クタバレ!専業主婦

仕事と子育て以外やってます。踊ったり、歌ったり、絵を描いたり、服を作ったり、文章を書いたりして生きています。

選ぶことは自分を知ること

2023-04-30 19:24:32 | エッセイ

久しぶりにレンタルショップへ行った。

 

コロナ渦になってからは、誰が触ったかわからない物に直接触れることはそれだけで死を連想させたし、世の中のあらゆる娯楽がスマホやパソコンがあれば事足りる時代になった。映画館に行かなくても、DVDを借りなくても映像が見れる。再生機器も必要ない。CDやコミックを所有せずミニマリストになったとしても、作品を見たり聴いたりできる。しかも、見たいときに見たいだけ見放題。

 

借りたい本や映画がすべて「貸出し中」になっていて、返却されるのを見計らってレンタルショップに通い詰める必要もないし、店内に並ぶ棚をひとつひとつ見て探す必要もない。検索欄にキーワードさえ入れれば、必要なものがすぐに見つかって、今何百人何千人がその映像を同時刻に見ていたとしても閲覧に制限はない。ついでに食べたい物も買い物もネットで注文すれば部屋まで届けてくれるし、風呂に入って髪や服を整えて外に出る必要もない。人に会わずともオンラインで話せばいいし、話さなくてもSNSを開けばそこに山ほど人の吐露や日常が溢れている。ソファやベッドの上で、街に出たような疑似体験をする。指一本の運動量で世界を見渡せる。私は不幸せになった。

 

Bjorkのライブに行ったのに、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」をちゃんと観たことがなくて、現時点ではどこにも配信されていないのでDVDを借りるためにGEOに寄った。

 

昔は一本の映画を探すのに何度も棚を行き来した。新作は幾らで、レンタル期間がどれぐらいで、旧作は5本借りた方が得だとわかるとまた選び直して、返却日を間違って延滞料金を支払う羽目になって苦い思いをしたりもした。じっくりと時間と手間をかけて五感を使って選んで開く物語には“意味”があった。今はオンデマンドを契約しても見放題にも関わらず結局一本もまともに見終えないまま、気が付いたらYouTubeでライトな動画を垂れ流し見ている。

 

まとまった金額を払えばどんな映画やドラマも見放題、音楽も聞き放題という「サブスクリプション」というサービスは大変便利ではあるけれど、個人的には“これ!”と決めた作品単体にお金を払う方が満足度が高いことに気が付いた。もしこれからの映画館が「一定の料金で毎月どんな映画も見放題!」になったとしたら、私は映画館へ行く楽しみを失ってしまう。

 

大人になって駄菓子屋で無制限に好きなお菓子をカゴいっぱいに買えたときよりも、子どもの頃にたった100円だけ握りしめてその金額の制限の中でどれだけ自分を満足させられるかを考えつつ、かつ金額を計算して取捨選択していた頃の方がずっと幸せだった。小学生高学年になり、限られた月のお小遣いでどのアーティストのどのCDを買うのか必死に考えて、2曲しか入っていないシングルCDを擦り切れるまで再生して、穴が開くほど歌詞カードを読み込んでいた頃のことを思い出す。他に欲しかった曲は音楽番組やラジオでかかる以外では手にする術がなく、プロモーションビデオ(今はミュージックビデオと呼ぶらしい)をフルで見ようと思ったら3000円払ってVHSを買わないとアーティストの映像を独占することはできなかったし、アルバム一枚を3000円で買ってしまったらその月のお小遣いは終わりだった。「それでも欲しいかどうか?」を天秤にかけながら、本当に手にしたいものが何なのかを心の中を探っていた。

 

そうして必死の思いで手に入れた「作品」は、買って終わらすだけというわけにはいかず、欲しい娯楽を欲しいだけ一定額で自分のものにできてしまう今とは違って、“すき”とか“欲しい”ということに対してものすごい時間とカロリーを使っていたように思う。最近はひどいと「お気に入りリスト」に放り込むだけで気が済んでしまって、まっいっか、で再生する気力を失ってしまう。あるいは映画を再生しながら片手でスマホも見ている…といういい加減な鑑賞の仕方もする。そうして見た映画は、ほとんど自分の中には財産として残らない。単に老化して集中力が低下しただけなのかもしれないけれど、「欲しい」と思えば今でも必死になってそれを目がけて出掛けて行くのだから、スマホであれこれ検索せずにカロリーをかけて探しに行った方が、手に入れる喜びも大きいのかもしれない。

