人生を上手くこなすということの難しさたるや筆舌に尽くし難い。
所詮はありとあらゆるものに意味などないのだから、自分の好きなようにやればいいというのが私の持論であり、この世の真理であると思っているが、あくまでそれは方針であって策ではない。
戦略的ではあるが戦術的ではない。
意味とは人間の中にある価値観に基づいてその人間の中の思考に用いられるものである。そして意味によって行動するが、意味そのものは身体の外部には出ない。
クラスからインスタンスを作り、実行する。そのオブジェクトによって実行された結果は外部へと作用するが、決してオブジェクトそのものが計算機の外に出るわけではない。
故に「意味のある人生」の意味を決めるのは他ならぬその人生を主観で進む当人が決めることである。
そして私が定めた自分の人生は「とにかく自分のやりたいことをやって楽に生きること」である。
楽に生きることとはぐうたらすることだけではない。要するに辛くないことである。
考えることこそが正義であると考える人種であるので、余計なことを考えては、無意味に精神に負担をかけて生きているわけであるが、そのような負担は当然少なければ少ないほど良い。
故に、自衛は個人的なより良い人生に必要不可欠なことであるのは明白である。
その最もシンプルで、最も難易度の高い方法が人間と関わらないことである。
人と人が関わり合うことは傷つくことであると人は言った。
それは事実ではあるが一側面でしかない。
人は一人では生きていけない。
もっと厳密に言えば、人は満足のいく生活を送るために他の人間の助けが必要である。
これは別に家事をやってくれる人がいなければやりたいことに集中できない、とかそういう話ではない。
今、絵を描きたい人間がいたとして、山の中に隠居しようとも、絵を描くための画材や紙を作るのは絵描きではない。
ただ文明的な最低限度の暮らしをするにも電気を作る人間がいて、道路を作る人間がいて、食料を生産する人がいなければ成り立たない。
なんの手も借りず、それこそ山の中で原始人の生活をすることがやりたいことである、というのなら話は別ではあるが。
つまりどういうことかと言えば、可能な限り人間との関わりを断とうと思っても、最低限人間関係というものは生じざるを得ないということである。
そして辿り着くのはこの記事の本題である。
人間関係のいかに難しいことか。
人間関係の最も難しいことは相手が人間であることである。
相手がコンピュータで、プログラムに沿った回答をするのであれば、ソースコードを読めば大体うまくいくことだろう。
しかし人間ではそうはいかない。
自分が歩いてきたように、或いはそれ以上かそれ以下かはわからないにしろ、相手もこれまでの人生を歩んできた存在なのである。
人と人は分かり合えない。
それは悲観的な嘲笑ではなく、無機質な事実である。
人は人を理解できるほどのキャパシティを持ってはいない。
相手を理解することとは相手の人生を知ることだ。
相手と同じ喜びを感じ、悲しみを感じ、希望を感じ、絶望を感じなければ、あらすじを聞いて本を読んだような気になるのと同じだ。
人が、他人の人生を「知れ」ば、およそ耐えられるはずもない。
そしてそれは今生まれてきたばかりの赤子だとしても例外ではない。
その赤子を産んだ親にも、それぞれの人生があり、その道の途中で、いかなる思いにか、生まれてきた存在なのである。
それを理解しないことには相手を理解したということにはならない。
したつもりでいるのであれば、それは表層的なもので、AIによる統計的処理となんら変わりはしない。
他の人間がどうであるかは知らないが、相手には相手の人生があるということを理解することは難しい。
きっかけがなければ永久に理解しないだろう。
あるいは、知っていても、それを身に沁みてそれを心に留めて置ける人間がどれだけいるのだろうか。
いや私だけがそれを出来ていない可能性もあるのではあるが。
私の知る友人は、私の知る友人であって、私の知る友人という言葉が指し示す人物そのものではなく、その人物の一側面でしかない。
ほんの限られたわずかな部分でその人間を推し測り、関わりを持たねばならない。
差し詰め専門外の分野の論文発表を聴かされて質問させられるような難しさだ。
専門外の分野の話のありとあらゆることを学ぶにはいかんせん時間が足りない。
何しろ自分の専門ですら極めるには程遠い。
自分のよく知っている(と思っていた)ものの予期せぬ全く別の側面を知ったとき、この世界の"情報量"の多さと、己の認識し許容できる次元の低さを嘆き、絶望する。
あぁ、人類のような不完全な存在など滅んで仕舞えばいいのに。