適当に楽しいことを書くブログ

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メガネシンデレラ

2021-06-07 22:04:00 | 日記
最近、プロジェクトセカイというボカロの音ゲーにロミオとシンデレラという私の結構好きな曲が実装されたので、早速プレイしてみることにした。

ロミシンと出会ったのは今から10年ほど前のことである。
当時友人に勧められ、VOCALOIDにハマっていた私はボカロのゲームがあるらしいことを聞いて近所の中古ゲーム屋に行った。確か桃太郎だったか。

そこで結構お安く売られていたProject DIVA 2nd#を買ったのだ。

2ndには名曲が大量に入っていた。
ロミシン、magnet、ココロ、カンタレラ、ワールドイズマイン...
私がこの時代のボカロ曲が好きなのは概ねこれが理由だ。

その後、Project DIVA F2ndが発売され、カンタレラ目当てに購入し、そのグラフィックスの進化に驚いたものだ。

ロミシンの時計の演出などとても好きで何度も何度もプレイした記憶がある。

そんなことを思い出しながらプロジェクトセカイでロミシンをプレイしてみたらなんとCメロが入っていないではないか。
(ここでいうCメロは「私の心そっと覗いてみませんか」からのパートのことである)

あそこが一番好きなので結構ガッカリしてしまった。

と、いうわけでそれならばDIV f2ndをやればいいじゃないか、ということで長らく使っていないPSvitaを探す旅に出たのだった。

しかし探せど探せど見つからない。
いったいどこにしまったのかなぁと引き出しを開けると、見慣れないメガネケースが現れた。

?なんだろうこれ、と思い、中を開けると眼鏡が入っていた。

メガネケースにメガネが入っているのはごく自然なことではあるのだが、問題はそのメガネが全く見覚えのないものであるということだ。

こんなの買ったっけ?と思い、掛けてみると滅茶苦茶よく見えるではないか。
なんなら今の今までつけていたメガネよりよほど私にフィットしている。

我が家の中で私ほど目が悪い人間はおらず、度が一番強いのは私だ。
故にこれは間違いなく私のメガネなのだが、全く身に覚えがない。

棚からぼた餅ならぬ、棚からガラスの靴だ。

はい、それが言いたかっただけです。
ちなみにvitaは見つからなかった。

2021/05/30

2021-05-30 03:40:00 | 日記

誰かに傷つけられたとき、相手の幸せを願えるか。
もし仮にそれが一生残る傷ならまぁ確実にNoだろう。なんなら不幸を願うに違いない。

加害者が幸福になるなど許されることではない。
あんなことをしておいてのうのうと幸せに生きるのかと、被害者に言われたとき、なんと言うつもりなのか。

昔の話だろうが関係ない。やった側には昔でもやられた側には今に残ることだ。
断じて次などない。

己の犯した罪を悔やみ苦しみ続けねばならない。

私は神が嫌いだ。
信じていれば加害者だろうと被害者だろうと無差別に救いを与える存在など悪に他ならない。
加害者をなんの関係もない存在が許したところで意味はない。
被害者が許そうと意味がない。
加害者自身が許すなど以ての外だ。

因果応報こそがこの世で最も重要なことだ。
罪には罰を。

誰かを傷つけたならその100倍は苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで生き続けなければならない。
死ぬことは許されない。
死は逃避だ。
苦痛を味わい続けることだけが唯一加害者の持つ権利だ。

「次に生かせばいい」などという人間が嫌いだ。
目の前の人間がどれだけの罪を犯したかを想像する力が足りていない。
無配慮で無自覚だ。
相手の苦しみは自業自得で、それを取り払うことは被害者への冒涜に他ならない。
次などない。誰かの次を奪った人間に次などあっていいはずがない。

正しくない人間が正しくあるためには何もしないしかない。
正しくない人間が生きる意味は既に犯してしまった罪に苦しめられることだけだ。
死ね、死ね、死ねと唱えながら愚かな自分を憎んで恨み続けることだけが正しくない人間の取るべき生き方だ。

どんなに苦しくても他者に責任をなすりつけてはならない。
何故なら苦しいのは自分のせいであり、その苦しみは己の愚かさへの罰であるから。
それを他者のせいにするのは愚かさの塗り重ねだ。