 

店内に並ぶ棚を行き来しながら、DVDも随分数が減ったなぁ…と思った。ブルーレイってどこへいったんだろう…まだあるのかな。もっと前はVHSだったけど(時間をかけてテープを巻き戻さないと最初からは再生されないんだぞ)。売り場の半分は電子機器の販売スペースに変わっていて、パソコン・スマホ・iPadやゲーム機などが売られている。棚の数が減った分、随分探しやすくなったけれど、それでも邦画・洋画・アジア映画とコーナーが分かれていて、そこから更にジャンル別、タイトル順に並んでいるのは昔と変わりない。探す感じが懐かしい。

 

「洋画」の「ドラマ」の「た行」の棚の前に立つ。指と視線で背表紙をたどって、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見つけたとき、頭の中がピカリと光って心の中で「あった!」と小さく歓喜した。もう一枚、観そびれた邦画があったので、それも一緒にレンタルした。私は今日これを借りて、期限日までにもう一度この場所へ来て借りたDVDを返す。たったそれだけのことが私をその日まで生かす契約になる。指一本の労力では済まない手間のかかる方法で得た作品には、それなりの意味を見出さなければいけない。先日契約したAmasonプライムでは、まだ一本も映像を再生できていない。送料のついでに契約しただけなので、おそらくほとんど何も見ないまま、引き落とし前までに解約してしまう。だいたいいつものパターン。

 

そういえば、たった一冊の本を選べなかったことがある。

 

家族や身近な人たちのことばかりを考えすぎて、いや、その人たちの顔色ばかりを気にし過ぎて、それを“自分”だと思い込んで生活していた頃、しばらく一人でいなければいけない時期があった。すべての時間を自分のために費やすことは、私にとって恐怖でしかなかった。まず何をしていいかわからなかった。ただ好きなものを食べて、好きな事をして、好きなように過ごせばいいだけなのに、私から家族という存在を引いたら、その“すき”が何なのかさっぱりわからなかった。

 

そんな自分の「現状の状態」を把握するために試しに本屋へ行ってみた。ずらりと並ぶ本の中から、今自分が欲しいと思う”自分の為だけの一冊”を選んでみて?と、自分に問いかけた。「たったひとりの自分」が、私の中にどれぐらい存在しているのかを知りたかった。それぐらい簡単にできると思った。ちょっと気になる本を手に取って買ってくるだけのことだ。

 

ところが私は、何時間も本屋の売り場に立ってウロウロしたまだった…。気が付いたら「これなら生活の役に立つかしら?」という、お掃除本や料理本、誰でもわかるお葬式の本…なんかを手に取っていた。“生活のため”ではなく、“私だけのため”でなければ意味がない。その条件を考えると、自分の“すき”がさっぱりわからなくなってしまったのだ。

 

このままでは一冊も選べないまま終わってしまうので、二冊選ぶことにした。一冊は「LDK」という雑誌で、台所用品や生活用品や電化製品の比較とランキングをまとめた雑誌で、やはり“生活のための一冊”になってしまったけれど、それを選んだ上で自分の気になるものを選ぶ方がリラックスして選ぶことができた。

 

私は「書店が薦める本」のコーナーで、気になった本を手に取っては表紙を開いて一行ずつ読んだ。自分にピンとくる文章のテイストがあるので、一行読めば面白いか面白くないかがわかる。私が選んだ本は、山本文緒「恋愛中毒」という恋愛小説だった。自分に対するルールを軽減して結果的に二冊になってしまったけれど、なんとか“自分の為の本”を選ぶことができた。

 

まだ大丈夫。まだ自分を見つけられる、と思った。

 

