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Entrance for Studies in Finance

ポーリーとグールド ロンドン証券取引所の歴史

A. P.Pouley and F.H.C.Gould, The History , Law, and Practice of  the Stock Exchange, Second Edition Revised(刊行年の記載がない。1911年ルールの記載があり1920年のサインがあるのでその間の刊行とみられる。) pp.1-6

p.1  現在の取引所は1802年3月に、およそ500人の発起人たちにより開設された。礎石の記録版には以下のように刻印されている。「5月18日、1801年、ジョージ3世の41年目の年に、この建物の最初の石は、公債(the public funds)の取引業務のための私的な応募により建設されたのであるが、所有者の立ち合いの下、以下のものの指図により設置された。」・・・(ここに9人の最初の役員の名前が刻印されている)。それから説明は、続く五つの統治期において5億5273万924ポンドまで蓄積されたと記録している。1802年の前、ブローカーズとジョバーズは、入場料として6ペンスが徴収されたコーヒーハウス、ジョナサンズで彼らの取引業務を行うために集まった。1773年に証券取引所the Stock Exchangeの称号がジョナサンズにつけられたが、その事実は1773年7月15日付けの文書に以下のように宣明されている。「昨日、ブローカーたちはジョナサンズに集まって以下のことを決議した。もはやそこはニュージョナサンズではなく、証券取引所と呼ばれるべきであり、そのようにドアに掲げられることになろうと」。ニュージョナサンズは、焼け落ちてしまったジョナサンズコーヒーハウスの後継だったようだ。ジョナサンズはジョバーズの最初の住処の一つであり、Mrs.Centlivresの喜劇A Bold Stroke for a Wifeの第四幕第一場、ジョナサンズのストックブローカーについての台詞(せりふ)が出てくる。「わたしゃ 喜んで茶色のコート野色男にかみついてやるさ。彼はしょちゅうthe Alleyにくるけど、けっしてブローカーを雇わないのさ」。ジョバーズがジョナサンズやギャロウェイズをしょっちゅう訪れる前には、ストックブローカーズが王立取引所をしょっちゅう訪れていた。Change Alley(取引横丁)は、ジョバーをその辞書で程度の低い卑劣漢と定義したジョンソン博士によっp.2   て、そのジョバーと早くも同一視されていた。(博士はジョバーは)事業の持ち分(shares in the fund)から金を得る人として、さらに以下を引用している。

  その時 Change Alleyからストックブローカーが表れて、あなた方自由 
   人 (freeman)に目配せするーわたしに町のためのあなたの票をよこしなさ
   い。ここがギニー貨の投入口だよ。

 南海泡沫の歴史は証券取引所での熱狂として今で知られているものとして記録されている。そしてその効果は、証券取引所の富the fortunesに長年にわたり巨大なものであったので、その若干の叙述をすることは的外れではないであろう。南海会社ー南海とその他アメリカの諸地域と交易するための、そして漁業を奨励するための、大英国の商人たちの会社は1711年9月7日に活動を始めた。Oxford卿Harleyが総裁であり、St.John(Henry St.John 1678-1751)と国庫長官が機能理事active directorsであった。かくして同社は国家の問題(a State affair)であり、St.Johnはその初期の履歴を以下のように始めざるを得なかった。「国家の公益と同社の特別な利益advantageのため、女王陛下は、同社を、その安全のために南海で取り決めを行えるようにまたこれらの地域との交易はよりよく行えるように、喜んで手助けされていた」。そして同社は政府に対して、「海と陸の軍隊が同社の意図する航海に同行することを準備するよう」すぐに圧力をかけた。Oxford卿Harleyと(政府と)の間で結ばれた協定は総裁たちはある時点で金利6%で流動債1000万(ポンド)を引き取る、その代わりに同社は南海貿易の独占を得るというものであった。
 同社の初期の勘定書は、二グロの供給にかかわっていた王立アフリカ会社とおおよそ大体において競争関係に入っていたことを示していて、そして同社は王立アフリカ会社から結構な寛大さで供給を得ていることを祝福している。より合理的な条件でアフリカやジャマイカの海岸でニグロの供給をうけたときに。言及されたニグロは主にジャマイカに運ばれたもので、そこでは逃亡が多かった、そこで逃亡者を連れ戻すことに金を使うよりは、まだつかまっていない逃亡者を売る方がもうかるようになった。
 HarleyとSt.Johnは、奴隷貿易の取り決めの詳細に加わっていたように思わ
p.3  れる。あまり賢くないことだが世論にショックを与えるやり方で。時のもっとも有名な神父は、二人ともをイカサマだと神の前で非難した。しかしかれが非難したのは、地区牧師bishopを選ぶときに彼らに偏見がなかったからで、アフリカニグロの取引についてではなかった。 
    1717年に同社の株式(資本)は、国債を償却するための政府への200万(ポンド)の前貸しを考慮して、1200万(ポンド)に引き上げられた。この取引で同社がえた信用は、大胆な示唆を導いた。ほぼ3100万に達する国債債務を(同社が)引き受けるだけでなく、(その)利子を5%から4%に引き下げるという。愛すべき金融家であるSir John Blountにとり、この計画の考え方は適切だった。下院の委員会に提出されたこの計画は、熱く支持された。イングランド銀行でさえ、このような評価の高い企画に参加したがった。当然期待されることだが、法案が提出されることを許した委員会決定の発表とともに、同社の株価は上がり始めた。その価格は130から300にジャンプし、高騰は法案審議の進展とともに継続した。計画に賛同し、承認する一致した声のなかで、Walpoleの意見でさえ聞かれることは聞かれることはむつかしかった。法案のばかばかしさや、議会の裁可受取の必然的に伴う道徳的罪悪についての彼の形容には、真剣な注意が払われなかった。株価は一時、400に達し、法案が通過したときには310へと変動した。その間、Change Alley, Cornhill, そしてLombard Streetは紳士淑女の馬車でごった返した。
 当時のballad(叙述詩)から引用する。

