地震雲

介護の仕事を25年してきました。仕事を辞め、今はベランダで、多肉植物を育てています。

子供の精神疾患か、再発した。私のせいと娘に聞いた。

2023-07-27 09:01:00 | 日記









あなたのせいでも無く、他の人のせいでもない。ただ、この人を通して、神の栄光が、現れる為です。という、聖書の御言葉がきた。
娘は、赤ちゃんの時から、母親と目が、合わなくて、コミニケーションも、取れなくて、心配だった。
私も、6才まで、両親に兄と一緒にそだてられたが、それ以後は、親戚、祖父母、母の友人の家で、1年だけ、母と兄と私の3人で、生活するなど、複雑な生活環境下で、高校3年まで、生活した。なので、子供を育てる方法が、他の母親より、足らない部分があったと思う。
それも、神様のご計画であったと信じられたのは、そんな昔ではない。
教会に通い、もう、54年が、過ぎた。試練の中で、聖書の御言葉が、励みになる。
私の大好きな御言葉は、

いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべての事に感謝しなさい。

です。

イスラエル旅行に一緒に行った友人が、撮った十字架の夕陽

2023-07-26 18:36:00 | 日記
私は、4年前、娘と一緒に森ゆりさんのイスラエル旅行に参加した。
今でも、ラインで、一緒に行った全国から参加した、方々と連絡を取り合って、仲良く情報交換をしている。
新潟の姉妹が、網戸越しに、夕陽が、十字架に見えたとラインで、写真を送ってきた。
4日前だと思う。本当に十字架に見える。イエス様からの私はあなたの味方だよ。と励まして下さったと思えて、奇跡に近い情景で、驚いた。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことに感謝しなさい。聖書より




















朝顔が、爆売れ

2023-07-22 09:36:00 | 日記
今年は、朝顔を夏にかけて種を蒔いた。

1鉢4苗うえる。

毎日水をやらないで、すぐ、枯れてしま

う。

朝、5時頃起きて、水やりをした。

4月に種を蒔いた、朝顔は、これまで、16

苗、1鉢4苗で16苗売れる。

花の色は、赤、紫、白、青などで、白地に

スジがあるガラです。

3ヶ月たって、だいぶツルも伸びてきまし

た。

どなたかの家で、大きく成長して、いっぱ

い花が、咲くと嬉しいです。

2023/07/13

2023-07-13 03:46:00 | 日記
小さな朗読会235「義と認められること」
(「キリスト教信仰の祝福」山中雄一郎著)
 「義と認められること」は、キリスト教信仰の差し出す祝福の中でも、中心的な祝福です。けれども、今ではこの祝福がどれほどにすばらしいものかを説明するのが、一苦労になってきました。それは、人々の心から、神への恐れと地獄への恐怖とが失われてしまったからです。なぜ失われてしまったのか、特別の根拠はないようです。ただ時代の風潮にまかせて、人々はそれを考えようとしないだけなのです。

 これは危険なことではないでしょうか。時々公共施設に爆発物を仕掛けたなどという、いたずら電話のことが報道されます。そんな時、人々は半信半疑であっても、危険物がないことを確認するまで警戒を解きません。ところが、神への恐れ、神の審判への恐れとなると、人々は何の根拠もなしに、ただ時代に流されて、無視するようになってしまったのです。不可解、不合理なことだと思います。

 人々が認めても認めなくても、永遠の神様は変わることなく、私たちのすべての思いと行いとに目を注いでおられます。この神さまの目から見れば、神さまと人への愛を失い、自己中心になった私たち人間は、すべて怒りと呪いの対象なのです。人をねたみ、中傷し、神さまを軽んじるすべての人間に、神さまは聖なる怒りを燃やされるのです。

 私は、小学校6年のときから教会に通い始めましたが、そのころに、神さまが確かに存在されることを、議論によって言い伏せられました。その時に私が感じたのは恐怖でした。神さまがおられるとしたら、自分は地獄行きだ、と思ったのです。

 神さまがいてもいなくても、自分には関係のないことだ、と考えるならば、それは、よほどのんきな人でしょう。神さまがおられ、私たちが何の隠れミノもなしに神さまの眼にさらされているとしたら、これほど恐ろしいことはありません。私たちを待つ運命は永遠の滅びのほかにありません。そして、神さまが事実おられることは、自然そのものからも明らかなのです!

