酒がフランス産であることもこの小説で初めて知った。
「 しかし小説でそれを知って、敗戦国の人間が、勝者の国に素直に憧れていゝのか 」
  という、しだいに固い殻のそんな思いが真剣につのる。いつも傷痍(しょうい)の父が脇にいたからだ。
  そして自虐して見えてくる人間の愚かな逆さかしまがあることに気づいてきた。
「 人間が繰り返す闘争の心理とは、意外に単純なものだ。そこにあるものはたゞ唯物である。父誠一は出征先の中国南方からレイテ島に征く途上で、兵站(へいたん)の補給がまゝならず、常に飢餓の恐怖と隣り合わせであったのだという。戦争は物の不均衡(ふきんこう)から起こる)とも語っていた。そういうあの眼の薄暗さは尋常(じんじょう)ではなかった・・・・・ 」
  日本では飼い犬の強制供出「 毛皮は飛行服に、肉は食用に、大3円、小1円 」とは、それはもう正気ではないほどに馬鹿げている。
「 西部戦線異状なし・・・・・ 」
  と、レマルクの名を耳にしたとき、突然と触れて至極親しみのある名の響きに、雨田虎哉はこの表題を浮かべ、そして晩年はスイスで暮らし療養中であったレマルクの蒼白な顔を思い出した。
  療養中だと思えたのは、1970年に動脈硬化に起因する大動脈瘤で死去したからだ。虎哉がスイスのロカルノでエーリッヒ・マリア・レマルクと出逢えたのは1969年のことであった。
「 最初の砲撃で目が醒めた。戦死はたゞ汚く、無惨だ。国の為になど死んではならない。無駄死だ。・・・・・ 」
  とは、西部戦線異状なし、その一節である。
  虎哉はリクエストに応えたレマルクの地声を聞いた。戦火を踏んだその口の実態とは地雷なのだ。
  1933年にナチスが政権を握ってから彼の本は焼却されたり、「 彼は実はフランス系ユダヤ人の末裔だ 」「 実の本名はクレーマーというのだ 」と、名前までも逆さに綴られて呼ばれるといったデマが広まり、書籍の焚書(ふんしょ)処分を受けた。そして1938年にドイツ国籍を剥奪され、1939年にアメリカ合衆国に亡命し、帰化して47年に合衆国の市民権をえた。なぜ彼が帰化した後に晩年がスイスなのかは、1929年に彼は『 西部戦線異状なし 』を発表し、大ベストセラーとなる。早くも翌年にはハリウッドで映画化された。やや通俗的だが反戦的内容でもあったため、右傾化するドイツを避け1932年にスイスに移住した体験による。
  雨田虎哉が初めてマジョーレ湖を見たのは1969年、日曜の晴れた朝であった。
  異国の旅は予定に任せないところがある。マジョーレ湖畔のイタリアの町カンノッビオのメルカートに着いたのは昨晩の遅くになってしまった。マジョーレ湖を見たかったわけではない。予定通りならスイスのロカルノに夕刻到着していたはずだ。
「 しかたなくメルカートに小さな宿を見つけた・・・・・ 」
  そうなると翌日は日曜日、急いでロカルノに向かったとして日曜では用が足せるはずもなかった。
  マジョーレ湖畔には別荘が狭い崖のような土地にぎっしり建てられている。道路わきに小さい箱のような小屋があるのだが、何かと思えば、エレベーターの入り口である。道路口から家の中にエレベーターが引き込んであるって細い空間は何か不思議ですらあった。メルカートの小さな町の日曜では、どこもかしこも軒並み閉店みたいなものだ。そこで午前中に国境を越えることにした。
「 酒は積んでないよ! 」
  と、冗談を言った。すると国境警備員は微笑んで通過するよう頷いた。酒を積んだ車で通過しようとするとよく税金逃れと怪しまれ時間をロスすることになる。国境を越え、ブリサーゴ島が見えるとロカルノ、保養地ではあるが坂の多い街であった。ともかくも空腹である。眼についた手頃なホテル内のレストランへ駆け込んだ。選んだのは「Ossobuko(オッソブッコ)」、仔牛の骨付きすね肉を輪切りにして煮込んだものだそうだが、そう説明を聞かされてオーダーをし、待ちながらふと何気なく右横のテーブルを見るとアラビアータをのんびりと食べる洒落(しゃれ)た紳士がいた。意識不在のまさしくそれが一期一会、レマルクなのであった。



「 おいしそうですね。そのアラビアータは・・・・・ 」
  と、つい何気なく声をかけていた。正直な感想ではあった。当時レマルクが日本に対してどのような感想を抱いているかなど、まして目の前の紳士がレマルク自身であるなど知るよしもなく一旅行者の振る舞う軽い挨拶でしかなかった。
  すると紳士は意外な言葉を応え返してきた。
「 一人のリトルボーイは英雄ではある。その子に毒を盛られたのでは食感などないでしょう 」
  と、少しニヒルに笑った。虎哉はその言い回しが妙で、自分に返されたであろう言葉を呑み込めぬまゝに数回反芻(はんすう)した。どうやらそれはレマルクのトリップであった。
「 やはり貴方は、日本人ですね! 」
  と、直ぐに射返された。東洋人であることは判っても、彼は二段立ての反応で相手の国籍を確かめようとした。それはたしかに年齢相応の投げかけであった。お互いが大戦を体験したはずの年齢なのだ。その年齢に達した東洋人が、リトルボーイと聞かされて何かの反応を示すのであれば、十中八九、日本人であり、しかも敏感に反応するのであれば当時の階級も知れるであろうと考えたようだ。
  そのレマルクは1898年にドイツ北西部のオスナブリュックに生まれ、ミュンスター大学で学んでいる。
  第一次世界大戦中にドイツ軍兵士として従軍し、そのときの体験を元に『 西部戦線異状なし 』を書いた。29歳の青年による兵士の苦しみ、友情、惨めな死など戦争の前線をリアルに描いたこの作品は軍国主義への批判をこめた戦争文学の傑作となった。発表されるやたちまち世界的な反響をよび、あらゆる時代をとおして広く読みつがれる小説のひとつになっている。この作品をもとに三種類の映画がつくられた。そしてつゞいて彼は31歳の作「還りゆく道」で、大戦後のドイツの現状を鮮やかに描き上げた。
  坂道の多いロカルノは、マッジャ河が谷を少しづつ削って作った三角州の上に出来た町である。
「 私のお気に入りの場所がある。そこに案内しよう・・・・・ 」
  と言って、彼は虎哉が食事を終えるのを待っていてくれた。
「 リトルボーイも食べられたものではないが、豚男はもっと不味(まず)い。食べぬよう忠告されたのにも関わらず食べてしまった。おかげで下痢続き、だから口直しにロカルノに来ようと思いました・・・・・ 」
  と、虎哉が紳士に応え返していたからだ。高台からロカルノ方向を見下ろすと、マドンナ・デル・サッソの聖所がやわらかな霞の中で榛(はしばみ)色いろの黄味がかった薄茶壁が仄かに溶かされていた。それはさも天空に座る城郭のごとく泛いていた。この場所に来て虎哉は、初めて案内者がレマルクであることを知った。
  第一次世界大戦が始まった当時はギムナジウムの生徒で、1916年に級友たちと共に徴兵されて西部戦線に配属された。戦場に出て翌月には榴弾砲弾の破片を首や腕に受け、終戦までデュイスブルクの野戦病院で過ごした。ドイツの敗戦後、負傷兵として帰還し復学、卒業後は教員など経て、ベルリンに出てジャーナリストになったという。
  レマルクは、マドンナ・デル・サッソの聖所を臨みながらそう語った。虎哉は上海で「西部前線異常なし」を読んだことを、感動を覚えたことを告げると、少しはにかんで笑った。そしてリクエストされた作品の一部をそっと呟いてくれたのだ。
  こうして虎哉は自身の体験を交えると・・・、扇太郎は、中国と日本の話に切り替えた。
「 もう喧嘩はすみましたか。喧嘩をしてこそ初めて仲良くなるものですよ・・・・・ 」
  と、毛沢東主席が田中角栄首相と握手した。それは扇太郎が初めてパリを訪れる前年の出来事であった。日中は戦後30年近く続いた対立関係を終え、国交正常化を果たした。その友好の会談の場であった釣魚台の迎賓館の一室には銀座「木村屋のアンパン」が用意されていた。九月の30℃を超える猛暑日であった。パンは腐らずに、日本が腐ることになる。中国のいう口喧嘩とは友好の互換性がない。その田中首相の好物と引き換えに、翌年の日本には、パンダのぬいぐるみに大はしやぎする日本人の姿があった。そうした風潮に扇太郎の父誠一は「 日本人はすぐあゝなんだから 」と渋い顔をした。未だ日本はアメリカ頼み、ぶら下がりの高度経済成長を信じていた。



  誠一は中国大陸を転戦して帰還した傷痍軍人であった。中尉として所属する第16師団は支那事変(日中戦争)が勃発すると南京攻略戦に参戦した。さらに大東亜戦争(太平洋戦争)ではフィリピン攻略に参戦しマニラ陥落後フィリピンに駐屯した。
  だがレイテ島に移駐すときに機銃掃射にて負傷し傷痍(しょうい)者となった。その父が他界した7年後、ドーバー海峡を見つめながら扇太郎は父誠一の遺品である『海潮音』の序を見開きにして暫く佇んでいた。
  序文の冒頭を引くと「 詩に象徴を用ゐること、必らずしも近代の創意にあらず、これ或は山岳と共に旧きものならむ。然れどもこれを作詩の中心とし本義として故らに標榜する処あるは、蓋し二十年来の仏蘭西新詩を以て嚆矢とす。近代の仏詩は高踏派の名篇に於て発展の極に達し、彫心鏤骨の技巧実に燦爛の美を恣にす、今ここに一転機を生ぜずむばあらざるなり。マラルメ、ヴェルレエヌの名家これに観る処ありて、清新の機運を促成し、終に象徴を唱へ、自由詩形を説けり・・・・・ 」とある。
  扇太郎自身、何度こゝを読んだことであろうか。実際、永井荷風の「ふらんす物語」もこれによって誕生したようなものだ。
  父誠一は生前、秋深くなると切断された右足の付け根が冷えて痛むのか、義足を支える腰骨の肌を涙眼で擦り撫でながらよくこの詩を口号(くちずさ)んでいた。そうしてまで呟(つぶや)くのは「 好き嫌いではなく。日本はまさに世界に正面から向き合わねばならないのだ 」と、慟哭を更地に変えて切り拓くほどの切実な飢えを体験したからなのだ。
「 あれは、蛮行と過酷な戦争体験からくる平和への思いであった。父誠一のような死闘の辛酸をなめた戦闘経験者世代は台湾に愛着があり、国交正常化と言われても素直には喜べない。しかし最終的には世間が日中友好ムードに流されていく。父が見せたあのときの渋い言葉の表情は、当時の日本人の心理をよく表していた・・・・・ 」
  そういう口ぶりの、深いしわを刻んだその父の皮をむいたら、芯にはみずみずしい明治生まれの青年がいるのでは、と思わせたのだ。中国は国交回復後、友好の証しとして「カンカン」「ランラン」の二頭のパンダを贈り、日本はしばしそのパンダブームに酔いしれていたのだが、父誠一はそうした真下に他界した。
  相互の歴史認識、台湾問題など難題だらけの国交正常化交渉がまとまったのは、その交渉の背景に前年の米中接近、中ソの対立があったからだ。1972年9月29日の日中共同声明で、相互が大きな譲歩に踏み出せたのは、つまるところソ連国を会談のテーブルに乗せた軍事問題の取引である。この声明によって日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省することが声明に盛り込まれた。
  両国間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出された日に終了した、とする認識に父誠一はいかにも疑心暗鬼で否定的であった。5年後の1978年8月には日中友好条約が締結され、中国側は賠償金請求を放棄する代わりに、日本側からODA等の巨額な経済援助を引き出した。これがパンダ二頭分の代価であった。こうした決着の行為が不正常なのだ。父誠一は数多くの不況を体験した。
  その誠一が「 不況ということは世界諸国との兼ね合いもあり致し方ない国家の側面として国民は耐え忍ばならない理解しうることであろうが、しかし何よりに増して不況であることは、戦後における政治家たる人の不況ではないか。その不況を胸に深く刻まずして、一体何が果たせるというのだ・・・・・ 」
  と、よく唸るようにして新聞を見開きにしていた。
「 パンダさんが転んだ・・・・・か・・・・・ 」
  日中友好条約後の9月に長女夕実(ゆみ)が生まれた。祖父となった誠一はその3年後に他界するのであるが、生前の面影として、2歳半ほどの孫娘を子守する誠一は、達磨さん遊びを「パンダさん遊び」と揶揄しながらも初孫とする遊戯が、唯一憂さ晴らしらしく、じつに嬉しそうであった。そしてこの義足では二つの小娘にもまゝならないと笑っていた。
                         
