“見つけてあげるよ~キミだけのやる気スイッチ~”
という、塾のCMがあった。子どもの頃は、とにかく目に入ったあらゆる種類のスイッチを“ポチポチ”と押したくなった。それが何のスイッチか、押したら何が起きるのか、本当に大丈夫なのか、そんなことは考えずに押したいから押していた。そうして「未体験」は加速して「経験」へと変わっていく。
この頃の私はどうだろう…?押せばいいだけのそのスイッチの目の前を、通り過ぎる日々である。“押してくれ”と迫ってくるスイッチと目が合うと厄介なので、「あ~忙しい…」なんて洗濯物を運びながら、見て見ぬふりを続けている。まるで妻の“夜のお誘い”を「今日は疲れてるんだ…今度にしてくれないか…」と断る夫の背中のようである。そのうち妻のスイッチも、“押してくれ”と夫に点灯する気力を失って、
『スイッチを押してくれる人と生きていきます。お世話になりました。ごめんなさい。』
という書置きと共に、古いスイッチを置いて出て行ってしまうだろう。そんな頃になって強く押してみても、ただの殻の箱である。「俺は…どうして…スイッチを押してやらなかったんだ…」妻のスイッチがまだピカピカと光っていたあの頃を思い出す。光るそばから“ポチポチ”押して、妻のスイッチに夢中だった日々が鮮明に蘇って涙が止まらない。「俺は…俺は本当にバカだ…すまん…許してくれ…」流れた涙が手に握るスイッチにこぼれ落ちると、一瞬弱く光を放った後、もう二度と点滅することはなかった。
― END ―
この妄想が伝わった人とは、2時間以上お茶をしても飽きないかもしれません。ようは、「やる気スイッチ」は普段から押していないと、なかなか押せなくなってしまうということに気付いた。押せたとしても過去の経験の中から無難な物だけを選んだり、“新しい挑戦”と言いながらもどこか安全圏を越えないようにしてしまうのだ。19歳でパニック発作を起こすようになってからは特にその傾向が強く、不安の向こう側へ飛ぶことを極端に恐れてきた。それが世界を狭くし、更に不安を強め、スイッチの種類や押す機会も減らしていってしまったのだ。もう自分の中の地雷を避けて歩くのではなく、吹っ飛ばされてもいいから私は私の中の大地を、裸足で全力で走りたいのだ。
ドラマ「白線流し」が放送されたのは、1996年だった。物語に自分の青春を重ね、冬に見る最初の雪のように白かった私の心も、いつしか道路の端に積み上げられた泥や砂利を含んで溶け残った雪の塊のように汚れていった。校舎で仲間と過ごした思い出も、他人事のように遠くなって、それでもこのドラマを見返すたびに、学生時代を思い出してはむせび泣いてしまうほど胸が苦しくなる。4回目の旅は、その「白線流し」の舞台である「長野県松本市」へ行くことにした。
「多治見駅」からJR「特急しなの」に乗り「松本駅」を目指す。「中津川」を過ぎた辺りから、山に埋もれた状態の景色が延々と続くので、景色を楽しむというよりは、なんだか息苦しく心細く不安になる。途中で見える「御嶽山」は突如現れた怪獣のようで、「わーすごい…」と感動しながらも、噴火の動画を思い出して更に怖くなってしまった。その隣で老夫婦が座席に脚を上げて4人席を占領し、大声でくっちゃべりながら煎餅をガサガサバリボリしている音を嫌々耳にしながら、「もしかしたら30年後の私たちかもしれない…」と想像してしまい、更に冷や汗が出るのだった。
…酔いました。「特急しなの」は、特別車でありながら横揺れがすごい。夫は骨折中だったので、人に向けたらバズーカー砲を発射しそうなごっついギプスを片腕に装着しておりました。あの頃の夫は、地面から数センチ浮いてるんじゃない?というほど、魂が軽かったです。
私は旅先で安い立ち食いそばやうどんを食べるのが好きであります。信州と言えば、お蕎麦。けれど高い蕎麦には興味がなく、天ぷらの盛り合わせが付いてウン千円もするような蕎麦と味の違いがさほどわからず、寒い冬に駅舎で熱々のおつゆにひたすら感謝しかながら食べるそばやうどんの方が好きなのであります。
松本は駅の中も外も、閑散としていた。平日かつコロナ渦ということもあり、観光地である松本市もすっかり冷え上がってしまっているようだった。今回は夫が計画してくれた旅なので、“映え写真”を残す為には城へ行くしかない。スケジュールは「白線流し」のロケ地をめぐることと、夜に馬刺しを食べに行くこと以外は特に決まっておらず、蕎麦を食べた後に駅前通りをゆっくりと歩いて「松本城」を目指すことにした。