 「義と認められること」は、このような私たちに対して、キリスト教信仰が提供している最大の祝福なのです。
 今から2千年前、神の子イエス・キリストは人々の罪を背負って十字架にかかり、罪の償いをつけて下さいました。このイエス・キリストを信じる時、私たちの全生涯の罪が赦されます。神さまは一生涯にわたって私たちを罪のない者として取り扱われるのです。

 また、イエス・キリストの生涯は、神と人への愛に満ちた完璧な生涯でした。その愛の深さは十字架によく表されています。罪人は、誰ひとり天国に入れませんが、イエス・キリストはただ一人、天国の門を開くことのできる功徳を積まれたのです。このイエス・キリストを信じる時、私たちにイエスさまの功徳が与えられ、私たちは神の国に入ることのできる完璧な生涯を送った人のように取り扱われます。私たちは義人(正しい人)として取り扱われ、神の国での永遠の命を与えられるものとして、日々生きることを許されるのです。 

 「白珠は人に知らえず 知らずともよし 知らずとも吾し知れらば、知らずともよし」(白珠のように価値ある私の資質は、人に理解されていない。理解されなくてもよい。人は知らなくても、私には自分の価値が分かっているのだから、理解されなくてもよい。)

 日本の古い歌の一つです。高い誇りを秘めた歌でしょうか。あるいは、世をすねたひねくれものの歌でしょうか。私には、世に入れられず、鬱々とした作者の姿が思い浮かびます。

 どんなに高潔な孤高の人生を目指してみても他人による評価が私たちの人生に深い影響を及ぼすことは、争いえない事実です。人にほめられれば有頂天になり、さげすまれたり、中傷を受けたりすれば、心の奥深くまで傷ついてしまうのが、私たちの現実の姿ではないでしょうか。他からの評価によって、立ちもし倒れもするのが人間なのです。

 けれども、私たちが人間の評価によって生きるならば、それは苦しく、つらいことだと思います。受験にも職業にも対人関係にも、それぞれの辛さ苦しさがありますが、それに人の評価を気にする思いが加わるとき、耐えがたいほどの苦しさになることは、誰しも経験することでしょう。私たち自身の劣等感や罪意識が、さらにこの苦しみを倍加させます。

 義とされたキリスト者は、人の評価によらず神さまの評価によって生きています。たとえ人々がどれほどに非難し、軽んじたとしても、また、私自身が自らを責め軽んじたとしても、神さまは私の罪を赦し、私を完全に受け入れ、義人として認められます。たとえ人間の浅はかな評価が、気まぐれに変わるとしても、人間の最暗部を見通し、これを赦し、義としてくださる方の評価は、天国に入る日まで変わることがありません。義と認められた者のみが、真に自由な解放された人生を送ることができるのです。

 ※山中雄一郎著「キリスト教信仰の祝福」小峯書店(1983年1月、現在絶版)
 ※月刊誌「ふくいんのなみ」1981年1~12月号にて連載

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今は亡き山中雄一郎牧師のメッセージ

2023-07-13 03:18:00 | 日記
聖書の言葉

夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
新約聖書 マルコによる福音書 6章47~48節
山中雄一郎によるメッセージ

これは、キリストが湖の上を歩いて弟子たちの舟のところまで来られたという奇跡の物語の一部です。

ある日の夕方、キリストは弟子たちを無理やり舟に乗せて、ガリラヤ湖という湖の向こう岸に行くようにと命じられました。そして、御自分は山に登って、祈りの時間を過ごされたのです。

