Kの理論 「華麗なるブレイクアウト」 Breakout Magnificent.

脱走・・・ただ道は一つ。いつも道に一人。万人は来ない。脱線し続けるサイボーグ社会からの脱出。

ジャスト・ロード・ワン  No.31

2013-10-11 | 小説








 
      
                            






                     




    )  狸谷  ①    Tanukidani



  ダイワロイネットホテルの部屋からは那覇ベイエリアの夜景がキラキラと泛かんでいる。
  その夜景を映す窓ガラスに、ふと雨田博士の顔が重なっていた。
「 何をまず考えるべきかと問われると、やはり言語と仏教、文字と仏教の関係は密接だ。インド仏教・シルクロード仏教・東アジア仏教におけるオラリティとリテラシーの変化と変容と変格を、看過してはならない。ヘブライ語やアラブ語が文明史を大きく変革していったように、アジアにおいては仏教言語が文明の歯車をつくっていった。日本を真剣に繙(ひもと)くというのなら、これはもっともっと強調されるべきだ。ふりかえればブッダの時代はおそらく文字がなく、仏典の編纂(へんさん)に文字が本格的に使われるのはアショーカ王の治世になってからである。それらがシルクロードでは多種多様な言語として花開いた。そして日本語にねッ・・・・・ 」
  と、以前、博士が語った言葉を想い起こしたからだ。
  あれは比叡山について比江島修治が雨田博士に疑問の一つ二つを投げ掛けたときに、博士はそう係り結ぶ言葉を遺した。
  この言葉を聴き終えた時から、修治における仏教という時間が回り始め、コツコツと秒針が回り続けている。
「 博士の言葉を借りて一言でいえば、シルクロード仏教を大乗に切り替えていく原動力になっていったのが『般若経』の理解とナーガルジュナ(りゅうじゅ・龍樹)の「空」の論法だった。南インドのビダルバの出身のバラモンと伝えられるナーガルジュナ20歳は、クチャの王宮で三師七証のもとで受戒したのだが、彼は大乗仏教中観派の祖であり、日本では、八宗の祖師と称されるだからこそ、このあと大乗が漢訳されていったとき、「空」が「無」とも訳された。その過程において彼は、仏教は論理的に完全でないところがあるから仏典の表現の不備な点を推理し、一学派を創立しようと考えたのだ。だからまずここを押えなければ、日本の飛鳥や斑鳩の仏教文化は見えてこない・・・・・ 」
  そう博士の言葉を改めて浮かべると、修治の眼には飛火野を奔る鹿の姿が映されていた。



  比叡山の西麓は森閑として閉じられて遠い悠里(ゆうり)のように真夜中の闇に沈んでいた。
  雨音の途絶えた静寂がその闇の深さを物語っている。
  京都では未明から傘がいらない程度のかすかな雨が降っていたのだ。
  すると養母の阿部和歌子が居間まで起きだしてきて足元をふらりと危うくさせた。眠れないのであろう。阿部秋子は朝餉の支度には少し早いようだが、と、ふと裏山で鹿鳴が聞こえたような気がして雨模様の庭を見ていた。仙人がしばしば乗騎とするのが白鹿なのだ。奈良の春日大社が茨城県鹿島から、武甕槌命(たけみかづちのみこと)という神様を勧請したときに、この神様が白い鹿に乗ってやって来たことから、鹿は神の使者として大切にされてきたという伝説がある。
  どうやら和歌子は顕色(しろ)い夢に魘(うな)されたみたいだ。



「 ほんに・・・・・、変な夢ェやったわ・・・・・ 」
  と、ポツリという。するとしだいに和歌子はその夢を語りはじめた。
  それはどうも以前にも見た同じ夢を、再びまた見たようである。正夢(まさゆめ)ならば顕色(しろ)く、白は不用心ではならぬもので変化(へんげ)の気色に胆が冷えた。しかも同じ夢を見たときの不思議さを、何やら和歌子は三度感じたという。
「 Get up. Wake up. It rained. 」
「 起きなはれ 目覚めなはれ!・・・・・ 」
  雪のふる平原を七頭の白い猪(いのしし)が一陣の風のように走り去った。すると笠かさを目深にかぶった一人の修験道が雪の舞い込む戸口に現れて、和歌子に起きるよう呼びかけた。いや一人ではない二、三人の声を聞いたよう思える。