結果、生活の為に選んだ「LDK」はササッとめくっただけで、歯磨き粉を次の買い物の参考にしただけで、真っ新に近い状態で棚の端に放置された。“自分の為”と選んだ「恋愛中毒」の方は、分厚い小説ではあったけれど一日で読み終えてしまった。ラストまであっという間に滑り落ちて行ったけれど、自分でも高い集中力を発揮した。恋愛小説なのにオカルトとサスペンスが交ざったようなひりひりするストーリーで、ねっとりとした人間の情念の怖さに共感がどばどばと溢れてしまった。

 

私は、いつの間にかまた自分をサボってしまっていることに気付いてしまった…。

 

そしてそこには必ず死の匂いが近寄ってくる。

 

“選ぶ”ことは自分を知ることだ。自分は何が好きで、どうしてそれが好きだったり気になったりするのか、どれぐらい興味があるのか、流行っているからなんとなくなのか、ピンときたからなのか、それとも最初からそれが絶対に欲しいのか。だったらなぜ“絶対”なのか、自分の中のどんな血が騒いだのか、どんなテイストが好きなのか、泣きたいのか、笑いたいのか、どこにどんな風に感動したのか、どこが自分の中にシンクロしたのか、どう共感したのか、あるいは反発したのか、自分の目や耳で得た情報の先に、言語化できなかった自分の正体があるはずだ。

 

自分に課せられた日常やすべきことに従事し過ぎて、またはそれらの所為にして、自分自身を見失うことは容易だ。一番難しいことは、他者と対峙することよりも自分自身と対峙することなのだ。誰かのための化粧より、誰かのためのファッションより、誰かのための我慢より、誰かのための苦労や笑顔よりも、自分が本当はどう感じていて、どんな感情に蓋をしていて、誰のことも一切気にせずにいられる瞬間の本当の“すき”と“ヘイト”を探すことが私の中の生きている実感なのだと思う。自分の中のグロテスクな部分に手を伸ばし、ほんものの感覚を得ることは苦しいこともである。ありのままという美しい言葉の響きとは無縁なほど孤独になる。人と違うことを求めながらも、実は人と同じでいられる安心感に甘え浸っていただけの自身の体たらくを突きつけられる。

 

「なんでもいい」「どれでもいい」は、だめだ。

 

選べなくても選ぶんだ。選べない自分を越えてちゃんと選ぶことが私と私を大切に想ってくれている人への誠意であると考える。もちろん選べない環境下にいる人だっている。山ほどいる。自分の所為じゃないことでがんじがらめに生きている人だっている。けれど、今選べるなら選ぶべきだと思う。たぶん「これがしたい」という人よりも、「なにをしていいかわからない」人の方が街には溢れていて、夕方の「いいね♡」の反対側で電信棒の影の中にひっそりと隠れてる。

 

何をしてもしっくりこなくて、何もかもだめだと悲観して、それでも平気なフリをする。大丈夫だよって言う。元気だよって言う。私もだよって言う。でも本当は違う。全然違う。あなたとわたしは全然違う。簡単に共感なんてされたくない。それでも同じでいたいから、大丈夫だって言う。共感にはいつも安心と感傷がある。

 

夢を見る。YouTubeを見る。SNSを見る。自分より輝いている人たちを見る。楽しそうな人たちを見る。整形と加工だらけの顔に「いいね♡」が集う。切り捨てられない奇異な夢を見る。フラッシュバックと混同する。今日を考えられなくなる。起き上がれなくなる。自分を切り捨てる。ちゃんとできる。ちゃんとするんだよ。選べなてくも選ぶんだ。選べるまで選ぶんだ。なんとなくじゃなくて、“絶対にこれなんだ”っていうものだけを選びたい。

 

明日、中国語の体験レッスンに行ってきます。

 

― 海鷂鳥 ―


やりたいことを取るか、将来役に立つことを選ぶか

2023-04-26 01:44:51 | エッセイ

更新が滞ったまま、とうとう40歳になりました。「嫌だ!私は30代の船を降りないぞ!」と、地団駄踏んで泣きました。床に転がってギャーギャー喚いて、まだ精神が追い付いていないだの、見た目もあと数年は30代でも通用するはずだのと時の経過に逆らおうとしましたが、4月19日0時00分にブォー!と汽笛が鳴ると、3人がかりで私は30代の船から引きずり降ろされ、

 

「アキラメロ!オマエ、40サイ!」

 

と吐き捨てられ、船は新しく30代を迎える若者たちを迎えに出向していきました。

 