加害者に救いなどあってはならない。
無実な人間に幸福を、罪あるものには最大限の苦痛を。

罪を犯した人間が幸福など求めていいはずがない。

あぁ、誰かを好きになって、その人に殺されたい
憎まれて憎まれて包丁で何度も刺されて死にたい

なんとも言えない話

2021-05-20 21:19:00 | 日記
数年前、エロマンガ先生のTVアニメを観た。
今まであまり観たことのない部類のアニメで、どのキャラも魅力的で、素晴らしい作品だと思った。
最近になってそういえば原作はどこまで進んでいるのだろう、と原作小説を買って読んでみた。

滅茶苦茶面白かった。
どうしてこんなに面白いものを書けるのだろうという程度には面白かった。

というわけで、同作者の過去作であり、妹ものの金字塔「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」(以下、俺妹)のTVアニメを観た。
正確には第1期「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」、そのルート分岐で2期へ繋がる「俺の妹がこんなに可愛いわけがない TRUE ROUTE」、第2期である「俺の妹がこんなに可愛いわけがない。」を最終話まで観た。

さて、俺妹がどんな作品かといえば、妹が可愛い作品である。
これはエロマンガ先生も同様なのであるが、それらの違うところは実の妹か義理の妹か、という点である。
俺妹の方が実の妹でエロマンガ先生が義理の妹である。

俺妹の感想を述べると、これまた面白かった。ただし、個人的な好みを言うとエロマンガ先生の方が好きだった。
というか、ああ、これを書いた結果ああいうふうに書けるようになったのだなぁと思った。
しかし俺妹もかなり面白い。そこは誤解してほしくない。

俺妹を観ていて思ったのは、あぁ古い作品だなぁ、ということだ。
まず第一にオタクが迫害されているものだということ。
今でこそアニメもかなり広く人気を持ち、オタクを名乗ってもへーそうなんだ、程度にしか思われないが、ちょっと前まではオタクであるなどといえば犯罪者予備軍だのなんだのと言われ、概ねの社会的コミュニティで疎外されるのは当たり前のことだった。
俺妹はその真っ只中くらいの作品だろう(と思っている。実際にそうかは知らない)。

主人公の妹は眉目秀麗文武両道、勉強もできるし運動もできるしモデルをやっているくらいの超人だ。
実はこの妹にはエロゲーや美少女アニメが大好きであるという秘密があり、それまで隠していたのだが、偶然にも主人公にバレてしまう。
妹は今までのすごい人間である自分のイメージを保つために、主人公に「人生相談」としてオタク趣味を隠すのを手伝うよう迫る。
それ以降、様々な出来事が起き、主人公と妹はオタク友達やモデル仲間、部活の仲間など、様々な人間に出会い、ストーリーが展開していく。
その最中で、主人公は何人かの女子から好意を持たれるのだが、最終的にそのタイトル通り、全員を振って妹に告白する。
ちなみに妹も兄のことが相当好きなので、はれて兄妹は結婚...とはならないがまぁそこら辺は実際に自分で観てみてほしい。

うーん、面白かったなぁと思い、この作品の評価を見てみると思いのほか低い。
まぁ自分の評価は自分の評価なので別にそれは構わないが、一体どうしてこういうことが起きるのだろうと、幾つかのレビューを読んでみた。

まず、大して描写もないのに主人公が色んな人に好かれすぎという点だ。
これはきっとアニメというどうしても必ず何かを削らないといけない媒体においては仕方のないことじゃないかなぁと思う。
話の展開が急というのもこれと同じ理由で説明がつくだろう。

そして今日の本題、実の妹と恋愛に発展しちゃうのが気持ち悪い、という評価だ。

言わんとすることはわかる。実際に妹がいる人が観たりすればそう思うのも道理だろう(そもそも観るなよと思わなくはないが)。
そうでなくても近親相姦(行為に及ばないにしろ)に忌避感を覚えるというのはまぁ仕方ない行為なのかなぁと思う。

