久しぶりにレンタルショップへ行った。
コロナ渦になってからは、誰が触ったかわからない物に直接触れることはそれだけで死を連想させたし、世の中のあらゆる娯楽がスマホやパソコンがあれば事足りる時代になった。映画館に行かなくても、DVDを借りなくても映像が見れる。再生機器も必要ない。CDやコミックを所有せずミニマリストになったとしても、作品を見たり聴いたりできる。しかも、見たいときに見たいだけ見放題。
借りたい本や映画がすべて「貸出し中」になっていて、返却されるのを見計らってレンタルショップに通い詰める必要もないし、店内に並ぶ棚をひとつひとつ見て探す必要もない。検索欄にキーワードさえ入れれば、必要なものがすぐに見つかって、今何百人何千人がその映像を同時刻に見ていたとしても閲覧に制限はない。ついでに食べたい物も買い物もネットで注文すれば部屋まで届けてくれるし、風呂に入って髪や服を整えて外に出る必要もない。人に会わずともオンラインで話せばいいし、話さなくてもSNSを開けばそこに山ほど人の吐露や日常が溢れている。ソファやベッドの上で、街に出たような疑似体験をする。指一本の運動量で世界を見渡せる。私は不幸せになった。
Bjorkのライブに行ったのに、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」をちゃんと観たことがなくて、現時点ではどこにも配信されていないのでDVDを借りるためにGEOに寄った。
昔は一本の映画を探すのに何度も棚を行き来した。新作は幾らで、レンタル期間がどれぐらいで、旧作は5本借りた方が得だとわかるとまた選び直して、返却日を間違って延滞料金を支払う羽目になって苦い思いをしたりもした。じっくりと時間と手間をかけて五感を使って選んで開く物語には“意味”があった。今はオンデマンドを契約しても見放題にも関わらず結局一本もまともに見終えないまま、気が付いたらYouTubeでライトな動画を垂れ流し見ている。
まとまった金額を払えばどんな映画やドラマも見放題、音楽も聞き放題という「サブスクリプション」というサービスは大変便利ではあるけれど、個人的には“これ!”と決めた作品単体にお金を払う方が満足度が高いことに気が付いた。もしこれからの映画館が「一定の料金で毎月どんな映画も見放題!」になったとしたら、私は映画館へ行く楽しみを失ってしまう。
大人になって駄菓子屋で無制限に好きなお菓子をカゴいっぱいに買えたときよりも、子どもの頃にたった100円だけ握りしめてその金額の制限の中でどれだけ自分を満足させられるかを考えつつ、かつ金額を計算して取捨選択していた頃の方がずっと幸せだった。小学生高学年になり、限られた月のお小遣いでどのアーティストのどのCDを買うのか必死に考えて、2曲しか入っていないシングルCDを擦り切れるまで再生して、穴が開くほど歌詞カードを読み込んでいた頃のことを思い出す。他に欲しかった曲は音楽番組やラジオでかかる以外では手にする術がなく、プロモーションビデオ(今はミュージックビデオと呼ぶらしい)をフルで見ようと思ったら3000円払ってVHSを買わないとアーティストの映像を独占することはできなかったし、アルバム一枚を3000円で買ってしまったらその月のお小遣いは終わりだった。「それでも欲しいかどうか?」を天秤にかけながら、本当に手にしたいものが何なのかを心の中を探っていた。
そうして必死の思いで手に入れた「作品」は、買って終わらすだけというわけにはいかず、欲しい娯楽を欲しいだけ一定額で自分のものにできてしまう今とは違って、“すき”とか“欲しい”ということに対してものすごい時間とカロリーを使っていたように思う。最近はひどいと「お気に入りリスト」に放り込むだけで気が済んでしまって、まっいっか、で再生する気力を失ってしまう。あるいは映画を再生しながら片手でスマホも見ている…といういい加減な鑑賞の仕方もする。そうして見た映画は、ほとんど自分の中には財産として残らない。単に老化して集中力が低下しただけなのかもしれないけれど、「欲しい」と思えば今でも必死になってそれを目がけて出掛けて行くのだから、スマホであれこれ検索せずにカロリーをかけて探しに行った方が、手に入れる喜びも大きいのかもしれない。
店内に並ぶ棚を行き来しながら、DVDも随分数が減ったなぁ…と思った。ブルーレイってどこへいったんだろう…まだあるのかな。もっと前はVHSだったけど(時間をかけてテープを巻き戻さないと最初からは再生されないんだぞ)。売り場の半分は電子機器の販売スペースに変わっていて、パソコン・スマホ・iPadやゲーム機などが売られている。棚の数が減った分、随分探しやすくなったけれど、それでも邦画・洋画・アジア映画とコーナーが分かれていて、そこから更にジャンル別、タイトル順に並んでいるのは昔と変わりない。探す感じが懐かしい。
「洋画」の「ドラマ」の「た行」の棚の前に立つ。指と視線で背表紙をたどって、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見つけたとき、頭の中がピカリと光って心の中で「あった!」と小さく歓喜した。もう一枚、観そびれた邦画があったので、それも一緒にレンタルした。私は今日これを借りて、期限日までにもう一度この場所へ来て借りたDVDを返す。たったそれだけのことが私をその日まで生かす契約になる。指一本の労力では済まない手間のかかる方法で得た作品には、それなりの意味を見出さなければいけない。先日契約したAmasonプライムでは、まだ一本も映像を再生できていない。送料のついでに契約しただけなので、おそらくほとんど何も見ないまま、引き落とし前までに解約してしまう。だいたいいつものパターン。
そういえば、たった一冊の本を選べなかったことがある。
