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本と音楽とねこと

マルクス解体──プロメテウスの夢とその先

斎藤幸平(斎藤幸平・竹田真登・持田大志・高橋侑生訳),2023,マルクス解体──プロメテウスの夢とその先,講談社.(4.25.24)

(著作権者、および版元の方々へ・・・たいへん有意義な作品をお届けいただき、深くお礼を申し上げます。本ブログでは、とくに印象深かった箇所を引用していますが、これを読んだ方が、それをとおして、このすばらしい内容の本を買って読んでくれるであろうこと、そのことを確信しています。)

 スゴい作品だ。

 学術書なので、読みとおすのは簡単ではないだろうが、思想、哲学、社会科学のみならず、世界各国の社会政策にも影響を与えることになるかもしれない、それほどの可能性を秘めた著作だ。

 まず、丹念な文献資料の探求により、マルクスとエンゲルスとの思想の相違、断絶が明らかになる。

 つまり、マルクスにとって自由とは、自然科学の発展に依拠した自然との物質代謝の意識的な制御に制限されるものではなく、芸術や音楽などの創作活動に従事し、友情や愛情を育み、読書やスポーツなどの趣味に興じることも含まれる。それが個人の能力を全面的に発展させるのだ。それに対して、自然の弁証法にこだわったエンゲルスは、超歴史的な自然法則の認識を基礎とした人間の振る舞いを重視することになり、自然の支配がそのままに「自由の国」の実現だと考えた。こうした見方が「自由の国」の内容を狭隘にし、マルクスによって強調される将来社会における「個性の全面的な発展」という契機がエンゲルスにおいては弱められ、むしろ、「必然性に従うことで実現される自由」というヘーゲル的な自由観が前面に押し出される
(p.98)

 マルクスは、後の、アマルティア・センのケイパビリティ論──人々が自由を享受し権利を行使するためには、教育の機会保障などによる潜在能力の獲得が必要とする──を先取りするような、「生産諸力」の概念を考案していた。

 マルクスは、文化、技能、自由な時間、知識の豊かさを、社会の富と考えた。換言すれば、社会の富や豊かさは、生産される商品の量の増加やその貨幣的表現だけでは測れず、むしろ、人間の潜在性の完全かつ全面的な発展と実現――まさに「生産諸力」――によって測られるものである。しかし、資本主義のもとでは、人間の能力と創造性の発展は大きく制約されざるを得ない。なぜなら、人間の能力も、常に「既存の尺度」、すなわち、利潤追求のためにどれだけ利用できるかを基準に測定されるからである。その結果、儲からないことに時間や資源は投下されないのである。
(pp.331-332)

 資本主義社会における(交換)価値の無限増殖のメカニズムのなかで、労働はその手段でしかなくなっていき──労働者は「構想」を「実行」するだけの機械の歯車と化した──、価値増殖に貢献した者に高い経済資本が集中するようになったが、マルクスは、各人の多様な潜在的可能性がそれぞれに開花し、それらが等しく評価される社会を展望していた。

 この意味で、マルクスが『ゴータ綱領批判』において生産力の「増大」について述べたことは、単なる生産性の向上と同義ではない。第五章でも述べたように、生産力概念は、量的かつ質的だからだ。例えば、コミュニズムの高次の段階においては、「個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり」、「精神労働と肉体労働との対立」、すなわち「構想」と「実行」の分離に基づく「資本の生産力」が消失し、「個人の全面的な発展」の機会として労働がより魅力的になり、労働自体が「第一の生命欲求」になる。このような労働過程のラディカルな再編は、過度の分業を廃止し、労働をより民主的なものにすることによって、時としては、現在よりも生産性を低下させるかもしれない。それでも、個々の労働者の自由で自律的な活動を保証するものであるから、社会的労働の生産力の「増大」に数えられるのだ。
 この理解に基づけば、有名な「各人はその能力におうじて、各人にはその必要におうじて!」というスローガンも、非プロメテウス主義的に解釈することができる。マルクスは、画一的な平等社会を求めているわけではない。むしろ、個人間の能力や才能の自然的・社会的な差異が、社会的・経済的不平等として現れるのではなく、相互に補完し合い、個人のユニークさとして現れるような社会を構想していた。ある人がうまくできないこと――全面的な発展にもかかわらず個人の能力差は常に残る――は、他の人がうまくできることかもしれない。運動が苦手だが、プログラミングが得意な人もいれば、歌が苦手だけれど、農業が得意な人もいる。そして、自分が得意なことで、代わりに他の人を助けることができる。
 一方、誰もがやりたがらないこと――不快で退屈な仕事を完全に根絶することはできない――は、より公正な形で全員で共有し、ローテーションすることができる。この意味で、コミュニズムは、平等のためにすべての人に画一性や単一性を強制するのではなく、能力やスキルの差異を経済的不平等と結びつけたり、特定の社会集団に不快な仕事を押し付けるのを止めるのである。
(pp.350-351)