しかしながら近親相姦の何が悪いのだろうか。
当然ながら法律で禁じられてるから、とかそういう理由で言っているわけではない。
そして、少なくない場合で、虐待的側面を持つ近親相姦というのもあるが、これのことを言っているわけではない。
要するに、兄妹であるという点を除けば、法に触れない一般的な(という言葉が適切かはわからないが)交際と変わりないものであったとき、それを罰する理由はどこにあるのだろうか。

言ってしまえばそれも一つの愛の形だろう。
昨今叫ばれるLGBT(その他多くの多様性のための用語の代用としてここでは用いる)と何が違うというのだろうか。

子供に障害がある可能性が高まるから、という話はよく聞く。
だがそれは優生学と何が違うのだろうか。
あるいは、子供を産まないよう細心の注意を払えばなんの問題もないのだろうか。

あるいは気持ち悪いから、という意見もあるだろう。だがそれは第三者の意見であり、かつ主観的で、禁止する理由にはならない。

おそらくだが、近親相姦を認めることで起こる問題も様々存在するだろう。
だがだからと言って頭ごなしに禁じるべきことだろうか。
社会に対して問題があること、あるいは男と女が結婚して子供を産むというシステムからの逸脱、あるいはそれに対する忌避感を根拠にした禁止というのは、今よくないものとして考えられるようになってきているのではなかったか。

それらが正しいか、正しくないかというのは言及しない。
だが、考えてみる価値はあるのではないか。


人類滅ばねえかなぁ

2021-05-09 05:49:00 | 日記
人生を上手くこなすということの難しさたるや筆舌に尽くし難い。
所詮はありとあらゆるものに意味などないのだから、自分の好きなようにやればいいというのが私の持論であり、この世の真理であると思っているが、あくまでそれは方針であって策ではない。
戦略的ではあるが戦術的ではない。

意味とは人間の中にある価値観に基づいてその人間の中の思考に用いられるものである。そして意味によって行動するが、意味そのものは身体の外部には出ない。
クラスからインスタンスを作り、実行する。そのオブジェクトによって実行された結果は外部へと作用するが、決してオブジェクトそのものが計算機の外に出るわけではない。

故に「意味のある人生」の意味を決めるのは他ならぬその人生を主観で進む当人が決めることである。
そして私が定めた自分の人生は「とにかく自分のやりたいことをやって楽に生きること」である。
楽に生きることとはぐうたらすることだけではない。要するに辛くないことである。

考えることこそが正義であると考える人種であるので、余計なことを考えては、無意味に精神に負担をかけて生きているわけであるが、そのような負担は当然少なければ少ないほど良い。

故に、自衛は個人的なより良い人生に必要不可欠なことであるのは明白である。
その最もシンプルで、最も難易度の高い方法が人間と関わらないことである。
人と人が関わり合うことは傷つくことであると人は言った。
それは事実ではあるが一側面でしかない。

人は一人では生きていけない。
もっと厳密に言えば、人は満足のいく生活を送るために他の人間の助けが必要である。

これは別に家事をやってくれる人がいなければやりたいことに集中できない、とかそういう話ではない。
今、絵を描きたい人間がいたとして、山の中に隠居しようとも、絵を描くための画材や紙を作るのは絵描きではない。
ただ文明的な最低限度の暮らしをするにも電気を作る人間がいて、道路を作る人間がいて、食料を生産する人がいなければ成り立たない。
なんの手も借りず、それこそ山の中で原始人の生活をすることがやりたいことである、というのなら話は別ではあるが。

つまりどういうことかと言えば、可能な限り人間との関わりを断とうと思っても、最低限人間関係というものは生じざるを得ないということである。

そして辿り着くのはこの記事の本題である。
人間関係のいかに難しいことか。

人間関係の最も難しいことは相手が人間であることである。
相手がコンピュータで、プログラムに沿った回答をするのであれば、ソースコードを読めば大体うまくいくことだろう。
しかし人間ではそうはいかない。
自分が歩いてきたように、或いはそれ以上かそれ以下かはわからないにしろ、相手もこれまでの人生を歩んできた存在なのである。

