私にとって、知らない場所へ連れていかれる事は死に値する苦である。子どもの頃の生き埋めのような空気の家族旅行を思い出してしまうし、予測できない環境の変化に心が柔軟に対応できずパニック発作を起こしてしまう。それゆえ、人とのスケジュールは私が決めることがほとんどだ。自分で徹底的に下調べができる場所であれば比較的安心して行ける。私が決めたい!という性分もある。まったく気が小さいのか大きいのか…自分というのは矛盾の宝庫である。
ということで、1回目の旅は早速その十戒を破ってみることにした。夫の計画で旅をすることにしたのである。とはいえ2022年1月はCOVIT-19の真っ最中なので、自宅から近い県内もしくは比較的近い隣県を旅する「マイクロツーリズム」を選択した。
夫が選んだのは、県内を走る一両編成のローカル列車「樽見鉄道の旅」であった。早速嫌である…。人の計画やルールに従うことは、死に値する苦である。それでも自分で決めたことなので耐えるしかない。そしてこの旅は歯を喰いしばるほどの忍耐を要した。
旅の主役とも言える「宿」は、その大小に関わらず“清潔”が最低条件…いや、今となっては絶対条件と言える。質素な宿でも掃除さえ行き届いていれば、文句はない。むしろ少々の不便さは旅の醍醐味とも言えるし、今の超文明社会において山奥にある電波の届かない宿が逆に重宝されているとニュースで見た。
「樽見鉄道」に乗って「谷汲口駅」で途中下車して温泉に立ち寄り、そこから終点「樽見駅」を目指す。自宅から車で1時間ほどの距離をわざわざこの一両編成の列車に乗って行くことが夫にとっては大変意味があることらしい。よいよい、風情があってよいぞ。以下長くなるので旅のあれこれは省略させて欲しい。
簡潔に言って廃墟のような宿であった。部屋中カビの匂いが凄まじくいつ干したかわからないせんべい布団に、謎の毛が絡まりまくった毛布が一枚。昔は合宿などに使用されていたのか部屋数は多いが宿泊客は私たちだけだった。幾つも並んだ部屋の前を通る際には、見てはいけないものが見えてしまいそうだったし、床を歩くとそのままズボッと一階へと抜け落ちてしまうのではないかと思うほどふかふかしていた。廊下の突き当たりまで行かないとポットが無いので、ペラペラに薄い浴衣に凍死しそうなほど寒い廊下を抜けて、歯をガタガタ鳴らしながらお茶を煎れる。不思議なことにどれほど時間を置いても無味の薄緑色のお湯のままである。
― こ…このお茶は…いつから置いてあるのか… ―
しかもお湯を入れている最中にポットがジュポッと咳をした。
― 急須一杯に入ることなくお湯が切れた… ―
ポットの蓋を開けると空である。このほんの少しのお湯は、一体いつから入っていたのだろう…の、飲んでしまったではないか…。
洗面台を見ると、垢だらけ…これまたいつから置いてあるのかわからない見たこともないパッケージの歯磨き粉が握りつぶされた状態で死んでいる。いつ置かれたのかわからない掃除用ですか?というほど汚れた歯ブラシ。もし新しい歯ブラシが用意されていないのであれば、私は歯を磨かないぞと誓った。大丈夫、大丈夫…一晩だけなら大丈夫。た、耐えろ。むしろ楽しめ。いや、絶対に無理だ。大丈夫、大丈夫…明日には帰れる…いろいろ見るな。何も考えるな。知らぬが仏だ。
マックス30度で爆裂送風しているエアコンは恐怖に息をのむばかりのこの喉をカリカリに乾燥させるだけで、隙間風の寒さには追い付かかず、耐えかねてもう一台の石油ファンヒーターのスイッチを押すも一酸化炭素中毒になるのでは?というほど灯油臭い…。だが、消したら寒さで死ぬ…。帰りたい、私は帰りたいぞ、夫よ。助けて…助けてカミサマ。
寒さと不安で腹がゴロゴロと鳴り始める…。緊張すると下痢になりやすい私は普段は極力冷たいものは避けている。季節は1月の険しい山脈が見える山奥。普段なら絶対に頼まないざる蕎麦を昼の温泉のお食事処で、新たな挑戦と意気込み食べてしまっていた…。温かいお蕎麦にしなかった数時間前の自分に切腹を命じた。
「やばい…お腹痛い…。」
夫は笑っている。なぜならトイレはあの廊下の突き当たりで二人とも未開の地である。扉を開けたら何が待ち受けているやら…私はこのままでは大人の女性として決して起こしてはならない状況でパンツを汚してしまうのではなかろうか…。い…行くしかない…。
猛吹雪の山頂近くの山小屋の扉を開ける気持ちで部屋のドアを開ける。妄想の中の私は、吹き込んでくる雪と風の勢いの強さに、思わず片手で顔を覆った。がしかし、この山のトイレはなぜか山小屋の外である…。「うぅ…」寒さで勝手に声が唸り出る。トイレの扉を開けて、いざっ!!