「わだじどうすればいいのおぉぉおおおおおおおお!!!」

 

顔から出るすべての体液をその場に垂れ流しながら立ち上がれずにいると、すぐさま40代の船が私の目の前に着船しました。

 

「オイ!オマエ!ノレ!40サイ!」

 

その場で足を突っ張って抵抗していると、手足を拘束され頭から黒い布を被せられ無理やり40代の船へと担ぎ込まれました。

 

「ウルサイ!ダマレ!40サイ!イキロ!」

 

誘拐です…拉致です…本人の意思なく、私は40代という未開の地へと連れてこられました。納得いきません。私の心はまるでピュアであります。心のオムツはまだ取れていません。私は一生大人にはなれませんし、なりません。魂に年齢など関係ないのです。とはいえ、私は40歳になりました。おめでとう、私。ありがとう、私。ご愁傷様、私。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

昨日まで夫と横浜旅行に行っていました。

 

結局「コレ」というものが見つからないままで新時代を迎えてしまったわけですが、どうも私の中で共通している“すき”が中国であることは確かなのです。

 

子どもの頃に愛知県犬山市の「リトルワールド」で見た中国雑技団の方々が着ていた赤や金のきらびやかなチャイナドレス。それを見て私は、中国の女性の方は全員チャイナドレスを着て生活しているのだと思い込みました。男性はジャッキーチェンのように壁を走れて、年寄りは酔拳で道を歩いていて、真夜中にはお札を貼られたキョンシーが街を徘徊しているのだと思い、もし中国に行ってお札が剥がれた凶暴キョンシーと出くわしてしまったら、果たして自分は何秒間息を止めていられるだろうか…(息を止めている間はキョンシーには見つからない)と、練習したりしていました。

※「来来キョンシーズ」参照

 

 

日本にはまだ侍や忍者がいて、ちょんまげや日本髪を結った人たちが着物で生活していると思い込んでいる外国人と同じです。ある程度の年齢になったときに中国のテレビ中継を見て、

 

「チャイナドレス着てないやん!」

 

と、大変ショックを受けました。それでもやはりチャイナドレスの美しさへの憧れは消えることはありませんでした。私も着たい。見たい。触りたい。どこへ行けば“アレ”が手に入るのか…と考えていました。

 

最初に買ったチャイナドレスはいわゆるコスプレ用の簡易な衣装でしたが、ベルベット生地の本格的な正装用のチャイナドレスも購入しました。けれど、当時はどうしてもコスプレとして認識されることに心が折れてしまい手放してしまいました。今の時代はコスプレもファッションであり表現であり服であることに変わりはなく、装いを恥じることなど一切無いのですが、私はなるべく自分を捨てる努力をして生きてしまいましたので、今になってそんな自分を過去のゴミ捨て場からそっと持ち帰り、今更ながら装うことの喜びを大切にしております。

 

憧れたのは衣服だけではなく、言葉や文化にも興味を持ちました。1984年「西太后」、1989年「続・西太后」、1996年「スワロウテイル」、これらの映画を字幕で見たとき、中国語のリズムと発する音の色っぽさが、話しているというよりは歌っているように聴こえました。好きな曲を覚えるようにして真似して発音してみたかったのですがさっぱり聞き取れず、音を言葉で真似しても再現しようのない発音で、高校の授業で中国語を選択しました。

 

まず「謝謝(ありがとう)」の発音は、“シェイシェイ”ではなく、“シエーシェ”であることを学びました。発声は日本語とも英語ともほど遠く難しく、使ったことのない口の動きをしないと同じ「音」が出せません。それでも一生懸命取り組んだ結果、成績は良好ではありましたが、学校をサボりがちになるとあっという間に転落してしまい、少し触れたただけでその時は終わってしまいました…。

 

何がやりたいのか、何が好きなのか、いまいちよくわからないまま生きて、それでも私の中で心が躍るのは「音楽」と「中国」というふたつのキーワードでした。

 

 

