Kの理論 「華麗なるブレイクアウト」 Breakout Magnificent.

脱走・・・ただ道は一つ。いつも道に一人。万人は来ない。脱線し続けるサイボーグ社会からの脱出。

ジャスト・ロード・ワン  No.28

2013-10-07 | 小説








 
      
                            






                     




    )  泥の坂  ①  Doronosaka


  秘太刀(みくにのまち)を握りしめた阿部富造だが、高野川の揺らぎ流れる瀬音が響き、朝まだきころは峰々をたどり比叡山延暦寺まで聞こえるという、清原香織にはその秋子の奏でる神寂びた篠笛の音色が泛かんでいた。
「 斑鳩(いかるが)の午(うま)の骨・・・・・ 」
  法隆寺のすぐ西に広がる西里のこの集落は、近世初期の日本で最も組織的な力をふるった大工棟梁中井正清の育った集落である。南に大和川が流れ、北には法隆寺の裏山にあたる松尾山を中心とした矢田丘陵を仰ぐ。西部には在原業平の和歌で知られる紅葉の名所、竜田川が、東部には「富の小川」として詠われている富雄川が流れる。
  古代の大和国平群郡夜麻(やま)郷、坂戸郷の地で、龍田川が大和川に合流する地点の北西にある神南備・三室山山頂に延喜式内・神岳(かむおか)神社が鎮座する。飛鳥時代には聖徳太子が斑鳩宮を営み、当時創建された法隆寺、法起寺、法輪寺、中宮寺は現在に伝わり法隆寺と法起寺が世界遺産に登録された。
「 正徳太子の薨去後は、太子の王子山背大兄王一族が住んでいたが、皇極天皇2年(643年)に蘇我入鹿の兵によって斑鳩宮は焼き払われ、山背大兄王以下の上宮王家の人々は、法隆寺で自決に追い込まれたとされる・・・・・ 」
  すると斎場御嶽(せーふぁうたき)にいた幽・キホーテは、ふと眼の前の広がる沖縄の闇が途切れて、ふんわりと紫煙のシャボン玉で包まれた中に、笛の音に踊るようにして二匹の蝶が羽ばたいていた。
「 ああ、あの鳩は、斑鳩を具象するもので、あったのかも知れない・・・・・ 」
  比江島修治は、かって阿部秋子との接点にそんな白い翼の記憶を持っていたのだ。
                                           
              



  あのとき阿部富造は伊勢の亀山を想い起こして、日本武尊の白鳥を泛かべたのだが、と、修治がそれをじっと感じて胸に拾い上げようとしたことを瞬時、幽・キホーテは脳裏に白いその姿を過(よ)ぎらせたのである。
「 あのとき秋子は、レイモンド・ロウィーの小鳩を指先でたゝいた・・・・・ 」
  彼女は軽くポンと爪弾くようにノックした。むろん、応えるはずもない。ノアの方舟のくだりで帰還する逸話の鳩である。このときクラムシェルの藍箱には、まだ残り五羽の鳩がいたはずだ。その一羽の頭を爪先でつまむと、彼女はピッと引き出した。
  もちろん、飛べるはずもない。鳩は身を火炙りにされる順番を、たゞひたすらと待っているのだ。修治の鳩は、我が身を荼毘に差し出せば大空へ飛ぶ自由を貰えることをよく自覚していた。それが買われた鳩の認識というものである。鳩は資本主義社会の常識を心得ている。
  彼らは火を神と崇める「 Tues Muslims 」なのだ。藍箱の方舟は教会である。
  殉教の道を歩もうとしていた。毎日二十羽が天昇する。
  しかし、彼女につまゝれた一羽は驚いた。残りの四羽は次ぎもそうするのかと愕然とした。火炙りを待つ鳩は、火を灯されることもなく、たゞ無用で不要な棒切れのごとく転がされた。
  秋子は静かに修治の愛用するショートピースを自在に転がしたのだ。転がる鳩は拝みながら眼をたゞ閉じていた。そのとき修治は煙草を一服し、彼女の白い爪先がする始終を眺めていた。
  飼うために箱に入れているのではない。空へ放つために買ったのだ。