「 臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前。おん まりしえい そわか 」
  笠をとり樫(かし)の杖(つえ)を戸口に突き立て、真言を唱えはじめた修験道は六尺を越える大男で、頭は短く刈り込んでいる。異形の風体ではあるが、影でつま弾く異国語のイントネーションはどことなく愛敬(あいきょう)があった。声の主は、手に摩利支天(まりしてん)の印を結び、皺(しわ)の目立つ目尻を下げてやさしげに笑んでいた。
  すると、まぼろしの如(ごと)く和歌子の前に現れた修験道は、白絹に包んだ物をスッと差し出した。



「 This is entrusted. It is an important thing. Will not lose it. 」
「 これは・・・・・ 」
  と、ふるえながら訊たずねる。だが包みを手渡した修験道は、するりと身をかわし和歌子がまばたきの間に、三和土(たたき)を蹴って和歌子の背後へと回ると、上がり框(かまち)を踏んでサッと奥座の方に通り抜けていた。
「 Slowly・・・what・・・Attach running after me early.  」
  何か激しい憤りすら感じさせる足どりで居間や座敷を土足のまゝ通り抜け、和歌子の兄富造が書斎としていた離れの前で、初めて草鞋の紐(ひも)を解き、そして雪を払い落とすと静かな動作で蓑(みの)を脱いだ。昨夜、和歌子はこの離れの数寄屋で一通の置き手紙をしたゝめたのだが、床の間に雪舟の架かるその奥座だけは13年前(昭和終年)と同じように整然と保たれていた。
「 Oh this room is made like the Showa era. I seem also to have had the conduct oneself to which it had still to return.  」
「 あっ、これ氷柱(つらら)やないか・・・・・ヒィ~ッ、これは何と・・・・・! 」
  白絹と見間違えたのか。和歌子の手には凍りつく氷の棒が掴つかまされている。身はさらに固く凍えた。ツ~ンと手に痛みが奔(はし)る。



「 It did not make a mistake in it. It sees it so when there is a hesitation in the mind. 」
  冷たさの不思議さと戸惑いを手にした和歌子は、握りしめると鼻筋につんと痛みが走り、身をはがされた魚のように骨組だけが残されて皿の上に横たわるように感じられた。その皿さえ割れるようだ。
「 この皿、あの九谷の絵皿やないか・・・・・ 」
  艶(あで)やかで家伝の格式ある贅沢な大皿に盛られると、骨組だけの粗末な魚の姿が、目鼻なく口もない深い闇の頚城(くびき)のみに薄暗く縛られた我身のように思われる。
「 Do not say it is miserable. Everyone is done so from generation to generation, this house is piled up, and it has set it up. 」
「 あゝ、あのときの、祝の日ィの大皿や。落として割れた祖父が大切にしていた古九谷やわ。せやけど、なして、これが祖父ならば祟(たた)りはることも、怒りはるはずもないが・・・・・ 」
  と、喉元までせり上がった言葉を堪(こら)えると、むしょうに涙がにじみ、小刻みにふるえては耐えがたくなってきた。
  すると荒唐無稽(こうとうむけい)の絵のように不思議な景色が次々と泛かんでは消えていった。