弟子たちはキリストと共にいたいと願いましたけれども、キリストの命令ですから仕方ありません。向こう岸に向かって漕ぎ始めました。弟子たちの中には漁師が何人もいましたから、舟を漕ぐのは得意だったでしょう。

ところが、しばらく漕ぐ内に強い逆風が吹き始めて、舟は進まなくなりました。あきらめて、出発した岸に戻ってもよさそうですけれども、弟子たちは律儀にも、キリストの言われたとおりにしようと必死に舟を漕ぎ続けたんですね。どうしても舟は進みません。夕方から夜明けまで長い長い時間、弟子たちは漕ぎ続けました。キリストから離れた場所で頑張り続けたのです。

ところが、キリストはその弟子たちの姿を高い山の上からご覧になっていました。夜の湖に浮かぶ舟の様子を遠い所から見ることができたのは、キリストの特別の奇跡の力によったのかも知れません。とにかく、弟子たちには大変に思いがけないことでした。キリストは、遠く離れた場所から弟子たちの頑張る姿を見続けておられたのです。

そして、キリストは夜明けごろにこれも不思議ですが、湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいて、舟に乗り込み、逆風を終わらせて、目指す岸へと到着させてくださったのです。

不思議な奇跡のお話ですけれども、これは、キリストに従って生きようとするときに、多くの人が経験することを指し示す物語ではないかと思います。

逆風に漕ぎ悩んだ弟子たちのように、辛い人生の逆風を経験するとき、私たちは、キリストから離れた所で苦しみ戦っているのだと思う時があります。けれども、私たちがキリストを見失っている時も、キリストは私たちを見失っておられないんですね。私たちの戦いにじっと目を注いでおられるのです。そして、一番適切な一番必要な時に、私たちに近づいて下さるのです。

今日の物語では、キリストは水の上を歩いてでも弟子たちの舟に近づかれました。キリストにとって、弟子たちと御自分とを隔てる障害物は何もなかったんですね。

これは今でも真実です。キリストが近づくことができない場所はどこにもありません。私たちがどんな場所にいたとしても、どんな戦いをしていたとしても、そこにキリストは近づいてくださり、私たちの人生の逆風を終わらせてくださいます。苦しみの時、心が波立つ時、キリストに祈り、キリストに頼るなら、私たちはそういうことを経験するのです。

教会で何人かの人たちとこの物語を読んで、話しあったことがありました。ほとんど皆さんが、この物語のようなことを経験したと言いました。

健康のことや暮らしのことや人間関係のことなど、厳しい人生の逆風のとき、自分ひとりで戦っていたように思ったけれども、あるときに、キリストが自分に身近な存在になられたことを強く感じた。そして、そこから救い出された。そういう経験を多くの方が持っておられました。

私自身も、本当に辛かったときのことを思い出しました。お祈りするほかない。神様に頼るほかない。そう思わされるときがありました。そのときは、キリストは本当に私に身近な方となって下さいました。そして、私を逆風から救い出して、今までの人生を守ってくださったんですね。

逆風の中を漕ぎ続けた弟子たちのひたむきさは、本当に涙ぐましい気持がします。精も根も尽き果てるような逆風です。それでも、イエス様のお心だから漕いだのです。夕方から夜明けまで何時間かかっても、向こう岸を目指したのです。このようにひたむきな戦いのすえに、弟子たちはキリストの助けを受けて、戦いに勝利したのです。

いつ終わるかも知れない辛い日々を経験する方は多いと思います。ひたむきに漕ぎ続けるならば、キリストは遠くから私を見ておられます。そして、必要なときに、必ず私に近づいてくださいます。私の戦いに目を注いでいる方がおられる。このことを逆風に生きるときには思い出したいと思うのです。

山中雄一郎の紹介


山中雄一郎やまなかゆういちろう
引退牧師

元板宿教会牧師

2021年9月21日召天