(九) 泥の坂 ② Doronosaka
河井寛次郎の記念館は、和風の空間なのに、ズドンと洋館のごとく吹き抜けで突き破られていた。
雑多で未体験の違和感がある。それにしても、そこに場違いな滑車が吊るしてあった。恐らく作品や資材を運ぶためのものだったのだろうが、記念館らしからぬ不純物のごとくに感じられ、突如それによって、なんだかえらく大きいもの、比江島修治の全身はそんな重い胸倉のようなものに包まれた。圧迫される、その理由がしばらく修治にはわからなかった。
なぜなら、そのころの修治は、河井寛次郎の陶芸のすべてに嵌(はま)っているわけではなかったからだ。
書も恣意に嬲(なぶ)られた筆感がして好みではなかった。
そもそもそこらが、どうにも底が浅い。自身でも感心するほどの晴眼に乏しい。たかが本数冊を読みかじっただけの修治は、寛次郎については先が見えない未だ晩生でしかなかったのだ。
ここは、大正から昭和にかけて京都を拠点に活躍した陶芸作家・河井寛次郎の作品を展示する記念館である。
寛次郎自身が設計し、亡くなるまで過ごしていた住居をそのまま公開しており、暖炉や板の間、書斎や居間も彼が暮らした当時の姿のまま遺されている。そうした遺品は、彼が制作・デザインした家具や調度品の数々や作品の一部が無造作に、ごく自然に配されていた。また、中庭奥には実際に使われていた窯や陶房もそのまま残されている。
しかし自然体であるが故に、そこらは乱暴な寛次郎の形骸なのだ。
気魄は何となく伝わるが、民藝運動論のみでゴリ押しをする、やはり門外漢の修治には最初から一つ一つ積み上げて精査するしかなかった。本来、そこには闊達なユーモアが溢れた空間なのであろうが、その一つすら推しはかり難い比江島修治なのであった。
大学卒業後に考古学に携わろうと思いたったときに、修治はこっそり一つの目標をたてた。
それは分類学的に「 新しい場所 」という問題を自分なりに追いかけようということだった。卒業に至るしばらくのあいだ「 墓場と形骸 」という研究論文を編集してみたのも、そうした一つの試みだった。
新しい場所について本気で考えてみたかったのは、卒論として纏めた「 墓場と形骸 」でも触れてきたことだが、研究過程で明治・大正期に蠢(うごめ)いた人々の死に遭遇したこと、および柳宗悦の『 用の美 』という哲学観念を見て、そのときに初めて新しい場所というものを感じたからであるが、そのすぐあと、アンリ・ベルグソンの卒業論文「 場所について 」を読み、そのまま白水社のベルグソン全集をだいぶん読んだが、さらにそこからアリストテレスのコーラとトポスをめぐる場所論の周辺の道をあれこれさ迷ったせいでもあった。
しかし幾度かのさ迷いとは、さしたる前進の足しになるほどのモノではないようだ。
そして迷いは、拓かれる道に憚(はばか)る棘(とげ)のようなものだ。
一つ一つ抓んで引き抜くしかない。そうした未だ主軸の定まらない中にあって、開館されたことを知ると、一度、河井寛次郎記念館にも足を運ばねばならないと考えていた。
昭和50年(1975年)6月3日、佐藤栄作元首相が逝去する。
築地の料亭「 新喜楽 」で財界人らとの会合において脳溢血で倒れた後、東京慈恵会医科大学附属病院に移送されたが一度も覚醒することなく昏睡を続けた後のことで74歳だった。16日には彼の国民葬が行われた。ジョンソン会談に向けて彼が沖縄の勉強を始めたときには「沖縄の人は日本語を話すのか、それとも英語なのか」と側近に尋ねて、とんでもなく呆れられたとの逸話を遺して他界した。非核三原則が梅雨空に実態も虚しくカラカラと泳いでいるように感じられた。
その翌月、梅雨明けの7月14日、暑い盛りの京都盆地は、三方の山々が屏風、地を這う南風の熱射で酷く汗ばんだ。
学生時代に古跡調査で何度か訪れていたが、その大半は春か秋の穏やかな日和ばかりだった。今回の背景には社会風俗の精妙な観察もあり、さらに社会に組み込まれた民衆が、どんな生き方を選ぼうとしているか、彼らの精神風俗をあざやかに描きだしていることが、肝心な読みどころでもある。そう思うにつけて夏の京都の祭り日を選んだ。
