「天の御使いたち」は大変力持ちです。彼らはイエス様の埋葬に使われた墓の入り口の大きな丸い石(直径4メートル1センチ,重さ推定13・8トン)を反動もつけずに右から左に動かしていますが、その際、鎖の封印の根元にあった、厚さ3.8センチのくさびの折られた断面を研究したナータン・マイヤー博士の報告では60~80トンの圧力が一瞬に働いたと言います。ゆえに私たちもその日が来れば、「天の御使いたち」のような、サムソンのような怪力を発揮して、墓石を砕き、大地を揺さぶり、岩々をこっぱみじんに破壊して、閉じ込められた地中から力強くよみがえることも実現可能でしょう!イエス様を信じればマッスルパワーさく裂のえらい力持ちになれます!将来。
さらに「天の御使いたち」のことをマルコは「青年」(マルコ16:5)と言っています。
栄光から栄光へと主イエスと同じ姿の33歳位の青年のような若さが与えられます。
イエス様を信じれば老人も美しく元気に若返ります!
そして「天の御使いたち」のように光り輝く明るい笑顔を持って天国に堂々と入れるのです。
刑法上の犯罪人が逮捕されてメディアの前にその姿がさらけ出された時、多くの犯罪人は上着等を頭からかぶって顔を隠します。自ら暗闇を本能的に選択するのが、罪人の特徴です。天国も、神様はすべての人を大歓迎する光の国なのに、罪人は内なる闇が自動的に働いて本能的に光を避けます。しかし、私たちはみな「光の子ども、昼の子ども」です。決して「夜や暗やみの者」ではありません(テサロニケ第一5:5)。御子イエス・キリストを信じるからです。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」
(ヨハネ3:18-21)
それから空中再臨の栄光はさらに続きます。
「また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。」
(マルコ9:4)
変貌山では預言者の代表エリヤと律法の代表モーセが来賓客のように現れてイエス様の十字架を告白しました!同様にその日が来ると、私たちも無数の神の子らが集う空中大宴会の中、来賓客の一人となってイエス様の十字架の素晴らしさを告白することでしょう。そこには実際にエリヤやモーセのような旧約聖徒たちとペテロ、ヤコブ、ヨハネのような新約聖徒も同席するでしょう。旧約聖徒と新約聖徒の出会いです。彼らと私たちは同じ一つの天国に入れます。考えるだけでわくわくします。どれ程その栄光が偉大なものか、その日の象徴である変貌山の栄光の中でさえペテロはあまりにも素晴らしくて何がなんだか分からなくなって口出ししてイエス様に「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」と言ったほどです。
ペテロのそのときの思いは、きっと主の御栄光と御臨在が麗しくて美しくて、心の中で、
「この場を離れられない、離れたくない。できればこの幸福感を永久に失わないよう、そうだ!住まいの幕屋をイエス様に提供しよう!ここに幕屋を建てて幸福の源イエス様に永住していただき、自分もここにずっととどまろう!独占!イエス天国村!あ!そういえばイエス様の手前、寛大にモーセとエリヤにも一つずつ。」というほどだったのです。
私たちも今日、礼拝を通じて主の御臨在が教会に満ちた時には同じ幸福な感覚を味わいます。事実そのような時は礼拝後も盛り上がって誰一人すぐに帰ろうとしません。祈祷会でも御臨在が満ちた時は、実に深夜でも祈り続けてなかなか祈りは止まず帰る時刻も遅くなります。主の御臨在は重要です。家を建てて永住したいほど、しばらくとどまりたい環境です。イエス様はバプテスマのヨハネについて語られました。「彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。」(ヨハネ5:35)
当時のユダヤ人たちがしばらくの間、光の中で楽しみたいと願ったこともまた、バプテスマのヨハネを通じてそこに神様の御臨在が満ちていたからです。
しかしながらペテロの提案、標高の高い山上に三つもの幕屋建築とは、いささかペテロらしい面白発想で、思慮、配慮の若干欠けた浅はかな言葉です。山上は宮大工のお招きや建材搬入、通勤通学や食料調達等の実生活も、かなり厳しい環境です。コスト高に整地の問題もあるでしょう。幕屋ゆえ実生活はさておいても信者の集いも毎度厳しい命懸けの重装登山です。
「そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。」(マルコ9:7)
血迷うペテロの数々の過ちを正そうと父なる神様が語られました。実はペテロの最大の過ちは神様なるイエス様と人間なるエリヤとモーセを対等に並べて幕屋建築と言ったことです。預言も律法もイエス様を証しする影であり、神の言葉イエス様だけを最上に従わなければならないのです。律法と預言の成就、主役なるイエス様だけを基準に歩み、礼拝の中心としましょう。
変貌山ではさらに突如と雲がわき起こりました。このことも将来の空中携挙と同じ現象です。やがて我らイエス様を待ち望む聖徒らも空中の高い場所でわき起こる雲に包まれます。これは自然の雲と同時に神様の栄光の雲です。「光り輝く雲」(マタイ)。「雲」(マルコ、ルカ)。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
(テサロニケ第一4:16,17)
「見よ、彼が、雲に乗って来られる。」(黙示録1:7)
ペテロ、ヤコブ、ヨハネが雲の中から語られる父なる神様の御声、
「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」
これをじかに聞いたように、やがて空中携挙された雲の中から私たちも父なる神様の祝福の御声をじかに聞くことになるでしょう!それはきっと次の御言葉です!
「『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25:21)
「『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』」(ルカ19:17)
イエス様の空中再臨を象徴する変貌山の翌日のことまでルカはこう証言します。
「次の日、一行が山から降りて来ると、大ぜいの人の群れがイエスを迎えた。」
(ルカ9:37)
この預言の御言葉は一行が高い山から降りるように空中から降りる地上再臨を現します!
空中7年間の婚宴期間を過した後、イエス様と私たち教会は地上のオリーブ山に再び降り立ち、「大ぜいの人の群れがイエスを迎え」ます。
ゼカリヤはその日をこう預言します。
「主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。」(ゼカリヤ14:3-5)
ハレルヤ!その日は近いです。天国の報いを大いに期待して感謝して待ち望みましょう!
地上再臨以降、そこから地上が一新され、安らかな千年王国が始まりますが、この時代が千年王国と呼ばれるのは千年間エデンの園の住民のように、生き続けて大いに繁栄する王国であり、私たちもすべて王になり、イエス様は王の王になられるからです。
「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」
(黙示録20:4-6)
その日が来ると、全地はエルサレムが世界の中心となる、創世当初のゴンドワナ大陸のような「もとの所」にもどる地殻大変動も起きて、永久に地震のない、安定した一つの巨大大陸になることでしょう!ハレルヤ!全地の呪いも消え去りエデンの園のように動物たちも共にいます。
「その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。全土はゲバからエルサレムの南リモンまで、アラバのように変わる。エルサレムは高められ、もとの所にあって、ベニヤミンの門から第一の門まで、隅の門まで、またハナヌエルのやぐらから王の酒ぶねのところまで、そのまま残る。そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、エルサレムは安らかに住む。」(ゼカリヤ14:6-11)
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」(イザヤ11:1-10)アーメン。