家族や身近な人たちのことばかりを考えすぎて、いや、その人たちの顔色ばかりを気にし過ぎて、それを“自分”だと思い込んで生活していた頃、しばらく一人でいなければいけない時期があった。すべての時間を自分のために費やすことは、私にとって恐怖でしかなかった。まず何をしていいかわからなかった。ただ好きなものを食べて、好きな事をして、好きなように過ごせばいいだけなのに、私から家族という存在を引いたら、その“すき”が何なのかさっぱりわからなかった。
そんな自分の「現状の状態」を把握するために試しに本屋へ行ってみた。ずらりと並ぶ本の中から、今自分が欲しいと思う”自分の為だけの一冊”を選んでみて?と、自分に問いかけた。「たったひとりの自分」が、私の中にどれぐらい存在しているのかを知りたかった。それぐらい簡単にできると思った。ちょっと気になる本を手に取って買ってくるだけのことだ。
ところが私は、何時間も本屋の売り場に立ってウロウロしたまだった…。気が付いたら「これなら生活の役に立つかしら?」という、お掃除本や料理本、誰でもわかるお葬式の本…なんかを手に取っていた。“生活のため”ではなく、“私だけのため”でなければ意味がない。その条件を考えると、自分の“すき”がさっぱりわからなくなってしまったのだ。
このままでは一冊も選べないまま終わってしまうので、二冊選ぶことにした。一冊は「LDK」という雑誌で、台所用品や生活用品や電化製品の比較とランキングをまとめた雑誌で、やはり“生活のための一冊”になってしまったけれど、それを選んだ上で自分の気になるものを選ぶ方がリラックスして選ぶことができた。
私は「書店が薦める本」のコーナーで、気になった本を手に取っては表紙を開いて一行ずつ読んだ。自分にピンとくる文章のテイストがあるので、一行読めば面白いか面白くないかがわかる。私が選んだ本は、山本文緒「恋愛中毒」という恋愛小説だった。自分に対するルールを軽減して結果的に二冊になってしまったけれど、なんとか“自分の為の本”を選ぶことができた。
まだ大丈夫。まだ自分を見つけられる、と思った。
結果、生活の為に選んだ「LDK」はササッとめくっただけで、歯磨き粉を次の買い物の参考にしただけで、真っ新に近い状態で棚の端に放置された。“自分の為”と選んだ「恋愛中毒」の方は、分厚い小説ではあったけれど一日で読み終えてしまった。ラストまであっという間に滑り落ちて行ったけれど、自分でも高い集中力を発揮した。恋愛小説なのにオカルトとサスペンスが交ざったようなひりひりするストーリーで、ねっとりとした人間の情念の怖さに共感がどばどばと溢れてしまった。
私は、いつの間にかまた自分をサボってしまっていることに気付いてしまった…。
そしてそこには必ず死の匂いが近寄ってくる。
“選ぶ”ことは自分を知ることだ。自分は何が好きで、どうしてそれが好きだったり気になったりするのか、どれぐらい興味があるのか、流行っているからなんとなくなのか、ピンときたからなのか、それとも最初からそれが絶対に欲しいのか。だったらなぜ“絶対”なのか、自分の中のどんな血が騒いだのか、どんなテイストが好きなのか、泣きたいのか、笑いたいのか、どこにどんな風に感動したのか、どこが自分の中にシンクロしたのか、どう共感したのか、あるいは反発したのか、自分の目や耳で得た情報の先に、言語化できなかった自分の正体があるはずだ。
自分に課せられた日常やすべきことに従事し過ぎて、またはそれらの所為にして、自分自身を見失うことは容易だ。一番難しいことは、他者と対峙することよりも自分自身と対峙することなのだ。誰かのための化粧より、誰かのためのファッションより、誰かのための我慢より、誰かのための苦労や笑顔よりも、自分が本当はどう感じていて、どんな感情に蓋をしていて、誰のことも一切気にせずにいられる瞬間の本当の“すき”と“ヘイト”を探すことが私の中の生きている実感なのだと思う。自分の中のグロテスクな部分に手を伸ばし、ほんものの感覚を得ることは苦しいこともである。ありのままという美しい言葉の響きとは無縁なほど孤独になる。人と違うことを求めながらも、実は人と同じでいられる安心感に甘え浸っていただけの自身の体たらくを突きつけられる。
「なんでもいい」「どれでもいい」は、だめだ。
選べなくても選ぶんだ。選べない自分を越えてちゃんと選ぶことが私と私を大切に想ってくれている人への誠意であると考える。もちろん選べない環境下にいる人だっている。山ほどいる。自分の所為じゃないことでがんじがらめに生きている人だっている。けれど、今選べるなら選ぶべきだと思う。たぶん「これがしたい」という人よりも、「なにをしていいかわからない」人の方が街には溢れていて、夕方の「いいね♡」の反対側で電信棒の影の中にひっそりと隠れてる。
何をしてもしっくりこなくて、何もかもだめだと悲観して、それでも平気なフリをする。大丈夫だよって言う。元気だよって言う。私もだよって言う。でも本当は違う。全然違う。あなたとわたしは全然違う。簡単に共感なんてされたくない。それでも同じでいたいから、大丈夫だって言う。共感にはいつも安心と感傷がある。
夢を見る。YouTubeを見る。SNSを見る。自分より輝いている人たちを見る。楽しそうな人たちを見る。整形と加工だらけの顔に「いいね♡」が集う。切り捨てられない奇異な夢を見る。フラッシュバックと混同する。今日を考えられなくなる。起き上がれなくなる。自分を切り捨てる。ちゃんとできる。ちゃんとするんだよ。選べなてくも選ぶんだ。選べるまで選ぶんだ。なんとなくじゃなくて、“絶対にこれなんだ”っていうものだけを選びたい。
明日、中国語の体験レッスンに行ってきます。
― 海鷂鳥 ―
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