【 空中携挙(Rapture)と変身 】
イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」
それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。(マルコ9:1-8)
イエス様の行動は実に預言的でミステリアスです。通常深く心に留めない御言葉の一節、一行だけでも、よくよく祈りながら熟考すると隠された深い意味があることが分かります。このメッセージは再臨に関わるものです。
マルコによるとイエス様が「神の国が力をもって到来」すると言われ、ルカによると「人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来る」(ルカ9:26)この一つのときについて、すなわち「再臨」について話されたちょうど六日後、イエス様の御姿が高い山で光り輝く奇蹟が起きました。この再臨メッセージと六日後の変貌の出来事は、互いに密接にリンクした一連の預言的メッセージです。
「それから六日たって」(マルコ9:2)ということは、このような意味があります。
「愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(第二ペテロ3:8)
「六日」とは預言的に「六千年」を指し示し、すなわち旧約約四千年、新約約二千年の人類史が合計約六千年を満たした後、再臨から始まる千年王国が来ます。神様が六日で世界を創造された後、七日目を安息とされたように、やがて来る安息の千年です。その始まりが聖徒らを世界の四方から集める空中携挙です。イエス様の変貌山の記録はその日のことを象徴的に預言したミニチュア的な出来事であり、「主の御前、六日たったような約六千年の人類史が終わったとき、変貌山によく似た空中携挙がすぐに来ますよ!」という隠された預言です!
地球と人類の歴史は進化論に有益な50億年とか60億年とも教えられてきましたが、聖書では旧約約四千年、新約約二千年で全てです。あるクリスチャン学者が導き出した系図の一覧表を見たことがありますが、そこには聖書中の著名人が誰の子として生まれ、何歳で子を産んで後、何歳で死んだ等、記された聖書の御言葉から彼らすべての登場人物の系図をアダム以降、順次つないだ結果、年代が特定されている歴史的事件も加えてやはり旧約時代は約四千年であると結論づいています。今の終わりの時代、人類史が約六千年であるという事に関して、諸説が挙げられることもある意味、預言されていたかもしれません。というのはマタイとマルコはこの同じ変貌山の光り輝く奇蹟について、イエス様が再臨メッセージを語られた後、「それから六日たって」(マルコ9:2)(マタイ17:1)と記録しますが、同じ一つの日をルカだけは「これらの教えがあってから八日ほどして」(ルカ9:28)と記録に相違があります。彼らは一応に直接の目撃者でないため、違いが出ることもありえますが、あるいは標高高き登山に二日を要したのでしょうか、ルカだけは八日と記録します。この場合、前者は「六日」ときっぱり断定しますが、ルカは「八日ほど」とあるため、やはり自信なき曖昧さの現れであり、「六日」も「八日ほど」に包括され、かつ多数決でも2(マタイ、マルコ)対1(ルカ)で「六日」が正論と言えるでしょう。しかし、このような諸説異なるあいまいさがそのまま、預言的に人類史が進化論者の台頭によって60億年と唱えられたり、はたまた創造論者クリスチャンによって六千年と唱えられたり、今日、神学的、科学的に見解が不一致していることにも大変よく似ていて、彼らの証言記録の相違自体が、単なる人道的記録ミスではなく、聖霊様の働きによる神秘的操作の結果として、相違あることがそのまま同様に未来の諸説の台頭を示すミニチュア的出来事としてよし、とされる預言ではないでしょうか!もしそうなら、この記録の違い自体が目的を持つ、まさに終末期の混乱にも対応した不思議な種類の特殊預言と言える箇所ではないでしょうか!聖書は人のミスさえ未来の何かを物語る預言となり、まさに人知を超越したすごい完璧で不思議な書です!
その日が来ると、イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導かれたように本物の聖徒らだけを全地の四方から呼び集めます。これら三人の弟子たちは元々、特別に十二弟子の中でも用いられて活躍したメンバーで、ラザロのよみがえり、少女のよみがえり、ゲッセマネ祈祷会など、特訓生のようにイエス様が御そば近くミニストリーに常時同行させた、いわば選ばれた弟子たちの中で更に選ばれたような働き人でした。そんな本物の三人の弟子のみ、ここ変貌山の現場に導かれたのです。他の九人の弟子たちは恵みの高峰に呼ばれていません!きっと近くの村々か自宅に待機です。
今後、全世界の諸教会に起きることも同様です。一般的に選ばれた聖徒たち、更にはもっとイエス様の御そば近い教会奉仕の数々に呼ばれて用いられる人々。願わくはクリスチャンたるもの全て、そのような働き人になりたいものです。
選ばれた三人の弟子たちだけが高い高度の山上イエス様の御許へ呼ばれ、変貌の栄光を垣間見たように、やがて高い山よりもっと高い空中まで選ばれた聖徒だけが引き寄せられ、栄光の体に変貌しながら、神様の輝く栄光を目撃できる空中再臨が起きます!