 人間が資本の価値増殖の手段に貶められることがなくなれば、労働時間の短縮と、自己実現につながる自由な諸活動の領域が拡大する。

 繰り返しになるが、このような解釈は、『資本論』の環境社会主義的な性格と両立しない。だが、「ラディカルな潤沢さ」と「脱成長コミュニズム」の観点からすると、「自由の国」の拡大は、生産力の絶えざる増大に依存する必要はない。むしろ、資本主義の人工的希少性が克服されれば、人々は、「コモンとしての富」の拡大のおかげで、お金を稼がなければならないという恒常的な圧力から解放され、生活の質の低下を心配することなしに働く量を減らすという魅力的な選択肢を手にすることができるだろう。具体的には、教育、医療、公共交通機関、インターネットなどを無償化し、水、電力、住居の公営化を進めていくことで、商品や貨幣への依存は下がり、自由な選択肢が増えるのだ。
 ヒッケルもこの点を指摘している。「人工的な希少性の圧力から解放された時、増え続ける生産性を競うという人々の強迫観念は消え失せるだろう。私たちは、増え続ける生産、消費、環境破壊のジャガーノートに、自身の時間とエネルギーを費やす必要はなくなる」(Hickel2019:66)。市場競争と資本蓄積への果てしない圧力がなければ、自由にアソシエートした労働によって、1日の労働時間をわずか3~6時間まで短縮できるかもしれない。そうなれば、人々は余暇やスポーツ、勉強や恋愛といった非消費主義的活動に十分な時間を割くことができるようになる。言い換えれば、賃労働に従属することなく、より安定した生活を送ることを可能にするような「共同の贅沢」を回復することによって、「必然性の領域」を大きく縮小することが可能なのである。
 脱成長コミュニズムは、所得と資源のより公平な(再)分配によって、自由時間を増やすだけでなく、自然環境への負荷を軽減するために、不要なものの生産量も減らす。加えて、広告、マーケティング、コンサルティング、金融といった分野における不要な生産を削減することで、本来は不要な労働をなくしていき、過剰な生産と消費を抑制することも可能である。モデルチェンジ、計画的な陳腐化、絶え間ない市場競争に常に晒されることから解放されれば、それがウェルビーイング増大をもたらすはずだ。
(p.353-354)

 資本の無限に価値を増殖していくメカニズムこそが、デヴィット・グレーバーの言う、ブルシット・ジョブを生み出していく要因であった。

 そして、ブルシット・ジョブは、環境破壊、資源浪費の元凶でもある。

 それに対して、エッセンシャル・ワークは、その労働集約性ゆえに、環境、資源負荷が非常に小さい。

 本書は、ケアリング社会への展望を開く、それほどの射程をもっている。

 資本主義的生産のパラドクスは、労働力の再生産費に対応する「必要労働時間」が、実際には膨大な量の不必要な製品の生産に費やされているということである。言い換えれば、社会的・生態学的な視点からすれば、「必要労働」の大部分はすでに「不必要労働」なのである。このことは、「ブルシット・ジョブ」(Graeber2018)、つまり労働者自身さえも社会にとって無意味だと自覚しているような仕事が蔓延していることからも明らかである。
 将来社会においてこうした無意味な仕事が除去されたとしても、それらは最初から無意味で使用価値を生まない非生産的な仕事であるため、社会の繁栄や人々のウェルビーイングに否定的な影響を与えることはない。むしろ、ウェルビーイングは上昇しさえするだろう。なぜなら、人生の大部分を無意味な仕事に費やすことはメンタルヘルスにとって極めて有害であり、これらの仕事はまた、過剰な広告、スラップ訴訟、株の高速取引といった無意味な営為を大量に生み出しているからである。さらに、この種の無意味な労働は、多くのエネルギーと資源だけでなく、彼らの活動を支えるためのケア労働をも浪費する。要するに、ブルシット・ジョブを除去すれば、社会的労働時間を短縮し、将来の技術革新を待つことなく、環境負荷を即座に軽減することができるのである。
もちろん、予期せぬ自然災害や戦争、飢饉に備えるために、剰余労働や剰余生産物はある程度必要である。しかし、社会的生産の目的が、無限の資本蓄積の圧力から解放されれば、これほど膨大な剰余生産物を生産する必要性はどこにもなくなる。過剰な剰余生産物の削減は、定常経済の原理と整合的だ。これは、ポスト希少性経済において自由の領域が真に開花するための「根本条件」である。
 実際、ポスト希少性経済のユートピアを掲げる論者はしばしば、週の労働時間を15~25時間に減らすことが可能だと述べているが、これは必ずしも労働過程の完全自動化を必要としない(Benanav2020)。ブルシット・ジョブを廃止し、残りのエッセンシャル・ワークを社会のすべての構成員で共有することで、環境負荷を減らしながら、ポスト労働社会を実現することができるのだ。しかし、こうした労働時間の短縮が、利潤追求や経済成長の原理とは両立不可能なのは明らかだろう。
 第三に、脱成長コミュニズムは、労働者の自律性を高め、仕事の内容をより魅力的なものにするために、「必然性の国」の内実を変容させる。資本主義を廃棄しても、「必然性の国」は完全にはなくならない。だが、そのことについて悲観する必要はないだろう。先に見たように、マルクスは、「個人の分業への従属、ひいては精神労働と肉体労働のアンチテーゼ」を廃止し、労働を通じた「個人の全面的な発展」に重きを置くことを主張した。そうすることで、労働は「第一の生命欲求」(『全集』第一九巻、24頁)になるのである。ここでのマルクスは、解放された労働についての「より楽観的な見方(Klagge1986:776)を採用している。
(pp.360-361)

