クタバレ!専業主婦

仕事と子育て以外やってます。踊ったり、歌ったり、絵を描いたり、服を作ったり、文章を書いたりして生きています。

クソッタレな自分を殺せ

2023-03-15 19:30:30 | エッセイ

毎朝、「また今日も自分に裏切られるのではないか?…」と、怯えながら目覚める。自分を裏切ることは他人を裏切るよりも簡単で、何よりも怖いのはそれを「はいはい」と、許せてしまうことだ。自由は恐ろしい。自由こそ鬱だ。無限に選択肢があるということは、自らが作り出していく体力・精神力、そしてそれらを継続する力が必要となる。「はい、この中から選んで」と既にあるもの中から選ぶ方が、少々の不満があったとしても楽なのだ。

 

私は“やるか・やらないか”のどちらかを選ぶ時、圧倒的に“やらない”ことを選択してきた。挑戦することも、失敗することも、評価されることも、とことん避けてきた。例え挑戦できたとしても、失敗しそうになると辞めて、成功しても評価されそうになると辞めた。主に父の影響が大きいのだけれど、自分の夢や希望を根っこから引き抜かれてしまうのであれば、最初から種を撒かない方がマシだと気付いた。それは人生の夢や目標といった大きな願いだけではなく、日常のほんの些細な行動を含む。自分には“こうしたい”という絶対的なイメージがあるのに、それが心に湧き上がる度に「どうせ無理だ」と、イメージにバケツで水をぶっかけて追い払っていた。

 

私は今、39歳にして人生初の金髪である。初日はあまりの黄色さに美容師さんの雑談の声も遠くなるほど気絶しそうにショックだったけれど、勧められた通りにドンキホーテで「紫シャンプー」という染料が入ったシャンプーを購入し、それを使ううちになんとか良い具合に変化してきた。新しいことに挑戦するには、頭の中のイメージだけではそれが叶わないので、実現するために行動と学びが繰り返し必要になる。「髪の毛がもったいない」という美容師さんを説得し、目の前の見知らぬ自分にショックを受けながらも、言われた通りのものを探し、使い方を勉強し、半信半疑でお風呂場で格闘した。“きっとこうなるだろう”と先がある程度予測できることは挑戦とは呼ばす、“どうなるかわからないな…おい、コレ、どうすんだ?…”と、冷や汗をかいて途方に暮れるながらも、もう一度奮い立ってそこをどうにかしてなんとかしていく、たぶんそういう力のことを「挑戦」と呼ぶのだろう。

 

自分がどうなりたいかは、今はまだあまりに漠然とし過ぎていて、何の説明もできないし、根拠も何もないけれど、今年一年を通して思いつくことすべてをやってやろうと思っている。そのひとつがこのエッセイブログである。それが人から見たらただの遊びでも道楽でも、そんなことはもうどうだっていい。その出発地点がまず“金髪”というのは、新学期に“デビュー”をかましてくる思春期まっただ中の中高生のようで、あまりにあまりな「厨二病」ではあるが、おかげで彼らがものすごい勇気と意思をもってそれを示していることがわかった。

 

「なんだかわからないけど、俺はやってやる!昨日の俺と今日の俺は違う!俺はとにかくビッグになるんだ!」

 

まったくもって昭和・平成のヤンキーの言葉で、今の子たちがどんな表現をするのかはわからないけれど、この言葉が今の自分に一番近い。我ながら相当危険である(笑)

 

私は先日、「coca」というお店で真っ白なコットンのワンピースを4000円ほどで購入した。そのワンピースを見た瞬間…頭の中で火花が散った。ワンピースの裾の刺繍の部分と、袖に色が入っているイメージだった。なぜ突然それが見えたのかはわからない。考えて浮かんだのではなく、見た瞬間に考えるより先に絵が見えた。私はすぐさまスマホを開いて、

 

『服を自分で染める』と検索した。

 

