尹雄大,2014,体の知性を取り戻す,講談社.(4.8.24)
わたしたちの体は、生権力──権力による身体の調教と精神支配、自己の過剰に道徳的な主体化による身体の統制──により、ガチガチに硬直している。
さながら、死後硬直が起こり始めている遺体のように。
わたしたちの身体を解放、自由にするためには、どうすれば良いのか?
言葉こそが身体を統制し、自由を奪うものなのだから、身体の自由を、言葉で表すこと自体が、隘路となる。
本書は、その困難を承知のうえで書かれた、実用書である。
考えるな、感じろ、感じるままに、没主体的に動け。
そんなところだろうが、それは、身体を、能動でも受動でもない、中動の状態に宙づりにするということでもあるのかもしれない。
わたしは、幸か不幸か、他人と暴力をふるい合うということがまったくないのだが、そうなったときのシミュレーションはたまにする。
重心を移して、振りかぶって殴る、蹴るというのは愚の骨頂だ。
相手の重心、からだの動きを正確に把握し、コンマ数秒後の殴る/蹴る動作を予知して、相手のからだをかわし、一撃で仕留める。
わたしは、この身体知をサッカーで学んだ。
穏便な他者とのコミュニケーションにおいても、つねに身体を中動の宙づり状態にしておくことも大事なことなのであろう。
身体を生権力に汚染されないで生きる、これからも、そうした身体知を鍛え上げていきたい。
なぜ自分の体はこんなに「不自由」なのか? あまたの武道遍歴から、私たちの体に本来備わっている力をいかに解放するかを探る【あなたの体に眠っている能力をどう引き出すか?】
「小さく前へならえ!」
「気をつけ! 休め!」
長年、社会が要請する「正しい」鋳型に合わせてきた結果、
私たちの体は知らぬ間に〈不自由〉になっている。
でも、自分の体のことは、自分が一番わからない。
あらかじめ体に装備された力とは何か?
どうすればそれを取り戻せるのか?
柔道、キックボクシング、古武術、韓氏意拳……
あまたの武道遍歴から考え抜いた
いまを生きのびるために大切なこと!
頭による学習にばかり意を注ぎ、身体の感覚などは当てにならないものとして軽視してきた日本の教育の問題点を、著者自身の体験を通じて見事に衝いている。
――甲野善紀氏
身体を語る言語はつねに身体を裏切る。言葉で身体を語りきれるはずがないからだ。その根源的矛盾に耐えるためには、『居着かない文体』が必要になる。その困難な要請に著者は懸命に応えようとしている。
――内田樹氏
はじめに
第1章 「小さく前へならえ」で私たちが失ったもの
就学時の胸のつかえ
幼子はなぜ大きな声でしゃべるのか
「小さく前へならえ」の意図
緊張を強いられた体
無意識のうちに学んだ作法
ルールからの逸脱が怖い
自分の体が見えない苛立ち
見失われた体のつながり
「正しさ」という鋳型
授業は「正しい姿勢」で聞くべきか 他
第2章 渾身のパンチより強い、手応えのないパンチ
重さと力に関する誤解
数値化できない何か
わかりやすさの罠
努力の内実
緊張の昂進
武術とは何か
武芸者たちの逸話
異次元の身体観があるはずだ
鍛錬すればするほど感覚が鈍っていく
柔道から空手へ
倒錯した思考パターン
手応えのないパンチで相手がダウン 他
第3章 「基本」とは何か
謎解きの糸口
踏ん張らない、捻らない、タメない
異質の手触りの力
後味が爽やかな技
基本稽古がない!
見ているものが学ぶべきすべて
基本とは何か
変化し続ける波の上では
観念から体を取り戻す
二つの型
「基本」信仰の底にある願望
型の意義
型によって体を見る 他
第4章 動かすのではなく、ただ動く
選べる道は常にひとつしかない
韓氏意拳が目指すところ
ただ手を振る
動くことと動かすことの違い
本来の自分を再発見する
「ただ立つ」という稽古
リアルな体に出会う
正しさとは無縁の快活さ
ただ手を挙げるだけなのに
幻想の世界と現実の世界
ニセモノの自立
未知に対し、既知では対応できない 他
第5章 感覚こそが知性である
言葉以前に体は存在する
何がものの見方を決めているか
魚の視点を体験してみる
壁の圧迫感が消える
魚にとって海は外部か
直立二足歩行がもたらした「ものの見方」
残念な討論
動いているものを動いている者の目で見る
感覚と運動の同期こそが知性の源
比べてみればわかる
手を動かし続ける 他
あとがき