          

  そのまゝ放置された鳩は、さり気なく修治のポケットに入れ、一時間後に空へ放したのだが、比江島修治が保有するアルゴリズムの色見本には、阿部秋子の転がしたその色がない。
  幽・キホーテは今、その細い指先の静かな「 わが衣手は 露にぬれつつ 」という哀れ香が果たして何色であったのかを漠然と想像している。あのとき、姿見の中の老婆を見て、阿部秋子は仰天したではないか。修治はあの顔色を見たのだ。
「 ああ、血のような空の色 」
  と彼女は叫び、両耳をギュッと圧さえ、顰(しか)めた小顔の眼を一瞬丸くした。
  その歪んだ顔を見詰め終えてみると、秋子はあどけなく笑い飛ばした。
  そうして「 今日も秋色やねッ 」と明るく爽やかに言う。
  秋子のこれが日常の遊戯である。そうすることで秋子は気分を切り換え、実際それによって新しい知識を効率的に蓄えていき、人生を面白く進捗させることができたのだ。
                              
          

  秋子の「秋」は祖父の清太郎が与えたという。雁が音の羽擦れすら淡く感じさせサラサラと光る栗梅の髪は母から貰った。
「 手短な平和・・・・・ 」
  秋子はそう言ってテーブルの上でショートピースを転がした。
  上句だけポンと転がして煙草を喫うとは文句なく斬新で意外だった。
  和訳して喫煙をいとも美しく咀嚼(そしゃく)してしまったのだ。
  たゞの紙切れが風で空へ飛ばされるように、いとも簡単に比江島修治の定形が崩れ落ちた。
  修治はその風圧でしばらく不正咬合の状態であったが、さりげなく手短でいかにも物臭なその言葉使いの妙な紫艶に巻かれながら修治はまたしばらくのまゝその軌跡の幽さに曵かされていた。
  やがて朝露の滴る窓ガラスの上に、秋子の白く細い指先が手短な平和という文字を描き、手招きで誘う夢をよくみるようになった。以来、神妙なその潮騒の揺らぎに修治は曵かれ続けている。





  そんな秋子と逢う度に、比江島修治は、赤鉛筆でラインを引いた高校当時の、すっかり変色した古典の教科書をいま怖るおそる開いてみると、まるで紅葉が降り落ちた跡が、古細菌の化石のようになっているかのような錯覚を抱いてきた。
  微化石として多産するもの以外については、通常、断片的な知識しか得ることができないが、化石として生き残る生物は偶然に左右され、その身体の部位、条件、その他きわめて限られた場合だけである。しかし秋子の場合は「種」とよばれる連続群によって最も意味深くあらわれた標本に触れるようであったのだ。
  そこに歯ぎしりするマルテルの顔が現れるかと思うと嬉しくもあった。
  祖父の名の「秋」を引き継いだことがそうである。祖父の本名は清太郎であるが、阿部家の嫡男は代々「秋一郎」を世襲するという。戦禍にて嫡男の生存を危うくしたという体験から、祖父は子女にも秋の名を残そうとしたこともあるようだ。また、栗梅の髪を母から貰ったことがそうである。 さらに、父譲りの白い指先がそうである。何よりも秋子が白露月に生まれたことがそうである。そうして白秋の詞をよく歌うことがそうである。
「 生まれ落ちた地の「生命」やその「命名」とはすでに生きる化石であろう・・・・・ 」
  修治は、その秋子の名に赤い潮騒のような緩やかで懐かしい日本の音を幾たびか聴かされた気が、生半可じゃなく絶対にするのだ。
  秋子という数奇な女が抜群に面白く滑稽な古風の存在ということもあるが、日本人にはどうしても硬軟両義の感慨をともなって語らざるをえない「秋」という主題に、ひたすら一心に向かっているところがたいそうロマンチックに見えていた。また一途にも見えていた。
                                 