今年に入りたまたまネットで知った「変面ショー」という一瞬で面が何度も変わるという中国の伝統芸能に心を奪われてしまい、その日以来連日連夜「変面ショー」の映像を見続け、夫に「その曲、気が狂いそうだわ…」と言われても、メインテーマである「Mask Chang」という中国語の曲を大音量で延々リピート再生。遂には耳コピだけで歌い始めて、自分の口から出る中国語の“音”に、アドレナリンが怒波!怒波!(ドバドバ)出てしまい、そこから中国語のレッスンの動画を見始めました。高校生の頃に学んだことも思い出しながら、単語や短い文章を真似して発声しています。音を真似ることが好きなのです。

 

ちゃんと話せるようになりたい…と、思いました。

 

けれど、先月Bjorkのライブで神戸へひとりで行ったとき、ライブ会場までの満員電車の中で聞こえてきたご婦人の言葉を思い出して迷ってしまいました。この時点では、自分が得意とする英語を習うつもりで考えていました。

 

「私、K-POPの○○も好きでしょう?彼が話してる言葉と同じ言葉を話したくて、韓国語を習いに行きたいんだけど、家族が“だったら英語を習った方がいい”って言うのよ。英語なら世界で通じるし、英語の方がためになるって。英語が話せれば韓国でも通じるけど、韓国語は他の国では通じないから、将来色んな国へ旅行に行くなら英語の方が役に立つって。でも…役に立つかどうかじゃなくて、私が話したいのは韓国語なのよねぇ…。」

 

私は誰かの助けになろうとか、役に立とうと考えると、心が潰れそうになります。私の中で自分を想うことと、相手を想うことはイコールにならず、どちらかに傾いて疲れたり傷付いてしまうのです。相手に対して称賛や見返りを求めて寂しくなったり、心で相手を責めてしまったり、そんな器の小さな自分のことも同時に責めたりして落ち込んでしまいます。誰かの役に立ちたいし、世間の役に立ちたいと思う一方で、その気持ちで行動すると逆に相手にはtoo muchで迷惑になってしまったり、勝手に疲れてしまったり、反動ですべてを壊してしまうような人間です。私は世間の人たちが一体どういう感覚で、どんな風に折り合いを付けて、疲労と幸福のバランスを保って生きているのかさっぱりわかりません。けれど、役に立つかどうかで“すき”が潰れていくのは、とても悲しいことだと感じました。

 

あのご婦人の声は、まるで私自身の自問自答の声のように聞こえました。迷いがあるのです。自分がやりたいことと、役に立つかどうかの狭間で選択肢は揺れています。どちらが正解とも言い切れない自分がいます。どこかで“意味のある選択をしなければ”という脅迫心に駆られて、選択しようとすることに疲労困憊し、決定することを一旦放棄し、何百キロも道草をくった末にノロノロと戻ってきて、やっとこさ決めるのです。亀の方が私より歩くのが速いはずです。が、時に音速で飛んでいく日もあります。地表をのそのそと歩く亀をその風圧で吹っ飛ばします。大変ややこしい人間です。

 

けれどもう心は決まっているのです。自分のことだけ考えて生きます。私はそれでいいのです。自覚のない所で自分のしたことが結果的に誰かや何かの為になれていたとしたら、私はそれを知らずに生きていくことを幸福と呼びます。

 

― 海鷂鳥 ―


銀の羽根と言葉を失ったカラスのカルマ

2023-04-12 00:29:13 | ポエトリー

私以外に私を“感じている人間”はいない。

 

気持ちよくこの身体に存在していられる日はそう多くはない。はみ出す人をドアに押し込んで閉じる車掌のように、自分を自分の身体の中に無理やり押し込んで生きている。

 

私が歌う時、私はこの躰の外へと飛び出すことができる。目が潰れそうな光が、そこに向かって咲く花や緑が、虫や鳥や土の匂いが、私の声を知らずにそこに在る。風に揺れてしなり、耳元の羽音に驚いて転ぶ。水が煌いて流れ、サギが糞を落としながら飛んでいく。仲間にもなれず、追いやられもせず、影がそれを証明している限り、私はここに存在している。

 

「愛している」をもっと簡単に言えたら、この苦しさから抜け出せるだろうか?「大好きだよ」と声にするだけで、どうして涙は流れるのだろう?愛する感情は私を不安定にさせる。柔らかすぎて手に持てないゆるいゼリーのように、持ち上げようとすると崩れてしまう。だから誰かを責めることで、人を憎むことで、自分の存在を安定させている。