「 It is the street. It is possible to recall, and recall it more. Be stirred up more of the mind.  」
  東の空に白い虹が架かってる。西の空には五色の虹が現れている。星もまばらな夜空にかゝる白虹(はっこう)も五色の虹も、和歌子はそれぞれが美しいと思った。しかしこれは五行陰陽吉凶の虹なのだ。
「 東みたらあかんえ。西ィ向きなはれ。和歌、悉皆(しっかい)しなはれ。忘れたらあかン教えたやないか!。東みたら家ェのうなる! 」
  行き迷う耳に、どこからともなく湧くように母秀代の声が懐かしく聞こえてきた。
  だがしかしそれは和歌子を罵倒(ばとう)する声のようだ。
「 Ah the voice is mother's voice. It does so and my Kiyoko is watched, and it gives and it gives it. It will ask suitably in the future.  」
  京都では明けたばかりの東の空に白虹のかかることが稀(まれ)にある。
  科学的には琵琶湖の水温に係わる自然現象であるのだが、古い時代に公卿(くぎょう)らが叡山の荒法師を恐れ、東の空に白虹が立つと忌み事として怪しんだことから、お秀はその空の兆しをみると戒めていた。
  東の白虹はお家の滅亡を、西の五色はお家の繁栄を暗示させるのだ。こんなとき秀代は決まって西の空に目を向けたし、東のお山へは決して近づこうとはしなかった。これを思い起こすと、祖母や母の手で育てられた和歌子はやはり東の空から顔をそむけた。



「 あゝ、言いはッた昔の通りなんやわ。せやけど未だに叱らはるンやなぁ~。鬼籍やしてもほんに気丈夫なことや・・・・・ 」
  西空を見上げていると、天井がぽっかり二つに割れ、五色に輝く虹が大きな渦を巻きながら流れ去ると、そこにはキラキラと白銀(しろがね)の舞い踊る美しい吹雪の空が広がっていた。しかし、それにしても、なぜ異国の言葉が、和歌子の耳に届けられたのかが不思議であった。  だがそう思えると、次は広くて青い海原が目の前に広がってきた。
「 あゝ・・・・・、そうやったわ。うちなッ、雨田の君子はんに手紙書こうとしてたんや。千賀子からそう頼まれたんや・・・・・ 」
  その和歌子からの手紙が八瀬の帆淵庵(はんしんあん)に届いたのは、新春に奈良へと向かった雨田博士が、来日したM・モンテネグロと再会したその一夜から季節は二巡した春のことであった。
  したがって昨年の冬一月に雨田虎哉は他界したのだ。
  和歌子はその間の博士との約束を果たすために鬼籍宛ての手紙を長女君子宛に書いた。
  それは博士への返礼と弔辞とが込められていた。すべては三回忌の法要のためだ。
「 佐保姫(さほひめ)の 糸染めかける青柳あおやぎの 吹きな乱りそ春の山風 」
