小さな朗読会235「義と認められること」
(「キリスト教信仰の祝福」山中雄一郎著)
「義と認められること」は、キリスト教信仰の差し出す祝福の中でも、中心的な祝福です。けれども、今ではこの祝福がどれほどにすばらしいものかを説明するのが、一苦労になってきました。それは、人々の心から、神への恐れと地獄への恐怖とが失われてしまったからです。なぜ失われてしまったのか、特別の根拠はないようです。ただ時代の風潮にまかせて、人々はそれを考えようとしないだけなのです。
これは危険なことではないでしょうか。時々公共施設に爆発物を仕掛けたなどという、いたずら電話のことが報道されます。そんな時、人々は半信半疑であっても、危険物がないことを確認するまで警戒を解きません。ところが、神への恐れ、神の審判への恐れとなると、人々は何の根拠もなしに、ただ時代に流されて、無視するようになってしまったのです。不可解、不合理なことだと思います。
人々が認めても認めなくても、永遠の神様は変わることなく、私たちのすべての思いと行いとに目を注いでおられます。この神さまの目から見れば、神さまと人への愛を失い、自己中心になった私たち人間は、すべて怒りと呪いの対象なのです。人をねたみ、中傷し、神さまを軽んじるすべての人間に、神さまは聖なる怒りを燃やされるのです。
私は、小学校6年のときから教会に通い始めましたが、そのころに、神さまが確かに存在されることを、議論によって言い伏せられました。その時に私が感じたのは恐怖でした。神さまがおられるとしたら、自分は地獄行きだ、と思ったのです。
神さまがいてもいなくても、自分には関係のないことだ、と考えるならば、それは、よほどのんきな人でしょう。神さまがおられ、私たちが何の隠れミノもなしに神さまの眼にさらされているとしたら、これほど恐ろしいことはありません。私たちを待つ運命は永遠の滅びのほかにありません。そして、神さまが事実おられることは、自然そのものからも明らかなのです!
「義と認められること」は、このような私たちに対して、キリスト教信仰が提供している最大の祝福なのです。
今から2千年前、神の子イエス・キリストは人々の罪を背負って十字架にかかり、罪の償いをつけて下さいました。このイエス・キリストを信じる時、私たちの全生涯の罪が赦されます。神さまは一生涯にわたって私たちを罪のない者として取り扱われるのです。
また、イエス・キリストの生涯は、神と人への愛に満ちた完璧な生涯でした。その愛の深さは十字架によく表されています。罪人は、誰ひとり天国に入れませんが、イエス・キリストはただ一人、天国の門を開くことのできる功徳を積まれたのです。このイエス・キリストを信じる時、私たちにイエスさまの功徳が与えられ、私たちは神の国に入ることのできる完璧な生涯を送った人のように取り扱われます。私たちは義人(正しい人)として取り扱われ、神の国での永遠の命を与えられるものとして、日々生きることを許されるのです。
「白珠は人に知らえず 知らずともよし 知らずとも吾し知れらば、知らずともよし」(白珠のように価値ある私の資質は、人に理解されていない。理解されなくてもよい。人は知らなくても、私には自分の価値が分かっているのだから、理解されなくてもよい。)
日本の古い歌の一つです。高い誇りを秘めた歌でしょうか。あるいは、世をすねたひねくれものの歌でしょうか。私には、世に入れられず、鬱々とした作者の姿が思い浮かびます。
どんなに高潔な孤高の人生を目指してみても他人による評価が私たちの人生に深い影響を及ぼすことは、争いえない事実です。人にほめられれば有頂天になり、さげすまれたり、中傷を受けたりすれば、心の奥深くまで傷ついてしまうのが、私たちの現実の姿ではないでしょうか。他からの評価によって、立ちもし倒れもするのが人間なのです。
けれども、私たちが人間の評価によって生きるならば、それは苦しく、つらいことだと思います。受験にも職業にも対人関係にも、それぞれの辛さ苦しさがありますが、それに人の評価を気にする思いが加わるとき、耐えがたいほどの苦しさになることは、誰しも経験することでしょう。私たち自身の劣等感や罪意識が、さらにこの苦しみを倍加させます。
義とされたキリスト者は、人の評価によらず神さまの評価によって生きています。たとえ人々がどれほどに非難し、軽んじたとしても、また、私自身が自らを責め軽んじたとしても、神さまは私の罪を赦し、私を完全に受け入れ、義人として認められます。たとえ人間の浅はかな評価が、気まぐれに変わるとしても、人間の最暗部を見通し、これを赦し、義としてくださる方の評価は、天国に入る日まで変わることがありません。義と認められた者のみが、真に自由な解放された人生を送ることができるのです。
※山中雄一郎著「キリスト教信仰の祝福」小峯書店(1983年1月、現在絶版)
※月刊誌「ふくいんのなみ」1981年1~12月号にて連載
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