それはまた祇園祭りの、宵々々山の日、その午後のことであった。
四条河原町から八坂神社界隈は、16日宵山の大本番の佳境を兆す人いきれに噎(む)せ返るようである。
豪壮かつ華麗なこの祭は、千百年の伝統を有する。
阿部秋子の湯呑を撫でてみると、比江島修治は、たしかに夏の賦(くばり)の告白を手のひらに感じた。
祇園祭は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く。京都の夏の風物詩で、7月1日から一ヶ月間にわたって行われる長い祭であるが、そのなかでも「宵山」(7月14日~16日)、「山鉾巡行」(7月17日)、「神輿渡御」(7月17日)などがハイライトとなっている。
宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、動く美術館とも例えられる。
京都三大祭り(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、さらに大阪の天神祭、東京の山王祭(あるいは神田祭)と並んで日本三大祭りの一つに数えられる。また、岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭の1つに、前述の高山祭、滋賀県長浜市の長浜曳山祭と並んで日本三大山車祭の1つにも数えられるなど、日本を代表する祭である。
河井寛次郎記念館に何度も足を運んだ修治は、いつしかこの一連の祭礼を見学するために京都へと足を運ばせたことになる。
その修治がそうしてようやく心得たことは、祇園祭が「 古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、貞観11年(869年)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を 祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈ったことにはじまる 」ということである。
またそうする祇園祭とは「 7月1日の( 吉符入 )にはじまり、31日の境内摂社( 疫神社夏越 祭 )で幕を閉じるまで、一ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられる 」という一連の期日で決済され、禊がれることである。だがそのためには蘇民将来子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)の護符を身に纏うことであった。
八坂神社御祭神、スサノヲノミコト(素戔鳴尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなした。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「 蘇民将来子孫也 」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束された。その故事にちなみ、祇園祭では「 蘇民将来子孫也 」の護符を身につけて祭りに奉仕することになる。
神事終日の7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「 疫神社 」において「 夏越祭 」が行われ、「 茅之輪守 」と「 蘇民将来子孫也 」と「 粟餅 」を社前で授与される。
この夏越祭をもって一ヶ月間の祇園祭が幕を閉じるのである。
八坂神社では茅の輪から抜き取った茅を参拝者が自分で小さい茅の輪にして持ち帰って玄関などに飾ることで、夏を健康に過ごせるご利益があるとして、「 蘇民将来子孫也 」と書かれた紙縒りを、作った小さな茅の輪に結べば完結となる。