  と、二年前に宛てた手紙には、この一首がしたゝめてある。そして和歌子の本旨が追ってつゞられている。和歌子は何よりもまず、この歌を手紙の枕に据えること決めた。こゝには納音(なっちん)を暗譜させた。薄墨で細く白蝋金(はくろうきん)とし、そこには臨機応変に事に対処する心映えを伏せている。
「 そう認(したため)た和歌子の目線であるから、これは二年前の話となる・・・・・ 」
  飛火野(とびひの)に舞うぼたん雪を眼におさめつゝ親密に夜なべ談義などして過ごした一夜から、明けて翌朝8時、雨田虎哉は寝ぼけ眼まなこの呑気のんきな香織を急かせて身支度を整えさせた。そして二人は、さも湖畔に取り残された北帰行の白鳥が泪眼(なみだめ)で後追いに羽ばたくがごとく奈良ホテルを後にした。二人はその後、奈良市内から予定には無かった長谷寺はせでらへと向かう。そうした強行が骨身に堪(こた)えた。北の八瀬に帰るはずの予定でいた白鳥が、なぜ、にわかに南の長谷寺へと羽ばたく事態になったのかは、阿部和歌子がしたゝめた手紙にその経緯が記されている。そこで虎哉の眼に音羽が翔けたのだ。
  奈良ホテルでの一夜、このとき雨田虎彦はM・モンテネグロと香織に伏せた何事かの密約を交わした。そしてその虎哉が和歌子に宛てた手紙をみた翌月に、和歌子は単身ニューヨークへと飛んだ。これで虎哉は阿部家への一応の使命は終えたことになる。
「 佐保姫・・・・・と・・・阿部家・・・・・ 」
  そのとき虎哉は眼に佐保姫の姿を浮かばせていた。
  奈良時代、五行説では、春が東の方角にあたる。このため平城京の東にある佐保山が春の象徴とされ、春をつかさどる神は「 佐保姫(さほひめ) 」とよばれるようになる。伝えでは、佐保姫は白く柔らかな春霞をまとう若い女性。染色が得意で、野山を春色に染めあげていく。佐保山は虎哉の生まれ在所の懐かしい山である。その山神なのだ。また五行説では、秋は西の方角にあたり、平城京の西にある龍田山が秋の象徴となり、秋の女神は「 龍田姫(たつたひめ) 」と呼ばれた。その龍田姫は織物が得意で、野山を錦織なす風景へと変える。これは川神なのだ。この二人の姫君に和歌子は互いに綱を引かせた。
「 佐保姫・・・・・と・・・龍田姫・・・・・ 」
  染色と織物が得意なこの二人の姫は、どうやら互いに好みの色が違うようで、佐保姫は桜の薄ピンク色をはじめとして、やわらかいパステル色に野山を染め、一方、竜田姫は、鮮やかな赤や黄に野山を染める。この対照的な二人の姫君によって、彩り深く季節は染め上げられていくのである。こゝにまた二つの神に関わる問答が産まれた。
「 しかし、枕に、この歌を打たれたのでは、雨田博士はしばらく静観するしかないだろう。堪忍や、もう少し待ってくれやす・・・・・ 」
  と、和歌子が添えた一首を思えば、やはりその通りに虎哉は二年前に動けないでいた。和歌子の採った歌、これは平兼盛(たいらのかねもり)が詠んだ和歌である。兼盛は平安時代中期の歌人、三十六歌仙の一人。和歌子は兼盛を引き出して虎哉を山風にした。その風は凪(なぎ)よとばかりに呼び止めた。



