稲葉剛,2013,生活保護から考える,岩波書店.(7.17.2020)
この一冊で、わが国における最低生活保障の制度の欠陥と問題点とが、とてもよくわかるようになる。
民法で定められている「直系血族およびきょうだいの扶養義務」と生活保護法における「補足性の原理」の関係、この奇々怪々な問題を、本書は明解に説明してくれている。この部分を理解できるだけでも、本書を読む価値はある。
一九四七年八月一八日の衆議院司法委員会の議事録には、興味深いやりとりが残されています。民法改正をめぐって扶養義務規定を廃止すべきとする加藤シヅエ議員の質問に対して、当時の片山哲内閣の鈴木義男司法大臣が以下のように答弁しているのです。
「扶養の範囲等をきめることは、次の立法に譲りまして、いきなりこれを廃止してしまうというのも行き過ぎだから、少くとも道徳的な要求として存置しようではないか、こういうことになりまして、法制調査会では、直系血族及び同居の親族は互いに協力扶助すべきものとすという決議になっておりまして、それは道徳的要求であって、法律上の義務ではない、こういうふうに但書がついておるのであります。そういう意味において、これなども根本的には十分審議し直して改正しなければならない点でありますが、一応道徳的な要求として掲げておくならば、さしたる弊害もなかろう。臨時措置の間七三〇条並びに八七七条の形において存置する。さらに根本的な修正は次の機会に譲る、こういうことにいたした次第でございます」
民法の扶養義務規定が「道徳的な要求」にとどまるものであり、「根本的な修正」までの過渡的な規定であるという説明が政府の担当大臣によってなされていたのは驚くべきことです。この鈴木大臣の答弁は、民法のこれらの条文が政治的な妥協の産物であったことを率直に認めたものだと言えます。この答弁に対して、加藤議員は「道徳的な要求を法文化することは大いに差支えあり」と反論しています。
鈴木大臣の答弁にもかかわらず、扶養義務規定の「根本的な修正」はその後実施されることはなく、現在に至っています。
政治の世界では、あいまいな文言による妥協を「玉虫色の決着」と言います。玉虫の翅が見る人によって緑にも紫にも見えることに由来する言葉です。
民法の扶養義務規定とはまさにこの玉虫色の決着の結果、生まれたものです。あくまで将来の抜本改正までの過渡的な規定に過ぎず、生活保護制度の運用などの実務においては重きをなさないというのが緑の立場だとすれば、法律に定められている以上、扶養義務者の責任を厳しく問うべきだとするのが紫の立場です。政府はいずれ緑色になるのだと説明していましたが、今では紫色に染め上げようとしています。
民法に扶養義務規定があることの影響は生活保護制度に限らず、社会福祉制度全般に及んでいます。児童福祉法、老人福祉法、身体障害者福祉法等の法律でも、民法に基づき、国庫等が費用を支弁した場合、費用の全部もしくは一部を扶養義務者から徴収できるという規定が定められています。それらの規定の運用を「緑」にするか、「紫」にするかは行政機関の裁量に事実上、委ねられています。
(pp.103-105)
ほかにも、「親密圏」における暴力や虐待から、「個人」を救済する「公共圏」の制度として生活保護を評価している点については、なるほどと思わされた。
目次
第1章 崩される社会保障の岩盤
「働いた者がバカを見る制度」なのか
猛暑の夏に起こったこと ほか
第2章 届かない叫び声
切符を渡されて、たらい回しに
厚労省による是正指導 ほか
第3章 家族の限界
親族間の暴力と支配
「私」を、「親密」と「個」に ほか
第4章 当事者の一歩
当事者が声をあげられない
親の介護のための離職 ほか
第5章 問われる日本社会
自民党議員による人権制限論
小野市の福祉制度利用者「監視」条例 ほか
すでに段階的な基準の引き下げが始まっている生活保護制度。社会保障制度の、そして生きるための最後の砦であるこの制度が、重大な岐路に直面している。不正受給の報道やバッシングのなか、どのような事態が起ころうとしているのか。当事者の声を紹介するとともに現場の状況を報告、いま、何が問題なのか、その根源を問う。