  可視化ではそう白くみえる。だが御嶽から覗く不可視化では青白く感じるのは一体どうしたことか。
「 裏返せばこれは、明治維新における日本人が見誤って假定(かてい)した一つの青い照明なのであろう。それを踏襲した戦後の日本は、せわしくせわしく消滅させようとしている。新たなジステンバーの猛威とも知らずに、いかにも、もっともらしく灯り続けているのではないか!。幕末までは日本オオカミは生存していた。彼らが滅亡したのは明治になって異国よりジステンバーが襲来したからだ。青い輝きはこれと等しいウイルス性疾患の感染色帯ではないのか・・・・・ 」
  秋子が転がした白い鳩が、幽・キホーテには羽を散らされて青白く輝いて見えるのだ。
  そしてその眼には滅亡したという日本オオカミ、耳にはなぜか慟哭の遠吠えが聞こえてきた。
「 阿部秋子の留学先である北米を追いかけた、あの黒丸は、あの後一体どうしたというのだ・・・・・! 」
  しだいに修治の脳裏では、安倍家に伝わる陰陽の黙示録をめくり始めていた。
                          


「 ああ、東京の書棚に、秋子から借りた一冊の古本がある・・・・・ 」
  借りてからもう十数年、借り忘れでもなく返さないでいる。それは河井寛次郎の『火の誓い』という一冊だ。
  後、数年すると紅蓮の赤シャツを着せてあげたい。その姿で一緒に散歩でもしよう。長らく生きてみて、そろそろ一つに生まれ還る、そんな年齢の古本である。
  彼女は返却を迫る質(たち)ではない。もう返さないことに決めた。
  そもそもこの一冊が秋子との馴れ初めであった。妻の沙樹子には悪いが、これこそが絶えない潮騒の独り占めのようで、今さら返せないのである。未だ返せない事情が、じつはもう一つこの本にあるのだ。
  河井寛次郎の『 ・・・・・これこそ病む事のない自分。老いる事のない自分。濁そうとしても濁せない自分。いつも生き生きとした真新しい自分。取り去るものもない代りに附け足す事もいらない自分。学ばないでも知っている自分。行かなくても到り得ている自分。起きている時には寝ている自分。寝ている時には起きている自分。「 火の誓い 」・・・・・ 』という本にある下りである。
  この辺りの寛次郎が言い聴かせる問答が何ともじつに奥が深い。

                                 

  真っ向から渡り合うには、分かち合うだけの想像力が問われ隔たりを埋め尽くす間を修治は自覚せねばならなかった。
  そうした自覚を導くには、さしづめ道元禅師の言葉「 自己をはこびて万法に修証するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり 」に突き当たることにもなろうから、いずれ秋子に案内を頼み、駒丸家とは結び付きの深い修学院の赤山禅院にでも訪ねて、千日回峰行の大阿闍梨による八千枚大護摩供の加持・祈祷の比叡術など請い学べねばならないと考えていた。
  赤山禅院(せきざんぜんいん)は比叡山の西麓にある延暦寺の塔頭である。
  慈覚大師円仁の遺命により888年(仁和4年)天台座主安慧が別院として創建した。




