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本と音楽とねこと

毒母育ちの私が家族のしがらみを棄てるまで

越田順子,2017,毒母育ちの私が家族のしがらみを棄てるまで,彩図社.(12.12.24)

子どもの頃から「妹なんだから我慢しなさい」と言われ続け、新婚生活も初めから母と同居、母との葛藤に気づかず味方になってくれなかった夫と別れることになった。母は私がいないと生きていけないと言ったから、母に尽くすことにした。望まれるがままに母と暮らすための家も建てた。給料もほとんど渡してきた。
それなのに、母は遺言に、私が渡したお金で貯めた貯金を姉に渡すと書いた。私がやってきたことはすべて勝手にやったことだから自己責任だと言った。
気がついたとき、私はもう子どもも産めない歳になっていた。私はなんのために生きてきたのだろう…。

 娘の生を否定し、娘婿を娘から奪って、あまつさえ娘の収入と資産を奪い尽くす毒母。

 不思議なのは、越田さんが、そんなクズのような母親に、30年ものあいだ、かしずき続けたことだ。

 わたしは、中高生のとき、徹底して親に反発して必死に自我を防衛し、大学進学を機に、毒親から逃げ出した。

 繰り返し紡がれる呪詛の言葉が痛々しい。

 本当は、寛さんに助けてほしかった。私を護ってほしかった。支えてほしかった。愛されていると安心させてほしかった。だけど母のいる家で、私は寛さんに何も言えなかった。私は母の娘でいることを優先させてしまったから。女としての顔を母には見せたくなかったから。そして、寛さんが母ととても仲が良かったから。
(p.107)

 中島梓の『コミュニケーション不全症候群』を読んで、自分がアダルトチルドレンであることにようやく気づいた。幼少時代から私が求めていたものはただひとつ。誰かに認められたい。愛されたいとの思い。人なら必ず持っている本能だけど、生まれたことさえ否定された私にとって他の何にもかえられない思いだった。だから自分を必要と言ってくれた母のために、自分の人生を犠牲にして仕えていかなくてはいけないと思い込んでいた。自分より母の希望を優先してきた。無意識にそんな都合のいい子を長年やっていた。私は母に支配されていたのだ。そのことに気づいても私は支配される世界から逃げ出せるとは思っていなかった。それが自分の人生と受け入れていた。
(pp.170-171)

 普通に反抗期があって、毒母と決別していれば、こんな呪詛を繰り返すこともなかっただろうに。

目次
第1章 「産む子を間違えた」と母は言った
「妹なんだから我慢しなさい」と言われ続けた子ども時代
父の単身赴任
否定され続けた高校時代
唯一解放された大学時代
たった一人の味方であった父の死
第2章 母の支配によって破綻した私の結婚生活
私が一番幸せだった時
姉の呪いと新婚旅行
「娘」であることを選択してしまった新婚同居生活
母に夫を取られる
処女なんかさっさと捨てておけばよかった
母に給料をすべて渡す生活と、声にならない悲鳴
「離婚したい」
「もう二度と他人と暮らすのはまっぴらだ」と母は言った
第3章 それでも、母を最優先にしなければと思い込んでいた
「なぜお前だけが母親の面倒をみなならんのや」
跡継ぎ娘という足枷
トラウマだったのか…
死にたい気持ちにとらわれる
無気力になった私に母が投げかけた言葉
第4章 母を殺して私も死のうか
アダルトチルドレンだった
母に勝手に断られる無意味なお見合い
母のために家を建てさせられる
「私のお金、返してよ」
自由奔放な姉との関係
母の葬儀を夢みる
私は母の奴隷だった
第5章 逃げ出したい気持ちと母を見捨てる罪悪感
私の建てた家の名義がほぼ母になっていた
「毒親」という言葉を知り、私は我慢するのをやめた
30年の呪いと共依存からの脱出
ぬぐいきれない罪悪感
今度こそ逃げよう


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