6月3日に雲仙普賢岳で大規模な火砕流が発生した1991年、7月1日にエフエム京都(α-station)が開局したこともあり、今回は祇園祭の各鉾町が鉾、曳山を組み立てる山鉾建(やまほこたて)をじっくり見学したいという思いもあって9日には京都へと向かった。
山鉾建は、10日から14日までの5日間で行われる。京都を訪れるのは3年振りのことであった。
この山鉾建で祇園祭山鉾巡行が近づいたことを感じさせる。山鉾建は大きな筐体を複雑に組み立てる鉾や曳山、簡単に組み上げられる傘鉾などそれぞれ工程が異なるので、組み立てが始まる日は異なっている。
昔から伝わる「 縄がらみ 」と呼ばれる手法で、専門の大工方が釘を一本も使わずに重さが12トンもある鉾を組み上げる。大きな鉾の組み立てには3日程も要する。また20メートルほどもある長い真木(しんぎ)を空に向かって立ち上げる場面は圧巻である。
真木をつけた櫓(やぐら)を道路に寝かせ、太く長い綱を人力で引き垂直に起こす。立ち上がった瞬間には見物の人達からいっせいに拍手が湧き上がる。形態の異なる船鉾は鉾建ての方法も異なるのだが、組み上がった鉾や山は飾り付けをして、それぞれの定められた日に曳初が行われ、前掛、胴掛、見送、水引などの豪華な織物の飾り物は17日の巡行本番に使われる物と、それまでに飾られているものとは異なることが多いので、連続した組立に興味を抱く比江島修治は14日、15日の正午近くまで各鉾町を見学した。
そうしてまた18日には東山五条の河井寛次郎記念館を訪ねた。
1890年(明治23年)に当時の島根県安来町(現在の安来市)の大工の家に生まれた河井寛次郎が、陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも優れた作品を残しながら、師弟関係を重んじる陶工の世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工となっていく姿は、惹かれて調べを進めるうちに、これはものすごい思想者であることがたちまち伝わってきた。
五代目、清水六兵衛の技術顧問を務めた。これは六兵衛40歳のときだ。
このとき清水六兵衛(のち清水六和)は55歳。この六兵衛が、それまでの清水(しみず)の読みを「きよみず」に改めた。寛次郎が技術顧問のころ後六代となる長男の正太郎は京都市立美術工芸学校絵画科を卒業する。
時代性に鑑みて寛次郎という男の実在のかくれた側面が、すでに比江島修治の裡(うち)ではダントツなのである。連続性と複雑性、差異と内包、秩序と組織、変化と適合といった問題意識にみられる具体的な提起は、ほとんどこの男によって修治の知覚のバリアを食い破っているといってよい。
しかし、河井寛次郎が最高にすばらしいところは、「 用の美としての人間の精神 」というものを「 観念として測定されたこと 」に対して、つねに「 具体的に設計したこと 」と「 変化させたこと 」によってたえず照射しつづけようとしたことだった。しかも日本伝統の心髄でもある京都に根付こうとして、その古都に居を構えて気魄の生涯を貫き、それでも無位無冠の陶工として晩年まで創作活動を行い1966年に76歳で没したことである。
寛次郎を取りまく人物たちの言動が縺(もつ)れあって、波瀾に富む生涯が躍動すらする。
彼らはそれぞれ何かに反抗していたのだ。がしかし、反抗は個々ばらばらで、限りある時間の中では何の実りもなく終わるのだ。彼らは精神風俗を重んじる日本人のエッセンスを汲みとった上で、人間の創作意識を自家製に仕立て上げた。さらに西欧を望見するばかりに終わらせるのでなく、日本の伝統に深く分け入っていた。
また、考えられる限りの冒険を尽くして、河井寛次郎は人間の魂の深層に辿りつこうとした。
「 存命の内に、お会いしたかった・・・・・ 」
そう悔しく思うにつけても、寛次郎の遺した業績の多面さ、広大さにあらためて感嘆を深くする。されど流れ去った過去から実体と正体を把握することは不可能に近く、二十度目となる今回も修治はやや肩を落とした。そうして一先ず記念館を出たものゝ、一呼吸して汗ばんだ身なりを整えると、修治は改めてもう一度記念館全体を見渡した。