  本尊は陰陽道の祖・泰山府君(赤山明神)、かけ寄せの神として、また、京都の表鬼門にあり、王城鎮守、方除けの神として信仰が厚い。拝殿屋根に瓦彫の神猿が京都御所を見守っている。これは阿部家とはじつに親しい神なのだ。 この方除けの神として、古来信仰を集めた拝殿の屋根の上には、京都御所の東北角・猿ヶ辻の猿と対応して、御幣と鈴を持った猿が安置されている。
「 あんた、猿にでもならはるつもり・・・・・ 」
  かと、 秋子はきっとそう冷やかしてから承諾しようかと、問答の一つでも仕掛けてくるに違いないのである。そこに説き伏せの備えがいる。何かとてんごしたがる質であるから秋子との問答を、修治は用意し、まずその門をすり抜ける必要があった。
「 禅院の猿と、寛次郎が自宅に置いた猫とが問答する 」
  と、さて軍配や・・・・・いかに、とでもなろうか。だが、おそらくこれは理屈なく即決する。
  手に何も持たない寛次郎の猫に、やはり軍配が挙がる。猫は一言も口を開かずとも猿に優るのではないかと比江島修治はそう考えている。しかし、比叡山延暦寺の千日回峰行においては、そのうち百日の間、比叡山から雲母坂を登降する「 赤山苦行 」と称する荒行がある。これは、赤山大明神に対して花を供するために、毎日、比叡山中の行者道に倍する山道を高下するものである。
  かけ寄せの神仏として人を招くとは、屁理屈がどうにも鼻や耳に障る。かけ寄せは、五十寄せとも五十払いともいい銭をかけ寄せ、五と十のつく日に集金や支払いを行うというもので、京都をはじめ関西では集金日を五十日(ごとび)と隠に称する商いの手習いが産まれ、これを赤山明神がかき寄せた。神仏に仕える身が民衆の銭集めを先導するとは、この本末転倒の屁理屈を、禅院は法衣で平然と語り過ぎる。禅院の猿が手にする御幣と鈴は、銭かき寄せの無慈悲な旗に過ぎない。

                             

  自らの巧(うま)さを人に悟らせぬのが、本物の名人だ。知るものは言わず、言うものは知らずという。物事を深く理解する人は、軽々に語らないものである。磨きあげ積みあげた研鑽と技術をひたすらと庶民の幸福へと捧げ、市井の人であり続けた寛次郎とは、民衆の民芸に心優しい職人であり、それがための哲人であった。そうした彼の作品は、未来の民芸への温かい視線に培われた。 明治という洋風偏向の真下(さなか)、日本民芸に新たな装いを加え、和を厚くするなどして風前の灯であった陶芸の弱さを補強してみせた。
「 色彩もなく、手には何一つなく、眼を上げて何をかを招く、この男が置いた語らない猫 」
  改めてしんみりとそ思う修治は、そっと出窓を開くと、青のなかに白さをつよくしばるような高い空に向かってそのまゝ眼を西の彼方に遠くした。修治は、そう思った秋の日のことを眼に泛かべた。
  鯖雲のふらりと流れる空である。そこに、眼をそうさせていると、自らが足を運んだ35年間の京都への道を想い起こし、しだいに初めて阿部秋子と出逢った五条坂や、二人して歩いた京の都の細道が想い泛かぶのだが、五条坂の出逢いの記憶と鮮やかに結びつくもと言えば、それはやはり秋子の篠笛であった。
「 あの寛次郎の猫が、秋子の笛に合わせてスイングする・・・・・! 」
  修治の記憶を泛かべると、幽・キホーテは躍動するかの猫のトキメキを感じた。

                    


「 野の花のごとく・・・・・か 」
  あのとき、ひょいと笛の音がどこからか聞こえてきた。
  最初は祇園の祭囃子かと思ったのだが、しかしその手の鳳輦(ほうれん)に踊る節音とはどことなく違う。修治はいつのまにか佇み、しばらく野の風に揺らされる心地で神妙な笛の揺すぶり遊(すさ)ぶ音を聴かされていた。踊るでもなく、雅びるでもなく、侘びるでもなく、鄙びるでもなく、錆びるでもなく、市井の明暗から漏れ響く五感の音とはどことなく無縁のようで、どうにも裸体にさせられる。柔らかくはあるが人への手加減などない、それは逆しまに吹き野晒しに荒ぶ風神であった。
  あのレイモンド・ロウィーの小鳩をたゝいた指先と、あの人への手加減を感じさせない野に逆しまに吹き荒ぶ風神を操るような篠笛の指先と、やはりあの二つの白い指先が、高野川の春の流れに浮かんでくる。たしかにあのときは、野の風に揺り動かされる心地がした。
  修治はショート・ピースに火を点すと、いつもその燻ぶりが眼に顕れてくるのだ。
                                   