 

人は人がただそこにいることを許してはくれない。存在するための「条件」がたくさん要る。電車に飛び込んでいく人を、ビルから飛び降りる人を、私は想う。見たことのない命を、いつか消えるための命を、ただ見ている。人が作った神を信じない。人を救うための神を私は信じたりはしない。動物の眼の中の宇宙に神を見る。季節と雨の匂いに神を見る。自然の在る姿に神を見る。その為だけに神は存在すると信じている。だから私は、母が信じる神を信じない。

 

電線の上のカラスに話しかける。糞を落とされる。草むらから飛び立つスズメの群れに話しかける。近所のよく吠える犬に話しかける。ねぐらを探す夕方の猫に話しかける。逃げられる。どぶ川を泳ぐ鯉に話しかける。餌を乞う。ひっくり返ったコガネムシに話しかける。車のキーに乗せて運ぶ。息絶えそうなミツバチに話しかける。尻の針を眺める。満員電車の中の私は、流れる景色に話しかける。今日も生きていていいのかと、無謀な問いかけを繰り返す。

 

夕陽が落ちる。肌が冷える。月も星も平等に輝く空を見る。点滅しながら飛行機は飛んでいく。轟音が命を運んでいく。鳥と虫以外の命が飛んでいる。世界はまるで美しい。父にも母にも愛にもなれなかったけれど、私はまだ人を続けている。

 

残業続きで無言で玄関を開けて帰ってきた夫に、私は声を掛けたくはない。部屋の向こうから床を足でドンドンと踏む音が聞こえる。疲れているのがわかる。「おかえりなさい」が言えない。リビングのドアが開く。夫が私の顔を覗き込み、「ただいま」と笑う。フラッシュバックが鳴り止む。遠い宇宙の彼方から、うさぎの眼の奥から、私はこの小さな光を見つめている。

 

― THE Lady back Orange ―


主婦、マザーファッカー!

2023-04-07 01:15:47 | エッセイ

最後の投稿から2週間以上が経過してしまった。ブログのIDもパスワードも忘れてしまい、ログインすらできない始末。意気込みが強いときほど私は私をあっさりと裏切るし、平気で約束も決意もばっくれる。詐欺師にもほどがあるけれど、もうそういうヤツだってわかってるし、自分へのエールのつもりで付けた「クタバレ!専業主婦」というブログ名すら、「はいはい、くたばりましたよ~」と開き直って布団から出てくる気配すらなくなるので、自分がそういうモード(・・・)に突入すると実に厄介。

 

 

ここ数日“MCバトル”にハマっている。DJが流すビートに合わせてラッパーが1対1で即興でラップしてお互いをラップで倒していくバトル。これは拳を使わない格闘技であり、拳の代わりに言葉と頭を使って相手をK.O.していく音楽格闘技だ。歌のように歌詞に明確なメロディはなく、メロディ要素を取り入れてラップしている者もいるが、ほとんどが一定に近い音程で言葉に抑揚を付けたり韻を踏んだりしてリズムと言葉で殴り合う。腕力や体の大きさ、職業・年齢・立場は関係ない。言葉で相手を侮辱し、あげ足を取り、時に観客を巻き込んで、自分がどれほど強いかを見せ付け合うリングの上の音楽バトルなのだ。

 

こんな顔面数センチの距離で人に暴言を吐く機会はない、しかもビートに乗せて。「お前ムカつく消えろ」なんて思うことは山ほどあるけれど、ストレートに言葉で吐くことはないし、人生でそこまで批難したい相手ってたかが人数しれていて、恨む理由があればまだ罵る言葉も出てくるだろうけど、「ラップバトル」は相手に興味があろうがなかろうが、罵る理由も見つからんようなつまらん相手だろうが、disったらガチで殺されそうな怖い相手が目の前に立っていても精一杯disらないとそこで負けてしまうのだ。“嫌い”ってそもそも体力を使うし、嫌ってもいない相手を嫌わなきゃいけないって相当なエネルギーを要する。だから時にはラップレベルはそこそこでも気迫だけで勝ってしまうラッパーもいて、一瞬の“ひるみ”でK.O.されてしまう王者もいる。言葉ひとつで勝負がひっくり返ることもあるし、耐え切れずつい手が出てしまうラッパーもいる。とにかく見ていて心が汗だくになってしまう。