  誠一は駒丸家の嫡男として明治38年に生まれた。遺品である「海潮音」は同年に初版されている。嫡男の誕生を祝賀する記念の一冊として祖父誠太郎が所望し買い求めたものだ。
  扇太郎が誕生したときも誠太郎は上田敏の『うづまき』、これは自伝的小説であるが、その復刻版を命名の下の床の間に飾り立てゝくれた。それらは祖父の嗜好品ではあるが、駒丸家では代々上田敏が身近な存在として無意識のうちにあった。
「 秋の日の ヴィオロンの ためいきの・・・・・ 」
  眼の前に「D―DAY」と同じ波濤(はとう)がある。
  訳詩は意味を伝えれば用が足りるものではない。英独仏三カ国語の詩の味わいを感得し翻訳するとは、想像を絶する語学力だ。
「 近代詩壇の母はまさしくこの人である 」
  とは、北原白秋が上田敏について語ったことばであった。一体どんな男かと、感嘆してそう想う扇太郎は、どうしても、青白い兵士らの生気をくみとらねばならなかった。生前、父誠一には自身が軍人であったことが、結果として村の若者を戦場に向かわせたことに、自責に似た思いがあったからだ。人を駆り出す役目がそう呵責させた。
  その誠一は戦後、公職に就かず、ひっそりと暮らした。そして海潮音は祖父誠太郎から父誠一に継がれながら遺された品である。そうした戦時の経緯を自らへと引き取るために扇太郎は覚悟すべき認識を持たねばならない。上陸作戦の暗号とされたこの詩を読み聞く度に、誠一は胸がかきむしられる様な、全体を強く縛られる呵責に打たれたという。扇太郎はその慟哭をみせられた。今は淡い輪郭しかもたないが、かつては大西洋の壁、その要塞の浜辺であったことを意識しながら、扇太郎は「ポール・ヴェルレーヌ(Paul Verlaine)」の歌をつぶやいて七月にしては暑いとも思えない冷やりとした風のビーチを歩いた。

     落 葉
        げにわれは 秋の日の 鐘のおとに
        うらぶれて ヴィオロンの 胸ふたぎ
        こゝかしこ ためいきの 色かへて
        さだめなく 身にしみて 涙ぐむ
        とび散らふ ひたぶるに 過ぎし日の
        落葉かな。 うら悲し。 おもひでや。

「 この暗号を、海峡は今どのように聴いてくれているのであろうか 」
  上田敏は、ヴェルレーヌの詩を日本古来の和歌の手法を使い七五調の変形五五調にして、和音のシャンソンとしてリズム感を出した。だから、日本人の誰にでも、安心して耳に入ってくるのではないか。日本語として詩情を湛えた作品に生まれ変わらせた。「とび散らふ」の「ふ」は反復、継続の助動詞ではないか。したがって「しきりにとび散る」「散りつゞける」ということになる。そうだから日本人の心に飛び散り続けてきた。その落魄の心は永遠のものとして現在も散り続けている。
  詩作とは、識字する人が人らしく生きる拠よりどころではないか。心打つ詩は尊厳と言っても過言ではない。それを冒した理不尽の世界がこゝにある。血のオハマF地区というビーチに立あおぐと、頭上の高みから血とも肉ともつかぬ赤色の粒が、ぱらぱらと零こぼれてくるがしかし眼の前では眩(まぶし)いばかりに白く光っている。遠い現実にたゝずむ扇太郎は気温25℃という少し肌寒い夏の盛りの海峡の浜に、たゞ心だけが爛(ただれ)るような傷みを感じ、しばらくとり残されていた。



「 上陸は六月だった。その暗号が秋の歌とは・・・・・ヴェルレーヌ・・・・・ 」
  第二次世界大戦の末期、BBC放送がヴェルレーヌの「 Chanson d'automne(秋の歌)」を放送した。
  これは「 連合軍の上陸近し。準備して待機せよ 」という、ヨーロッパ大陸の対ドイツレジスタンス全グループにあてた暗号放送であった。ドイツ軍の国防軍情報部は事前にキャッチしていたというが、この秋の歌で、ノルマンディー上陸作戦は開始されたのである。
  インパール作戦は、当初から補給や制空権の確保を無視した無謀な作戦だった。3月作戦開始、緒戦は目覚ましく、日本軍はインパール後方のコヒマを占領したが、インパールを目前にした食糧と弾薬は底をつき、ついに退却を余儀なくされた。撤退途中、飢えと病気で多くの兵士が倒れ、戦死者3万人、戦傷病死者4万人とする。そうしてノルマンディー上陸作戦のころ、サイパンが陥落した。
「 あの人形も、アホウドリではないか。あのボードレールの・・・・・ 」
  サン・メール・エグリーズのサン・コーム・デュモン教会の壁に82空挺師団ジョン・スティール二等兵の人形がある。勝者の眼が教会をカンバスにして描く宗教壁画の美学とみた。ドイツ軍がいる町の真ん中に降下してしまったスティール二等兵のパラシュートは教会の塔に引っかゝり、彼は捕虜になるまで死んだふりをしていたのだ。
「 1980年・・・・・・ 」
  この年、二度目のフランス体験となった。7年振りにまた訪れることができた。丁度、父誠一の七回忌と重なって、巡り合わされた訪仏として思われ前回よりも奇縁さが増して鎮痛であった。
「 朝目覚めると、父誠一は眠るように死んでいた・・・・・ 」
  それは自然死のようでじつは病死である。糖尿病患者は、人工透析の影響による水分量の変化により、断端形状の収縮・肥大といった変化が問題となるからだ。そうした体脂肪は断端を不安定にする原因となる。また、過剰な肥満に伴う体重変化は断端周径を大きく変化させ、不適合の原因となりやすい。死後硬直の死体はしばらく贅肉(ぜいにく)に歪(ゆが)みがあった。
                                        


「 戦後の誠一は、義足と闘って戦死したのだ。それはアホウドリ・・・・・。僕もまた、世間という甲板に捕まえられた、まるで悪の華のアホウドリと同じだ・・・・・ 」
  扇太郎はこのL'Albatrosを泛かべると、自身も人類が生れるずっと以前に、深海に漂っていた無数の原始の生き物、単細胞の生命体、あるいはプランクトンのような、クラゲのような水中生物であったことを想像した。そのたよりない生命は、生れたときから孤独の中に投げ出され、だれと話しあうこともなく、相談することなく、たゞひたすら生きるためだけに浮遊しているのである。
「 その生命体のいくつかは餌を取るために周期的に発光する。それは自己完結的な、絶対的な孤立だ。僕は、あの原初のライフスタイルからどのくらい変化し、あれからどれくらいへだたっているのであろうか・・・・・ 」
  とも思う。就寝前に、グラスを掌で包んで暖め、立ち昇る芳醇な香りを愛でるのが、いつしか扇太郎には欠かせない日課のようになっていた。最初に微量のカルヴァドスをグラスに注ぎ、火を点けて燃やすのである。美しい青白い炎こそが、真の美味しさを引き出してくれる。まずグラス中に香りを充満させて、その酒は捨て、立ち初めし香りのそこに新しいカルヴァドスを注ぐのである。そうすることで、20年以上眠っていた酒を生き返らせる。火を点けることで、元の香りの10倍以上、香りが引き立ってくる。まずはひと口、口に含むと、カルヴァドス特有の風味が、スーッとあたかも音を立てるように、口から鼻へと突き抜けてゆくのだ。
  この香ばしさこそ、カルヴァドスの醍醐味なのである。20年以上のカルヴァドスは、リンゴパイのように少し甘く、深い香りを持っているが、こうすることで、最高の状態の味と香りを引き出すことができる。
  そうすることで、扇太郎には、レマルクの小説『凱旋門』に描かれた古きよきパリ街が脳裏に甦るのであった。
  しかし今は、小説にあるパリ街に憧れる気持ちなどはない。レマルクの見た敗戦国という亡国に耽るのである。その亡国の一連から、やはり亡国である不自由な日本の現在について考えさせられ、亡国の泡が湧き上がるのであった。
  そして小生である丸彦の眼にも、黒い泡の中で蠢く1億2千という日本人が、どうやら反形而上的無国籍者の精神を日本語であしらい安手のユートピア思想に勤しむ奇特なロマンチストにみえてきた。

                               





                                      

                        
       



 D-Day Invasion of Normandy ノルマンディー上陸作戦








ジャスト・ロード・ワン  No.22

2013-10-02 | 小説








 
      
                            






                     




    )  六の辻  Rikunotsuji


  ステッキを夢の浮橋址に打ちすえると、雨田博士は眼を遠く奈良の地へと静かに眼差した。
  花をみて闇へと向かう浮橋(きさらぎ)がある。
  余光あり夢の間を渡る浮橋(こもりく)がある
  あくがれて世に架ける浮橋(たらちね)がある。
「 そう感じれる人間の皮膚や体表とは一体何なのか?・・・・・ 」
  阿部丸彦はジロリと博士の顔色をみた。
  かって丸彦は随分フロイトをまめに引いたことがあるが、そのフロイトはヒトの精神や意識の奥ではたらくものを「イド(無意識)」などと呼んでいた。つまりこれは「エス」である。本能的なエスに対してこれをなんとかコントロールをする自己意識のことが「エゴ(自我)」で、エスの欲望(短期的な利益衝動)を制約し、ときにあきらめさせる機能をもっているとされる。
  そしてさらに「スーパーエゴ(超自我)」は、幼児からの発達心理の順でいえばエスや自我の芽生えよりずっとあとから形成されるもので、善悪の判断や禁忌力をもつ。いわば理性的で倫理的な自己である。
  博士の皮膚呼吸から感じれるものには、たしかに、いくつもの「多数の私」や「妙な自己」というものがある。これはきっと幼児の頃からさまざまな快感や不快、陶酔や安定感、拒否や包摂のフィーリングを培ってきたようだ。





