フランス留学備忘録

フランス留学で体験したあれこれをメモしています

家探し

2021-02-16 10:32:23 | 日記

ざっくりパリの地図。ホームステイは14区から20区へお引越しでした。学校があったのも20区、とてもお世話になりました。

パリでの部屋探しは大体毎週(だったかな?)発行される日本人新聞にある求人からか、日本食料理屋や語学学校に貼ってある貼り紙から自分でアポイントを取って出向いて見せてもらう。日本食関係、銀行、これらはオペラ界隈にあり、行くとわかるんだけど初めの一ヶ月はオペラにばかりいることになる。そして日本人好きなフランス人もオペラにいる。

アポイントの第一関門はまず電話。とても苦手だった。なんせ相手の表情が見えない。私は特に英語もしゃべれない。よくフランス人は英語を話してくれないというが、よっぽどこちらがフランス語が話せないと向こうから「英語話せないの?」と聞いてくる。そしてノンと答えるとあからさまに呆れた顔でため息をつかれる。嫌になるほどため息をつかれるのでこれにも慣れる。

部屋探しの中で印象に残っている一部屋を紹介する。

それはかの有名なシャンゼリゼ通り、凱旋門を挟んで向こう側にあった。(地図でいうところの凱旋門の左の方)

要するに高級住宅街でした。その屋根裏部屋。多分400ユーロとかそんなもんだったのかな。出てきたマダムはいかにもお金持ちそうな女性だった。マダムの話だと前に日本人がいてとても良かったので日本人に貸したいという話だった。そういうお宅はよくある。

とりあえず部屋を見てと上がった屋根裏部屋はワンルームで小さな洗面がついているだけの部屋でした。トイレとシャワーは部屋を出た廊下の突き当りだったかな。小公女セーラが住んでいたリアル女中部屋みたいなとこ(実際昔は女中部屋でした)薄暗い部屋だった。この階に私だけだと思うと怖いかもと思った。

通されたリビング的な部屋は広く、暖炉があったと思う。昼間にしては薄暗い印象だった。そしてその周りに置かれてあるベビーベッドとベビーカー。明らかに古い。フランス人形やぬいぐるみが置かれていた。きっと何かあったお宅に違いないと察した。どう見ても小さな子がいるような年のマダムでは無かったので、もう見るからにホラーだった。一刻も早く外に出たかった。

部屋を出て両親に相談したところ、父にいい年してそんな売れない芸人みたいな生活しなくてもいいんじゃないかと。お金が無くなったら帰ってくればいいじゃないかと。その言葉でハッと我に返った。少し気が楽になった。

その後他にも何軒か伺ったけどこれといったところが無かった。

庭にある一軒家みたいなとこもあったがちょっと郊外で遠かったし、いかにも日本大好きなご家庭の間借り(日本というかアジア好き)もあった。

そんなところで先ほど話していたCさんが既に連絡を取りいい部屋を決めてくれていた。少し予算はオーバーだったけど、彼女が保証人にもなるからとそこに決めた。神にしか見えなかった。

学校からも歩いて数分のアパルトマンだった。そこはお金がなくなるまでの数ヶ月過ごした思い出のアパルトマンである。


フランス留学します。

2021-02-13 22:53:03 | 日記

たった2年間、フランスに留学していた記憶を書き留めておくだけのブログです。

ただただトラウマとなってしまった留学生活、そこを乗り越えるためには書き記した方が良いのではないかと

もう10年以上経った今書き始めてみた。

その頃もブログを始めてずっと書き記していたのだけど、もうパスワードも会社も忘れ開けない。

トラウマになるくらいなので、全くキラキラしたものではなく反吐が出るような底辺にある留学生活です。

こうした方がいいよというハウツー本でもなく、ただただ私が経験したことを書き綴るだけのblogです。

こういうこともあるんだなと読んでいただけたら幸いです。

私がフランスに留学先を決めたのは、父親の影響で彼はデザイナーをしていたため、物心ついた頃からフランスに出張していた。

姉が生まれる前には夫婦で住んでいたこともあり、行くならフランスが良いと勝手に思っていた。

留学前にも3回くらい旅行で行ったと思う。そこでフランスへの憧れは絶頂期。

よくあるフランスに憧れる女子。色んな本を読み漁り、集め、キラキラした夢を見ていた。

その当時表参道にあった語学学校に通い、そこから手続きをしてもらいパリの語学学校、ホームステイ先を決めてもらった。

今思えば本当にもったいないことをした。学校を通してだともちろんマージンが取られる。そのマージンの分半年は生活できたんじゃないかと思う。

それくらい、フランスでの生活というものは切り詰めればどこまでもお金をかけずに暮らしていける。

東京で贅沢に暮らしていた私は全く考えもせず、楽だからという理由で全て学校にお任せして留学した。

語学学校についても中華系のピンからキリまであり、お金をかけたくなければたくさん方法はあるのだ。

日本での金銭感覚と全く違う。

まぁそれも行ってみないとわからなかったことで、いかに井の中の蛙だったことを思い知るのである。

その頃はまだスマホもなく、インターネットもそこまで普及していなかった。

それもまたひと悶着あった出来事なのだが、追々。

フランスへのチケットは往復で買い、帰りを捨てるというのが主流だった。

しかもその時点でもまだ直行便で行っていたと思うので何も考えていなかったのが伺える。

行先はフランスのパリ。行くならパリに行けといったのは父。良いものをちゃんと見てこいと。

フランスに降り立つまではまだまだ憧れに目を輝かせておりました。

その頃付き合っていた彼もいて、両親と一緒に空港まで送ってくれました。

空港までも成田エクスプレスに乗るのが当たり前と思っていましたね。

少しウルウルしながらも、泣く間も持たされずはいはい、いってらっしゃーい!と両親に送り出され飛行機に乗ったのを覚えています。

そう、うちの親はとにかくドライ。それを知ったのも留学先での友達を見て知る。

みんな毎日のように電話するのね。うちはほとんどせず。たまにメールするくらい。

これは子供を持った今でもあまり変わらない。電話ではほとんど話さない。

資金についてもそう、ほぼ一円も出してくれなかった。行きたいなら自分で。というのがうちの方針。5年働いて貯めたお金で行きました。

ただ最後色々あって泣き言を言って少し出してもらいましたが、いまだに自分たちが出して行かせたみたいに行ってくるのには腹が立ちます。


さて、1人の飛行機の中をどう過ごしたかなんてのは全く覚えていません。

パリについてまずリムジンバスの乗り場もわからず、どうにかこうにか探して乗った記憶。

知らされていたホームステイ先に直接伺ったんだっただろうか。

そこはパリをグルっと囲む環状線の一番南に位置する駅で、近くで有名な蚤の市をやってるところでした。

パリは住所さえわかれば必ずそこへ行きつける住所になっており、どうにかこうにか重い大きなスーツケースを抱えて向かいました。

大きな郵便局の隣の大きなマンション(アパルトマン)の一室でした。

<つづく>