「 まだあどけない15歳ほどの娘が・・・・・ 」
  あの手の篠笛をどう習い覚えたのかは不明であるが、陰陽寮の阿部家の孫である秋子が宮家の影響を受けたことは間違いない。しかも、あのとき「 野の花のごとく 」という表現はそもそも可笑しいと、秋子にはクスクスと笑い返され、会釈とでも思ったのか軽く弾かれた。たしかに秋子は当時から世間摺れした少女ではなかった。
「 それでは、キリストはんの、あの聖書のフレーズといっしょや 」
  と、 そうあっさりと、機嫌良く微笑まれて、す~っと脇に置かれてしまったのだ。 だが、そう言われてみると、逆にそうされた去(い)なし方に薀蓄(うんちく)の一味がある。修治には益々讃美歌のように聞こえた。
  京都という市井の形成には、多くの社寺や宗派が深く関わっている。
  そうした仏派の中でも真宗は、プロテスタントと類似するではないか。京都人の質素・節約といった生活倫理の源泉を、その真宗の教えの中に見い出せば、市井にあって多様の商いに従事し、それぞれの家業を全うすることこそ凡夫の仏道と説いた蓮如の教えは、プロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神を生み出したとするウェーバーのテーゼと、二つは結ばれて似たるものとして重なるのだ。 実際、京都の気質にはそうした宗教の基層があるではないか。またこの基層の上に、秋子のいう言葉もある。どうもそう感じたのだが、またそう感じさせる少女の妙に揺らがされた。
  宮家なら営みの目線は常に大君なのであろうから、キリストとなれば讃美歌そのものである。
  秋子の笛はシンプルな旋律ではあったが、微妙な抑揚をよく拾うと、深々と静謐(せいひつ)の漂うその曲の調べは「 野の花のごとく 」風にそよぐ草むらの野花そのものであった。



「 美(うるわ)しのさくら咲く林ぬち・・・・・ 」
  自然とついて出た歌詞を呟くと、これは都内桜美林中学の秋子は到底知らないであろう古い時代の校歌なのであるが、これは駒丸慎太郎の父誠一がよく口吟(くちずさ)んでいたという歌で、ふと過ぎる慎太郎の思い出のその記憶とも、秋子の篠笛の音は修治の脳億でピタリと重なってきた。篠笛は旋律であり、旋律と詞を切り離せる人はいいが、修治は切り離せない。そう秋子には説明した。するとどうだろう彼女の笑顔たるや、それまで笹ゆりの慎ましき常態だった筈の顔が、まるでカサブランカが突然咲いたような別顔の綺麗で鮮やかな艷めきをみせた。
「 笛を愛でるにも、そんなルールがあるのですね 」
  と、一転して上品に切り返し、魂でも行き来させるかのように声を弾ませたのだ。
  秋子はさも虫の歌声を楽しむように、笛の音を楽しもうなんて、風流な人ですねと能(よく)した言葉遣いでそう言った。しかし修治はそう仕切られたことに思わずハッとした。秋の虫を籠で楽しみ、風流に愛でようとするのは都人の十八番(おはこ)ではないか。それでは上手に修治が仕返しされたことになる。だがそれだけでは秋子の嬉しい仕返しは終わらなかった。
  篠笛を仕舞い入れようと秋子が手にした西陣の筒袋の直ぐ脇に、目敏(めざと)くみると三品の湯呑が黒漆の丸盆の上にシャンと佇んでいる。その佇まいが洗練を感じさせた。門外漢の修治が眺めても、その陶器である湯呑は、その場に似合う景色を創りシャンとした姿勢で佇んでいた。お世辞抜きに正直そう思えたし、ありていの直感として素直にそう感じた。何か簾(すだれ)越しに中庭を見るような風通しのよさを感じさせたのだ。そうした修治の視線を鋭く感取った秋子は、篠笛を仕舞い終えようとした手をピタリと止めて、さも嬉しそうな笑みを零しながら、丸盆ごと修治の手前にす~っと引き寄せた。瞬間、互いの頬と頬とが擦れそうになり、修治にはたしかにそう思われたので、一抹の危うさを感じ、咄嗟に彼女の頬を片手で遮ろうとした。
  しかし彼女の所作は、片手をスルリとくゞり躱(かわ)し、はしゃぐような素早さで瞬く修治の顔を横に向かせると、さらにその耳元に頬を寄せて密やかに囁(ささや)いたのだ。