 斎藤さんは、本書の結論として、以下のように、力強く宣言する。

 同時に、脱成長にとっても、コミュニズムの洞察は欠かすことができない。コミュニズムへの移行こそが、脱成長経済の実現を促進するからである。コミュニズムは、資本の価値増殖を規制し、労働時間を短縮し、環境への影響を軽減する施策をより多く実施していく。労働者は、市場競争から解放されて自律性を高めることによって、労働と消費の意味について反省する機会を得る。社会計画は、過剰で環境負荷の高い部門を禁止し、基本的な社会的必要を満たしながら、プラネタリー・バウンダリー内にとどまるための調整を行う。脱成長コミュニズムは、より持続可能で平等主義的な経済を実現するために、経済の速度を落とし、市場規模を縮小することを目指す。マルクスの脱成長コミュニズムは、20世紀においては誰にも認識されることはなかったが、人新世における人間の生存の可能性を高めるため、今こそかつてないほどに重要な未来社会の理念なのである。
(pp.365-366)

 「脱成長」のコンセプトは、デヴィッド・ハーヴェイ等により提起されてきたが、資本主義のオールタナティブを具体的に構想するという点で、いまひとつ説得力に乏しかった。 
 本書は、それを補ってあまりある説得力をもつ内容になっていると言えるだろう。

資本主義をこえていく、新時代のグランドセオリー! 
人新世から希望の未来へ向かうための理論。
英国で出版された話題書Marx in the Anthropocene(ケンブリッジ大学出版、2023年)、待望の日本語版!
いまや多くの問題を引き起こしている資本主義への処方箋として、斎藤幸平はマルクスという古典からこれからの社会に必要な理論を提示してきた。本書は、マルクスの物質代謝論、エコロジー論から、プロメテウス主義の批判、未来の希望を託す脱成長コミュニズム論までを精緻に語るこれまでの研究の集大成であり、「自由」や「豊かさ」をめぐり21世紀の基盤となる新たな議論を提起する書である。

自然科学に関するマルクスの手稿への詳細な検証を通じて斎藤幸平が私たちに想起させるのは、マルクスがなぜ自然と資本主義の関係が根本的に持続不可能と主張したのか、ということだ。本書は、忘れ去られていたマルクスを私たちのもとに復活させる。長らく顧みられることのなかったマルクスを手がかりに、斎藤は、「脱成長コミュニズム」を力強く主張する。この理論的なアプローチは、「豪奢なコミュニズム」という抽象的な概念を対象にするのではなく、むしろ〈コモン〉の幸福を対象にして「豊かさ」という概念そのものを再編成しようとしている。
ティティ・バタチャーリャ(共著書『99%のためのフェミニズム宣言』)

傑作。これこそわれわれが待っていた本だ。斎藤は、マルクスに基づいて「脱成長」と「エコ社会主義」のワクワクするような統合を成し遂げている。ここにポスト資本主義への転換の秘密が隠されている。
ジェイソン・ヒッケル(著書『資本主義の次に来る世界』)

斎藤幸平はマルクス思想を完結したシステムではなく、運動のなかにある思想としてとらえている。彼の「脱成長コミュニズム」という果敢な表明は、現代のエコロジカルなマルクス思想、すなわち「人新世のためのコミュニズム」への決定的な貢献である。
ミシェル・レヴィー(著書『エコロジー社会主義』)


第一部 マルクスの環境思想とその忘却
第一章 マルクスの物質代謝論
第二章 マルクスとエンゲルスと環境思想
第三章 ルカーチの物質代謝論と人新世の一元論批判
第二部 人新世の生産力批判
第四章 一元論と自然の非同一性
第五章 ユートピア社会主義の再来と資本の生産力
第三部 脱成長コミュニズムへ
第六章 マルクスと脱成長コミュニズム MEGAと1868年以降の大転換
第七章 脱成長コミュニズムと富の潤沢さ  


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