だがそれでも立ち去り難い修治には、奇妙に去り難くさせる輝きで記念館の庇瓦が琥珀色に夕映えているように思われた。棟方志功の筆による看板も淡い茜に絞られて妙にしんみりとさせられる。
たゞに日本の民芸品に触れ研究をするのであれば、都内目黒区駒場四丁目の日本民藝館でいい。柳宗悦によって創設され運営され、木造瓦葺き2階建ての蔵造りを思わせる本館には、柳宗悦の審美眼を通して蒐められたものが、日本および諸外国の新古諸工芸品約17,000点を数え所蔵されている。
中でも、朝鮮時代の陶磁器・木工・絵画、丹波・唐津・伊万里・瀬戸の日本古陶磁、東北地方の被衣(かつぎ)や刺子衣裳、アイヌ衣裳やアイヌ玉、大津絵、木喰仏、沖縄の陶器や染織品、英国の古陶スリップウェアなどは、質量ともに国の内外で高い評価を受けている。また、民藝運動に参加したバーナード・リーチ、濱田庄司、河井寛次郎、芹沢介、棟方志功ら工芸作家の作品も収蔵している。これらを常設展と特別展とで見比べれはこと足りるわけだ。
すでに足しげく日本民藝館には通っている。通えば見えてくるものはある。だがそれらは、やはり蒐集済みとなった先人の形骸でしかない。修治はより生身の寛次郎に近づきたかった。観念ではなく、その人肌の実体に触れて見たかったのだ。
古萩と呼ばれる萩焼の茶碗が茶会で使われていたことが、十八世紀半ばを過ぎたころの大名家の茶会記に表れていて、また幕末に至るまで、松本御用窯を率いた八代坂高麗左衛門は、その御用窯の開業から後年に没しした三代坂高麗左衛門までの時代の製品を「古萩」と呼ぶとする、漠然とした言い伝えのあることを述べていたのだが、それらのことから、十八世紀前半には萩焼茶碗を古萩の茶碗と、そうでない当代作の茶碗とに区別する認識が生じていた。
しかし一方で、古萩の茶碗がどのような造形的特徴をもった茶碗を指し示すのか、またその古萩が古窯から出土する実に豊かな造形性を示す陶片のどれに相当するのか、その実態が明らかにされているとは言い難い焼き物の一つであった。
これを為体(ていたらく)だと寛次郎は名指した。
茶人贔屓目の有名無実、それは実態の底知れぬ虚説だと喝破した。
日用の美意識から隔絶した勝手な主観論には手厳しかった。
たしかに古くから「 一楽、二萩、三唐津 」と謳われ、侘数寄に適う茶の湯の具足として、高い声価を得てきた萩焼である。高麗茶碗を生み出した朝鮮半島由来の作陶技術を伝え、江戸時代を通して、萩藩御用窯で制作させた萩焼の精品は、しかしその流通規模は極制限されたものでしかなかった。藩主の御遣物として、貴顕への献上、諸侯への進物、家臣への下賜に用いられるなど、限られた階層とその周辺にのみ流通した。
とくに、その主力器種である茶碗は、領内で採れる特定の土や釉の素材感を前面に押し出しながら、茶の湯における美意識の深化や流行など、折々に重視された使い手たちの趣味性を意識的にかたちへと編んでつくられてきた。だが、こうした当代の数寄者に好まれ続けた萩焼の茶碗のあり方が、桃山時代以来の侘びた風情を濃密に伝承する茶陶という、「古萩」イメージの形成に強く作用し、伝世の茶碗のごとく巧みをこらす逸品の銘として作為されるようになった。
制限された用の美とは、それが日本人の美意識の限りではあるまい。寛次郎にとって普段の用の美こそが重要であったのだ。寛次郎は茶の湯文化成長のなかで日本人が忘れたはずの「 普段の美意識の正体 」を問い直すことになる。その正体を怖い顔で睨んだのだ。
そう思うと、維新後の日本に、戦後の日本に、高度経済成長後の日本に、苦い記憶が多過ぎる。
遠い眼をさせて、寛次郎の眼の奥底にあった光り、ここを思い起こした比江島修治は、さらに幾度かの出直しを覚悟し、改めて足を運ぶために一旦仕切り直さねばならないことを意に決した。
「 安木での調査が未だ残されてるではないか・・・・・ 」