「 これ、秋の賦(くばり)という名のゆ・の・み・・・・・ 」
  と、だけ囁かれて、秋子のつるんとした指先は湯呑の中をさしていた。
  そう促されて湯呑一つを強ばる手のひらに乗せられてみると、意外にその陶器の肌触りは軽やかで、仄かな温もりを帯びていた。しかも万辺なく枯れた秋景色を眺め見渡すと、誰にでも分る描かれ方、あるいは巧みな削り方で、湯呑の底に澄み透る羽をしてくつばる一匹の蟋蟀(こうろぎ)が、さも草場の陰で啼くかのように棲んでいた。そして一言、湯など注いで殺さないでと言った。
「 そうか、湯を入れると、蟋蟀が死んでしまうよねッ!・・・・・ 」
  と答え返すと、一度小さく頷くが、さらに首をさりげなく左右に振った。
「 死にはるのも、そうやけど・・・、湯ゥ注ぎはると、黄蘗(きはだ)の釉薬が効かへんようになるんやわ 」
「 えっ、効かなくなる・・・?。綺麗に効いているようだけど・・・・・ 」
「 そうやないわ。この釉薬なッ!、菩提樹の涙やして、私(うち)それ入れてるさかいに、湯ゥ入れはると菩提寺の声消えてしまいはる。そしたら、ほんに可哀そうや・・・・・ 」
  今、その湯呑の蟋蟀が、比江島修治の書棚の硝子ケースの中に棲んでいる。書斎のそのケースだけは常秋の国だ。春開く小さな硝子戸の密かな楽しみがある。何よりも妻沙樹子が秋の訪れを喜んでいる。



「 いつもよりうまく作れた気がする 」
  と、あの時、じつに福々しい笑顔で陶器を手にして、寛次郎作品の魅力を伝えることに夢中にみえた秋子の姿が愛らしくある。しかしそんな彼女と出逢ってから、また方々を訪ね歩くまでの間、寛次郎という男の作品を見定めるようになる修治には、そこに至る半世紀ほどの長々しい見極めにのめり込む道程があった。
  床屋に行ってバリカンで刈り上げた後、修治は五厘の頭をスウスウさせながら書店の片隅で文庫本を手にとり、中学生だから無心で小銭を数えつゝ、さんざん迷ったすえにやっと念願の一冊を手にするくらいなのだが、それでもその一冊を箱詰めのダイナマイトのようにもち抱えて部屋に戻ってページを開くまでの出会いの緊張というものは、今でも思い出せるほどに至極ドギマギさせるものであった。
  秘密のトンネルにこっそりと足を踏み入れ、宝石箱の鍵を密かに握りしめている、そういうドギマギの繰り返しによって修治は、古い時代の生き物の死がいは、海や湖の底にしずみ、砂やどろが積もった層にうずもれていることを知ることができた。
  15歳のころの文庫本とは、一冊ずつが予期せぬ魔法のようなものである。装幀が同じ表情をしているだけに、ページを繰るまではその魔法がどんな効能なのかはわからない。さまざまな領域を横断し、しだいに修治は志賀直哉の『 城の崎にて 』や里見トンの『 極楽とんぼ 』岩波文庫などともに柳宗悦の中公文庫『 蒐集物語 』に耽った。
  少年にとってそれら白樺派の一ページ一ページが霞んだプレバラートなのであるから、それはそれで記憶の粉塵のなかを歩くようで、じつに懐かしい。いつしか白樺派云々の垣根を越えて明治・大正という時代に癒される懐かしさに共感を抱いた。
  そうさせた懐かしさと言えば、白樺派作品を読み足していくと、柳宗悦から派生して引き出された河井寛次郎とう男の存在に注目するようになったことだ。つまり生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え、民藝運動を起こした同志たちに強く感心を抱きはじめた。
  同志を一つ完成するには、長期の期間を必要とする。想像力を全開して構想を組立てるのに手間がかかるし、そうやって築かれる物語の基礎の部分は、丁寧に調べ尽くした現実的な細部に、支えられねばならない。良書とは何よりそうした堅苦しく思われるところから綺想に富むアイロニーが加味されることになる。
  柳宗悦という男はそういう方法を踏みはずさなかった。
  朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳は、朝鮮の人々に敬愛の心を寄せる一方、無名の職人が作る民衆の日常品の美に眼を開かれた。そして、日本各地の手仕事を調査・蒐集する中で、1925年に民衆的工芸品の美を称揚するために「民藝」の新語を作り、民藝運動を本格的に始動させていく。

