ロシアのウクライナ侵略が与えた衝撃について、わたしたちが、世界史的な意味といった客観的な視点で考えるだけだとしたら、わたしたちはボケているのだろう。
日本人は平和ボケしていると、これまでの何十年かの間に、わたしたちはしばしば言ってきたが、それらは軽い言葉だった。
日本は日米安保条約のもとで、米軍に守られて、平和を謳歌し、経済発展に励んできた。世界各地で紛争、戦争が起こったが、それは対岸の火事であって、わたしたちはただ平和の大切さを唱えていればよかった。
つまり平和ボケしていた。
それが今、ウクライナの人々が戦場で戦っているのを、志願したり招集されて戦場に赴くのを見るにつけ、それらが対岸の火事だとばかり思えなくなってきている。
わたしたちは尖閣列島一帯を中国に侵略されつつある。また台湾有事が起これば、日本は否応なく紛争に巻きこまれる。そして北朝鮮によるミサイルの脅威にさらされている。
そんな最中にわらしたちは、ウクライナの人々が家族や恋人と別れ、戦地に赴く現実を、或いは徴兵を恐れて国外逃亡する様を見て、自分たちを重ねて想像せずにはいられない。
望まない紛争が起きたら、戦争が向こうからやってきたら、わたしたち、いやわたしは、どうするのだろう。志願するのか、招集に応じるのか、逃げるのか。
そんな選択が現実になるかもしれない。
わたしを含む日本人は、もしもそんな望まない日々が来たらどうするのだろう。ウクライナの人々のように戦うことができるのだろうか。
これはリアルな想像だ。わたしたちは、リアルに想像してみるべきなのだ。
残念だが、それがぼくらの時代だ。
(2024.5.1)