きくちゃんのきままな日記

私の郷里の宮崎の情報と旅行の話をきままに発信します

目の錯覚? 二度見しちゃダメ!といわれても三度見してしまう画像

2015-11-20 17:56:26 | 日記




長いですがじっくり見て下さい!


以下コメント下記の通り


16分26秒の間の画像の構成と演出・選択された落ち着いたバックの音楽は私のお気に入りと言っていいでしょう。4分27秒からは音無しでもよし自分が好きな音を再生しながら見ると言うことでしょうかね?フラクタルアートでも音無しがありました。視聴者の楽しみにもなりますね。映像の編集のカット割り・トランジションは私の好みです。(私的ガイドラインに適合)(ペンネームはエイリアン78)ユニークな音楽プロデューサー・評論家高木S)どれも甲乙つけがたい遠近法から珍しい写真ですね~コーヒーを片手に視聴するには最高ですね~(落ち着いた映像)












[美しき日本] 宮崎 神が降りし日向の国 高原町

2015-11-19 16:41:57 | 日記




峰・高千穂峰の麓に広がる高原町は、日本神話の天孫降臨伝説ゆかりの地として知られ?ます。
神話によると、アマテラスオオミカミは天孫による地上支配を確立するため、孫のニニギ?ノミコトを地上につかわしました。このニニギノミコトが降り立った場所(日本発祥の地?)が、「筑紫の日向の高千穂のくじふる峰(古事記より)」とされ、高原町の高千穂峰で?はないかと言われています。
高原町は、ニニギノミコトの子孫で初代天皇の神武天皇が生まれ育った地でもあり、神武?天皇を祀る「狭野(さの)神社」(狭野は、「狭野尊」という神武天皇の幼少名に由来)?、産湯を使われた跡という「産場石(うべし)」など、伝承の地が数多く残ります。また?、高原町には狭野神楽と祓川(はらいがわ)神楽の二つの神楽が伝わり、真剣や長刀を使?った独特の勇壮な舞が神々に捧げられてきました。
神楽を次の世代へ継承する人々の姿は、神を尊び、相手をおもんぱかる日本人の美徳を守?ろうとする、"日本はじまりの地"の使命感と誇りを感じさせます?。












[美しき日本] 宮崎 神が降りし日向の国 椎葉村

2015-11-18 16:05:31 | 日記




九州山地のほぼ中央に位置する椎葉村(しいばそん)は、幾重にも重なる険しい山々に囲?まれた秘境として知られています。この地には、壇ノ浦の合戦で落ち延びた平家一門が住?み着いたという伝説が残ります。
雅を極めた一族の質素な暮らしぶりを目の当たりにした追手の那須大八郎が、追討を断念?して共に暮らし、農耕の手ほどきをしたり、平家の守り神を祀る厳島神社の建立をしたと?いう、悲哀と人情あふれる物語が語り継がれてきました。大部分が急傾斜の山林である椎?葉村では焼畑が伝承され、数少なくなった現在でもその伝統を残す取組みが行われていま?す。また、古くから犬を用いた狩猟が行われ、独自の狩猟儀礼作法が伝えられてきました?。狩りに出かける時、獲物が獲れた時など、あらゆる工程で山の神に祈りを捧げます。
「のさらん(授からない)福は願い申さん」という村の言葉の通り、我欲を排し、授かっ?たものに感謝する謙虚で豊かな心が継承されてきました。奥深き秘境の地に残された自然?との共生の思想は、現代の奇跡であり、希望なのかもしれません。












宮崎県美郷町観光協会 西郷地区「御田祭」

2015-11-17 15:25:04 | 日記




田代神社の御田祭


美郷町西郷、田代神社(一〇三二年創建)の御田祭は、主祭神 彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)の御神霊を上円野神社よりお迎えし、上の宮田か?ら中の宮田への御神幸により行われる田植祭です。


祭りは古来から世襲制の家柄が中心に祭事役(サルタヒコ・ミヨド・ウナリ・ノボリモチ?)を務め、これに一般の参詣者も加わり、神人・牛馬が一体となり、神田の代かきから田?植えを行い、参詣者の無病息災と豊作を祈願します。


この祭りには、催馬楽(さいばら)の歌詞も伝えられ(昭和六十三年復元)古来の稲作神?事がしのばれる、近郷では珍しい貴重な民俗行事とされています。













[美しき日本] 宮崎 神が降りし日向の国 宮崎神宮・美々津

2015-11-16 16:24:18 | 日記




日向灘に面する港町・美々津(みみつ)は、江戸時代に高鍋藩の商業港として栄えた町で?、意匠を凝らした町屋が軒を連ねる昔ながらの美しい景観で知られています。
この地は、日本の初代天皇・神武天皇の東征出発の地としても有名です。伝説によれば、?成人したカムヤマトイハレヒコノミコト(後の神武天皇)は、現在の宮崎神宮(神武天皇?を祭神として祀る)のあたりを拠点としていました。しかし、この地は国を治めるには西?にあり過ぎました。神武天皇は45歳にして東にある大和の国を目指すことを決意します?。その船出の地に選ばれたのが美々津でした。船出は風の都合で急遽早朝に変更となりま?した。里人が大急ぎで作ったといわれる「お船出だんご」や、里人が見送りやお供のため?に寝ている人を起こして回ったことに由来する「おきよ祭り」が今も伝えられています。
命を賭してよりよい国造りを志した神武天皇と、その志を支えた里人たち――。平和で正?しい国を造ろうというぶれない信念と覚悟は、2600年あまりの時を経て、現代を生き?る私たちの心を熱くします。