                              



  柳宗悦の朝鮮陶磁器や古美術を収集した幾多の話などを漁り手繰ると、民藝運動のそこから波打つ人脈の一人が泛き彫りとなって、比江島修治の眼の中に潜在し燻るそれが京都の河井寛次郎であった。
  阿部秋子の篠笛に乗せて、寛次郎が生きた面影を思えば、この男もまた風神のようである。そこに秋子の言葉を借りるなら、寛次郎の作品は、ゆく春の賦(くばり)、くる秋の賦を訴訟させている。
  気随な旅人のように、たゞ漠然と京都を訪れたわけではない。
  ささやかな糸口でも丹念に掘り起こせば、万に一つの手掛かりを得ることになる。考古学は最初の入口がすでに迷宮である。手数足数を重ねながらも、報われることは当初から切り捨てている。常日頃、修治はそんな迷宮の暗渠の中で地道に手探りの作業をし続けてきた。
  その修治は、長年さる植物に適する土壌を探し求めてきた。
「 あのとき・・・の、あれが・・・。私に、夏の賦(くばり)を告白していたのかも知れない・・・ 」
  振り返ると、聞き漏らした声が、ようやく産声を上げたように思えた。
  聴くとロウソクの光でもきらめくような音色だが、どこか悲しみも帯びて聞こえる秋子の笛の音を、静かになぞりながらショート・ピースをくゆらせていると、やはりそう思われてならない。人は、たしかに、どこかの土の上に立っている。その土は干からびてから香気を立てるのだ。しかしその香気は常に地底深くにある。修治はたゞ掘削の地点に立ちたかった。

                  

「 菩提樹の、黄蘗(きはだ)の釉薬か・・・ 」
  秋子から貰った蟋蟀の湯呑をそっと握りしめた。
  握りしめると微妙に指先が震える。この土の匂いは、そこにまた風神がいることを感じさせる。神寂びて感じる漂いを人の数式で割り出せぬのと同じように、風土という匂いは、人の理屈なのでは成立しない。指先が改めてそのことを感じ取っていた。
  風土を、理屈なく人は特定して嗅ぐではないか。やはり秋子のように、そこに風神を立て、風袋で煽られた風が風土を焦すものだとすれば、固有の匂いが香りたつこともあろう。すると、やはり風神は本能として風土のなかにいる。修治はそんな仮説を立てると、す~っと鼻から紫煙を吐いた。ある特殊な匂いが、修治に五条坂のモノだと直感させたのは、古い文芸誌の対談をスクラップにするために切り取ろうしたとき、ふと眼に止まった「 その土を、泥鰌(どじょう)は好んで食べていました 」という男性の言葉であった。
  比江島修治はこの一言から五条坂を訪ねようと思い、しかし未だ探し求めて歩き続けている。終点はもう少し先にあるようだ。くゆり昇るピースの紫煙にそんな五条坂が泛かんできた。
                            
                    