人と人は分かり合えない。
それは悲観的な嘲笑ではなく、無機質な事実である。
人は人を理解できるほどのキャパシティを持ってはいない。
相手を理解することとは相手の人生を知ることだ。
相手と同じ喜びを感じ、悲しみを感じ、希望を感じ、絶望を感じなければ、あらすじを聞いて本を読んだような気になるのと同じだ。

人が、他人の人生を「知れ」ば、およそ耐えられるはずもない。

そしてそれは今生まれてきたばかりの赤子だとしても例外ではない。
その赤子を産んだ親にも、それぞれの人生があり、その道の途中で、いかなる思いにか、生まれてきた存在なのである。

それを理解しないことには相手を理解したということにはならない。
したつもりでいるのであれば、それは表層的なもので、AIによる統計的処理となんら変わりはしない。

他の人間がどうであるかは知らないが、相手には相手の人生があるということを理解することは難しい。
きっかけがなければ永久に理解しないだろう。
あるいは、知っていても、それを身に沁みてそれを心に留めて置ける人間がどれだけいるのだろうか。
いや私だけがそれを出来ていない可能性もあるのではあるが。

私の知る友人は、私の知る友人であって、私の知る友人という言葉が指し示す人物そのものではなく、その人物の一側面でしかない。
ほんの限られたわずかな部分でその人間を推し測り、関わりを持たねばならない。
差し詰め専門外の分野の論文発表を聴かされて質問させられるような難しさだ。

専門外の分野の話のありとあらゆることを学ぶにはいかんせん時間が足りない。
何しろ自分の専門ですら極めるには程遠い。

自分のよく知っている(と思っていた)ものの予期せぬ全く別の側面を知ったとき、この世界の"情報量"の多さと、己の認識し許容できる次元の低さを嘆き、絶望する。

あぁ、人類のような不完全な存在など滅んで仕舞えばいいのに。

【ネタバレ注意】シン・エヴァンゲリオン劇場版 感想

2021-03-10 21:52:08 | 日記

シン・エヴァンゲリオン劇場版を観る上でその楽しみを損なう重大なネタバレが含まれますので,既に観た方のみがみることをおすすめします.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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私がまだ小さい頃,夜父がリビングで見ていたエヴァを初めて観た.

当時から私は父の影響でガンダムなどのロボットアニメが好きだったので,エヴァにもだんだんとのめり込んでいった.

 

父に連れられて見に行った序を覚えている.

今まで見たことがないほど美しい映像でエヴァが動いているところを観た.

夜の闇にぼんやりと光るエヴァ初号機,細やかに動く第3新東京市,よりドラマチックになったヤシマ作戦.

ほとんどはTVシリーズと同じだったが,たしかに変わっていたエヴァンゲリオンにより引き込まれた.

 

父に連れられて見に行った破を覚えている.

初めて観に行ったときはゼルエル戦の捕食シーンが苦手で肝心なラストシーンでトイレに行ってしまったことことを少し後悔している.

聞いたことのある童謡に興奮して声を出して怒られたのも今となっては面白い思い出だ.

 

初めて自分ひとりで観に行った映画であるQを覚えている.

あまりにもぶっ飛んだ内容にあぁエヴァっぽいなと思った記憶がある.

14年経ったシンジを取り巻く環境があまりにも厳しくて少し笑ってしまった.

「行きなさい」って言ったのアンタだろミサトさん,というツッコミをおそらく誰もがしただろう.

公開前日の金曜ロードショーの最後に先行公開された6分38秒で宇宙で戦うアスカの2号機を見たときの興奮は,どんな予告編よりも翌日への期待を高めてくれた.

 

あの映画を見て少なくない人が「また旧TVシリーズのように意味不明に,風呂敷を畳みきれずに終わらせるだろう」と思っただろう(私はそうは思わなかったが).

 

あぁ続きが楽しみだなぁと思いながら待っていたら2017年になってようやく「続、そして終。」「非、そして反。」という文言とともにホームページが更新された.

 

ついに続きが見られるのか,と思って更に3年半が過ぎた.

 

そして2021年3月9日,私は公開初日の一番最初の回に「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観た.

 

エヴァに出会ってから人生の半分ほどの時間をかけてようやくエヴァが終わった.