 

若い頃の私だったらこういった音楽は聴かなかったし、イメージだけで遠ざけてしまっていた。音楽もファッションも自分の嗜好を無視して、“人からどう見られるか”を重視して色々と誤魔化してきた。とりえず「流行り」を選んでおけば間違いない(・・・・・)し、一番怖いのは「ナニソレ?」と失笑されてしまうことだった。今でこそ時代は“多様性”という言葉を「流行り」として多用しているけれど、実際には「あの曲いいよね!」「このファッションかわいいよね!」とそれらしく共感し合えるものを選んでおくことが無難だし、異端で孤独にならずに済む簡単な方法だ。「個性個性」と口にしながらも、極端に突き抜け過ぎないように周りの空気に合わせて整合性を保ちながら“個性の一部”を発揮しているのが日本の現状だと感じている。

 

何色が好きでどんな音楽を聴くのか…“すき”は自分の深層心理を晒すことだとも思っているので、なるべく隠しておいて大事な部分を傷付けられないようにしてきた。「ナニソレ?」「変なの」、その一言ですべてを否定されたような気になって傷付いてしまうのは私だけではないはずだ。しかし、アートが好きな人間が“異端にならずに済む方法”だなんて、相変わらず私は私に矛盾しているし、はなから無理なことに一生懸命に生きてしまったなぁ…と、過去の自分をカウンターの端から眺めている。

 

今は違う。好きな服を着るようになったし、自分で作るようになった。ジャンルを問わず聴きたい音楽を聴いて、見たいアートを見に行くようになった。それは昔の私と比べるような知人や友人とあまり会わなくなったことで発揮できるようになった個性でもある。とにかく「ナニソレ?」が怖い。一撃だ。本当の自分を偽物のように扱われるのはもう嫌だ。これから出会う人は今の私が基準になってくるので、もうあまり自分を偽りたくはない。

 

パンクロック、エレクトロニカ、ラップ、民族音楽、クラシックも聴くし、電子音楽もJ-POPも好きだ。中国の謎の曲にハマって耳コピして本気で歌ったり、ガムランという楽器そのものの音に魅了された音楽もある。盆踊りの音頭も好きだし、好き勝手でたらめに踊るのも好きだ。むしろジャンルなんてどうでもよくなったという方が正しくて、耳にした音楽が気持ち良いと感じたらそれがどんなジャンルだろうが、どこの国の誰が歌っていようが、流行っていようがマイナーだろうが古かろうが新しかろうが、犯罪者だろうが嫌われ者だろうが、“すき”以外のすべてはどうでもよくなってしまったのだ。一番くだらないのは、世間の評価に合わせて自分にとってのアートを制限したりジャッジしてしまうことだと思っている。

 

 

私はチャイナファッションが好きなので「らんま1/2」のような格好をして、コスプレとしてではなく普段着として出掛けている。売っていない物は自分で生地を買ってきて作るし、好きなアーティストのライブやレストランに行くときのドレスコードとしても兼用している。たまに「すげー格好してんな…」とか、「やば…」と聞こえてきて心臓が縮む瞬間もあるけれど、好きなものを我慢して普通のフリをして歩くよりよほどマシである。数えるほどしかないけど呼び止められて褒められたこともあるし、逆に呼び止めて声を掛けたいぶっ飛んだセンスの人を見るようになった。

 

それも都会へ行けば霞んでしまう。もっと派手で個性的なファッションをした人たちが山ほどいるからだ。名古屋の地下でピンクのロリータを着たおじさんが、まっすぐを前を見て歩いていく姿を見てかっこいいと感じた。あの人は周りが自分をどう見るか、その瞬間に何を思われて何を呟かれているかわかっているはずだ。笑う人もいるだろう。私は尊敬する。

 