「 すでに音羽六号は、岐阜、各務原(かがみはら)市上空を過ぎ恵那山へと差しかゝっている・・・・・ 」
  どうやら天敵にでも遭遇したのか、通常の進路を少し南へと修正し、南アルプスを越え、富士山を目印にした。高度三千メートル、やがて箱根、そのまゝ関東へと翔ける気なのか。
「 一乗寺の駒丸鳩舎を飛び発って、早一時間半・・・・・ほゞ順調なフライトだ・・・・・ 」
  その背には細い筒状のカーボン、黒いカプセルを載せている。
  この輸送物は皆子山(みなごやま)の花折断層から採掘した岩塩のサンプル、さらに陰陽寮博士が用いる方違(かたたがえ)の暗譜が納められている。カプセルは東京の雨田鳩舎に到着後、サンプル岩塩を理工学研究所に持ち込み元素分析が行われる予定だ。未だ日本の地層から岩塩の発見はない。二十五度目の査定を試みていた。
  方違とは方角の吉凶を占い、天一神(なかがみ)のいる方角を犯すことにならないよう適時に方向を整える陰陽道の施術。この暗譜によって音羽六号の安全な飛行ルートを確保することができた。
  そして音羽六号はこの暗譜に反射する能力を備える。そこで音羽六号は北アルプス越えから飛行ルートをやや南よりに切換えたようだ。六号の翼は六陽律に風を切る羽の仕掛けがある。
「 あの鳩の感情が丸彦には分かるのかい。そういうことは必ずしもフロイトの理論を知らなくとも、あの空を飛ぶ感じってきっと自意識なんだろうな、これって潜在意識なんだろうな、あんなにも空の上で人間のために欲情するなんて、これはきっと本能なんだろうななどと思ってしまうゼッ!。あの鳩はああやって完璧に洗脳されたんだね、きっと・・・・・ 」
  音羽六号の飛翔をながめながら、そう友猫の幸四郎が言ったことがあった。
「 そう言われてみると、たしかに、あの音羽六号の意識がはたして自分の心身の発達や転換の、いったいどのあたりから芽生えてきたのか、それとも一人でに途中で加速したのか、人間に委嘱されてきたものなのか、あるいは何かのきっかけで何か歪んでいたものが快感や熱意というものに変じていったものなのか、そのあたりが今一つ小生にも分からない・・・・・ 」
  うんちくのある幸四郎の眼力もなかなかのものだ。丸彦はそっと親友の姿が想われた。
「 せいぜい、精神の異常とか変化という告白や出来事は、感情の起伏で判断するしかないが、音羽六号の場合、つまりは彼の脳のなかの心的現象と結びつけるしかないと思われる。しかし、それではエスであれ自我であれ超自我であれ、「自分」の発生の起点や快不快の出どころがなかなか突きとめられない。そこで鳩の心の正体が脳だとしても、脳の中なんて容易に覗きこめるはずがない。ようするに「自分」のなかの自分という奴は、いつもいつも適当に扱われてきたわけだ。うむ~、何とも難解だ・・・・・ 」
  幸四郎は駒丸鳩舎の近くに住む生粋の京都猫である。よく二人で屋根の上から音羽六号の調教風景をながめながら、鳩の自意識について論じ合ったものだ。丸彦は音羽六号の飛翔を想いながら、ふと何とも雄弁な親友の面影が泛かんでいた。

                                  


「 つまりこれは、進行方向に天一神がいる。大将軍・金神・王相が遊行を行うからだ。例えばそのため、春分と、そこから15日単位の日(すなわち二十四節気)には。かって平安京のあちこちで貴族の大移動が見られた。そうして天一神のいる方角を犯さない方違の移動を平安貴族は行った。それと同じく現在の上空は、立春へと向かう二十四節気の気運が乱れやすい期間なのだ。その音羽六号は陰陽の「六(ろく)」を握り、陰六律と陽六律との音律を使い分ける・・・・・ 」
  関東では大将軍・金神・王相のいずれかが遊行を行っている。そう考えると音羽六号が予定進路をやや南へと修正したことが丸彦にも理解できる。しかし駿河湾沿いに平行して足柄山系を越える箱根関ルートは、隼など猛禽(もうきん)類の多発する危険地帯、音羽六号はその難関を越えようとしていた。鷹が気嫌う音は、偶数陰六呂(りくりょ)中の「陰八・林鐘(りんしょう)G」の呂音(りょいん)だ。
「 おそらく彼は無謀な鷹になど挑まない。富士山に差しゝかるころ、また方向を整えるのであろう 」
  地球上には人間が往来し交差する膨大な数量のターミナルポイントが存在する。そこには極小さな単位として「街角」というポイントがある。さらに少し視角を広げ山野や海浜まで含めると、単位は同じだが「山辺」「川辺」「海辺」などその数は莫大となる。そしてそれらはすでに陰陽を帯びてホール化されている。そこは京値(けいち)膨大な亡霊が飛び交っていた。
「 虎哉の後ろ影を見ていると、小生はふとそんな摂理のことを考えた。二人は奈良へと向かっている。みずからの意識でそうしているように見えるのだが、しかし二人に限らず人とは、その人なりに運命(さだめ)られたあこがれのポイントへと帰るのであろう。あるいはそれが虎哉の訪ねる(運命の、夢の浮橋)であるのかもしれない・・・・・ 」
  六道は陰陽のソリュ―ションである。束縛から解放される道であり常に人の出入り口が用意されて、死人もそこをくゞる。かって陰陽師はその処理を司った。
「 小生はこの地球上の全てのポイントへ瞬時に移動できる。そしてその瞬間移動システムがメイド・イン・ジャパンであることが丸彦の誇りだ。そしてその総合ソリューション・ターミナルが京都であることだ。古都・京のこれを六波羅(ろくはら)の辻という・・・・・ 」
  古代の日本人がこれを創り上げた。それは横軸で現在を瞬間移動する性能ばかりではない。縦軸で過去・未来へと自在に往来し、たとえば常闇(とこやみ)の国へも移動し、弥勒(みろくに)も到達は可能である。古い弔いの光景がにわかな色彩を加えられ、虎哉の眼に弔いがより鮮やかな蘇りの光景となって泛かんできた。徐々に香織の母子像が明るくなる。同時に、そこにまた阿部家の深い関わりと、山端集落との結びつきが泛かんできた。
「 音色のあかく出てくる・・・・・それが(ひなぶり)・・・・・!。そして雉は羽ばたく! 」
  この病症の「赤い色彩」が虎哉の眼を患わせているように、また同じく次は香織の胸を冒すことになる。虎哉は、赤児の文代を療養費の質(しち)として精算せねばならぬ清原茂女に絡む悲しい運命に晒された、たゞ寂しい娘にだけは香織をしたくなかった。
「 たしかに清原香織の出生は密やかである。虎哉も随分と繊細に気をすり減らしながら判断に迷っている。しかし繊細に配慮しようとすることはすでに虎哉が真相の大方を抱きしめているからだ。虎哉は茂女と古湯温泉までの関係を思い浮かべた。そうであれば清原茂女の動向からやがて眼を日本最古の書(記紀)へと向け、花雪の後方を追うことになる。そこにはもう一つ雉(きじ)の鳴女(なきめ)を弔う音羽の石塚がある。結果、それを虎哉が香織にどう語るかは、今少し待とう・・・・・。どうやら博士は夢の浮橋跡でずいぶん長居したようだ 」
  雨田虎哉と清原香織が泉涌寺バス停で降車し、参道にいる間、丸彦はその少し手前の六道の辻より二人の様子を窺いつつ、密かに尾行していたのだが、その丸彦を尾行する卦体(けたいな)影が現れた。そこで密かにその影の後方に回り込んだ。
                             
「 山城の「八瀬の庄」には大明神の社が座り、神々の存在を感じる鬼伝説のアララギの里があるという・・・・・ 」
  影はその入口を探している。丸彦にはそう語る二つの影の会話が聞こえてきた。しかしどうにも不可解なことは影者の足音にどこか懐かしい響きがある。その音は「 しす、すし、しす、すし、しす、すし、しす、すし、しす、すし 」と聞こえてきた。
「 八瀬の庄、そこで暮らす人々の営みの実体とは、未だ正に古(いにしえで)あり、その交感を描き遺すために、都を逃れた気随な旅人は、遠路はるばるそのアララギの里をひたすらとめざしていた。時代は太古の・・・・・大国小国国造(くにのみのやつこ)を定めたまい、また国々の堺、及び大県(おおあがた)、小県(おあがた)の県主(あがたぬし)を定めたまう時節の、そう申しても呼称すら未だあいまいに広狭三様としているではないか・・・・・ 」
  それは、ようやくヤマトに王権が胎動しようかとするころであった。



「 旅人の名を犬養部黒彦(いぬかいべのくろひこ)という・・・・・ 」
  犬養部とは、大化前代の品部の一つで、犬を飼養・使用することを「業」とし、その能力を持って中央政権に仕えた。
「 嫌な世だとお捨てになった世の中も、いまだ未練がおありだとは、これより厄介なことが増えねばよいが・・・・・。紙の浮橋なるモノが、まことあるのか・・・・・! 」
  と、いう小さな影が、山城をめざす犬養部黒彦の人影の中にピタリと溶けこんでいる。
  黒彦には悟られまいとして影となり、擦り音一つさせることなく主人に寄り添っていた。
  子飼いの黒丸である。黒彦が愛顧してきた妙手の守衛犬だ。奈良の倭(やまと)の都では「 今より以降国郡に長を立て、県邑に首を置かむ。即ち当国の幹了しき者を取りて、其の国郡の首長に任ぜよ 」という。そのような時代である。
  さらには「 国郡に造長を立て、県邑に稲置を置く 」「 則ち山河を隔(さかい)て国郡を分ち、阡陌(せんぱく)に随ひて、邑里を定む 」という(阡陌は南北・東西の道の意。道路の交差している所)。またこの時代とは、成務天皇13代で、応神(15代)仁徳(16代)や倭の五王よりも遡る4世紀のことで、すなわちこれが古墳時代の前期にあたる。
  黒彦の逃れた都とは、いわゆる初期ヤマト政権なのであった。この政権において、服属させた周辺の豪族を県主として把握し、その県主によって支配される領域を県(あがた)と呼んでいた。
  かってヤマト皇軍が北へと辿った道を、どうやら逆に南へと向かうようだ。
  当初大倭やまとを発った旅人の犬養部は、河内(かわち)へと出て、摂津(せっつ)から山背(やましろ)を廻りながら西海の道をひたすらと歩いた。そして筑前の伊都県から奥山へと分け入り、荒々しい阿蘇の山並みを渡りながら、熊県へと向かう山路を左に逸それた。そこはこれより諸県ともいえる境界である。迷いながらも玄武峠へとさしかゝっていた。