河井寛次郎は明治23年に島根安来の大工の棟梁の家に生まれている。安来は松平不昧(まつだいらふまい)出雲松江藩の第7代藩主の影響で茶の湯がさかんだった町である。大工と茶の湯は、寛次郎の幼な心になにものかを植え付けたのだろう。松江中学の二年のときすでに「 やきもの屋 」になる決心をしていた。そこには叔父の勧めもあったようだ。母親は寛次郎が四歳のときに死んだ。
「 ああも、あの猫に、こだわる、その眼差しとは・・・・・ 」
「 誰にでも分る、風情ある色合いと形・・・・・ 」
安木を悉皆(しっかい)と眺めたら、またこの記念館に戻って来る。そうでもしないと全容を正しく見通せないであろう。物事のケジメにそう思い当たると、修治の出直すべき足取りも少しは軽くなっていた。
書棚のガラスケースに、秋子の蟋蟀が棲んでいる。もう8年以上にもなる。
そうして書斎で一緒に暮らしてきた。時折そこから引き出しては、修治と問答をする。
湯呑の底でつくばる虫の音は、何事かを懸命に語ろうするのだ。
「 秋子さん、狸谷のあの篠笛、どうしたでしょうね?・・・・・ 」
と、蟋蟀にそう語られると、いつも手の動かなくなる修治がそこにいる。なのに、どういうわけか今日の慎五郎は、ありがたいことに、夜の稲妻に照らされたように、時代がみた夢の、一気にその夢が物語る骨格が泛かんできた。
「 いつか必ず光りが見える・・・・・ 」
これは日本と、修治と沙樹子と、阿部秋子とのつながりを語るのに、とても大切な言葉なのである。
秋子は自分自身に言い聞かせるように修治に話してくれた。
「 ・・・・・この道の、トンネルを進んで行けば、つらい経験をするほど、人間はそれを乗り越え、強くなる。それを伝えたくて狸谷に残るの。そして共に生きるの。だから篠笛は哀しみを歌う。歌うことで生きる誰かを幸せにできると信じてる。狸谷の人々が、やすらかな暮らしに戻れる日々であることを願って歌う・・・・・ 」と。祖父阿部富造が、そう言い残して最期に眼を閉じたという。その遺言を自身に置き換えて秋子は言った。その長いまつ毛の下の眼には、涙がいっぱい溜まっていた。
その阿部秋子について比江島修治が認めざるを得ない事実を少し付け加えておけば、あれはたしか安来から帰ったその翌年夏のことだが、また河井寛次郎に会いたくて記念館を訪ねた。否(いや)、1955年なのだから安否に駆られ足を差し向けねばならなかった。また京都では、疫病や戦乱といった災害からの復興に、祇園祭が大きな役割をはたしてきた。1月17日早朝、その大震災時に修治は奈良の宿にいた。その半年後に五条坂を訪ねた。
「 ふ~ん。五条辺りまで届くのか・・・・・! 」
南風の中に、祇園の音が五条坂で聞こえるとは意外だった。
記念館を後にして東山五条の大通りへと出ようかとしたときに、ふと笛の音が右耳を突き、しばらく足を止めて聞き入っていた。清水寺へ向かうため五条坂を上がるつもりでいたが、自然と足と両耳が笛の音の方へ歩いていた。これが最初の立ち去り難い事実で、聴いているとその笛の音色が次第に、新しい生命を吹き込めてくれそうなそんな気にさせたことだ。たゞ全身をふわ~ッとさせられた。
「 いや・・・・・!、これは祇園のではない・・・・・ 」
奏でる笛の手を辿ると、音色は細い路地奥にある慈芳院から流れ洩れていた。
聞き惚れて門前までくると、どうしても笛の手の姿が見たくなった。いつしか修治は花々が風にそよぐ野原の真ん中に立っていた。しだいに汗ばむ肌が爽やかな風を感じ、ゆらぐ花が見えた。
「 何だこの音色は・・・・・、この涼しさは・・・・・! 」
まず耳朶でそう感じ、にわかに五体の肌が快く感じた。
慈芳院は臨済宗建仁寺派ではないか。その法衣の手かとも思えるのだが、どうも教理の節とも違う。簡素な門を入ると左手に、丸い薬師の石仏が座っていた。笛の音はその丸く目鼻が摩滅して柔らかな頬の辺りを巻きながら流れ、その石の薬師さんが、何やら旅人を見守る野仏のごとく思われた。佇むとその音色は、金管ではなく、明らかに和の竹管の洩れである。しかも、風は吹くのではなく、人を逆しまに風に晒してくれる篠笛であった。
