エリザベート・バダンテール(鈴木晶訳),1998,母性という神話,筑摩書房.(9.3.24)
いわゆる「母性愛」は本能などではなく、母親と子どもの日常的なふれあいの中で育まれる愛情である。それを「本能」とするのは、父権社会のイデオロギーであり、近代が作り出した幻想である…。母性本能の神話性を18世紀以来の育児事情の変遷により論証し、母と子の関係や女性の在り方について再考をうながした問題提起の書。1980年、フランスで出版されるや多くの反響や批判とともに大論議をよんだフェミニズム歴史学の金字塔。
いまでこそ、少なからぬ女性が、「子どもなんか産まなきゃよかった」、「子どもが憎い」といったことを口にするのも珍しくなくなかったが、本書(原書)が出版された1980年当時は、「母にはわが子を無条件に慈しみ無制限に自己犠牲をはらう本能がある」といった幻想が朽ちてはおらず、本書は、フランスを中心に大きな反響を巻き起こした。
わたしははなっから「母性愛」など存在しないと思い続けてきた。
高校生のとき、女性が産み落としたわが子をコインロッカーに遺棄する事件が相次いだときも、「育てられない、育てたくなかったらそりゃ捨てるわな」としか思わなかった。
「母性愛」とは、「聖母に抱かれた乳飲み子」の意匠を、自らの「人生のもっとも幸福だった母子一体(子どもにとって母子未分化でも母からすればわが子といえ他者でしかないが)の記憶」と重ね合わせる、マザコン男の幻想でしかなかったのではないか。
本書は、第二波フェミニズムの思想が、民衆の心性を探求するフランス、アナール歴史学派による知見に裏打ちされた作品であり、「母性愛」幻想を一気に粉砕する破壊力を備えていた。
「母性愛」幻想が、近代家族のイデオロギーとして定着するまで、子どもを生みの母親が自ら授乳し、養育するという習慣は、例外的なものに過ぎなかった。
多くの子どもたちは、雇われ乳母の元に里子に出され、劣悪な養育環境のなかで死んでいった。
一七八〇年。パリ警察庁長官ルノワールは、しぶしぶ、次のような事実を認めている。毎年パリに生まれる二万一千人の子どものうち、母親の手で育てられるものはたかだか千人にすぎない。他の千人は、特権階級であるが住み込みの乳母に育てられる。その他の子どもはすべて、母親の乳房を離れ、多かれ少なかれ遠くはなれた、雇われ乳母のもとに里子に出されるのである。
多くの子は自分の母親の眼差しに一度も浴することなく死ぬことであろう。何年か後に家族のもとに帰った子どもたちは、見たこともない女に出会うだろう。それが彼らを生んだ女なのだ。そうした再会が歓びにみたされていたという証拠はどこにもないし、母親が、今日では自然だと思われている、愛に飢えた子どもの欲求をすぐにみたしたという保証もまったくない。
(p.25)
数多くの資料によれば、里子の習慣がブルジョワジーのあいだに広まったのは十七世紀のことである。この階級の女たちは、子育てのほかにすることがたくさんあると考え、そう公言してはばからない。パリからボーヴェジに里子に出された子どもに関するジャン・ガニアージュの研究は、そのことを確証している。
だが、里子の習慣が都会のすべての階級に浸透するのは十八世紀になってからである。貧しい者から裕福な者まで、大都市だろうと小さな町だろうと、子どもが田舎へ送られるのは、一般的な現象だった。
パリは、例によって、その典型である。子どもたちはパリからはるか遠くへ、時には五十里も離れた、ノルマンディやブルゴーニュやボーヴェジに送られた。警察庁長官ルノワール氏がハンガリーの女王に送った報告は貴重である。一七八〇年、首都パリでは、一年間に生まれる二万一千人(総人口は八十万人から九十万人である)の子どものうち、母親に育てられるものは千人にみたず、住み込みの乳母に育てられるものは千人である。他の一万九千人は里子に出される。里子に出される一万九千人のうち、両親にかなりの収入がある二千か三千はパリの近郊に預けられたにちがいない。他の、それほど豊かでない家の子どもは遠方へ送られたのである。
リヨンでもまったく同じ現象が認められる。ルノワールに劣らぬヒューマニストであるリヨン警察長官プロスト・ド・ロワイエは指摘している──「人口十八万、あるいは二十万のリヨンでは毎年六千人の子どもが生まれる・・・・・・この六千人のうち、両親によって良い乳母に預けられる子どもはせいぜい千人である。その他の子どもたちは貧しい憔悴しきった乳母のところへ放り出される」。プロストの言によれば、母親が自分で育てる子どの数は、数えることもできない。
(pp.84-85)
母親たちが自ら子育てをしなかったのはなぜか。
それは、彼女たちが「母性愛」イデオロギーに侵されていなかったからにほかならない。