「 この峠の向こうにアララギの里があるという・・・・・ 」
  その地には天孫降臨の伝えがある。だがそれは出口、裏返せば黄泉の国へと通じる入口であった。入口の方は鬼八(おにはち)という剛力者が支配しているという。降臨の地とは、天岩戸(あまのいわと)の出口、天真名井(あまのまない)の入口、西国のアララギにはこの二口があった。
「 やはり我が犬がおらぬと、能(よき)ことは何一つ無い。こゝに黒丸がおればのう・・・・・。一体、夢の浮橋とはどこぞよ!。橋を渡り、そして雉(きじ)の鳴女(なきめ)を殺やれば、天寿を得るという・・・・・ 」
  倭では屯倉(みやけ)の守衛に番犬が用いられた。この番犬を飼養していたのが犬養氏なのだ。犬養部は犬を用いて屯倉の守衛をしていた人々である。黒彦もその一人なのであった。その黒彦が愛犬黒丸の影を見失ったのは、英彦山(ひこさん)から阿蘇山へと向かう険しい山岳を渡り歩くころである。
「 しかし、はぐれた黒丸ではないわ・・・・・ 」
  黒彦にそれが見えぬだけである。黒丸は途中から幽かな影の姿となって、この世からは消えたように見せかけていた。
  黒丸にはそうするだけの仔細がある。
「 まことに捨てがたいことが多い都でも、主人が、明け暮れ日の経つにつれて、思い悲しんでおられる様子が、じつにお気の毒であった。そのことが剰(あまり)にも悲しいので、別れ別れになりても、再び逢えることは必ず・・・・・ 」
  と、お思いになる場合でも必ずや有りやと思い、こうして姿を消している。
  しかしやはりこゝ一、二日の間、別々にお過ごしになった時でさえ、気がかりに思われ、これぞ不憫で主人が心細いばかりに思えたものよ。さてさて、主人は「 何年間と期限のある旅路でもなく再び逢えるまであてどもなく漂って行くのも、無常の世に、このまゝ別れ別れになってしまう旅立ちにでもなりはしまいか 」と、たいそう悲しく思われなさるのであろう。じゃが、しかしやがて「 こっそりと一緒にでは 」と、お思いになる時が必ずやくる。そうじゃ、ほどなくその時はくるのじゃ。しかしそのほどなくの間がいかにも気掛かりよのう。
「 未だ足腰の力衰えぬ主人ではあるが、このような心細いような山峡の雨風より他に訪れる人もないような所に、このようないじらしいご様子ではともかくも早々に浮橋を渡らねば 」
  このように心砕く黒丸は「 どんなにつらい旅路でも、ご一緒申し上げることができたら 」と、それとなくほのめかしてみたいのだが、こゝは主人の為、一つ堪えねばならない。黒彦はその気配さえ感じず、たゞ、黒丸とはぐれたことを恨めしそうに思っていた。
「 黒い影は、どうやら六道の辻から這いだしたようだ・・・・・! 」
  太古の二つの影が時空を超えて現代に顕れてきた。六道の辻は京都ばかりにあるのではない。ソリュ―ションさえ整えば諸国のいたる所に辻はできる。おそらく西街道のどこかで辻の扉が開いたのであろう。二つの影は「夢の浮橋」を探していた。
  それにしても夢と言えば、夢の浮橋という数奇な運命をたどった水石すいせきがある。
「 どうもあの足音が気になる・・・・・! 」
  阿部丸彦は一度、六道の辻に引き返すことにした。
  京都東山区松原通り沿いに大椿山(だいちんざん)はある。六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)、山号を大椿山という。この付近が京都奇怪伝説に名高い六道の辻である。
「 こゝは平安京の火葬地であった鳥部山(とりべやま)、(とりのべ・鳥辺野)の入口にあたり現世と他界の境にあたる。この坂井から冥府へと入る。現在の地図でなぞると、五条通(現在の松原通)沿いの六道珍皇寺門前やその西方の西福寺付近となる・・・・・ 」
  藤原道長は、日記『御堂関白記』寛弘元年(1004年)の三月十二日の条に「珎光寺」と記している。これは珍皇寺を指すとみなされる。また近世の地誌類には「珍篁寺」と書かれることもあり寺号は本来「ちんのうじ」ではなく「ちんこうじ」と読まれていた。
  さらにこの珍皇寺には念仏寺、愛宕寺(おたぎでら)などの別称もあり、『伊呂波字類抄』『山城名跡巡行志』は珍皇寺の別名を愛宕寺とするが、愛宕寺が珍皇寺と念仏寺に分かれたともいう。東山区松原通大和大路東入る弓矢町(現珍皇寺の西方)には念仏寺という寺があったが大正年間に右京区嵯峨鳥居本に移転した。



「 すでに迷宮のごとく思われる。不可視の人間は、このように万事をかき混ぜるから困る・・・・・ 」
  六道珍皇寺は臨済宗建仁寺派の寺院で、本堂、閻魔堂、鐘楼があり、本尊は薬師如来、閻魔堂に弘法大師、小野篁(おののたかむら)、閻魔王(えんまおう)が祀られている。これなども妙にねじれた。しかもこの寺の創建については諸説あって不詳である。開基についても大安寺の僧・慶俊、空海、小野篁などとする説がある。かつてこの地に住した豪族鳥部氏の氏寺(鳥部寺、宝皇寺)がその前身ともいう。東寺百合文書の「山城国珍皇寺領坪付案」という文書(長保四年・1002年)には、珍皇寺は承和三年(836年)に山代淡海(やましろのおうみ)が創建したとあるが、地の豪族、これなどは比較的信憑性は高い。
「 さて、それら不詳は脇に置き、小生は境内にある古井戸をのぞき込んでみた。すると暗い井戸の底に(しす、すし、しす、すし、しす、すし)と、懐かしい呪文が渦巻き無量壽経(むりょうじゅきょう)の泡立つ音波を拾った。やはりあの影者の足音と同じではないか! 」
  小野篁が地獄と行き来したと言われている井戸で境内奥の右側にある。六道とは、仏家のいう地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界をいい、死後、霊は必ずそのどこかに行くとされる。
「 六道の辻は、その分岐点で冥土への入口である。子子子子子子子子子子子子の、小野篁はこの井戸を出入り口とした。小野篁は、昼間は朝廷に仕え、毎夜、冥土に入り、閻魔庁第二冥官として大王のもとで死者に対する裁判に立ちあっていた。つまり彼は、弁護士でもあり検事でもあった・・・・・。彼の弁護によって藤原高藤、藤原相良など蘇生した。これなどまさしく六道の珍であろう・・・・・ 」
  それにしても子子子子子子子子子子子子は、丸彦には何とも快哉なリズムである。
  寝付かれぬ夜に丸彦はよくこの「 ねこのここねこ、ししのここじし 」の問題を引き出して唱えるが、いつしかうとうと眠くなる。問題を考え出したのは嵯峨天皇、「 猫の子子猫、獅子の子子獅子 」と解いたのは小野篁であった。その小野篁は小野小町の祖父これなどもまた六波羅(ろくはら)に因む珍である。この井戸の音に、主人秋一郎は陰陽寮博士の解釈をした。
  六波羅とは、北は建仁寺より南は五条通りまで、西は鴨川より東は東大路に至る東西700メートル、南北350メートルの地域をいう。もとは六原とかき、鳥辺野と同一地域をいゝ、その名の起こりは、霊の多く集まるところ。すなわち六の「ろく」は霊の古語であり、その「六」の字を当てた。これは六の訓「む」が墓地に関係ある語とされたからで、墓所(むしょ)がなまって六所となったごとく、霊の多く集まる原野ということから六原(ろくはら)の名が付いた。
  この六波羅から東に鳥辺野(とりべの)の葬送の地がひろがり、六波羅はその墓場への入り口でもあった。
  しかし平安のころ墓場だとはいっても墓石があるわけでなくほとんどは野ざらしの死体置き場で、京の人々にとってはまさにあの世への入り口で、まことに六(ろく)な処ところであったのだ。ちなみに六道への出入りには二口がある。井戸から冥土へ通っていた小野篁の帰り口は上嵯峨の大覚寺前の六道町あたり、六波羅の「死の六道」に対しこちらを「生の六道」という。
「 つまり死の道は(陰の六)、生の道は(陽の六)となる・・・・・ 」
  そして子子子子子子子子子子子子の12子を、陰陽十二律、呂律(りょりつ)六の二分割にし、陰六呂(りくりょ)の子子子子子子と、陽六律(りくりつ)の子子子子子子とに並べた。さらに秋一郎は「子」の読み方を陰の「し」と陽の「す」の二配列に、陰陽五行道に変換する。そして陰に「死し」を陽に「寿す」を転用した。
  つまり陰に死の六種子を、陽に寿の六種子を暗示させた。その転用の配列は陰六種子の自然死・病死・変死・殺死・刑死・憤死、陽六種子の無量寿・天寿・南山寿・老寿・康寿・仁者寿となる。
「 これを秋一郎は、死(し)六寿(す)六の陰陽呂律として呪文した・・・・・ 」
  この死六寿六の呪文は無量壽経、死す、寿し、死す、寿し、死す、寿しと転回し、暗示させた接点で停止する。つまり「死す」か「寿し」のいずれかとなる。したがって変死もあれば天寿ともなる。丸彦には黒彦という亡霊の足音がどの呂律音で止まるかが心配だ。

  

「 京都の地夭(ちよう)とは、地上に生じた不思議な兆しなのである・・・・・ 」
  その地夭といえば、源氏物語がある。
  そしてその底辺の立川流真言を見落としてはならない。
  日本人はこれを見落とし現在では壊滅した。物語および紫式部と立川流真言とは密接に関わっている。源氏物語とは立川流密言の呂律を並べ真言を構えてその全容が未来への暗示で占められている。
「 平安京が造られたころ、都には紫草という花の咲く野原があった。これに因みその場所を紫野(むらさきの)という・・・・・。源氏物語にはこの蜃気楼があるだ・・・・・ 」
  紫草は染料として使われた。天皇や貴族が身につけるモノの染料として紫野で採取された「紫草」は重宝された。堀川北大路交差点界隈はその紫野にあたる。そして、その交差点近くに紫式部と小野篁が一つ敷地に眠る墓所がある。
  丸彦の主人秋一郎は幾度となくこの紫野に足を運んでいた。
「 ところで源氏物語は三部構成となっている長編作で百万文字もある。さすがに世界最古の長編小説、百万文字はどのくらの量かと気になるが、300ページ弱の文庫本で十五万文字程度なのであるから、約九冊強の文庫量、和紙の分厚さなど加味すると随分なボリュームである 」
  紫式部はこれを夫の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)を失って後に執筆し始めた。
  紫式部とは云うものゝ、この名は正しいものではなく、いわば呼び名である。一説では実名を藤原香子だというも、よく判らないのが正しい。平安期の女性は誰々の娘とかの記述しか残っていなかったりする。藤原為時の娘ということは確からしく、当時、宮廷の後宮に仕えた女官は、その血筋の役目から女房名が決められた。為時は式部省の役人だったので、藤原式部と呼ばれていたのであろうが、紫の上を主人公とする「源氏物語」の作者であったことから、いつしか紫式部と呼ばれるようになった。そしてこの「紫」とは納音である。
  紫式部の父、為時は役人として名を馳せたと云うよりは文人、詩人としての名の方が通りが良かった。そんな環境の中で式部の文才も磨かれた。その式部の結婚は遅く三十近くになってからだ。今の時代では珍しくもない年齢かも知れないが、当時は十五歳まで、早ければ十二、三歳で結婚をする時代、彼女はかなりの晩婚だった。
  それも父親と年齢が変わらずほどの藤原宣孝という人物と結婚する。
  この当たりも当時としてはかなり異例なこと。この辺の境遇というのか、生き方が源氏物語に反映しているのではないかと思ってしまう。宣孝と過ごす期間は短く、三年ほどで宣孝は流行病で他界する。その後、身の上のはけ口を求めるかのように源氏物語の執筆に取り掛かる。当時の結婚の形は「通い婚」というものが相場であった。世間に名の広まる何処そこの才女は美形、品が良いなどの噂や評判を信じ、詩歌を送り女性が返歌を送るところからお付き合いが始まることになる。そして段取りが進めば、夜に男が女性の家へ通い、女性がそれを認めて三日三晩続くことで結婚というものを成立させた。
  この最終的な決定権は女性側にある。
  だが男性の結婚の相手は一人とは定まっていなかった。いわば一夫多妻であって、生まれた子供は女性側、母方で育てられる。現代の感覚からすれば、貧しくおかしな社会なのだが、それが平安貴族の普通の形態であった。この当たりを理解して源氏物語を読まないと情景がよく判らない。よく源氏物語はフィクションだといわれるが、登場人物は架空であっても、その文面には当時の男女間の恋愛のありかた、宮廷や貴族社会の内面が色濃く表現されている。そうした色濃く、極めて色濃くつゞり終えた女性という本質が阿部丸彦は以前から気掛かりであった。


             