セーフ…。
“予想範囲内”の“汚さ”であった。ま…まだ大丈夫。これならなんとか大丈夫。あ…でも上がったままの便座…すんげぇ汚ぇ…。これをまず…手で触って…下げない…と…。涙が出そうである。急がねば、もう“あちらの扉”も決壊しそうである。手を洗えばよしっ!便座をON。
ぅぐっ!!つっ!めっ!たっ!!!
一度便座に付けたケツが条件反射で浮く。氷だ…氷でできた便座だ…座ったら血液も凍りそうなので、やや浮かして空気椅子状態で用を足すしかない…。恨むぞ、恨むぞ、夫よ。
全身全霊で骨盤底筋に力を入れて肛門を絞る。あの洗面台のくたびれた謎の歯磨き粉の残り全てを全神経で押し絞るような気持ちで。できる!できるぞ私!人生一度きり。今だけ今だけ!もう頭出てますよー!お母さん頑張ってー!もう少しですよー!最後最後ー!!いきんでー!!!!
頑張った…私、頑張った。これならいっそ和式の方がよかったわ…昭和生まれの私にとっては馴染みのある形だもの…。これじゃあ拷問よ。肛門の拷問よ、お父さん。
油断していた。まったくもって油断していた…。オーマイガーである。右手でペロンとホルダーの蓋を上げると、トイレットペーパーの芯が丸見えた。君の…君のお母さんはどこだい…?君を包んでいた柔らかい方の紙はどこだい…?上だね?上にお母さんはいるんだね?拭く前に立ち上がるなんて最低だけど、もう半分立ち上がってるようなものだから、あと少し頑張るね、私。クララだって立ったんだもの。もう驚かないわ、ロッテンマイヤーさん。
ネーシ。
予備もネーシ。
どうすんのこれ?
テルミー、セバスチャン。
旦那に助けを呼ぶ。ドアを開けて廊下をおーいと呼ぶわけにもいかず…どうしたんだっけ…携帯で呼んだんだっけ。拭かずにとりあえず外に出たんだっけ。申し訳ないが、記憶が定かではない。思い出すだけで今、私ハ全身ガ震エテイマス。強いストレスにより、健忘症状が出たと思われます。
夫が一階のトイレからトイレットペーパーを調達してきてくれた事実は覚えています。「よかったー、最初に入ったのが俺じゃなくて!」と言われたことも記憶しています。
その他にも部屋の鍵のドアが閉まったまま開かなくなったり…(部屋に電話がありません)、お風呂のマットは「見るな!」とお互いに声を掛け合い、部屋に置いてあった新品の歯ブラシに歯磨き粉が入っておらず…“あれ”を使うくらいなら素磨きしましょう!と夫と確かめあった直後に、パッケージの隅に「歯磨き粉のいらない歯ブラシ」と書いてあり、水を付けるだけでブラシが泡立つ仕組みであることがわかり、「騙されるところだったぜ!」と安堵した直後、したら夜一回だけで朝磨けねーじゃん!と突っ込み、素磨きしましょう♪に巻き戻り、カクカクシカジカ紆余曲折(うよきょくせつ)多々ありました。
ワタシ、睡眠薬を規定量飲んでも一睡もできませんでした…。薬が中途半端に効いた酩酊(めいてい)状態で持ってきたスナック菓子を真っ暗なかび臭い部屋でゴミ箱を抱えながらバリボリと一人貪っていたのを悪夢のように覚えています。
夜空が綺麗でした。星座がわかるほどに。お夕飯も部屋とは違って豪勢で美味しかったです。二人だけなのにプールのように広い湯船にたっぷりとお湯を張って下さり、シャワーはいつまでたっても真水でしたが、お湯が出るまでに大層な時間を要しましたが、湯船がありましたので!…よかったことは箇条書きでしか言い表せず、修行のように辛い記憶がこの身を覆っておりますが、何も言えなかったのは、ご主人がとても穏やかに優しい方で、お薦めしてくださった日本酒が本当に美味しくて、もう二人とも酔っぱらって訳がわからなくなってしまって、意味不明に狂ったように笑いました(ストレスでショック状態だったのかもしれません)。小声で「もうあの部屋に戻りたくないね」と耳打ちしては、食べたものを吐きそうになるほど大笑いしました。なんというか、最高の一年の出発でありましたな!ガハハハハハハハハハハ!!(泣き笑い)
…ふぅ…深呼吸しております。フラッシュバックで指先がキンキンに冷えております。こうして一年を懸けた私にしかわからない人生の闘いが幕を開けました。1月は書き起こしても大した学びがなくやや焦っておりますが、一年を通しての学びでありましたので、この旅はここで締めたいと思います。
明日は2回目、「愛知県瀬戸市の旅」をお送りします。極力、真面目にお届しようと思います。
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