  関東という東京からは箱根で関西となる。長いトンネルをくぐる辺りから京都駅に着くまでに関西の泥鰌について考えていた。駒丸慎太郎の父誠一は京都伏見の育ちである。その伏見から南に淀川を越えて巨椋池(おぐらいけ)はほどなく近い。学童のころ駒丸誠一はその巨椋池の痕(あと)でよく遊んでいたという。
  ある日、慎太郎は新幹線の車窓に父誠一の思い出話を泛かべては面影を痛く感じたそうだ。
「 私(誠一)は子どもの頃、よく泥鰌(どじょう)を掘った・・・・・ 」
  池のすぐ脇に、水のなくなった田んぼに小さな穴がある。そこを掘っていくと泥鰌がいる。かなり太い泥鰌が捕れた。あれは冬眠しているのだろうか。泥鰌も随分と災難だろうよね。
  小学校から帰ると直ぐに、友だちの幸太郎と、弘子と、「 ドジョウ掘りにいこか 」などといって、ブリキのバケツを持って稲の刈り取られた田んぼに行った。穴を見つけそこを掘ると必ず泥鰌がいた。何匹か捕ると飽きてしまって家のほうに戻り、ベーゴマとかビー玉などをやった。しかし少し大人になって京都の歳時記で「泥鰌掘る」を見つけ、ふと、また泥鰌を掘ってみたくなった。
  泥鰌掘る、は季語として使われる。そう書いてある。冬になると泥鰌は田や沼や小川、水溜りなどの泥の中に身を潜め、冬期は水も涸れているので、泥を掘り返して容易に捕えることができる。だから、冬の季語だという。
「 だがな。これは少しおかしな話だと思った・・・・・。巨椋池の跡地辺りでは、夏場でも掘るとよく泥鰌は捕れた。たしかに冬場は田んぼを掘ったが、夏場は沼地の泥を掘ると泥鰌はいたよ 」
  四条河原町から鴨川の右岸を下りながら、三十三間堂付近まで、修治は慎太郎の父がそういう泥鰌のことを考えていた。
「 夏場に掘っても泥鰌は捕れる・・・・・! 」
  どじょうの歴史的仮名遣いは「どぜう」とする。この「どぜう」は江戸時代に鰻屋の暖簾や看板にそう書かれていた。しかしそれ以前の室町期、文献に「土長」「どぢゃう」の表記がある。だとしたら「どぜう」に泥鰌の起源を求めてもさほど意味はない。また泥鰌は、泥土から生まれる意味で「土生(どぢゃう)」ともいう。その泥鰌が水中の酸素が不足する夏場の池を掘ると捕れたと慎太郎の父はいう、そんな小椋池の泥鰌がいることが不思議であった。
「 泥鰌は池の泥を食べれるのであろうか・・・・・? 」
  巨椋池は干拓されて農地ではあるが、往年は多様な動植物の生息地として、豊かな環境を育み多くの人に恩恵を与えてきた。歩きながら泥鰌が一体何を食べていたかを考えていると、もう目前は五条坂であった。清水寺に程近い、東山五条。大通りからひと筋それて路地に入ると、そこは静かな住宅街である。河井寛次郎記念館はその京都五条坂にある。

                              


  車一台がやっと通り抜けられるほどの狭い道沿いに、鐘鋳町の古民家が建ち並んでいるのだが、いかにも人通りが少ない若宮八幡宮を少し南に入ると、京都の人々の生活に溶け込むようにして閑静に建っているのが、かつての寛次郎の住居である。タクシーの運転手に「 東山五条西入一筋目下がる 」と伝えるとよい。寛次郎が他界したのは1966年(昭和41年)11月のことだが、その9年後の昭和50年、比江島修治は四条河原町からとぼとぼと歩いた。建仁寺を過ぎた辺りから徒歩10分ほどであったろうか。
  記念館は昭和48年に公開された。修治はその二年後に訪れたことになる。
「 阿部富造が斑鳩で午(うま)の骨を拾い直したとき、雨田博士は(ほ・の・ほ・の・ほ)と吐息を漏らした・・・・・! 」
  そう感じた修治である幽・キホーテは、河井寛次郎記念館のある京都五条坂の界隈、そして祇園祭の7月に暮れる落日の光景をふと泛かべた。そうすると雨田博士のいう、河井寛次郎の腹にある泥の湖(うみ)で一匹の泥鰌が泳ぐ光景が五条坂の夕暮れに重なってきた。






                                      

                        
       



 河井寛次郎記念館









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