「 現代において文学的評価は多彩に論じられているが、形而上学としてはどうも地夭なのだ。しかも小野篁と墓所が隣り合わせであることが、小生には地夭の介在が臭うのである・・・・・ 」
  冥界の番人である小野篁、方や平安王朝文学、物語文学の傑作と云われる源氏物語の作者。この取り合わせの関係は、まことに摩訶不思議な光景であった。一つ敷地に二つの墓を並べ取り合わせたことの妙、そのよりどころは室町時代に四辻善成が顕したとされる「 河海抄(かかいしょう)」と云う文献による。それには「 式部の墓は雲林院白毫院の南、小野篁墓の西にあり 」との記述があり、これが根拠になっている。
  たしかに式部は源氏物語で、雲林院は主人公の光源氏が参籠した所として登場させてはいるけれど、丸彦、この墓の真偽には大きな疑問を抱いている。源氏物語には光源氏の寵愛をうける夕顔が物怪(もののけ)に取り殺されたり、光源氏の愛人である六条御息所が正室の葵上を取り殺すなどする。これは見ようではたしかに小野篁の領域ではある。怨霊にまつわるであろう話もあるにはあり、関わりらしきものも見え隠れもする。
  さらに一説として。小野篁と紫式部の墓が建ち並ぶのは紫式部が狂言綺語(きょうげんきご)、ふしだらな物語を描いた大罪人で、閻魔大王の前に引き出された紫式部を篁が取りなしたとの伝説によるものというのさえある。多分、これは武士が台頭してくる平安末期から鎌倉時代にかけてのものであろう。時代が変われば、価値観、規範意識も変わる。平安時代の普通も武士の時代ではそぐわなくなったと解釈もできる。
ともかくも雲林院は応仁の乱で荒廃し、天正年間に千本閻魔堂に移され、今の千本閻魔堂に残る十重石塔は紫式部の供養塔と伝わる。たしかに実際として、篁と式部、この二人の墓所は堀川北大路交差点から南へ少し下がって島津製作所の傍らにある。丸彦もすでに何度となくその現実は確認した。
  丸彦の問題は二人の墓が一つ所にあることではない。むしろそう二つあるからこそ源氏物語の正体が既成とは真逆に見えてくる。紫式部の真意は唐輸入による密言の変化(へんげ)にある。
「 作品は問いかける。何を揺らがしたかの解答がある。さて、虎哉と香織の二人が東福寺駅へと歩きはじめた・・・・・ 」
  今、奈良へ向かう雨田虎哉と清原香織の二人は気づかないであろうが、密かなあの影が二つピタリと寄り添っている。そして二つの影は「夢の浮橋」探している。そして数奇な運命をたどった水石がある。その石は、南北朝時代に、後醍醐天皇が肌身離さず持ち歩いていた。戦国時代には、豊臣秀吉、江戸時代には、徳川家康の手に渡り、「お守り」の石とされてきた。この石が彼らの命を本当に守ったかは定かではない。だがしかし、心をなぐさめていたことは間違いない。幾度か丸彦もこれをながめて見た。
  その銘ゆえか、ツルリと心の垢でも洗われるかの福与かな美形の石である。そして水石は幽かな光を纏(まと)って橋を架けたごとく棚引いていた。未だおぼろげだが虎哉の眼にも御醍醐天皇譲りの水石がそろそろと泛かんできたようだ。二つの黒い影がそうさせようとしている。そして密言の妖気が漂っている。その石の名前は、「夢の浮橋」である。丸彦はこの石の伝承を阿部秋一郎から聞かされた。

   

  水石は、鎌倉武士の時代から流行っていた書院作りでの室礼として、一室に据え置き自然界に思いを巡らした。世に奇石、銘石など星の数ほどある中で、由緒正しき石はたった九石のみで「浅間山」、「末の松山」、「万里江山」、「廬山」、「九山八海」、「飛龍」、「残雪」、「八橋」、「夢の浮橋」が挙げられる。これらはもっとも由緒ある水石で他とは一線を画し伝承九石という。夢の浮橋は、後醍醐天皇が笠置、吉野へ遷幸された際にも常にこれを懐中にしていた。
  長さ29㎝、高さ4㎝、奥行5㎝、その石底には朱漆で後醍醐天皇宸筆があり、夢の浮橋とその銘が書かれている。
  これは中国江蘇省江寧山産の霊石と伝えられて、底面には短く細い四足があり両側が支えられ、水石全体が浮き上がるごとくみえる。五山の禅僧が中国から持ち帰ったこの「夢の浮橋」は、初め足利将軍に献上され、その後南北朝時代に後醍醐天皇の愛頑石となった。戦乱のさ中にも天皇はこの石を懐中にして、鎌倉幕府倒幕計画が知れ、捕えられて隠岐(日本海側島根半島沖)に流された時には、肌身離さず持って愛頑し、そして、足利尊氏の反乱に際しては幽閉されたが、脱出して吉野に赴き、南朝を開いたときにも護身用として持って廻った。この水石はともかく数奇な運命をたどって現存する。
「 徳川美術館蔵をながめて以来、この石の景色が眼にとり憑(つい)ている・・・・・ 」
  丸彦の奥底でそれは久遠(くおん)のごとく怪しげに輝いている。止むこともなく人を魅了し続けるこの水石、たゞ侘びの悪戯でこの銘を冠するはずはない。形はいわゆる長石(ながいし)という名石形の石、左に丸い小山があり、その前に平たい岡があって、右に延びるにしたがって土坡(どは・平野)があるという段石形の土坡石である。雄大な景色をもち、しかも長年月に渡る持ち込み味の石肌を沈ませている。この石を水平の地板などの上に置くと、たしかに底部の中央付近が少し浮き上がる。つまり空間をつくり、天空を創る石なのである。そしてまたこの石は、いく度かの戦乱の中をくぐり抜け、世の人々の栄枯盛衰、天変地異の日本の歴史の中をよく生き続けてきた。丸彦は洛北の山河に育った幼児体験のせいか、自然に山水石を好むようになり、それを基盤にして京都周辺の石と交わってきた。



「 この夢の浮橋の底部をよくながめると、石の両端のわずかな部分のみで安定し、底部の隙間を二、三枚の紙を通すことが出来る! 」
  これを泛かしたとみれば造形の美学、実用の仕掛けとみれば意図して紙を通した。
「 それが紙のたぐいであれば、果たしてどのような紙なのか。後醍醐天皇は逃げ延びながら、そこに密言の紙を通した。そして源氏物語の正体と、密言の効能は貝を合わせたごとく符合した。天皇に庇護されて立川流真言は隆盛をえた。石の景色を陸(ろく)、それは六(ろく)とまる・・・・・ 」
  と、見立てれば、丸彦は、水石に夢の浮橋とその名を冠したこゝから紫式部の思惑を思索させられ、源氏物語の正体は逆算式に詮索されて見破れることになる。すると時代を経てこれを紙の浮橋にすることも可能だ。そこで丸彦はかつて虎哉博士が語った話を思い出した。




「 今や日本の山や森は何処(いずこ)をみても面白くない。かって日本の山は山岳信仰のご神体であった。出羽三山、早池峰(はやちね)、富士山、大峰、葛城山、白山、大仙、石鎚山、英彦山(ひこさん)など、その多く修験道として畏(おそれ)られ鎮められていた。そして大衆はその山に分け入ることを畏れた。ところが現在どうだろう。畏れ知らずの旅行者が堂々とそれらの山へ分け入っている。かっての修行道がすっかり旅行道に盗って変えられた。神体や山守とは無縁者が物見遊山で悪(あし)き足音で踏み上がる。そして修行道の神体が裸体化された。これでは日本の山の神秘は枯れ尽くし、無礼も甚(はなはだし)く、非情にも面白くない。だが、だからこそ源氏物語は真言と畏れると面白いのだ・・・・・ 」
  と、博士は重く呻(うめ)いたのだ。頂きに立ち人間を自慢すれば即すなわち落伍(らくご)、博士の山は我慢なのである。
「 博士の旅路とは・・・・・、旅行道ではなく修行道なのである。また源氏物語も修行なのだ・・・・・ 」
  その虎哉は修行道として夢の浮橋を辿らねばならなかった。
  したがって源氏物語にしろ学問的に見定めようとするのではない。そこから陰陽道の実体を汲みとらねばならなかった。紫式部という女性は平安後期の陰陽とどのような交感をしたのか、その正体を見定めることによる鑑識眼で歴史の血痕をたぐり出そうとした。そこを戦禍の空白を埋める種として育もうとしたのだ。
「 その修行とは、畏(おそ)ろしくみる生活を省みる営みなの再生なのであろう・・・・・ 」
  霊峰と呼ばれるに、霊峰と呼ばしめる側の意識がある。そこには神体を祀らねばならぬ諸事情があった。霊には善と悪がある。悪霊あくりょうを鎮めるために、山とは御神体(ごしんたい)でなければならなかった。そう示現するために密言はある。同じく源氏物語には当時の密言と深く関わっている。



「 夢の石橋と密かに連なる、どうやら二つの影は密かに一枚の絵葉書を探しているようだ。それこそが紙の浮橋である・・・・・。黒彦の眼が輝いてきた・・・・・ 」
  諸天はまず天変地夭(ちよう)をもって一国を罰することがある。
  この予言は、海外情勢などにより推測する世間のそれとは全く類を異にする。まさに諸天の動きを見据えての、仏智のご断定であることが阿部丸彦にはよく判るのだ。
  一枚の絵葉書を求めて六道の辻より顕れた二つの影が雨田虎哉の肩にとり憑ついた。
  そして四方を見渡しては阿部秋子を探している。すると「 多くの神々とオモイカネは(鳴女という名の雉を派遣するのがよいでしょう)と答えた。そこで、タカミムスヒとアマテラスは、雉の鳴女なきめに(あなたが言って、アメノワカヒコにも問いただして来なさい。あなたを葦原中国に派遣した理由は、荒ぶる神々を説得して帰伏させろということだが、なのに、どうして8年間も復命しなかったのか、とそう言って来なさい)と命じたはずだ 」と妙な呟きをした。
「 地球の地平は一線を円まるく描いて水平(たいら)となる。その水平で生じた地夭とはまた円くして地球上で結ばれている。彷徨うこの影を放置したのでは、六(ろく)なことはないのだ・・・・・ 」
  二つの影を載せるべく丸彦は密かにソリューションを北米へと解放した。
  雉の鳴女を殺そうとして黒彦と黒丸が追いかける秋子とは、丸彦の主人秋一郎の曾孫(ひまご)、阿部富造の孫娘(まご)はしかし現在、日本にはいない。絵葉書と共に阿部秋子はアメリカにいた。

                           







                                      

                        
       



 六道珍皇寺








ジャスト・ロード・ワン  No.21

2013-10-01 | 小説








 
      
                            






                     