「 こんな娘が・・・・・! 」
何よりもまず若すぎる女性の意外さに驚いた。
半袖の白いブラウスにストライプの赤いネクタイは、すぐに女子高生と判った。
驚きもし、感心もさせられると、さらに魅せられ惹かれながらしばし聴かされた。
その手の笛の興趣もさることながら、そこで阿部秋子という名を初めて知り、話が寛次郎の作品や境涯に触れた折りに、比江島修治は熱い感動を抱いた。当時の政治趨勢に疑いの眼を向ける寛次郎の「 精神風俗 」の顕れではないか、という秋子の見解はまことに鋭く説得的であったことだ。
阿部秋子もまた修治と同じところで、そうして寛次郎の魂の深層に辿ろうとしていた。
そんな秋子は修治のことを「 古層の人 」だとズバリ呼称した。
なかなかどうして能(よく)した考古学的な言葉繰りの巧みさに、門外漢である修治はハッとさせられ感心したのだが、その古層の人の言語に、自らが新しい生命を吹き込められるようになれたら良いという覇気をみせた口調には、堅さ一つなく、やはりそこは女子高生らしく、けろりと爽やかで、修治は胸の塞ぎをさらりと漁られて新鮮であったのだ。
聞けば秋子は寛次郎の妻つねとは縁戚の身で、つねは京都の宮大工の娘でもあることから、秋子もまた同じように宮大工の家系に近く生まれた。そのことは妻沙樹子から聞かされた。
そして四時に秋が訪れる度に、あのときの秋子の「 古層の人の言語 」という言葉がしきりに思い出されるのは、決まって秋子という名の趣きがそうさせるのではあるが、狸谷の森を守る宮大工方の家柄に生まれ、戦争の混乱にあって嫡男に恵まれ無かった家系の秋子には、先祖伝来の田畑や山林を守り継ぐ担い手としての責務があった。
秋子の暮らしの大半はそのことへの憂いが常に占めていることを、修治は沙樹子からそう聞かされて知っている。
近隣の里人に任せている田の収穫は今年も無事できるのであろうか。収穫の季節を迎え、刈り入れの進む高野川沿いの美しい水田をながめながら、この国の「農」すべての無事を御田植の神に秋子は強く願わねばならなかった。何よりもまた秋子は八瀬童子の縁に深く連なっている。その身上はまことに宮家の秋の豊穣と縁深くあったのだ
天皇崩御の折りは八瀬童子が先祓う仕来りとなる。新嘗(にいなめ)の「生」と風葬の「死」は常時一体の備忘事であった。
ぎりぎりの緊張の中で秋子は日々の暮らしを守り、祈りの篠笛に手を触れていた。あのとき秋子は篠笛で恵みの風を呼んでいたのである。それらを知り得ると、いつしか修治もしきりに京都の秋の気配を気に止めるようになっていた。
秋子の母秀代もその苦悩のため老いた両眼はほとんど灰色に見えたという。そうした巖倉(いわくら)の巫女(みこ)である秋子は、常に厳格な軛(くびき)を保たねばならなかった。女系の細腕で、しかも女子高生の年齢で、比叡山の、その山端(やまはな)の村人らの生死、農の生死、山の生死に責任を負っている。秋子はできるだけ多くの死に休止符を打たねばならない。さもなければ神が秋子の生に休止符を打つ。
「 そんな秋子の篠笛は巫女の手による音色であったのだ・・・・・ 」
しかしその彼女は、ついに「 転向 」したのではないか。何かとんでもない王道を歩き始めるのではないか。と比江島修治が肝を冷やりとさせられる妙な構図の可笑しさがあり、危惧すべき行動をいつも身に纏わせていた。
「 不用意に近づこうとする旦那の足元には、地雷が多すぎてどこで爆発するか分からない。重すぎる負担を分担してくれと誰かに訴えることもできない。むしろ誰も住んでいない島にでも向いたかったのであろう・・・・・ 」
と、妻沙樹子は解釈したのだが、しかしながら、どのように秋子が自由な振る舞いをしようとも、生死を左右しうる最たる巫女であることは変わらない。神は死しても負担するべきではないか、というわけだ。