途中、古い喫茶店が目に止まった。私の背後から喫茶店の入り口へ向かって風が流れている気がした。けれどこの手の“レトロ喫茶”は失敗も多い。せっかく入ったのに「ここからここまでやってないから」と、茶色いお湯が出てきたこともある。
「なんかめっちゃいい感じ。でもまぁ…気になったらまた後で来ることにするか。」
店の前の花壇の前にガーデン用の白いテーブルとイスが置いてあって、そこに身体の大きなおじさんが座っていた。
「あれ、店の人じゃない?」
「あー…そうなのかな?なんか暇そう(笑)美味しくないんじゃない?」
そのまま店を通り過ぎた。
「松本城」に着くと、お客のいない人力車が早々に店じまいを始めていた。それぐらい人がいない。城は外から眺めるだけにして、周辺を歩くことにした。オスの鳩がピンクに染まった胸をパツパツに膨らませて「ホロッホー♪♪ホロッホー♪♪」と鳴いて求愛ダンスをしている。実にしつこくメスの鳩をつけまわし、目の前にまわっては「ホロッホー♪♪ホロッホー♪♪」と左右に激しく揺れている。メスの鳩が逃げるようにその場を飛び立つと、すぐさま追いかけて飛んで行って、遠く離れた先でまた「ホロッホー♪♪ホロッホー♪♪」と、鳴いていた。あれが人間であったならば、ストーカー禁止法に基づき、“接近禁止命令”が出ていることだろう。
「やっぱりさっきの喫茶店、寄ってみてもいい?」
“やっぱり”という感覚は大事だ。一度ピンときて、思い出してもう一度ピンときたならば、もうそれは行くしかない。そういうとき、私はなぜか早足になる。急がずとも逃げていかないような事や場所であったとしても、速く!早く!…いつだって運命と感情に素直に従った瞬間から、物語は始まっていくのだ。
少し日が傾き始めていて、街も車も少しずつ照明の数を増やしていく時間。
『珈琲美学アベ』
店の扉を開けると、思ったより店内は広く、奥へと空間が広がっている。…が、お客が見当たりません。
間違えたかしら…でも、お茶一杯飲むだけだし…いいか。
いつだって私の頭の中は「損か得か」そんなことばかりを考えて、自分の中の正解を避けて、世の中に正解の基準を合わせて生きてきた気がする。だが、私はこの場所で、たった一杯の珈琲で、その基準の一切を捨てることとなる。
「いらっしゃい~どうぞ~。」
やはり行きに見た花壇の前のおじさんが、店主であった。私たちが今日最初の客じゃないことを祈りながら、奥からひとつ手前の席に腰をおろした。私はストレートコーヒーのモカを、夫はカフェオレとチーズケーキをそれぞれ注文した。
『水ばかり飲んでコーヒーも飲まないなんて…人生に生きがいがあるだろうか
疲れをいやす一時に悪魔のように深く恋のように甘いコーヒーを!!』
店の至る所にこの言葉が書かれてる。まるで呪い…もはや洗脳である。“水ばかり”というところに少々皮肉を感じるが、“悪魔のように深く恋のように甘い”は、ロマンチシズムである。きっと店主の珈琲哲学なのだろう。
がしかし、私は珈琲うんちく人生を語る人間があまり好きではない。はっきり言って嫌いだ。そのうんちくのおかげで珈琲が不味くなるし、ミュージシャンが自分の作った曲をラジオで事細かに説明してしまう残念さと似ている。語られることによって脳内がうんちくで支配されて、自分の本当の感覚が曇ってしまうのだ。
「こいつの話めっちゃ面白いから聞いて!」と言われて聞かされた話は、大概面白くない。
私が頼んだモカが運ばれてきた。運んできたついでに、この暇そうな店主の珈琲哲学の続きを聞かされやしないだろうかとビクビクしてしまう。ビーカーのようなガラスの器具に淹れられたコーヒーが、店主の仕上げによってカップへと注がれていく。こういう沈黙の時間を、私はどう待ったらいいのかわからない。実に苦い。
私の前に注ぎたてのコーヒーが置かれると、次に夫が頼んだカフェオレが運ばれてきた。やはりこれもここで仕上げるようで、夫の目の前に大きめの空のマグカップが置かれた。そして店主はそのカップ目がけて立ったままの姿勢で高い位置から勢いよくコーヒーとミルクを空中でトルネードさせながら注ぎ始めた!
「おっ!おおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
二人はマスク越しに「お」だけを連呼した。「お」を拍手に例えるならば、「お」のスタンディングオベーションである。勢いよく注がれたホットコーヒーとホットミルクがカップの中で泡立ち、きっちりと量られたその量が、マグカップから溢れるギリギリの高さで表面張力を保っている。店主は私たちの反応に顔色ひとつ変えずに、チーズケーキを置いてカウンター奥へと戻っていった。いいのね?味で語る感じでいいのね?