    )  浮橋  Ukihashi


  机上の正面には書斎の歴史が刻まれている。
  他に何も飾りのない白壁には一枚のモノクローム写真が一つだけ掲げられ、漆の和額に入れ、入れ子の赤と白と黒の3本ラインで写真を囲んでいた。見ようでは赤い慶事の水引、黒い弔事の水引にも思える。
  額縁のデザインはそれだけで何事かの吉凶を暗示させるのだが、あとは額の下にある銀の小さなプレートに黒字で「 ほのほのほ 」という標題らしき文字が、妙に意図知れず特徴といえば特徴なのだが、それにしてもじつに楚々とした趣きの額装なのだ。
  しかし、その一枚のモノクローム写真こそは、雨田博士が書斎で何を考えてきたかのすべてを物語っていた。
「 6人は向かって右端から順に、阿部清太郎、雨田虎次郎、知花圭一、五流誠子、名嘉真いと 華代・・・・・ 」
  と、裏書にそう記されていた。撮影日は明治24年8月とされている。
  右端の「明笛」を手に持った老紳士が阿部清太郎で、どうやらまだ、頭にはチョンマゲを結っている。つぎの「月琴」を弾いてるヒゲの人物が雨田虎次郎。次の年若い青年の持っているのは、おそらく「提琴(テイキン)」だと思われるが、そであれば現在の中国楽器で言うと「板胡(バンフー)」の類となる。五流誠子という女性の楽器は「唐琵琶(トウビワ)」。これは雅楽の琵琶や、薩摩・筑前よりは現在中国の「琵琶(ピーパー)」に近いものでフレットは14本、撥(バチ)ではなく,指に月琴のと同じような長い義甲をつまんでいるのが、写真からも見てとれる。次の古風な老婦人が琉球姓らしき名嘉真いと、持っている楽器は「阮咸(ゲンカン)」である。最後の華代という若い女性の前にある楽器は、一見日本の琴のようだが、猫足が四本(琴は2本)、琴柱の位置も和琴とは少し違うし、さらに糸弦が琴と違って左右のブリッジにピン止めされているが、これは「洋琴(ヨウキン)」だと思われる。
「 するとこれは、明清楽(みんしんがく)の演奏風景ということになるが・・・・・ 」
  明清楽(みんしんがく)とは、明楽つまり江戸時代中期に明朝末期に中国南方(福建を中心とした地方)から日本へもたらされた唐宋の詩詞を歌詞とした音楽と、清楽つまり江戸時代後期に中国南方からもたらされた俗曲を中心とする音楽の、両者を総じて呼ぶ際の用語である。両者は明確に区別されるべきであるが、明治初年に清楽が明楽を吸収しつつ拡大したこともあって、一般的にあわせて明清楽と呼ばれる。
  この写真と額装をみたとき丸彦は、人間には分からないであろうが、すでに猫のわれわれは、誰かと接していたり猫前や人前にいたりするとき、何かのきっかけで顔を赤らめたり、上気したり、冷や汗をかいたりすることをよく知っている。この写真の反応はあきらかにフィジカルな反応なのだが、そこには微妙なメンタルなものが関与していることが感じとれた。どうやら猫の、われわれの体にはメンタリティの具合を厳密にフィジカルな反応に切り替える装置が機能して備えられているようなのだ。
「 ほ・の・ほ・の・ほ 」
  この表題の何とも不可思議をみつめたとき、それだけでも充分に不気味だが、博士が突くステッキの音にその不可思議の響きが重なると、丸彦はどうしてか眼がふと血走った。人間はねじれている、生体のどこかしこもねじれている、生命の本質はねじれであろう、直感的にそんな写真であることを悟ったのだ。


               




  虎哉が泉涌寺の参道をみて、そうした遠い眼をするのには、香織に係わることで少々気にかゝる仔細があった。
  花雪という芸子が、九州長崎の造船界の有力者陣内剛蔵に身請(みうけ)されて、泉涌寺付近の別宅に囲われ暮らし始めたのは六十年も前のことだ。
「 虎哉の養母であったお琴は、京にくるたびに、同郷の剛蔵に呼ばれちょいちょい別宅に遊びに行っていたという・・・・・ 」
  そんな話を小生は聞いた。
  その花雪はやがて、妊娠(みごも)って戦争直前に京北の花背(はなせ)辺りに移り住み暮らすようになる。同じころお琴も疎開騒ぎに紛れて自然と別宅から足が遠のいた。そして戦争が終わってお琴が奈良吉野の疎開先から京都へ行ってみたときは、花雪はすでに労咳(ろうがい)で死んでいた。女児を産んで二年目に死んだという。さらにその三年後に花雪の産んだ児が、当時、泉涌寺近くの別宅に出入りしていた、清原増二郎という、これもお琴とは遠縁の男に養われていたと聞いた。お琴はこの増二郎を探したが所在は不明だったという。
  虎哉も確かにそう聞かされていたのだが、これは戦後四年してお琴が知りえた話なのだ。
「 養母お琴がそう言い遺したことが事実であるのならば、その児の生まれ年から存命であるとして逆算すると、花雪という女性は60歳前後のはずである。増二郎の子と名乗る香織は17歳であるから、増二郎が養っていたという赤児とは、さらに香織との関係とは・・・・・ 」
  この丸彦の知る香織の母親に関わる消息は、いずれも亡きお琴からの聞伝でしかなく、いまさら確かめ難きことであるのだが、虎哉は泉涌寺の山ふところとなる月輪山(つきのわやま)や泉涌山の空をあおぎみながら遠い眼をしてその消息の彼方を泛かばせていた。
                     
「 あもなるや おとたなばたの うながせる たまのみすまるの あなだまはや みた 」
  鴨川を越えて眼に写す西の冬空に想い重ねれば、どうしてもそこに映えてくる一つの古い歌があった。虎哉は胸の内ポケットに忍ばせている「 ひなぶり 」という古びた筆文字の書付をコートの上から手に押えては枯れて薄暗く広がる西の彼方をじっと見た。
「 尼にするいうて驚かさはるさかい、うち、何や気色わるいわ 」
  と、白い顔を仄かに青く臼づいて香織はそっと俯いていた。
「 尼さんは・・・・・、そんなに薄気味悪いものなのかい・・・・・? 」
「 そうやおへん。せやけど、うち、罪ほろぼしせなあかんこと何ィ一つしてへん思うんや 」
  香織は暈(かさ)をかぶった太陽がようやく雲の切れ間から顔をのぞかせるように、しかし少しはまだ戸惑いを口に籠らせた声でそういうと、かすかに睫毛(まつげ)がうるむ顔をさせて虎哉をぼんやりとみた。
「 この娘の眼には、尼の修行が、罪ほろぼしの生活として映っているのか!。出家とは、そう映るのであろうか。しかし、それはそれでいゝ。香織がどう思おうが、そんなことは人それぞれの自由だ。さて・・・私はどう応え返せばいゝ。あゝ、たしかに本当だね、かさねは罪ほろぼしなどする必要はないからね・・・・・ 」
  と、素直に肯定してやろうとするそんな優しい言葉が、虎哉の喉もとまで出かゝった。
  だが虎哉は、それをじっと堪こらえた。
  以前の虎哉の気性なら、忍し殺して黙っていられる筈はなかった。そこは肯定してその場を適当に済ませ終えるか、あるいは少しの反論などしただろう。だがそれは気勢にも柔軟であった昔のことで、今は老いの疲れがそうさせるのか、はからずとも虎哉は、すでに円満に済ませることすら面倒で、投げやりたいような妥協癖にちかいものを心の中に抱くのであった。
  しかし、泉涌寺の坂に至る道は人生のそれと等しく、山あり谷ありであるらしい。
  この坂に、世のくびきから離れ、煩悩と対峙しては、いくばくかの悟りを求めようとする、そんな覚悟の女僧らが歩いた影がある。その尼を罪ほろぼしと存外にあしらわれると、それはやはり穏やかではない。
「 比丘尼(びくに)とは仏門の闇夜にゆっくりと炸裂してのぼり行く、この世からはそう見せる、あの世の花火なのだ・・・・・ 」
  と、胸の内でそう想う虎哉は、香織の言葉を聞いた耳朶(みみたぶ)に、かすかな冷や汗を感じた。



「 東福寺駅前から泉涌寺の仏殿までは、往復でおそらく3キロほどあるだろう。この膝は、もう自力でそれだけの距離をあるくことに耐えきれやしない 」
  そう往(ゆ)きあぐねると、虎哉はやはり口を堪え、何か妙にもの哀しく、細い一本の老木のように立ちつくしていた。
「 冷やっこいなぁ~。そないじィ~ッとツッ立つてはって、奈良ァ、いつ着きますねんかいなァ。あゝ、しゃ~ないなぁ~・・・。とんま・ひょうろく玉・おたんちん・のろま・すかたん・うすのろ・ぼんつく・とんちき・おたんこなす、これ皆、盆暗(ぼんくら)いうんやわ。そないしてはる老先生ィ、えろう盆暗やわ・・・・・ 」
  と、声には出せそうにない言葉が連なって湧いて出る。北風の中でそうして寂しく棒切れのようにぼ~っと立っていられたら居たゝまれない。奈良までは未だ南へ随分と距離がある。香織にはそんな虎哉の姿が、朝起きようとしてまだ寒いからと、蒲団(ふとん)から首だけ出している老亀のように思われた。
「 一体、どないしはるンや・・・・・! 」
  と、そう急かされた虎哉はこの場でさらに一歩踏み込めば、香織は苦しむことになるのかも知れないとも思える。しかしその少しの苦痛がやがてはこの娘の歓びとなることもある。そのいずれかをどうするか迷っていた。仔とは、やはり母子一つの流れを断ち切れぬものだ。
「 もし・・・・・、その苦しみが、香織の幸福へと繋がっているのなら、苦しんでみるのもよいが、真実にうちのめされることもある。さて、どうする・・・・・ 」
  漠然としてはいられない。駒丸扇太郎と落ち合う約束はしたものゝ、やはり厄介なところでバスを降りてしまったと思った。
「 かさね、東福寺駅へ向かうが、少し西へ出て下ることにしようか・・・・・ 」
  約束の時間までにはもう少しある。虎哉は少し思案する時間が欲しかった。
  こゝにきて気の抜けた遺言では、遺されて手にする側はとんだ生涯の迷惑となる。
「 何や寒空を、まだ歩かはる気ィかいな・・・・・ 」
  泉涌寺道の少し北に鳥辺野という陵地がある。そこは一条天皇皇后定子(ていし)以下六つの火葬塚で藤原氏時代の貴族らの埋葬地だった。この鳥辺野と泉涌寺は細い山路で結ばれて密接である。泉涌寺は古くから皇族の香華院(こうげいん)、つまり菩提所とされ御寺(みでら)とも呼ばれた。
「 詮子(せんし)と・・・、定子とが・・・、同じ軒下で眠れる。あの世とは、そうしたところなのか! 」
  一度、じっと北へ目配せした虎哉は、すっとステッキを西に返した。
  一条天皇の母上で円融天皇の皇后が詮子である。定子には叔母にあたる。その詮子は、定子の兄の藤原伊周(これちか)を関白にさせなかった「大鏡」ではそういう意地悪の人で、定子には姑(しゅうとめ)でもあるが、詮子はその定子まで憎み終えた。亡くなってみると、その二人が今一つ墓所に葬られて眠る。いや眠らされているのだ。死人に口無しというが、その死人の小言とはじつに怖く密かである。
「 近くて遠きもの・・・、思わぬ親族はらからの仲・・・か 」
  と、思う虎哉は泉涌寺、鳥辺野、さらにその北にある清水寺までの長々とした音羽山へといたる細い山路を想い泛かべてみると、いかにも草子(そうし)のいう眼差しが「をかし」かった。
  泉涌寺や鳥辺野は、敗者によって埋められた場所である。
  清少納言(せいしょうなごん)は定子の御陵近くに住んでいたらしいから、この道を通って清水寺に詣ったのだと思う。虎哉がそうした清少納言の影を追いかけてみると、当時の視線で描かれたはずの枕草子(まくらのそうし)には定子の没落の背景が触れられていない。これは、むしろ触れようとはしなかったから、第段のはしばしに筆を曲げたとみとめられる辻褄の悪い痕跡がある。曲げねばならぬ痕跡は行間の暗がりにある。この時代、藤原氏は同族相はむ暗闘を演じ、陰険でしかも徹底した抗争が、王朝のきらびやかな表面とはうらはらに、裏面では強かに渦巻いていた。
  追いやられる定子に宮仕えする清少納言は、藤原道長が存命であったがゆえに、世相には無関心を装うかに意を忍殺し、眼を伏せ、口をつぐみ、筆を曲げている。それでは真の「ものの哀れ」ではない。だが曲げさせられた怨念の哀れは行間に宿る。
  虎哉はそんな敗者の場所を背に感じながら、また寒々とした参道口を西へと歩いた。この地域は敗者という死体の吹溜りなのだ。