「 佐保姫が染めて青柳にかけた、その糸を風で乱さないでくれ春の山風よ 」
  と、解釈される。平兼盛はこれを、糸がもつれると織物をする佐保姫が困るだろうから山風よ乱さないでほしいと詠んでいる。この歌と係り結ぶ形で和歌子は、やはり兼盛の歌から別の一種を採って後付けに添えた。こうして手紙は、歌の先付けに、歌の後付をして〆(しめ)た。
「 しのぶれど 色にいでにけりわが恋は 物や思ふと人のとふまで 」
  手紙を読み終えた虎哉は、そのときこの歌で〆(しめ)た和歌子の心情が吐露されて探索への軽率に顔を赤らめた。歌は「 知られまいと秘め隠していたが、顔色に出てしまったことだ、私の恋心は、思い悩んでいるのかと、人から尋ねられるまでに 」と、でもなろうか。つまり阿部家の内情や暮らしぶりは世間には控えていたのだが、虎哉に気遣いをされたと、和歌子は胸中あからさまに返歌して応えた。この言ノ葉(ことのは)の手配りこそまさに陰陽(おんみょう)の術である。雨田虎哉は長谷寺を訪れて以降、阿部和歌子の渡米へ向けた決断の是非をしばらく静観することにして、M・モンテネグロとの連絡を密にした。
  80の高齢をして単身渡米するという女史の気丈夫さには、彼女が一念発起して担保した宿題を果たそうとする気概を虎哉に感じさせる。それはおそらく山端の小集落社会の再生に向け、どう生き抜いて行くべきか、その示唆を村衆に与えることであろう。そこには自身が生身でいれる間にそれを秋子に受け継がしたい思いがそこにはあった。血統を継ぐ若者は秋子しかいないのだ。それが最期の和歌子の自責であり、果たすことが自負なのであろう。要件ではあるが本質は他家のこと、虎哉は無理強いを憚(はばか)り一歩譲ることにした。
「 龍田丸・・・・・! 」
  1941年12月2日、横浜からロサンゼルスを経由してパナマのバルボアへ向けて出港したが、日米開戦を受けて引き返し、12月14日に横浜に帰港した一隻の船がある。M・モンテネグロが来日したのはその名「龍田丸」に関する要件であった。どうやら長谷寺は阿部家にして結界であったようだ。虎哉はその結界を踏もうとした。
  しかしその寸前に、和歌子からの手紙を読んで待機することになり、以降、虎哉はじつに多忙であった。洛北八瀬の地で暮らしながら眼を向けるべき現実と向かい合ってきた十年という年月を振り返ることにした。
  すると現実は、読み切れぬほど問題が噴出してきた。
  そして現代の日本人が正しい日本人になるための、その視点が社会に欠落していることを痛く自覚させられた。さらに虎哉は日本国憲法を幾度も読み返してみた。憲法は日本と日本人を規定する基本法であるからだ。国民である以上、山端の再生もこゝを踏み固めた上で日本人としての理論立てが必要となる。同じように虎哉は地方自治法にも目先を入れた。
  日本の憲法の主たる法源は、日本国憲法である。しかし国際化社会のこゝでは、日本国憲法には述べられていない憲法上の解釈について行動を規範することが重要なのだ。現憲法を踏まえるも時代は流動しつゞづけている。山端再生の課題となるものは、国家と国民の自己表現なのであった。つまり山端衆の個性表現の定義を指し求めることになる。
  近現代の国際に挫折した体験をもつ虎哉は、このことに懸命にならねばならなかった。
「 奈良の生駒郡斑鳩町に龍田神社(たつたじんじゃ)はある・・・・・ 」
  この神社は、明治の神仏分離により法隆寺から離れ、三郷町立野の官幣大社龍田神社(現・龍田大社)の摂社となった。独立の請願の結果、大正11年3月に龍田大社より独立し、県社に列格した。法起寺を後にした阿部富造と竹原五郎は、この龍田神社へと向かったのだ。
  二人がこの寺に向かったことゝ、虎哉と香織が長谷寺に向かったことは一軸で連なり深く関わるのであった。
  それはあの芹生(せりょう)から牛を曳いて長谷寺に向かった少年の影が虎哉の裡で符合したことだ。
  阿部家でタツタとは「竜を治す」という。それは、竜を治め操り、波を鎮め、火を消すのだが、すなわち竜は水をあやつる支配能力を持つのである。この龍田神は法隆寺の鎮守とされてきた。
  またこの龍田神を阿部家では「蜃(しん)」という。蜃は気を吐いて楼を顕し蜃気楼を示現させた。
  阿部家伝によると、蜃とは角(つの)、赤いひげ、鬣(たてがみ)をもち、腰下の下半身は逆鱗であるとする。そしてこの蜃の脂を混ぜて作った蝋燭(ろうそく)を灯して幻の楼閣が見られるといゝ、さらに蜃の発生について、蛇(じゃ)が雉(きじ)と交わって卵を産み、それが地下数丈に入って竜(たつ)となり、さらに数百年後に天に昇って蜃(しん)になると伝えた。つまり蜃は蛇と雉の間に生まれた神気楼なのであった。