養母の和歌子を除けば、それを至極まっとうに思えるのもじつは修治と妻の沙樹子だけであったろう。その修治はいつしか知らぬまに責任の一端を担いでいる。何よりも和歌子が喜んでいた。そして妻沙樹子が懇願した。安倍家の女系たちが心を一同にして家系の存続を願っていた。ここも認めざるを得ない確かな事実だが、修治がそのことを強く感じ始めたのは、やはり愛用のショートピースを秋子が指先一本で転がしたころからだった。
「 あのときの日と同じように 彼女は日常を遊戯し続けた・・・・・ 」
神は常にその秋子に死の矛先を向けている。神との意見が異なれば、いつでも切って捨てられるのだ。そんな秋子は、辛い日々も、笑える日々につながっていた。
「 だから赤い小銭入れから1NOK(Norwegian krone)硬貨一枚を抜き出しては、彼女は微笑んだ! 」
これは秋子が最もご機嫌なときにみせるシグナルである。
さらにもう一つのシグナルは、最高の一日であることを期待するためにする風変わりなジンクスをみせた。
それは朝食前に決まって振舞うのだが、秋子はさも上品な仕草で財布から引き出した1000NOK紙幣に白いハンカチを添えると、丁寧にていねいにアイロンを掛けるのだ。
沙樹子と三人で訪れたある日、エドヴァルド・ムンクはフィヨルドの近くを歩いている時に「 自然をつらぬく、けたたましい、終わりのない叫びを聞いた 」と彼女は言っている。『叫び』はその経験を絵画化したものである。すなわち、しばしば勘違いされるが、この絵は「 橋の上の男が叫んでいる 」のではなく「 橋の上の男が叫びに耐えかねて耳を押さえている 」様子を描いたムンク自身の肖像なのである。単品のごとく感じるこの作品もじつは「 生命のフリーズ 」の中の一作品であり、単独の絵画としてではなく、連作として鑑賞することがムンクの本来の意図であった。
「 秋子という巫女は、この連作の中にいつもいた・・・・・ 」
別にそこにムンクが居なくても、その意図の、序に従えばしばらくその空間には懐かしいムンクの匂いが滞留することになる。『叫び』は、その遠近法を強調した構図、血のような空の色、フィヨルドの不気味な形、極度にデフォルメされた人物などが印象的な作品でもっともよく知られ、ムンクの代名詞となっている。そのため、構図をまねたパロディが制作されたり、ビニール製の『叫び』人形が売り出されるなど、美術愛好家以外にも広く知られる作品である。
「 あの秋子はそのムンクの代名詞をいつも借用した・・・・・ 」
夫婦共働きでがむしゃらに頑張る日本のバブル時代の「 家を買う物語 」のテレビ小説を、村人の生活から逃れられない民衆を束ねる視線で、彼女も同時期に幾つもみたであろう。今さらに同じ題材が、特殊な国情を加味した懐かしい思い出として、日々演じられているではないか。秋子にとってその俗世は常にゴシップなのであった。欲求は決して新しい状況を生むとは限らないことを秋子知っているのだ。
しかし、だから今日の日本を悩ませる、あらゆる社会問題に触れながら、人間も暮らし振りも狂気に暴走して行くのだが、その死とは逆の場に彼女は立っていたいのであった。このある種、奇怪とも思われる嘆きとは、特殊な宿命を宿した人たちの衝撃的な行く末に限ったものだろうか。21世紀の彼女にとっては、酷く、ぐちゃぐちゃな22世紀へと送り返され、すり減らした魂を、そこでまた消し潰されることが怖いのである。だから秋子はムンクの「叫び」までを日常の計算に入れて、逆に喜びへと奔走してしまうのであった。
エーケベルグの丘は秋子と沙樹子の三人で二度訪れている。
オスロ中心部から路面電車で坂道を上るとその丘に着く。高台からオスロとその先のオスロ・フィヨルド港湾を望む景観に三人して佇んでみた。ムンクの言に従えば、そこに『叫び』のパロラマが実在するはずだ。
ムンク美術館のテンペラ画と重ね合わせて窺う・・・・・『 私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた 』という彼ムンクの光景を、秋子の眼が果たしてどのように写したのかは分からないが、夕暮れから月明かりに照らされるまで三人はただ静かに佇んでいた。そのオスロとはムンクにとって愛憎半ばする町でしかなかった。