「 老先生、歩かはるんやしたら、お薬のみはらんと・・・・・ 」
  右足の関節が伸びたまゝ、歩き辛そうに虎哉は踵(かかと)を地に引ひて歩く。それもよく見れば下半身はかすかな震えをともなわしていた。後ろから支えようとした香織は、居たゝまれなく、サッと滑るようにして虎哉の脇に肩口を差し入れて下支えすると、それでもステッキを突こうとする虎哉に労わる眼差しでいった。佳都子の顔が過ぎるが、このまゝ放置するとその震えはしだいに痙攣(けいれん)することを香織は知っている。口元は柔らかくしキッと眼だけは固くした。
「 ぶゞな、ちょっと熱いさかい、そろそろと飲んでおくれやし。ほしてこれ赤いの一錠、白いの三錠、黄色いの一錠、そして粉ァのカプセル一錠やわ。ほんに寒いし、先にぶゞ一口含んでうがいしとくれやす。口ィ温こうなる。そして一気ィに呑まんと、一粒ずつやわ 」
  香織はそういゝながら虎哉のステッキをさっと引き取ると、小脇に挟み、ポシェットのクスリ袋から六粒の錠剤をつまみ出し、それを手渡しつゝ左手にカップを持たせ、常備した保温ボトルから白湯さゆを手際よく注いだ。



  前に虎哉が引き出した歌は、長い療養生活からようやく日常生活へ回復したころに祇園の置屋女将佳都子の祖母清原茂女がつゞり遺した一筆である。彼女は随筆『ひなぶり』にこの歌に題する内容を記した。その中に清原文代という実娘の話がある。それによると文代は1920年(大正9年)12月3日付けで療養先、佐賀県小城郡古湯温泉の旅館にて密かに産み落とされた。
  そして文代は旅館の主人に引き取られ扶養されるとある。
「 古湯温泉の清原茂女と文代・・・、そして長崎の陣内剛蔵との関係・・・・・ 」
  虎哉はこの三人の人影を眼に結ばせていた。
「 自分という小川に清らかな泉がゆっくりと湧き出ていれば、そこへ向こうから濁水が入ってくることはない・・・・・ 」
  風邪で大熱をだしたとき枕元でそうさゝやかれて虎哉は川にされた。
  香織から薬を飲むよう促された虎哉は、ふとそんな母菊乃の言葉を想い起こした。
  清泉には緩まぬ湧出があるのだ。人の血流もまた似たようなものである。年が明けても去年からの続きのようなもの、何かの「残念」や「無念」というものが、あいかわらず蟠(わだかま)っていた。虎哉はしだいにそんな思いを強めると、もはや崩れかけた塀の背後にでも自身が居るようであり、弛緩して血流の悪い体に、始末の悪い焦げ臭い匂いを感じた。
  悩ましい期間が長引くと、自分の才能や境遇を疑い始め、さらには身近な者を疑うようになる。そのうち自分を失う。自分を失えば、人を失う。人を失えば、物を失う。しかし悩んでくよくよ、ぐずぐずしているときは、このことがまるで分からない。どうやら体調も同じなのだ。幼い耳奥について残る、こうした戒めの言葉も、能(よく)した母の抄言であった。
  厳格であったその母に言わせれば、やはり精進の足りぬ心身の血流が悪いのであろう。最近、ふわふわとした遊仙感覚のような幽かな影に危うさを覚えて不安なのである。虎哉は香織から渡された錠剤を、一錠ごとていねいに口にふくむと、しずかに白湯を流し込んだ。そうして処方に委ねたそのまゝの姿勢で、ステッキに両手をかけていると、辛うじて自分の心が保たれているようにある。
  すると一瞬、どうしたことか自分をみて頷く母の影が泛かんでみえた。
  虎哉はしずかに黙祷(もくとう)でもするかのごとく眼を閉じていた。鳥辺野があり、その南の蛇ヵ谷(じゃがたに)から深草にかけての光景は、虎哉にとって一つの原郷のようなものだ。
  蛇ヵ谷は大正期後、五条坂界隈が手狭になり、多くの陶工が工房の地を拓くために移り住んだ谷である。
  何かと気随であった母菊乃はよくこの蛇ヵ谷を訪ねていた。泉涌寺の帰りにはいつも細く淋しい山路を北に道草でもするようにして、工房をめぐり、鳥辺野の墓地を詣でて奈良へと帰るのである。幼い虎哉の眼に、その名からして妖気なそれらは薄暗く怖い道草であった。だがそうした怖い墓場続きの道にも艶やかな母の面影が一つある。



  母は泉涌寺から蛇ヵ谷、鳥辺野墓地を廻るときは決まって同じ絵柄の着物を着た。源氏香紋である。さも占いか縁起でも担ぐかのようにその華やかな紫地に黒符の香紋を連ねた服を着ていた。


             
             


「 かさね・・・、少しは源氏物語を読んでいるのかい?・・・・・ 」
  と、脇にいる香織に、虎哉はふとそんなことを訊いてみたくなった。その香織は、どうやらクスリの量が気がかりのようで、錠剤の残り数をかぞえている。
  一昨年の夏、香織が別荘に住み込むようになって半年を過ぎたころのことだが、誕生日のプレゼントに神田神保町の古書店から源氏物語を取り寄せて、香織にそれを贈ったということを君子から聞いていた。
  母菊乃が幼い虎哉に語り聞かせた深草とは、記憶の中にしかない「けものみち」のように滲み出してきて、百夜通いの深草(ふかくさ)の少将(しょうしょう)や無名抄のうずら鳴く里などは、それでもう、存分の気分になった古典なのである。また小野小町(おののこまち)ほど、有名でありながら、謎に包まれている女性はいないのだが、道草のついでに母菊乃が語り聞かせた紫式部も幼き耳にはまことに謎多き女なのだ。そんな女が書き遺した「源氏物語」とは、到底、男の興味の外にしか置かれないような物語にしか思えないのだが、しかし、女性の嗜好とは存外侮れない人間の本質に眼を輝かせるものらしく、母菊乃が若くしてそうであったことを思うと、はたして若い香織がどう感じるのかは随分と興味があった。
「 へぇ~・・・、読ませてもろてます。君子はん、京都に生まれたんなら、一度は読みィな、そないいゝはった。そんなんで貰うた本やさかい、大事ィに読ませてもろてます 」
  突飛な問い掛けにもそう答えると香織は、自分の部屋に小さくとも人生初の本棚を密かにあつらえ、そこに堂々と整列させて並べた大長編の書を泛かべた。揃えた束を眼に撫でると御利益がでる。それはもう香織にとって本棚は、天照(あまてらす)の座る神棚のごとくあった。
「 そうか・・・・・、で・・・・・、どれほど読みこんでみた? 」
  この物語は男の巷(ちまた)という色眼にはさまざまな憶測を呼んできた。
「 どれほどや、そういゝはッてもなぁ~・・・。貰うたの一昨年の七月やから、もう三、四十回は読んでますやろか・・・・・ 」
  とは答えても読めばますます誰かと話したくなる本ということだけは感じるが、他のことは混沌としてよくは分からない。
「 ほう・・・・・、そんなに読み返したのか! 」
「 へぇ~・・・。せやかて、うちには、ほんに難しい本やわ。読み始めたら、最初えろう面白い物語やと思いましたんやけど、何度か読み返すうち、そないしてたら、うち、えらいうっかりやした。読むほどに、えろう難しなって、そのうち、うちにはよう分からへんなった。時々、君子はんに分からんとこ習うてみるんやけど、そやけど、よう分からしまへん。せやけど・・・・・あの本、嫌いやあらへん。分からへんでも、折角、君子はんが呉れはッた本や思うと、何やうちそれだけで嬉しいんや。せやから、うち、大切に読も思てます。少し分からへんけど、あれ、何回も読みたくなる本やわ・・・・・ 」
  そう香織は答えたが、虎哉が思うには、香織の年齢がそう言わせる意図が手にとるようにある。それそこが紫式部の比類ない気性というものなのだ。またそれは彼(か)の平安時代の、持ち前の「気っぷ」というものであるのかもしれない。宮仕えに抑制されてきた創造力の香気が一挙に吹き出した衝撃がある。
  それは虎哉が読んでも、どこか女世帯の鏡台の匂いをこっそり嗅ぐようなものだった。強いてそれを言えば、式部の目を通して、時代とともにしだいに女の性(さが)がめざめ磨ぎ澄まされていく物語である。しかしそれを読んだからといって、女性の心身が育まれる物語というわけでもない。この物語は一筋の川であるが、清らかでもあり、澱(よど)みでもある。華やぐとみせて、そう感じさせながら落魄(おちこぼ)れる。そして最期は、濁流となり、式部はその川に夢の浮橋を架けた。これは夢とはいうが仏(さとり)の夢で、どうやら虎哉の尋ね方は、香織が強いて答えねばならない何の意義のない愚問だったようだ。だが、源氏物語はしつこく読み砕けば、かならずどこかに気楽な風が通ってくる。そこらが紫式部の企(たくらみ)というものだ。
  虎哉はそう思いながら泉涌寺道の西方をじっとみた。そしてまた泉涌寺の方向へと眼をおもむろに回しながら記憶に残る一つの小川を想い泛かべた。その川の流れは、泉涌寺の後ろの山から出て、今熊野の南をめぐり、さらに一ノ橋の下を流れて、やがては鴨川へと入り混じる。そしてその流れはいつか淀川となる。かって虎哉が幼いころにみた泉涌寺参道には、この川があり、一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋とあった。虎哉の眼の奥にはぼんやりとその一ノ橋が描かれていた。この橋が蘇ると母が現れ、そんな気にさせられる。
 おそらくは誰もがあの母と語れることではあるまい。虎哉が母と佐保山の真夜中に交わした時間からは、まるで好きな古典歌謡を唄っていさえすれば、人生をソツなく刻む、そんなことは気分よくできるのだよというような、そんな美妙な安堵が伝わってきたのだ。


             