情報が次々と出てくる。映像で見た方が早いと思い、Youtubeを開いた。若い女の子たちがTシャツや靴下を楽しそうに色んな色に染めている。これだ!と、確信した。

 

試着室に入る。サイズは合うけど、袖の形が自分の骨格と合っていない気がする。私は自分で服を作ったり、自分に合わせて作り替えたりする。長袖のシャツ袖をパプスリーブにすることにした。このまま着ても十分に可愛いし、4000円というのは私の中ではそこそこ高い金額なので、買うだけでも勇気がいる。そこにハサミや色を入れるのは、相当な覚悟がいる。

 

もういいや…壊すつもりでめちゃくちゃにしてやろう。

 

捨てたつもりで諭吉をレジに出し、しっかっりと6000円のお釣りをもらって店を出た。やってやる…。岡本太郎先生が言うように、一瞬でもいいから命を燃やしてみせる。成功したらこれを着てもう一度このお店に来て、超イケてるあのショップ店員さんたちに、「ハッ…あれはもしやうちの商品では…?」と、気付かせてやる。何のために?と聞かれれば、何のためでもない。そこに人生の意味がある。

ところが、髪を金髪にして一旦その服を着て出掛けると、「もうこれでいいかな~…」と思い始めていた。「何も似合っている服を変にする必要はないじゃないか…」、道具代ももったいないしね、ワンピース代ももったいないしね、変な風になったらせっかく似合っている数少ない“金髪コーデ”のアイテムが減ってしまう。そうでなくても金髪にして以来、クローゼットの大半の服が髪色と合わなくってしまって大変困っている。

 

馬鹿野郎。岡本太郎先生の教えに従え。そんな無難な考えこそぶっ壊してしまえ。

 

私はやっとミシンに向かった。気に入らなかった袖を思い切って切り落とし、新しく縫い直していく。今はスマホで調べればどんな技術も簡単に知ることができる。難しい本を開いて、いつまでも意味不明な専門用語に悩まずとも、見たままにまねをすれば同じ技術が手に入る時代だ。けれど、あまりに情報が多いがゆえに、技術の高い人やハイセンスな人たちと向かい合うことになり、つい現状のレベルの低い自分と比べてしまい勝手に落ち込んでしまう。やりたいイメージはあるのに、技術が追い付いていない。それを完成させる為には新しい技術を習得する必要があるし、いくら動画でわかりやすいとはいえ、裁縫は難しい…。コツひとつで仕上がり方が全然違うし、練習も必要で、一発でその通りには縫えない。何回も失敗しては糸をほどいて縫い直してを繰り返すうちに、「もう無理!」と投げ出すことも多い。

 

けれど、岡本太郎先生はこう書いていた…

 

“下手なら下手なりにやればいい”と。

 

もう一度奮起してミシンに向かう。付け足したいイメージがもうひとつあるので、生地屋で似たような白い生地を買ってきて、何時間もかかってバイアステープを作った。お店に行けば1000円払えば服が買える時代だ。それなのに、私はどうしてこんなめんどくさいことをやっているのだろう…そして、こんな簡単なことも出来ない。「趣味でやっている」という画面の向こうの人は、とても趣味とは思えないようなレベルの作品を作って披露している。私のは本当に家庭科レベルだ。悔しい。悔しいならやればいい。失敗して、考えて、一歩でもその技術を上げる努力をすればいい。拗ねてばっかりで、全然前に進まない。これでいいと諦めながらも、どこかで諦めきれずに、前にも後ろにも進まず、時にはその鬱屈を「死にたい」という言葉で誤魔化して生きてきた。不満の数だけ怒りを自分に向けて、一目でも多く針を進めるしかない。

 

今日、それを着てモスバーガーへお昼を食べに出掛けてみた。袖を作り替えた時点での着心地をチェックしたかった。また無難な気持ちが浮かんでくる…

 

「もうこれでいいじゃない?」

 

せっかく今きれいな真っ白いワンピースなのに…わざわざめんどうなことをして、もう着れなくなっちゃうかもよ?記事にして書いたら、「失敗しました」なんて言えなくなるよ?別にこれをやらなくても、別のやりたいこともあるんだし、午後はそれをやれば?

