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ルポ 無料塾──「教育格差」議論の死角

おおたとしまさ,2023,ルポ 無料塾──「教育格差」議論の死角,集英社.(4.29.24)

 経済的事情により学習塾に通えない子どもたちのために、大都市を中心に、「無料塾」が開設、運営されてきた。

 無料塾の試みは、教育の機会均等をはかるためのものだが、ヤングケアラーであるとか親の無理解であるとかで、「無料塾にさえ通えない」子どもがいることを考えると、無料塾は、「椅子取りゲーム」の参加者を増やすだけの試みなのではないかという疑問も湧く。

 機会さえ与えられれば努力ができると思っているひとは多い。桃子もかつてそうだった。でもそれは、恵まれたひとの“当たり前”でしかなかった。いくら目の前に勉強の機会があっても、努力ができるような状態でない子どもたちが、世の中にはたくさんいることがわかった。そんな子たちに、「努力不足」「自己責任」なんてレッテルは貼れない。
 たしかにどんな高校に行くかによって将来の選択肢が大きく変わってしまうのがいまの日本型競争社会の現実かもしれない。でもだからといって多感な時期の子どもたちに受験のための努力を一様に求め、日本型競争社会のマインドセットを強く刷り込むことが本当に良いことなんだろうかと、自分たちのやっていることに疑問を感じるようにもなった。しかも、よもぎ塾の生徒が仮に困難から抜け出すチケットを学力によって手に入れたとしても、それは、別のどこかで誰かがそのチケットを失っている事実の裏返しでしかない。自分の目の前の子どもたちを助けているだけでは、社会全体では何も変わっていないことになる。
(pp.67-68)

 わたしは、学習塾に通ったことはない。
 そもそも、長時間、椅子に座って授業を聴くこと自体が苦手であったので、放課後まで座学を強いられるのは、拷問としか思えなかった。

 中学のときは軟式テニス、高校のときはサッカーばかりやっていたし、授業はあまり真面目に受けなかったが、ほとんど独学で勉強はしていた。

 わたしのように、一斉授業よりも独学が向いている子どももいるだろうに、生活全般が学習塾も含めた「学校」に取り込まれた子どもが、かわいそうでならない。

 現在の受験システムにおいては塾の存在が欠かせないという現実の上に無料塾が次々と誕生している。でも考えてみれば、塾に通わないと競争の土俵にも上れないような受験システムが長く続いていること自体がそもそも問題であり、はばたき塾が必要とされる社会は本質的に何かがおかしいのではないか。だとしたら、本来すべきことは、はばたき塾をつくることではなくて、おかしな社会のほうを変えることではないか。そういう問いだ。
 この視点をさらに敷衍してみる。仮に全国の自治体がはばたき塾のような無料塾を設置したと仮定してみよう。何が起こるか。
 全体として学力は上がるだろうが、高校入試が得点を争う選抜である以上、その競争が、学校を離れたところでさらにハイレベルになるだけだ。それをくり返せば、子どもたちの負担は青天井で増えていく。そこまでして子どもたちを競争に駆り立てなければいけない社会とは何なのか。
(pp.138-139)

 学(校)歴獲得競争が激化してきた理由は、学(校)歴というパスポートがなければ、まともな就職はできないという、半分は強迫観念、半分は現実を反映した観念があるからで、かりに、その競争でうまくいかなかった、あるいは競争に参加しなかったとしても、最低限の生活が保障されるのであれば、学(校)歴獲得競争を強いられる子どもたちの不幸もずいぶんと軽減されるであろう。
 最低時給の大幅な引き上げ、フルタイムとパートタイム労働者の、時間あたり賃金の均等化──ジョブ型雇用への転換と同一価値労働同一賃金の実現──が必要な所以である。
 生活保護が、「受給しやすく離脱しやすい」しくみに転換することも必要だ。

 社会全体としては、本人にはどうにもできない所与の条件によって不当な差ができる傾向は減らしていく必要がある半面、個人のレベルではあらゆる結果がどこまでいっても運でしかない以上、できてしまったあらゆる不本意な差は事後的に埋め合わせされるべきである。
 百歩譲って、教育の結果によって大人になったときの稼得力に大きな差がつく社会でいいと市民が合意したとしても、貧困家庭に生まれてきた子どもに貧困の責任はない。よって子どもの衣食住および教育は、社会によって保障されるべきといえる。
(p.245)

 勅使川原真衣さんが、おおたさんとの対談のなかで、SMS(Social Mobility and Stratification)調査において、「職業威信スコア」の計測が行われてきたことを批判している。

 わたしも、大学院生のとき、SMS調査の下働きをしたときから、同じ疑問をいだいてきた。

 社会の不平等を明らかにする学問が、自ら不平等を、職業序列意識を再生産するという、このマッチポンプの愚かしさ。

 お金という概念が前提となって、「生涯年収が多い大卒のほうが高卒よりも上等」「収入が多く世間からも尊敬される医者や弁護士や大学教員が上等な職業」というマインドセットが構築される。そのマインドセットをもって社会を観察すれば、人間に序列があり、職業に貴賤があることは動かしがたい事実となり、そのマインドセット自体が強化され、序列化や競争の激化を招き、社会不安を煽る危険性がある。
 教育格差の“負け組"になることを恐れてわが子かわいさの教育競争熱が高まるようでは、世の中はますます殺伐とし、不幸なひとが増えるだろう。
(pp.246-247)

 人の能力は、一義的に決められるものではないし、職業適性という点でも、読み書き、計算能力、コミュニケーション能力、共感能力、反復作業の耐性等、多様なそれぞれの能力が必要とされる。
 それらの能力に序列をつける必要はないし、無理やり尺度をつくって計測、定量化する必要もない。
 一元的な価値尺度のもとで能力獲得競争を強いる愚はやめるべきだ。

組織開発専門家・勅使川原真衣さんが、「能力社会」を自己批判する本を命がけで書いた理由

 無料塾に、「能力社会」の欺瞞を隠蔽、正当化する危険があることは、本書で繰り返し指摘されているとおりである。

 無料塾が、どこにも行き場がない子どもたちに、居場所と、大人とのソーシャル・キャピタルを供する重要なはたらきがあるとしても、だ。

経済的余裕のない家庭の子どもに勉強を教える「無料塾」は、学歴が収入や地位に直結する現代で子どもを救う存在となっている。
一方、無料塾は重大な問いを社会に投げかける。
生育環境による教育格差を埋めることは重要だが、受験戦争のさらなる先鋭化に加担することにならないか。
また、仮に機会の平等さえ実現したら、そのなかで競争に負けた者は自己責任でいいのか。
さまざまなタイプの無料塾への取材からそれぞれのジレンマを明らかにし、これまでの教育格差の議論で見落とされてきた点をあぶり出す、迫真のルポルタージュ。

目次
第1部 実話編
みんな一生懸命生きているんだなぁ―無料塾生徒マサヨシの場合
おかしいのは社会のほうじゃない?―無料塾生徒イズミの場合
この世の中にはまだ善意が残っている―無料塾主宰者桃子の場合
第2部 実例編
個人が主宰する無料塾―日野すみれ塾(東京都日野市)
NPOが独立で運営する無料塾―八王子つばめ塾(東京都八王子市)
大手NPOが多面的に展開する無料塾―キッズドア(首都圏および東北地方) ほか
第3部 考察編
無料塾というパンドラの箱―塾が必要とされる社会的背景
緩やかな身分社会―教育社会学者 松岡亮二さんインタビュー
不当な差と許容できる差―独立研究者 山口裕也さんインタビュー ほか


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