子どもの世話をしないための、女たちが表に出したり包み隠したりした伝統的動機を要約すると、両立しうる二つの理由にもとづいているように思われる。一つは、自分の自由と人格を他の何よりも優先した彼女たちのエゴイズム、もう一つは、自分の女としての尊厳を母性という枠内に閉じこめることを許さない彼女たちの自尊心である。そうすると、だれもが、自分たちの行動の根本的動機を自由においているが、解放された度合いと疎外の程度にしたがって、三つのタイプがあることがわかる。
(p.144)
教育の三つの場面(里子の慣習、家庭教師、学校)を見ると、その背後にある支配的な観念がどうしても目に入る。「胸を張って子どもを厄介払いするにはどうしたらいいか」――これが両親の関心事だった。ここでは、母親は父親とまったく変わらない。
(p.170)
エゴイズムと自尊心は、当初、男たちにしか許されなかったとはいえ、近代社会が駆動する基本原理となったものである。
宗教改革以降の西ヨーロッパにおいて、「母性愛」幻想に染まっていなかった女性たちが、「邪魔な子どもを捨てる」のは当然のことであったのかもしれない。
フランス社会において、「母性愛」のイデオロギーが創造されたのは、18世紀の後半であった。
一種の意識革命が起きるのは、十八世紀後半のことである。母親、その役割、その重要性にたいするイメージは、根本から変化した。もっとも実際には、なかなか行動が伴わなかった。
一七六〇年頃から、母親にたいして、自分で子どもの世話をするよう勧め、子どもに乳をあたえるよう「命ずる」書物が、数多く出版された。それらは、女はまず何よりも母親でなければならないという義務を作りだし、二百年後の今日でも根強く生きつづけている神話を生んだ。それは、母性本能の神話、すなわち、すべての母親は子どもにたいして本能的な愛を抱くという神話である。
(p.180)
バルザックは、授乳が苦痛であるばかりか、快楽にもなりうることを、巧みに描きだした。
ルネは赤ん坊に乳をあたえる瞬間まで、完全には母親になったという実感をもたなかった。「小さな怪物は乳房にとりつき乳を吸いました。これこそ『光あれ!』です。あたしは突如として母親になったのです。これこそ幸福であり、歓び、そう、言うに言われぬ歓びです。多少の苦痛が伴わないわけではありませんが」。この苦痛は彼女の官能を呼びさます機会でもあった――「赤ん坊の唇が乳房に吸いつくと苦痛を感じますが、その苦痛は快楽に変わるのです。乳房から生命の根源まで貫きとおすこの感覚を、どんなふうにあなたに説明したらいいでしょう。乳房を中心に無数の光が放射され、それが心も魂もあたためてくれるような感じなんです」。これはオルガスムに似た感覚ではないだろうか。以下のように言うとき、ルネはそのことを告白しているのではないか。「どんな恋人の愛撫だって、そこかしこをやさしくまさぐる、この小さなバラ色の手の愛撫にはかないません」 ルネにとって母性こそが他のいっさいの快楽を消してしまう快楽だということがわかる。彼女は自分の心と体をひとつ残らず赤ん坊にあたえることができる。赤ん坊とともに彼女は夢のカップルを作りあげる。そのカップルは幸福になるために何ひとつ誰ひとり必要としない――「もうこの世の中に興味をひくものは何ひとつなくなってしまうのです。父親?父親など、もし赤ん坊を起こそうとでもしたら絞め殺してやります。この子にとっ
てはあたし一人が世界のすべてであり、あたしにとってはこの子こそ世界なのです」。これが、乳をあたえる母親の苦労・苦痛を十二分に償ってくれる。乳房の傷口は気も狂わんばかりの苦痛を生むが、ここに語られているような幸福のことを思えば、そんなものはなんだろう。
(pp.306-307)
しかし、現実は、小説のようにはいかない。
多くの女性たちは、「母性」を発現できずに苦しみ悩んだ。
この意識の大きな変化は二種類の結果をもたらした。まず、これによって多くの女たちが歓びと誇りをもって母親になることができるようになり、いまや名誉をあたえられ、すべての人から有益だと認められたこの活動の中に、自分の可能性の開花を見出すことができるようになった。女が定まった任務を得たというだけでなく、母親一人ひとりが取りかえのきかない存在になったのだ。母性が祝福されたことによって、女たちは自分の人格の重要な一面を外在化させ、そのうえ、彼女たちの母親がけっして得ることのなかった敬意そこから引き出すことができた。
