斎藤さんの父親は、「鉄屑屋」を営んでいたそうだが、彼が「ジャーナリスト」となったのは、「鉄屑屋」をさげすんでいたからではなく、高等教育を受けるなかで、自らの能力を「ジャーナリスト」として生かそうと思ったからである。そこには、試行錯誤のうえでの「選択の自由」があった。
ところが、学校教育の民営化を推進してきた企業経営者は、そうした試行錯誤を評価しない。「鉄屑屋」の子は、大学なんか行かずに、あとを継げば良い、と考える。子どもの「別のものであったかもしれない」可能性は、ばっさり切り捨てられてしまう。
別に、だれもかれもが大学に行くべきだなんか思わない。しかし、熟練マニュアル労働の需要が減少していくなかで、選択肢がきわめて少ない状態で就職せざるをえない不平等は、是正されていくべきである。
本書でとりあげられている論点は多岐にわたるが、バブル経済崩壊以降、経営者にすり寄り、御用化していった大企業労働組合の責任はきわめて重い。オランダの「ワッセナー合意」のように、「時短」で雇用を守るてだてもあり、いまでいう「限定社員」制導入で人件費を切り下げるてだてもあったのに、企業が、派遣労働も含めた非正規労働を安価な労働力として活用していくことを黙認し、しかも、非正規労働者を労組から排除してきた。「働く者」への裏切り行為である。
竹中平蔵等、構造改革推進者、というより、利益相反の、インサイダー「人身売買(人材派遣)」業者への批判も、痛烈である。
1990年代以降の日本企業、とくに製造業大手の失墜は、無能な経営者の無責任な事業運営に帰する。人件費の節約や、不採算事業の切り離し(子会社化)と売却しか行わず、それが、優秀な技術者の海外流出を招来し、韓国や中国の企業に、製造業がもたらす利益と雇用をあけわたしてしまった。
挙句の果てには、緊縮財政を推進し、公立学校の機能縮小(私立中高一貫校教育の推進)、高齢者福祉の選別化(応益負担による経済弱者の排除)を後押ししてきた。この国の財界とその御用学者、そしてそれに追従してきた者たちの罪は、あまりにも重い。
わたしたちには、大学を卒業したうえで、「鉄屑屋」に就く権利がある。
強者の信奉する「市場原理」が、教育、育児、介護など、効率性・生産性とは異なる価値観をもつ領域にまで侵食するとき、社会はどうなってしまうのか。格差拡大をむしろ積極的に進めるような流れが、「構造改革」の名の下に強まるばかりでよいのか。真に自由な人間とは何かを問いつづけた著者が、粘り強い現場取材をもとにいち早く警鐘を強く鳴らしたルポ。最新事情を踏まえた新稿を序章としたほか、森永卓郎氏と行った対談を巻末に掲載。
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