秋子はオスロ・フィヨルド港湾を望みながら即興で篠笛を吹いた。
「 ムンクに風を呼んであげたの・・・・・ 」
と、秋子は言った。そうして、たゞ潮風に吹かれていた。
ムンクもまたノルウェーの国を悩ませるあらゆる社会問題に触れながら、人々も俗世も狂気に暴走して行く姿を傍観できなかったに違いない。叫びの描写ごときで発禁だ裁判だと大騒ぎされたではないか。ムンクは両刀使いの変態どもが混合する中で、必然な悪態をつきつつ自身のクローンを創って「叫び」いう連作を描きながら自らを叫び続けたのだ。
オスロのガーデモエン空港を離れるとき、秋子が家伝の篠笛にそっと触れさせてくれた、その笛の音の名残り香を抱いて、比江島修治にはそう感じとれた。宿命の違いとはいえ、すれ違う人である三人はそうした場所で一瞬重なり、またそれぞれの生活に戻って行くのである。束の間ではあるが、そうした意図的に訪れる異国の旅は、秋子のその一瞬を温かく描いてくれるのであった。
空港は秋子にとって大好きな場所だ。祖父富造が健在であった10代のころはよく、京都駅からリムジンバスに乗って伊丹空港へ行き、行き交う人々や飛行機の発着を眺めて、一人夜までを過ごしていた。
「 ここは、日本とは区別された外国とつながっている・・・・・ 」
と、思えることがあの頃の秋子には重要だった。
そのときに見ていた昼夜の風景は、積み重なった記憶となって、どこか未来の自分史につながってゆく。意識的にする「ムンクの顔」もまた小さな異国への旅の記憶なのだ。いつもそう思って叫び直し、「 なんて不自由な生きっぷりだろう 」と自らで驚いてみる。阿部家の仕来りを守り継ぐ女が重宝だからという理由で人生が始まるなんて、と思い悩んでも、しょせん宿命の奔放さに人はかなわない。そこで果たせるものは、自らで独特のスパイスを楽しく利かせるしかない。それがいつも旅に似てると思えるのは、少し歩いてみて不思議なのだが、歩き終えてみたら、こんな人生の物語であったのかと驚くことだ。
「 いつも、未知の場所に行く感じなのだ 」
と、その気になりやすいのだとは思うが、到着ロビーから出てきた人たちを見るだけで、自分も旅から帰ってきた気持ちになる。空港で見たり、実際に空港から具体的な旅をすることで、秋子は色々な人生を一瞬、生きることができた。
三人がオスロのガーデモエン空港を離れるときは、秋の夜更けであった。
「 遠方とはそもそもなんだろう・・・・・ 」
と、比江島修治は、ふと淋しい場所を考えた。
「 遠方に行けば、秋子の淋しさは本当に減るのであろうか・・・・・ 」
と、沙樹子はぼんやりとした不安を抱いた。
「 今、こうしていても、私の死の淵は、しだいに近づいている・・・・・ 」
と、阿部秋子は、震えそうな硬い躰をじっと抑えた。
お互いには何一つ見通せない、そんな三つの問いが、それぞれの心に長い余韻を残しながら、互いはすでに運命が交錯していることも知らずに、三人それぞれに寂漠としたものを抱えさせて、オスロ上空へと機影は消えた。
そうして夜空へと消えいて行く機影を感知して想い見ることが、またそれが秋子の新しい旅なのであった。
「 あの秋子の眼の湖(うみ)には、小椋池の夏の泥鰌が棲んでいる。それは河井寛次郎の胸に棲んでいた泥の泥鰌なのだ。日本オオカミはその泥鰌が大好物だった。それが同じ焔の帆(ほのほのほ)となって秋風の中を進もうとする。私はその帆の膨らみをみた・・・・・ 」
雨田博士は、そう修治に語りかけた。
駒丸慎太郎が博士に語りかける話は、阿部一族の復活の出来事だが、同時にそれは博士が日本奈良までを訪ねる日本人の諸端を省みる渾身を振り絞る最期の旅であった。その眼は縄文の港川人が三輪三山で聞いた、日本オオカミの遠吠えを眼差していた。
祇園祭
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