 偉い人も娼婦も現れた 苛立った人々の中に
 売ったり買ったり、見物したり
 ユダヤ人も紳士たちも大騒ぎ
 高貴なご婦人もあちこちからやってきて
 日々馬車が絶え間なく行き交う
 その宝石を現金にして   
 Alleyでventureするために。

 法案の可決から5日以内に、理事たちは公衆に、資本100ポンドごとに
300ポンド、100万ポンドの応募を求めた。応募は200万超過し、株価は340ポンドに達した。
p.4 間もなく発表された配当は10%であり、二度目の100万ポンドの応募が100につき300ポンドで開始された。数時間のうちに150万ポンドが応募された。
 ここまでの南海会社の歴史が記録した驚くべき成功は、大量の株式会社companiesの形成を導いた。当時存在した公衆の信じやすさによって、これらの(会社の)誤った性格をごまかすことはできない。ある会社は「誰もそれが何か知らない、すごい優位advantageを実行するための会社」と呼ばれた。2ポンドを預けた各応募者は年に100ポンドの株に加わる権利があった。その発行は大成功だった。6時間のうちに1000を超える持ち分sharesが引き取られ、預け金が払われた。5月に南海株は550(ポンド)に達し4日のうちに890(ポンド)に達した。それから変動が始まり、640まで落ちて、最後には1000に達した。それからその下落が急速になった。そしてイングランド銀行はいやいやだったが、救援を迫られた。同社の株価は最終的に150まで落ち、数千のひとが破綻した。憤激の嵐が続いた。ある高職の人が提案した、理事たちを罰する法が存在しないので、彼らは袋の中で縛り上げられて、テームズの水に放り込まれるべきだと。Walpoleはしかしもっと合理的提案を行い、それが最終的に採用された。すなわち(議会に)調査委員会が設置されるべきであり、イングランド銀行が株式the stock900万を引き取るべきであり、さらに東インド会社が(同じく)900万を引き取るべきである。公衆の憤激はしかしより過激な方策を求め、下院は5人の理事にBlack Rodへの勾留を求めた。なおその一人はEdward Gibbon氏、かの歴史家の祖父である。その間に財務担当者のKnightは帳簿や書類を保全していたが、身を隠すためにCalaisに逃げた。彼は最終的にはしかしLiege近くで拘束された。そしてAntwerp要塞に勾留されたlodged。しかし送還を拒んだ。彼は逃れたのだ。
 非公開で行われた下院委員会は、同社の帳簿が大規模にごまかされており、虚偽の株式stockが法案の可決を助けるために政府メムバーに配分されていたと報告した。Sunderland伯爵(Earl)は50000ポンド割り当てられ、Craggs秘書官氏も50000ポンド、国庫秘書官の一人であるCharles Stanhope氏は売買差額として250000ポンドを受け取り、
p.5   国庫長官の勘定は利益794451ポンドを示していた。告発された人の裁判において、Charles Stanhope氏は3人から無罪との宣誓を得たが、長官Aislabieは下院を追放され、彼の領地は取り上げられ、かれ自身は(ロンドン)タワーに送られた。ジョバーズの会社のメムバーであるSir George Gaswallもまた下院を追放され、タワー送りを約束され、250000ポンドの弁済を命じられた。調査の前に亡くなったCraggs氏の領地は押収され、150万ポンドの現金は被害者に役立てられることになった。すべての理事が支払いを迫られ、彼らの全財産が取り上げられ、それぞれの生活の再建のためにわずかな金額だけが保留を許された。
    このブームの間に富が形成され、失われた。詩人であるGayは一時もらった幾つかの株で20000ポンドを得たように見えたが、もっと得ようとしたが機会をうしなった。Guyは、自身の投機でより成功して、彼の名前を付けた病院にすばらしい記念碑を建てることができた。
 株式仲買人やジョバーズがまず最初にコミュニティをなぜ作ったかを理解するには、17世紀末に向かうことが必要である。国家の繁栄は富の巨大な蓄積を導いた。国債が形成される前に、疑いなくそれはおおよそ蓄積されていたのである。たとえばそれはPopeの父親が、革命の不安のなかでウイリアム三世の玉座に座っていたのが、ロンドンから逃げて、2万ポンドの富を携えていたことと関係がある。投資物はほとんどなかった。貨幣を投じて利子を稼ぐ方法はほとんどなく、土地あるいは建物を担保にするか、あるいは個人的信用で隣人に貸すといったことしかなかった。 
 裁判所は時折、the Cityに対しカネを借りることに好意的だった。市民たちは、公正が行われるとき、喜んでカネを貸したが、貸付は私的な貸付であり、公的な借入ではなかった。国債が始まったとき、時の悲観主義者は頭を振り、この発明が生み出すあらゆる種類の災難を予言したのだが、これを大歓迎した人もたくさんいたのである。もはや蓄積した貨幣について悩む必要がない、使用方法が分からなかった貨幣にいまや政府証券に投資するチャンスがある。ウイリアム三世の時代から現代までとりわけ安全な方法である。続けて示すように、
p.6   資本家は今日この機会を利用している。投資に必要と売買の願望は新たな職業をうみだした。

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