「 この神の名に肖(あやか)るよう海神(わだつみ)を形而(けいじ)にして、龍田丸は造船されたのだ! 」
龍田丸は日本郵船がかつて保有していた遠洋客船、1927年から1930年にかけて三菱造船長崎造船所で建造される。龍田丸は隔週で運行されていた北米航路用の船であった。
  主な寄港地は、香港・上海・神戸・横浜・ホノルル・ロサンゼルスおよびサンフランシスコである。そしてこの船は姉妹船で、姉の名を「浅間丸あさままる」という。両船とも神の名に肖る。また姉はその美貌ゆえに「太平洋の女王」と呼ばれた。これは和歌子の遠い記憶の底に洋行する龍田丸であった。
「 さて、和歌子が見た夢の話に、また戻ることにする・・・・・ 」
  和歌子は、どうしてもアメリカの言葉が耳に触れると、その度に頭の芯(しん)をつゝき、指の爪先までがピリピりとした。しかも複数の声で語りかけてくる。耳までもがジリジリと激しく響いた。そう聞こえたのだが、それが物音であるのならば、言葉ではないのかも知れない。そこがどうにも和歌子には判然としない。だが、それが耳慣れた声か音ではないことだけは判った。その何かをさらに確かめようとして耳を澄ませば、身体の先が疼くほどに、しだいに空が大きく広がって行く。すると和歌子はいつしか地吹雪の白い世界にいた。この白い大地のそこは自身さえ居るか居ないか解らない遠い時間の中にいるようである。和歌子はそこにたゞポツンと立っている心持であった。
  雪はそんな和歌子を巻き包むように舞いあがり、そしてまた舞い降りてきた。しばらくその舞い上がる、舞い降りるの、繰り返しに晒されていた。それは、ひらひらパラパラと、冬のサクラのような仕草なのだ。
「 やわらかァ~な、紙吹雪ィ散らすような、ほんに美しい雪やこと・・・・・」
  天井から雪が舞いかゝるのも構わず、そこに立ち尽くしている修験衣の白い体は、雪景色の中で闇の底がほんのりと雪明りで照らされるように泛き立っていた。そして書斎と真向き合う修験道の、やゝ右肩上がりの肩筋と太い猪首の気配は、たしかにあれはと思える写し絵のような鮮やかで、どうやら和歌子だけが判別できる懐かしい面影があった。気配に温かい血生臭さを匂わされた。
「 At last, it seems to have recalled it. Thank you. However, does Kiyoko understand I think now?I have the doing leaving. It is empty.  」
  するとやはりこれは人の言葉だ。瞬時に、そう感じ取れた。しだいに耳に馴染んでくる。だがその背中が和歌子に語りかける寒々とした侘しさは、消え去ってしまったものを、もう一度この世に呼び戻そうとしているのではないか、と思えるほど寂しげにみえた。密やかな眥(まなじり)はすでに何かを決めているかのようにもある。鍛えられた筋太の白い影の手がふわりと動く。やがて影の男はその指先でそっと目頭を押えた。和歌子にはそんな修験者の身辺をくるくる回りながら確かめている自身がいることが不思議だった。
「 It returned now my Kiyoko. It is reunion after an interval of 13 years.  」
  と、呼びかけられたその時、今まで陰で聞こえていた何かの呪文かと思えた小さなさゝやきが鮮明な言葉として聞こえたのだ。
「 It waited just now. It ..training.. has returned laden. 」
  と、さらにまた確かに聞こえた。それは日本語ではなくとも、そこに聞き覚えた吃音(きつおん)の癖があることが判った。たしかにその癖は忘れようもない声の仕種しぐさだった。曾の血の聲は、血の子には理屈なく判る。
「 ようお帰りやした・・・・・ 」
  亡き父のふせたまつ毛が涙にぬれるのを感じると、和歌子はそう言わずにはいられなかった。
  そうして、ようやく旅支度を整え終えた阿部和歌子が寝床についたのは深夜二時ごろである。和歌子は未明にも早寝付けなくさせられていた。今日、ニューヨークへと旅立つのだ、という逸(はや)る思いが80歳の眠りを浅くしている。そんな和歌子はうたゝ寝の夢の間に、今は亡き父秋一郎の白い面影をみせられ、揺らぐ影の動きをみたのだ。そして浅い眠りに肩口をそっと撫でられて誘われるようにす~っと目覚めさせられていた。すると、寝床から半身をひよいと抱き上げられるかのように起こされて、おもむろに仰がされた顔の眼をそのまゝに、あやつり人形のごとく天井の一点をしばらく見すえさせられていた。そしてしだいに、頭上の紋様が泛き立ってくる。すると、みるみるうちに紋の渦に曳き込まれて行く。天井材は京都の家屋には珍しい津軽檜葉(ひば)が使われていた。
「 そうや。このヒバいう木ィは、比叡のお山から吹き下ろさはる小雪まじりの風にィ打たれながら育たはるこゝらの木ィより強いんや。あゝあの時そない言うて自慢してはったなぁ~ 」
  和歌子は父秋一郎と共に一度みたことのある北陸の海を思い出して、その荒々しい景色の中を訪れていた。空はどんよりと曇り、海は鉛色だった。そして父の腕を握りしめている。風は次第に激しくなり能登の七尾港に打ち寄せる波も高さを増していた。
  餌を求めて飛び回る鷗(かもめ)でさえ、時折吹きつける突風に押されて横にすべるような動きを見せていた。腕組みをして宙(そら)を睨(にら)みつけた秋一郎は、鋭い鷹(たか)の眼をして沖の波濤をも睨み返していた。

