たった2年間、フランスに留学していた記憶を書き留めておくだけのブログです。
ただただトラウマとなってしまった留学生活、そこを乗り越えるためには書き記した方が良いのではないかと
もう10年以上経った今書き始めてみた。
その頃もブログを始めてずっと書き記していたのだけど、もうパスワードも会社も忘れ開けない。
トラウマになるくらいなので、全くキラキラしたものではなく反吐が出るような底辺にある留学生活です。
こうした方がいいよというハウツー本でもなく、ただただ私が経験したことを書き綴るだけのblogです。
こういうこともあるんだなと読んでいただけたら幸いです。
私がフランスに留学先を決めたのは、父親の影響で彼はデザイナーをしていたため、物心ついた頃からフランスに出張していた。
姉が生まれる前には夫婦で住んでいたこともあり、行くならフランスが良いと勝手に思っていた。
留学前にも3回くらい旅行で行ったと思う。そこでフランスへの憧れは絶頂期。
よくあるフランスに憧れる女子。色んな本を読み漁り、集め、キラキラした夢を見ていた。
その当時表参道にあった語学学校に通い、そこから手続きをしてもらいパリの語学学校、ホームステイ先を決めてもらった。
今思えば本当にもったいないことをした。学校を通してだともちろんマージンが取られる。そのマージンの分半年は生活できたんじゃないかと思う。
それくらい、フランスでの生活というものは切り詰めればどこまでもお金をかけずに暮らしていける。
東京で贅沢に暮らしていた私は全く考えもせず、楽だからという理由で全て学校にお任せして留学した。
語学学校についても中華系のピンからキリまであり、お金をかけたくなければたくさん方法はあるのだ。
日本での金銭感覚と全く違う。
まぁそれも行ってみないとわからなかったことで、いかに井の中の蛙だったことを思い知るのである。
その頃はまだスマホもなく、インターネットもそこまで普及していなかった。
それもまたひと悶着あった出来事なのだが、追々。
フランスへのチケットは往復で買い、帰りを捨てるというのが主流だった。
しかもその時点でもまだ直行便で行っていたと思うので何も考えていなかったのが伺える。
行先はフランスのパリ。行くならパリに行けといったのは父。良いものをちゃんと見てこいと。
フランスに降り立つまではまだまだ憧れに目を輝かせておりました。
その頃付き合っていた彼もいて、両親と一緒に空港まで送ってくれました。
空港までも成田エクスプレスに乗るのが当たり前と思っていましたね。
少しウルウルしながらも、泣く間も持たされずはいはい、いってらっしゃーい!と両親に送り出され飛行機に乗ったのを覚えています。
そう、うちの親はとにかくドライ。それを知ったのも留学先での友達を見て知る。
みんな毎日のように電話するのね。うちはほとんどせず。たまにメールするくらい。
これは子供を持った今でもあまり変わらない。電話ではほとんど話さない。
資金についてもそう、ほぼ一円も出してくれなかった。行きたいなら自分で。というのがうちの方針。5年働いて貯めたお金で行きました。
ただ最後色々あって泣き言を言って少し出してもらいましたが、いまだに自分たちが出して行かせたみたいに行ってくるのには腹が立ちます。
さて、1人の飛行機の中をどう過ごしたかなんてのは全く覚えていません。
パリについてまずリムジンバスの乗り場もわからず、どうにかこうにか探して乗った記憶。
知らされていたホームステイ先に直接伺ったんだっただろうか。
そこはパリをグルっと囲む環状線の一番南に位置する駅で、近くで有名な蚤の市をやってるところでした。
パリは住所さえわかれば必ずそこへ行きつける住所になっており、どうにかこうにか重い大きなスーツケースを抱えて向かいました。
大きな郵便局の隣の大きなマンション(アパルトマン)の一室でした。
<つづく>