 

Qを観てからの8年間,序を観てからの13年間.

 

映画を観始める前,映画館の椅子に座り,パリ奪還作戦が終了した頃私の胸の中にあったのは,「どんな映画なんだろう」という純粋な楽しみだなという気持ちと「期待を裏切らないで欲しい」という不安と,これで「遂にエヴァが終わってしまうのだ」という寂しさだった.

 

そして,映画を見終えた直後の私に残されたものは,13年という時間と素晴らしい映画を作ってくれた庵野監督への感謝と,受け入れることの難しい苦しさと,大きなものが終わってしまったという空白感だった.

 

人生の半分ほどの時間が経てば概ねの人間は成長をする(と思う).

果たして序を観ていた時の自分は,破を観ていたときの自分は,Qを観ていた時の自分はこの結末を受け入れられただろうか.

 

世の中には理屈がわかっても感情で受け入れがたいことというのも存在する.

それはちょうど「明日生きることを考えよう」と割り切った北上ミドリの感情とも似ているのかもしれない.

 

長らくアスカが好きだった私は,よりによってアスカの相手がケンスケかよ,と思った.

最後にシンジの隣りにいるのが(言い方が悪いが)ぽっと出のマリかよ,と思った.

最後の最後のシンジの声がすべての始まりから続けてきた緒方さんではなく,神木隆之介かよ,と思った.

 

「言いたいこと」(不満とまでは言わない)はあの映画に対してないわけではない.

 

だが,14年という長い年月人でなくなってしまったアスカを変わらない態度で支え続け「アスカはアスカのままでいい」と伝えられるのは28歳になったケンスケしかいないし,

他の誰もかもを拾い上げたシンジを助けられるのはすべての始まりから希望を信じて人間の力を誰よりも信じた,それでいてしがらみのないマリ以外にありえなかったし,

長きにわたるエヴァの呪縛からようやく開放されて大人の男となったシンジを表すためには少年期を演じ続けた緒方さんではなく,大人の男の声でなければならなかった.

 

理屈ではわかる.だがそれを割り切れるかどうかが,「大人」であるか「子供」であるかを分ける境界線だと思った.

少なくとも,序を初めて観たときから,Qを初めて観たときから,私は大人になれたのだと思う.

その点で,私はこれまでの時間に感謝している.

 

そして,どのような形であっても,全てのキャラに対して救済を,幸福の形を示した終わり方をしてくれた庵野監督には感謝したい.

 

旧劇場版や破で酷い目にあったアスカが,ケンスケという理解者を持って自分らしく生きていくことができるようになったということは,おそらく破からの14年という月日がなければ出来なかったことだと思う.

 

レイという人間にとっての異物(聞こえが悪いが悪意があるわけではない)が,自らの居場所を見つけられるということを示したシン・エヴァは,同時に破までのレイにもその可能性があることを示した.

 

旧TVシリーズでは終盤の追い詰められたシンジの周りには,優しく声をかける人はカヲルくらいしかいなかった.そのカヲルも最後はシンジの敵としてシンジに殺された.

シン・エヴァでは今までのどんな状況よりも心を塞いだシンジの周囲にはトウジやケンスケ,ヒカリ,そしてレイがいた.

「みんなあなたのことが好きだから」という言葉を,その実感を伴ってシンジに伝えることが出来たのは,紛れもなくあの状況でしかありえないことだったと思う.

 

漫画版が完結し,夏色のエデンが公開されたときから,マリがゲンドウたちの同期であることはわかっていた.しかし,彼女がゲンドウや冬月を裏切って神に頼らない人だけの力で明日を生きることを目指し続けたことがシンで初めてわかった.

過去に縛られたゲンドウとの決着がテーマだったシンには,反対に希望を信じたマリの存在が必要不可欠だった.

 

まだ一度しか観ていないのでこの映画の全容を理解できたかと言うと,多分そんなことはないのだろう.

だが一つ言えることは,このエヴァという作品を観ることが出来てよかったということだ.

 

さよなら,は「また会うためのおまじない」.

であるなら,もしかしたらまたいつかエヴァに会えるのかもしれない.