では、いよいよである。
マスクを取って立ちのぼる白い湯気をスーッと鼻で吸ってみる。うん、珈琲の香り。では、ひとくち。
!?
水…?
ん?水??
無味である!舌の奥へゴクリ。さっきより華やかな香りが鼻の奥へと抜けていって、目の奥でパッと花が咲いた。頭が混乱している…味が無いのに…香りに味がある。
もうひとくち飲む。
うわんぐっ!!
電撃でピカッと身体が光った!衝撃である!ふたくちめではすっきりとしたその味をはっきりと感じて、香りが頭蓋骨の天頂まで到達すると、竜のごとくその体をひねって、胃へ流れ落ちていく珈琲を追いかけて香りが一気に手足から抜けていった。
脳から何か物質が出ました…
今まで飲んでいた珈琲が、すべて雑味とえぐみを搾り出した“珈琲汁”であったことがわかった。その味が珈琲だと想像して飲んだ所為で、最初は味が無いと脳が錯覚し、鼻を抜けた香りによって感覚が修正され正確な味を運んできたのだ。
私は夫からカフェオレを奪い取ると、ひとくち飲んでみた。
これはもはや…
ミルクティーだった…。
なんという感想だ!この下手くそバカヤロウめ!
だが、正直である。こんなにまろやかなカフェオレを初めて飲んだ。あの高さから勢いよく注いでいたのはただのパフォーマンスではなく、空気をたっぷりと含ませてこのやわらかさを出していたのだ。この舌ざわり…いや、もう舌には触れていなかったかもしれない!私は飲んだのではなく…包まれてしまったのだ!ムーニーマンおむつを取ってお風呂に入れてもらったその後に、赤ちゃんおしりぱふぱふベビーパウダーでちゅよ~…。
これがカフェオレの味の感想です。
がしかしっ!珈琲は実にうまいが、デザートはどうだ!あれもこれも極めてはいないだろうアベさんよ!正直に言ってごらん?…チーズケーキいただきます。
「うぐっ…」
牛が…牛が見える…。このチーズケーキ…牛が見えるぞ…!
ふつうチーズケーキには酸味があり、レモン汁やヨーグルトが入っていたり、チーズ自体にも酸味や塩味があるので、どちらかというと紅茶の方が合うのだ。特に酸味の強い珈琲を一緒に頼んでしまうと、酸味×酸味で胃もたれする。が、このチーズケーキにはその酸味がない。
とにかく私には牛が見える…けれど、牛乳臭さは一切ない。とにかく広い草原に立ったご立派な牛が「モーッ♪」とこちらを向いて鳴いたのだ。いや、牛がここにいますよ…これが牛です…このチーズケーキは牛です。乱暴すぎる感想です。
アベさん、完敗であります…。
私が外で珈琲を飲まない理由は、ひとつはお腹を下すからだ。もうひとつは、カフェインがパニック発作を引き起こしやすいという情報からとことん避けてきた。外のお店ではカフェインの少ないものやノンカフェインを選ぶようにしている。なんてつまらない選択肢だろう…好きなものではなく、“大丈夫なもの”を選ぶ人生。私の生き方そのものではないか。
ほらね?珈琲語るヤツって、そこに自分の人生重ねて語り出すでしょう?(笑)
私たちは翌日も『珈琲美学アベ』を訪ね、もう一杯ずつ珈琲を飲んだ。せっかくの旅だから色んなお店へ行けばいいのに…なんて、つまらない“損得勘定”は捨てた。この日以来、私は外でも珈琲や紅茶を飲むようになった。たまに胃がゴロゴロするけれど、大したことではない。そんなことは誰にだってあることだろう。カフェインによってパニック発作が引き起こされている感覚も実はないことに気が付いた。そういう時は大抵別にストレス要因があったり元々身体に不調があるときで、ネット上に転がるあらゆる病名や症例に健康な思考や身体まで支配されてしまっていだけなのだ。
けれど、不安中毒に陥る人は、実は幸せ中毒にも向かっていける人なのではないかと思う。力にはいつも相反する対極の要素が働いていて、どちらかに思い切り引っ張れる人は、もう一方へも強く引っ張れる力を持っている気がするのだ。できないのはその力の調整の加減で、それが人によって違う“スイッチ”なのだと思う。こうするといい、あーするといい、これはやめた方がいい、これはよくないと、ネットや人の情報に頼ったり左右されるのではなく、私は私の中の正解だけを探し続けたい。
― ドラマのロケ地が見たい ―
たったそれだけの目的であった。
そして、たった一杯の珈琲を飲むことが、私の“やる気スイッチ”だったのである。
海鷂鳥
※『珈琲美学アベ』のミニチュアガチャ
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