                      

「 阿部家の嫡男(ちゃくなん)いうは代々、村が己(おのれ)のために錆びれてゆくのを恥としたものだ・・・・・ 」
  という秋一郎のたゞ一言の、あのときの鬼か鷹の目をして張り上げた口調が幼い和歌子の度肝を抜いた。家では恵比寿(えべす)はん、外では不動(みょうおう)はんやと思った。
「 人が恐れはる荒海に命ィ張らはって、いさぎよう船を漕ぎ出さはッた、そんなお人らが大勢いてたからこそ阿部家が今こないしてあるンやわなぁ~・・・・・ 」
  天井に映える年輪が描く風雪を見すえている和歌子は、秋一郎が買い付けた檜葉の丸太を見せようとして冬の七尾港まで連れて行ってくれたのと同様に、二十五代継ゝてこの家屋の様式を守り続けながら、千年余を世襲し続けてきた阿部家の永い幾歳が目に痛く映るのである。その血の気質は平安京、いや奈良京より連綿とある。
「 これらは皆(みな)、先祖代々、京都より遥かに雪深い北の果てから集めはった木材なんや。我家(うち)とこだけやない、山端の家が皆そうや 」
  十二代の清之介に係わる覚書には「 嵐が迫っていることは明らかであった。九兵衛ははち切れんばかりに帆をふくらました龍田丸が、荒海の彼方に消えていくまで欄干を動こうとはしなかった。九兵衛がこれほどの危険を冒してまで龍田丸を出港させたのは、清之介が手彫りの摩利支天像を握りしめていたからである 」と、伝え記されて阿部家に遺されている。
  その九兵衛というお人はおそらく北前船の商人あきんどであろう。
  当時は阿部家の屋敷にまで北前衆が出入りした。その十二代の清之介であるが、北前船で北海の昆布を載せては、商いの越中衆らを加えて、また薩摩藩と密商を交わし、遠く南方の琉球にまで昆布や薬種を運んだ。この証として現在の沖縄に昆布という浜の名がある。龍田丸はそうした船団の中心にいた。
  夢うつゝに見た父秋一郎の印を結びながら呼びかける影の在り様を改めて噛みしめると、和歌子は全身に圧(の)し掛かる重さを感じ、そっと天井からは顔をそむけ、蒲団(ふとん)の上にへたりと座り込んだ。上半身を下支えする気の鎹(かすがい)が消えていた。だがそれは妙に安らかな脱力だった。
「 The what went wrong?Does not Kiyoko have great vigour? Recall me wanting meet me because the vase on the desk in study is seen. Kiyoko's mother also is entering in that. 」
  と、風音のように聞こえると、自然と和歌子の目は机の上に向けられていた。腰も胸も頭までもが風神にくるまれるようだ。
「 あゝ~・・・・・あの花入れのような、お人やった・・・・・ 」
  書斎の机の上に、古伊賀の焼き物が、今も生前と変わらずに置いてある。野の風はその花入れに巻き起こされている。
「 It is so. It is it. Embrace it closely when it is lonely.  」
  それは見る者に強烈な作意を窺わせる、桃山期の伊賀耳付花生であった。秋一郎はこれに「 あざみ 」と名付け裏山の茂みに咲く折々の野草の花色を借りては、花を入れない花生の景色を楽しんでいた。此の花の、あざみは形見の花である。そして家伝の薊笛(あざみぶえ)もこの名から産まれた。
「 It comes to have understood tasting and the earthenware. It is a daughter who still pulled my blood. 」
「 野薊(のあざみ)の棘(とげ)を連想させることからそう命銘したという・・・・・ 」
  胴の部分に突き刺さるように付着した窯変の細かな焦げが飛び散るように口辺まである。裾の濃い焦げの上に若草色のビードロ釉がかゝり「 自然の変化がこの花生の味わいだ。関白などに分かるまい 」などと、まるで利休を気取るかに語っていた。