反対に、母親の条件に関するこれほど断定的で権威主義的な議論は、他の女たちの心の中に無意識的な不快感を生んだ。イデオロギーの圧力はきわめて強かったので、彼女たちは心から母親になりたいと思っているわけではないのに、無理にでもならなければならないような気になった。要するに、罪になるのをおそれながら、欲求不満の状態で、母親になったのだ。おそらく彼女たちは良い母親のまねをしようと最善の努力をしただろう。しかしそこには自分自身の満足を見出すことはできず、彼女たちは自分の人生に失敗し、子どもの人生を台なしにした。おそらく多くの子どもたちやその母親の不幸の原因、のちにはノイローゼの共通の原因は、そこにあるのだ。だが十九世紀の思想家たちは、自分たちがたてた仮定の虜になっていたため、そこまで考えることができなかった。二十世紀の思想家たちも、ほとんどそれ以上に精緻だったわけではない・・・・・・。
(pp.310-311)
フロイト等の精神分析理論は、「近代社会に適合する家父長制」を与件として、それに適応できる女性像を本質主義的に理想化した。
ペニスをあらかじめ去勢された女性は、本質的にペニスを羨望し、男に暴力的に貫かれることで、先天的に備わったマゾヒズム、ナルシシズムを充たす。
苦痛に充ちた子育ても、受動性、マゾヒズム、ナルシシズムが充たされるものであるからこそ、女性にふさわしい役割だ、というわけである。
女性の人格の三大特性(受動性、マゾヒズム、ナルシシズム)に関しても、フロイトは同じ安易さでもって、社会的・文化的仮説をしりぞけた。彼が述べたこの三つの特性は、彼にとって女が生まれつきもっているものであるだけでなく、女性の好ましい成長の規範でもある。教育や社会・文化のあらゆる要因が、女たちにこのような態度をとらせたということなど、フロイトにとっては大したことではなかったらしい。ここでもフロイトは、後天的なものを先天的なものであると宣言してしまうことによって、ルソーが『エミール』の中で犯した方法論上の誤りを繰り返している。両者とも、自分では女の本性を描いているつもりであったが、じつは、自分がふだん見ている女を再現しているにすぎなかった。十八世紀の感情型、あるいは、十九世紀の去勢型が、彼らには永遠の女性のように見えたのだ。
(p.406)
性科学は、性的快感においてペニスがさして重要なものではないことを暴露したが、ペニス羨望に加え、受動性、マゾヒズム、ナルシシズムを女性の本質とするフロイト理論が、家父長制を擁護する、グロテスクなまでに滑稽な代物であったことを実感する。
バタンテールは、「母性愛」幻想が賞味期限を過ぎていること、生みの母親のみに子育て責任を負わせることはもはやできないことを明言する。
二百年にわたる母性イデオロギーと、女性にたいする母親としての「責任感の植えつけ」が功を奏して、子どもに対する女の態度は大きく変わった。たとえ仕事をもっていても、二十世紀の女性たちは、以前と比べてはるかに自分の子どもとの距離は近いし、はるかに子どもの世話をする。が、またしても、私たちは、母親であることはかならずしもの本能的な最大の関心事ではないこと、子どもの利益がかならずしも母親の利益に優先されるわけではないこと、女たちが経済的な必要にせまられていなくとも、個人的な野心をもっていれば、かならずしも自分の子どもの幸福のために、たとえ数年でも、野心を捨てることを選ぶわけではないこと、の確証を得ている。母性本能とか母性的態度「それ自体」を語ることができるほど統一性のある母親の行動といったものは存在しないことは、以上のことから明らかである。子どものよりいっそうの幸福のために自分の野心や欲望を犠牲にすることを拒む女たちの数は、それをすべて例外にしてしまって法則をゆるぎないものにするには、あまりに多すぎる。家庭内よりも家庭の外で自己をよりよく実現するこうした女たちは、多くの場合、大学教育を受けて、自分の職業から最大の満足を期待できる人びとである。もっとも教養ある人びとがもっとも「自然から逸脱して」いる、と皮肉を言うのは簡単だが、そうしたところでなんの解決にもならない。女性の教育を後退させることはできないのだから、未来の女性像を予感して描くとすれば、現在よりもっと自然から逸脱しており、男性と等しい知識と権力の保持者として描かれることは疑いない。
(pp.422-423)
本書は、自らの「産む(ことができる)性」に逡巡する女性たちに、自分だけで子を産育する責任など負わなくともよいこと、もとより産む責任など存在しないことを、歴史的事実の例証をもって明らかにしている。
目次
第1部 愛の不在
父権・夫権の長い支配
1760年以前の子どもの地位
母親の無関心
第2部 新しい価値―母性愛
子どもの弁護
新しい母親
第3部 強いられた愛
ルソーから受け継いだ道徳論あるいは「ソフィー、その娘たち、孫娘たち」
フロイトから受け継いだ医学論
神話と現実とのずれ
楽園は失われたのか、見出されたのか