 

あー嫌い。こんな自分が大嫌いだ。イメージがあるのに邪魔をする。いつも私が私の邪魔をする。もう今は父が私の芽を摘んでいるのではなく、私自身が私の芽を摘んでしまっている状態だ。

 

家に帰ってすぐにミシンを出した。着ていた白いワンピースを脱いで、買っておいたアクリル絵の具を準備する。好きなように染めてやる。めちゃくちゃにしてやる。ぶっ壊してやる。金髪にしたこの髪が、すべて生え変わるまでどうしようもないのと同じ状態にまで追い込んでやる。着れなくなってもいい。失敗だって落ち込めばいい。ただこのまま白いまま無難に着ることだけは許してはいけない。純粋なフリをしてずる賢くなっただけの自分のこの顔に、絵の具を塗りたくってやる。

 

私の中の過去の亡霊よ、消えろ。

 

白装束の自分を処刑台に吊るす。

 

さようなら、マリーアントワネット。

染める作業はあっという間に仕上げないといけない。何も考えず、計算をせず、とにかく最初の「あちゃーやっちまったー!」のひと塗りの瞬間へと踏み切らないといけない。もう後戻りはできない…。白い自分はもういない。自分の中で小さな火が天にものぼるほどのお焚火となって燃え上がっている。死にたいとか、消えたいとか、意味がないとか、その中に全部放り込んで燃やしてやった。クタバレ、専業主婦。

すべての色を入れ終えて、放心した。右脳と左脳の間を風が流れていく。あー気持ちいい…。私は、3回咳をした。泣いていた。すすり泣いていてた。小刻みに息を吐きながら、咳をするように泣いていた。やっとやってやったという達成感と、今までこんな簡単なこともできずにきたのかと、黄色い感動と青い後悔が交ざり合って涙となって溢れ出る。

私が入れたその二色は、大好きなゴッホの色調とよく似ていた。私は私の中に取り込んできたあらゆる作品の影響を、ずっと閉じ込めて無理やり蓋をしてきた。「たすけて」ともがく自分を、水の中に押し戻して溺れさせて殺そうとしてきたのだ。

 

「大丈夫大丈夫。お父さんにやられる前に私が楽にしてあげるから。夢なんて見たって無駄無駄。想像するだけ無駄無駄。どうせ捨てられちゃうんだもん。叶わない夢を夢見るより、叶えたいことを奪われる方が辛いじゃん?」

 

そう言って、笑いながら私が私に覆いかぶさってくる。もっと…もっと強い力で立ち上がらないと…!

 

私は「珈琲美学と不幸中毒」の記事で、どこかで無理をし始めていた。よく書こうと思い過ぎて、10時間もパソコンに向かっていた。一年前を思い出して書くので、その時のフレッシュな感情に“添加物”が混ざっていく。下手なのだから、出来るフリは止めよう。旅の記録も書いていくけれど、それ以上に今フレッシュな出来語があるなら、そっちを優先して書いていこうと思う。

 

明日はきっと大変なことになる。絵の具を原液に近い状態で入れたので、風呂場も洗面所も恐ろしいことになるだろう…。掃除は得意なので頑張るしかない。もうどうなるかもわからない。色止めという作業もしなければいけないらしい。どうなってしまうのだろう?私はまた自分を嫌いになってしまうのだろうか?私はまた私に落ち込んでしまうのだろうか?それでもまた這い上がってくると思う。貞子な私。弱い癖に生きる図々しさだけは人一倍強いのだ。性格の悪い人間は、そう簡単には死なない。だから死ねないのよ、私は。

 

海鷂鳥



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