「 It is an important treasure brought when Kiyoko's mother marries from Iga. 」
  母秀代は伊賀上野に生まれた。この古伊賀は秀代が阿部家に嫁ぐとき花嫁道具の一つとして持参したものだ。端正な形態の一切が拒否された古伊賀の、緑釉(みどり)に父の姿が、そして母の姿が泛き上がると和歌子はまたふと遠い目をした。
「 お母ちゃんが生きてゝくれはッたら、阿部家ェもまた違ちごうたんやろなぁ~・・・・・ 」
  明治、大正と足早に終わり、昭和の時代もまた遠のいて、和歌子はその徒然を懐かしく泛べた。阿部秋一郎という男は、古い家柄を鼻にかけるような人ではなかった。それゆえに誰からも信用され信頼された男であった。その誰もが信用しきれる男の値打ちに、和歌子はいつしか秋一郎の長女として生まれてきたことへの自負を芽生えさせた。京男の値打ち、このことを疑わず永らえて80歳になる今も変わらずに健悟でいるのだから、亡き父の蜉蝣(すがた)を偲ぶ和歌子の眼差しには細石(さざれいし)のような得心が現れていた。嫡男富造の亡き後は、和歌子が奮起せねばならないのだ。
「 I boast of an old standing of a family and the person never proudly has behavior.  」
  と、などと、秋一郎からまたそう言われそうだと想った和歌子は、静かに辺りを見渡して苦笑した。洛北の高野川沿いには古びて狭い集落が、里山のような存在として点々とある。着道楽などと囃(はや)される洛中の雅さとは一定の距離をおのずと保つことで、これらの山里は特有の営みと穏やかな暮らしぶりを守り続けてきたのだ。
  暮らしを守り抜こうとする里人達は、集落の中に里山という共通の鎮守を据え、何よりも要(かなめ)となる結(ゆい)を重要視し、人心の結束に努めるのである。人々は京に都が遷(うつ)される前の原住であることを心の寄りどころとし誇りとした。祖父や父はその山端衆を後押し続けた。これらを崩され壊されることを恐れるから結垣をつくり掟とする集落では、もの珍しき者、抜け駆けを企てる者、異形なる存在は、些細(ささい)なことまでが穿鑿(せんさく)の火種となった。
「 秋一郎はんは京都ではのうて、石川の出ェなんやそうすどすなァ~ 」
  と、少しの仇瘡(あだきず)でもみつけようものなら小噂(こうわさ)を立てた。
「 えゝ・・・・・ 」
  女学校に通うころの和歌子は、村人から父の不可思議な出生を問われると、いつも笑顔で弁(わきま)えのある物言いをして明るく答え、そう心構えして通り過ぎると、そうした流言が、妙に意地悪く聞こえるから決まって眉をキッとひそめたものだ。
「 秋一郎はん、天狗さんの子ォや聞きましたが、あれほんまやろか 」
「 へえ、せやえど天狗さんのよう鼻ァ高こうはあらしまへんしなぁ 」
  このように母の秀代から頂くように諭(さと)される知恵で、しだいに和歌子も村の人間となり結(ゆい)の仲間入りをするようになるのだが、村長(むらおさ)の立場であった阿部家に係わる者として、村長とは頼られることによってしか存続できないものであるから、一人前になるに従って隙の無い、火の打ちどころの無い、あらゆる結のための企てを胸に秘めて備えねばならなかった。そんな母秀代の知恵は、そのまゝ祖母の富(とみ)から頂く英知でもある。女であれ阿部家の人間として性根は見せねばならなかった。
  京都人の口に戸は立てられぬもので村人達が実(まこと)しやかに語るように、秋一郎は石川の真言宗寶泉寺(ほうせんじ)の修験道光雲に拾われた捨子なのだ。
  それは、まことに不可解な秋一郎の出生である。






                                      

                        
       



 佐保姫伝承の狭岡神社









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