ざっくりパリの地図。ホームステイは14区から20区へお引越しでした。学校があったのも20区、とてもお世話になりました。
パリでの部屋探しは大体毎週(だったかな?)発行される日本人新聞にある求人からか、日本食料理屋や語学学校に貼ってある貼り紙から自分でアポイントを取って出向いて見せてもらう。日本食関係、銀行、これらはオペラ界隈にあり、行くとわかるんだけど初めの一ヶ月はオペラにばかりいることになる。そして日本人好きなフランス人もオペラにいる。
アポイントの第一関門はまず電話。とても苦手だった。なんせ相手の表情が見えない。私は特に英語もしゃべれない。よくフランス人は英語を話してくれないというが、よっぽどこちらがフランス語が話せないと向こうから「英語話せないの?」と聞いてくる。そしてノンと答えるとあからさまに呆れた顔でため息をつかれる。嫌になるほどため息をつかれるのでこれにも慣れる。
部屋探しの中で印象に残っている一部屋を紹介する。
それはかの有名なシャンゼリゼ通り、凱旋門を挟んで向こう側にあった。(地図でいうところの凱旋門の左の方)
要するに高級住宅街でした。その屋根裏部屋。多分400ユーロとかそんなもんだったのかな。出てきたマダムはいかにもお金持ちそうな女性だった。マダムの話だと前に日本人がいてとても良かったので日本人に貸したいという話だった。そういうお宅はよくある。
とりあえず部屋を見てと上がった屋根裏部屋はワンルームで小さな洗面がついているだけの部屋でした。トイレとシャワーは部屋を出た廊下の突き当りだったかな。小公女セーラが住んでいたリアル女中部屋みたいなとこ(実際昔は女中部屋でした)薄暗い部屋だった。この階に私だけだと思うと怖いかもと思った。
通されたリビング的な部屋は広く、暖炉があったと思う。昼間にしては薄暗い印象だった。そしてその周りに置かれてあるベビーベッドとベビーカー。明らかに古い。フランス人形やぬいぐるみが置かれていた。きっと何かあったお宅に違いないと察した。どう見ても小さな子がいるような年のマダムでは無かったので、もう見るからにホラーだった。一刻も早く外に出たかった。
部屋を出て両親に相談したところ、父にいい年してそんな売れない芸人みたいな生活しなくてもいいんじゃないかと。お金が無くなったら帰ってくればいいじゃないかと。その言葉でハッと我に返った。少し気が楽になった。
その後他にも何軒か伺ったけどこれといったところが無かった。
庭にある一軒家みたいなとこもあったがちょっと郊外で遠かったし、いかにも日本大好きなご家庭の間借り(日本というかアジア好き)もあった。
そんなところで先ほど話していたCさんが既に連絡を取りいい部屋を決めてくれていた。少し予算はオーバーだったけど、彼女が保証人にもなるからとそこに決めた。神にしか見えなかった。
学校からも歩いて数分のアパルトマンだった。そこはお金がなくなるまでの数ヶ月過ごした思い出のアパルトマンである。