「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。」(マルコ9:2)(マタイ17:1)
十二弟子中、選ばれたのはたった三人。確立で25パーセントの弟子たちだけが恵みの高峰に!
今、プロテスタント教会のクリスチャン以外に、全世界のカトリック信者、毎週教会に行っていないけれど、自称クリスチャン。それにクリスチャンホームの家庭や国教がキリスト教ゆえ、宗教を聞かれたらクリスチャンと答える人々等を含めると全世界で何十億人というクリスチャンがいることでしょう。しかし、その中で本当にイエス様の十字架を理解して聖霊のバプテスマを受けて救われた本物クリスチャンは一体どれ位になるでしょうか?まさか、その日、全地のすべてのクリスチャンの内から25パーセントだけが空中携挙に!あとの75パーセントは近くの村々や自宅に待機!なんてことがないよう祈ります。
ちなみに、賢い五人の娘と愚かな五人の娘、合計十人の娘が花婿イエス様の再臨を待ち望むたとえ話では、結果五人は信仰のともしびはあっても聖霊様の油は準備できていなかったため扉が閉められて七年空中婚宴に入れず、信仰のともしびと聖霊様の油注ぎが両方準備できていた賢い五人の娘だけ花婿イエス様を出迎えて七年空中婚宴に入れたという話では、結果50パーセントのもう少し高確立の広い門で天国ので空中携挙にあずかっています!
(マタイ25:10)。
畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されるたとえでも二分の一、50パーセントの高確立で空中携挙(マタイ24:40)。
女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されるたとえも二分の一、50パーセントの高確立で空中携挙(ルカ17:35)。
夜に同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されるたとえも二分の一、50パーセントの高確立で空中携挙です(ルカ17:34)。
トータルで大体、全クリスチャン人口の25パーセント~最大50パーセントが空中携挙にあずかるでしょうか。
私が始めて聖書のこの寝ている男たちの記録を読んだとき、内心この二人は関係が怪しいと思いました。「男がふたり同じ寝台に?あやしい。」
しかし聖書を学ぶうちに二人は決して同性愛者ではないと分かりました。というのは、一人はイエス様を信じて空中携挙にあずかっているからです。もし彼がその種の変人なら決して神様に選ばれて空中携挙されません。もっとも地上の寝台に取り残されたもう一人の男の頭の考えの中までは分かりませんが。
「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」(マタイ17:2)
私たちにとって空中に引き上げられるその日とは、ラッパの音を聞きながら空中で一瞬のうちに朽ちる体が朽ちない体に変化して、復活の栄光の体が与えられる変身の時です。
「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」
(コリント第一15:5)
そこからイエス様を中心にとにかくまぶしいばかりの光の祝宴が始まります。イエス様の御顔は太陽のように輝き、イエス様の御衣も光のように白く輝く為、三人の弟子たちも反射して輝いたように、その日、私たちも癒された栄光の体に輝きます。
「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」(イザヤ58:8)
「主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。」(イザヤ30:26)
ダニエルの目撃証言では、御使いガブリエルも顔がいなずまのように明るく輝いていました。
「そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがきあげた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。」(ダニエル10:6)
ゆえに私たちも復活の時には、頭から足先までビカビカに輝けます!
なぜなら、その日私たちは御使いのようになるからです。イエス様は言われました。
「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」
(マタイ22:30)
ここで私たちのいただく復活の栄光の体がいかなるものか、「天の御使いたち」を考察すると見えて来ます。おそらくその体は思いのまま必要に応じて霊的にも肉的にも使い分けられると思われます。「天の御使いたち」は、ある時には人の夢の中に現れたり(マタイ1:20)、祭壇の炎の中をのぼって消えたり(士師記13:20)、非常に霊的ですが、ある時には、人の食事を食べたり(創世記18:8)、人の手をつかんだり(創世記19:16)、普通に肉的です。私たちも将来、「天の御使いたち」のように霊的に瞬間移動したり、肉的にいのちの木の実を取って食べたり、霊肉両方エンジョイできるでしょう。