私だってこの田舎で小さく個性を爆発させている。都会で派手な格好ができるのは当然だ。地方ではマイノリティとして扱われている人たちが、都会ではマジョリティとして扱われていて、それをおかしいと感じる人の数も圧倒的に減る。名もない私がこの田舎で個性的でいる為には、都会で同じように振る舞うよりも相当な覚悟がいる。だったら都会へ行けやと思われるかもしれないが、うーん…そうだねぇ…行ってみたいなって思ってる。「それ最高じゃん!」って言い合える仲間が欲しいのは正直なところで、ここにいて言われる言葉のほとんどが「すごい格好だね」だ。これは肯定されているようで否定の言葉だと思っていて、イコール「よくそんな格好で歩けるね」だ。だが、私はそれでいい。むしろ気持ちがいい。仲間が欲しい心細さもあるけれど、年相応の“らしい”ファッションをして周りの景色に同化したくはない。

 

太っていてもビキニを着たり、おばさんやおばあさんになっても二の腕や脚を出して踊ったり、タンクトップを着て太陽を浴びている海外の女性たちをかっこいいと思うし、日本人もそうなるべきだと思っている。見た目が若いか美しいかどうかが肌を出していい基準だったり、それを性的に消費されることが若さの象徴であったり、年齢や体重でみっともないと揶揄されたり、“年相応”なんてくだらない価値観でファッションの選択肢が小さくなるべきではないと思う。下着や恥部さえ隠れていれば、布一枚をまとうだけでもかっこいいと思うし、みんながパリコレクションみたいなファッションで街を歩けたら楽しいのにと思っている。男性が履くロングスカートは舞台衣装のようでかっこいいし、もっと広まってもいいと思う。

 

ついこの間、Bjorkという海外アーティストのライブを観るためにひとりで兵庫県へ行ってきた。ライブ会場へ行くといろんな人がファッションでもBjorkのライブを楽しんでいた。Bjorkのコスプレをしている人、グッズを着ている人、曲の世界観を自分なりにファッションで表現している人。私のファッションはどう見えているだろう?誰かの目に止まったりしただろうか?お互いの視線にドキドキした。誰よりもぶっ飛んだ衣装を着ていたのはやはりBjork本人だった。色んなアーティストのライブに行っているけれど、多くの人がアーティストのカラーに合わせてファッションと音楽を楽しんでいる。これがもし日常でも発揮できたなら日本はもっと明るくなる気がする。

 

なるべくそれなりに保守的に過ごしてきた私が小さく爆発するに至るまでには、幾人もの表現者たちの言葉や生き方や考え方に何度も後押しされてやっと今に辿り着いた。その中で友人や家族、知人の「こうしたら?」は、正直心には響かなかった。彼らは「安定して普通でいられる方法」や「時々日常から少しはみ出して人生を楽しむ方法」を教えてくれた。「普通」でいることだって苦痛と努力を伴うことは十分わかかった上で、私はそれを選択したいとは思わなかった。そしてその「普通」という呪いを解くために多くの時間を要した。けれどこうして気まぐれに文章を書いているだけの自分を俯瞰してみると、きまぐれに小さく個性を楽しんでいるだけの自分自身に対して、まるで至って「普通」過ぎて笑ってしまう。なんだ、つまらん奴だ。私自身の人間性も生き方も、言うほどちっともおもしろくないじゃないか。マインドだけでちっともまだ何もできていない。

 

ラップバトルにハマっても私自身はバトルしていないし、夫相手に一方的に即興ラップして褒められた後にうざがられ、色んな音楽を聴きながらも自分で曲を作りたいという願望を放棄し続けている。ファッションを自分の生活の範囲内だけで楽しんで、一着でもいいから世の中に向けて勝負する勇気を持てないし、色んなことを批判しておきながら書くことすら気まぐれで、「普通」が嫌だと言うわりにはわりと日々を普通以下で過ごしている。たまに突飛なことをして、特別に生きた気になってそれを思い出としてカメラロールに閉じ込めて、性欲を満たすようにSNSで承認欲求を満たして息が出来たような気になってごまかして生きる日々。つまらん。つまらん奴だ、君は。そのつまらんくだらん生活こそ勇気を出して文章にすべきだ。だが明日も君は私を裏切るだろう。これがラップバトルなら、私は私を一番disってやりたい。マザファッキュー!今、私は君のアンサーを聞きたい。

 

― 海鷂鳥 ―