「 かさね、少し歩こう。向こうの方だ・・・・・ 」
  と、ステッキで西を指すと、古い記憶に連なる参道と細い道路とが交わる場所まで香織を連れて歩いた。虎哉は病んだ右足を曳きながらパタリと止まると、借りた香織の肩からそっと手を放し、す~っとステッキを水平に上げ、また静かに下ろすとその尖(とがり)で路面の上をかるく叩いた。コッンと一つ納音なっちんが鳴いた。この納音とは五行の音律(宮・商・角・緻・羽)である。
「 かさね・・・こゝだよ。ここが夢の浮き橋だよ・・・・・ 」
  唐突に、そう虎哉に促されても香織には、虎哉が意図する状況がよく呑み込めなかった。
  二人は十字路にいる。角は居酒屋・牛若丸である。路面のどこを見回してみても、たゞの十字路上ににしか過ぎない。何一つ落ちてもいない。こゝが夢の浮き橋というが、虎哉がコツンと叩いたその路面は、どうどこから見つめても単なる路面で、ことさらそれらしきモノは何も見えなかった。香織はわけもわからずたゞポカンと小さな口を開けている。
  しかし虎哉はそこに「源氏物語宇治十帖」に描かれた「夢の浮橋」に由来する跡であることを母菊乃から聴かされた記憶がある。何よりも養母お琴から浄瑠璃ごとのように繰り返し聴かされていたし、現に何度か、そのお琴の手に連れられて訪れていた。ともかくもこゝは、紫式部が源氏物語の幕を閉じる最終章で描き現わした橋を偲ぶのであれば、京の市井に唯一面影を止める跡なのである。
「 かさね・・・・・、もう眼で確かめることは不可能だよ。千年も前の浮橋だからね。今となっては私の眼でも、かさねの眼でも、他の誰の眼をしてでも、この結界に架けられた橋は、見えるはずもない橋なのだ。・・・・・しかしやはりこゝは納音だから顕れている・・・・・! 」
  と、言葉尻を消してそう言ってはみたが、同じ言葉は、幼い虎哉の耳にも同じように聞かされた。
  母菊乃も養母のお琴も同じ言葉で語ってくれた。
  その言葉通りに繰り返している虎哉自身がいることが、香織に語りかけている虎哉には不思議であった。
  あえて納音を語ろうとしたわけではない。語らせられているような妙にふわりとした感覚を覚えた。あのとき母菊乃は、赤い蛇の目傘の尖さきで橋の上をポトンと軽く叩いたのだ。その音の響きとともに、幼い小さな五体は逆さにした盥(たらい)の底でもた叩いたような、あるいは洞窟の入り口で叫んだときに風が震えるような体感を覚えた。当時は、確かにそのはずである。
  しかし、その夢の浮橋という、小野の里の川に架けられていたという平安の橋は、香織の眼で見つめる現在、川はコンクリートで覆われて暗渠(あんきょ)となっている。どう、そこに夢の浮橋が架けられていたのかを求めようとしても、すでに名残を止める一つの欠片かけらさえない。川は地下深くへと埋設された。
  紫式部の描いた橋の形跡はすべて千年の闇の彼方へと消え去っている。昭和30年ごろにこの橋は消えた。
「 いゝかい、かさね。これから話すことを後でレシティーションできるよう、しっかりと頭に刻み、その光景を心の眼の中に、いつでも再現できるよう繰り返し覚えるように・・・・・ 」
  虎哉はそういうと、向かい合った香織と、五歳で他界した光太郎と、その母である香代が香織と同じ歳の十七で嫁いだ日の姿とを見比べられる眼の高さのところに身を置こうとした。
  いや、そうとは違う。光太郎と妻香代と、母菊乃の御霊がみな呼び逢えて還り、香織の眼の高さで落ち合える位置に、曲がろうとはしない膝を虎哉はそっとかばいながら、片足を伸ばしたまゝ冷え切った地べたにストンと腰を落とした。虎哉が一旦こうなると、もう誰もそのテンポを乱そうとするものはない。世の中で一番重要なことは、夢の浮橋以外にはなくなってしまっていた。
「 あゝ、またかいな。れしてィ~しョん・・・・・、暗誦(あんしょう)いうことやったなぁ。老先生これいゝ出しはったら、もうアカンわ。きかん人やし。せやけど、これほっといたら、うちがァあかんなる。そないいうても、ほんに、かなわんしなぁ~・・・・・ 」
  香織は虎哉のそんな視線をえらい恐ろしく感じるが、途中まで小声でそういって、しかしもう逃れようもなく、ふと間を置いた眼を空に向けると、雪を含んだ灰色の雲が、低く頭をおさえつけるように垂れこめていた。
  そして香織はまた胸のサザンカを押えた。
  新世紀になって80歳を過ぎたここ数年、虎哉はしだいに過ぎ去っていく恐怖に苛立ちがあった。そうした苛立ちが、残されて流れ去ろうとする時間に対するしびれるような重宝な味わいに拍車をかけていた。
  そうしてふと気づいたときに、空や海や野が薄暗くみえて、これから拡がろうとする青い光線がその中心にみえた。それがまた未明から朝の陽が昇る間の、かけがえのない隠国(こもりく)から誘い導くかのサインなのであったのだ。
  京から奈良坂を越えるとは、そのこもりくへの道であった。やがて丹(に)の色の仄かな光がそこに加わると、逢初(あいそ)める青と丹の光がしだいに落ち合いながら、鮮やかにプリズムで結ばれては、一面を染めるバイオレットの空間が広がってくる。虎哉はいつしかこれを本物の夜明けなのだと想うようになっていた。かさねに、その隠国の夜明けをみせたかった。そう思う虎哉は、おもむろに鞄から古い一通の、昭和十八年当時の電文を引き出すと、少し振るえる手のまゝに香織の手を引き寄せ、そっとその紙をてのひらの上に置いた。
「 イマサラ二 オウベクモナシ ムラサキノ ノノハテ二キエタマエキミノカヨト 」
  この片仮名の羅列する響きは電信の歌である。
  当時、養母お琴が打ってよこした妻香代の、享年23の辞世のそれは「 今更に追うべくもなしむらさきの野の果てに消えたまえ君の香代と 」という一首であった。虎哉はこの電信の経緯(いきさつ)を香織にいゝ終えてから、またそっと鞄の中に納めようと手を伸ばしたが、瞬時、風に吹き煽られた古い紙切れは、はらはらひらひらと路傍を舞い回りながら、地べたに落ちてカサカサと転がった。この電報を受け取った昭和18年当時、虎哉はシャンハイにいた。外套(がいとう)の襟をたて、凍えるようにひっそりとこの歌を涙して読んだ。雨田虎哉は上海の路傍で、酷く落胆し、日本の国というものが、もう自分の心を揺さぶらなくなっていることに気づいたのである。
  虎哉は転んでいくその電報をみつめながら、そっと香織に微笑した。香織にはそれが、電信を追いかけてしまいたい虎哉がそこに居て、それでも必死に何かを堪え我慢しているかのような虎哉が居て、うずくまる影が二人の虎哉に見えた。
「 うち、もうよう分からへん。こゝ、宇治やあらへんし。せやけど老先生、こゝが夢の浮橋いゝはる・・・。納音て何んなんや? 」
  どうにも訳が分からず香織はたゞしょんぼりとした。
  四条天皇が崩御されたのは、鎌倉時代の1242年のこと。享年12歳での崩御については、幼い天皇が近習の人や女房たちを転ばせて楽しもうと試みて御所の廊下に滑石を撒いたところ、誤って自ら転倒したことが直接の原因になったと伝える。突然の崩御を不可思議に思う者が少なくなかったようで、巷では後鳥羽上皇の怨霊とか慈円の祟りによるものとの噂が立った。あるいは死因を脳挫傷とする憶説もある。
  なぜ泉涌寺参道の一ノ橋をいつしか夢の浮橋と呼ぶようになったかについては、壇ノ浦で安徳天皇が入水し、平家もろともに滅んだことから語ることになろう。
  平家が滅ぶと、後鳥羽天皇が即位した、にわかに天皇が権力盛り返してみると、後鳥羽系の天皇を擁した後鳥羽上皇方と、出来てまだ間もない、不安定な各勢力寄り合い所帯の鎌倉幕府との間で承久の乱が起きることになる。鎌倉時代は第80代高倉天皇から第88代後嵯峨天皇まで受難続きの時代であった。承久の乱で敗北した側の首謀者・後鳥羽系列の天皇一族が一斉に処分された。当時まだ10歳の後掘川天皇が即位すると、出家していた父の守貞親王が上皇となり院政を敷くことから幕府との混乱はしだいに回復する。そしてその孫が病弱な御堀川天皇に変わり四条天皇となる。しかし父の譲位に伴って即位した年齢はわずか2歳であった。さらにわずか10年の即位期間、12歳での崩御。かくして四条天皇は泉涌寺に葬られるために現生に架けられた夢の浮橋を渡った。
  こうして夢の浮橋は今の世に出現したことになる。



  源氏物語が紫式部によって「いつ頃」、「どのくらいの期間かけて」執筆されたのかについて、いつ起筆されたのか、あるいはいつ完成したのかといった、その全体を直接明らかにするような史料は存在しない。そうした源氏物語を、妻香代は、必ずしも長編の物語であるから長い執筆期間が必要であるとはいえず、数百人にも及ぶ登場人物が織りなす長編物語が矛盾無く描かれているのは、短期間に一気に書き上げられたからであると考えるべきで、若くして確かにそうであるとすら語っていた。香代が人より特段感性を高くして生まれたわけではない。京都とは、そんな女性をいともたやすく育てる風土なのである。そこには人にやわらかで柔軟な日本独自の豊かな風土があった。
  比べて今、日本国の人民がタイ米を食べることを余儀なくされ、松本サリン事件や霞が関地下鉄サリン事件など、国家未曾有のオウム真理教が関与するテロ犯罪で国内は混沌とされる年次に明け暮れている。虎哉には暴走を始めた日本国が見えるようである。
  しんしんとくる北風に晒されながらそう思う虎哉は、間もなく東福寺駅へと来るであろう駒丸扇太郎のことを気に止めると、昨年その扇太郎が語っていたフランスで見たという薄暗い海峡の漂いが腕時計の盤上で今をめぐり、その秒針の動きを絡らめ止めるかのようだ。眼に遺されたそれは、亡国の暗い泡立ちである。



  消え去らないその暗い泡が、清原香織の出生の秘密に、とぐろでも巻く黒い蛇ように泛かんでいた。
  またその蛇は佐賀県小城郡古湯温泉の一宿にからみついている。
「 新型インフルエンザが猛威をふるい、パンデミー(世界的流行)となる危険性が叫ばれていた。もしも大流行したならば、人々はパニックに陥らずに、冷静な行動を取ることができるだろうか。医療体制も十分な対応が備えられているのだろうか。人が動き、モノが動けば、目に見えない病気も動き、疫病が流行する。まさに、負の異文化交流となるのである。ようやく近代となり交通網が発達し、国際交流が活発になればなるほど、病気はエンデミー(風土病)からエピデミー(地方病)、そしてパンデミーへと激変するのである・・・・・ 」
  この最中に、長崎へと向かった清原茂女は酷い「はやりかぜ」に冒された。その「はやりかぜ」とは1918年(大正7)年から20年にかけて、「スペイン風邪」と呼ばれ世界中に猖獗(くるけつ)したインフルエンザのことである。推定では約6億人が感染し、少なくとも二千万人から、一説には四千万人が死亡した。
  発生源は諸説あるが、ヨーロッパでは第一次世界大戦の最中であり、西部戦線で睨み合っていた両陣営で爆発的に流行し、フランス全土に席捲し、やがてスペインへと蔓延していった。1918年秋になると、この恐懼の「スペイン風邪」が、日本へと上陸し、越年して全国に猛威をふるった。日本でも約二千三百万人が感染し、3年間に38万8千人が死亡した。人口千人当たりの死亡者数は6・76人、患者百人当たりの死亡者数は1・63人であった。大正時代にはこのようなインフルエンザの流行があった。
  清原茂女が発症したのは大正9年6月である。スペイン風邪に罹かかり、急激に発熱し、寝込んでしまったのだという。肺炎を併発し、四、五日間は生死を彷徨し、一時は生命を危ぶむ状況であった。
「 8月から温泉嶽(雲仙)に療養、9月には佐賀県唐津海岸へ、10月から12月までは佐賀県小城郡古湯温泉の扇屋へ逗留し療養した。この期間中の雲仙、唐津、古湯温泉この三か所のいずれかに陣内剛蔵と清原茂女との接点がある。そしてどうやら古湯温泉が花雪という源氏名をもつ文代の生まれ在所になるようだ。しかしこの脚ではもう・・・・・ 」
  そう西へ眼差してみると虎哉には眼の潤む痛みがあった。そうした感染症といえば、1935年から1950年までの15年間、日本の死亡原因の首位は結核である。これは当時「亡国病」とも称された。
  未だ我が国には結核に有効な薬はなく、病気になればひたすら安静の日々を何年も過ごさねばならず絶望的な日々を送っていた。この結核で妻香代は胸を破(や)り痰壺(たんつぼ)を赤くさせながら他界した。
  それは長女君子を出産した半年後のことであった。
「 消えたまえ君の香代と・・・・・。むらさきの野の果てに・・・・・ 」
  この歌で「いはれなき切実」の消息は途絶えた。
  しかし、いはれなき切実の浮橋は胸に遺される。未だ生き残る虎哉は亡き香代の影が夢の浮橋に座るのを覚えた。
  そして新たな彼方には香織へと架け遺すべき母恋の浮橋がある。この浮橋は、奇遇ではない宿命という実在を体感したようで身震いがし、すると今にも一羽の雉(きじ)が藪奥から飛び出してきて、ほろうちの甲高い声を空に向かって突きあげるのだ。
  五体は指先の根まで振るえ、まったくそんな身震いをさせた。そして眼に泛かぶのは、太古の古い錆びれた日本の神々の弔いであった。人間よる古事記が記される以前のその昔、雉の鳴女(きじのなきめ)という神がいた。この鳴女こそが虎哉の全身を振るえさせる。そして虎哉は、老いた眼を若かりしころのように悠々とさせた。

                           







                                      

                        
       



 京都・泉涌寺