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大爆発が握るオリオン座の運命

2024-04-09 03:18:36 | 日記

巨星ベテルギウスに異変

 

ベテルギウスは銀河系にある巨大な恒星で、

オリオン座の左上でオレンジ色に輝いている。

地球から約600光年離れているが、宇宙の

スケールでは隣近所だ。

直径は太陽の約1千倍。

仮に太陽と同じ場所にあれば、地球をはるかに

超えて木星付近までのみ込む大きさだ。

約1千万年の寿命を迎えて膨張した終末期の姿で、

最期の超新星爆発を起こす直前の状態にある。

このベテルギウスが昨年10月ごろ、突然暗くなり

始めた。

1月に入って明るさは普段の約4割まで減り、

少なくとも過去25年間で最も暗くなった。

表面温度が100度ほど低下し、可視光を吸収する

分子が生じて暗くなった可能性がある。

ベテルギウスは表面が脈動と膨張と収縮をゆるやかに

繰り返しており、温度が下がるのは膨張時だ。

このため「爆発の前兆か」と騒がれたが、明るさの

変化は昔から何度も観測されてきた。

鉄の中心核が崩壊

 

爆発の鍵を握るのは表面ではなく、中心部の変化だ。

恒星は中心部で水素などの軽い元素が核融合反応を

起こし、より重い元素に変化して膨大なエネルギー

を生み出し続けている。

長い年月をかけて核融合を繰り返すと鉄が生じる。

鉄は互いに核融合を起こさないため蓄積され、直径

1万キロほどの核に成長すると自らの重みに耐えきれず

崩壊。

鉄の原子を構成する陽子と電子が合体して中性子が大量

に生まれ、直径10キロほどの新たな核となる。

このときに生じた強烈な衝撃波が、約3日後に表面に到達

すると大爆発が起きるわけだ。

爆発後は中性子の核だけが残り、

非常に高密度な中性子星になる。

 

 

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幻の堺幕府

2024-04-08 02:50:36 | 日記

概略

大永7年(1527年)、室町幕府代12代将軍・足利義晴と

管領・細川高国を京都から追放し、事実上の「将軍」と

なった足利義維と「管領」となった細川晴元らは、上洛

を急がず堺に本拠を置いた。

情勢を見極めるまでの<仮住まい>だったとされるが、

それは別にしても、堺という町は様々な面でメリット

があったようだ。

なぜ堺だったのか?

その理由はー。

祖父

「堺幕府」が成立したとき、事実上の将軍・義維は10代後半

事実上の管領・細川晴元は10代前半とまだ若年者で、2人を

補佐役としてリードしていたのは、晴元の出身である阿波

(徳島県)細川家の家臣で、20代の年長者である三好元長

だった。

堺に畿内の拠点を置くというのも、軍事を握っていた元長

主導で進められたと推測される。

三好家と堺の縁は深い。

堺幕府や三好家と堺との関係について検証し発信する活動を

展開しているC会の代表は「最初に堺に目をつけたのは元長の

祖父・之長でした。」と話す。

之長は、高国と細川管領家の家督争いをしていた阿波細川家の

澄元(晴元の父)の後見人で、京都にいることが多かった。

そこで、京都に近く、本拠地の阿波と海路で行き来するのに

都合の良い堺を第二の拠点とすることを思い立った。

江戸時代に書かれた堺の地誌「全堺詳志」には、永正元

(1504)年、之長が京都から堺に来て、「一大宅を泉州海浜

の浜(堺のこと)において起こさんと欲して」館の建設工事

を始めたと記されている。

これが「海船政所」で、元長の代に完成をみる。

位置は、堺を取り囲む環濠の北端で、「東西約650メートル

南北はその倍」

と広大な敷地を有していたことから、単に三好氏の大邸宅が

あっただけでなく、1万人近い軍勢を収容できるべースキャンプ

でもあったのではないかとも推測されている。

 

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天正遣欧少年使節

2024-04-07 04:34:32 | 日記

長崎県・大村市

白いボディをめかせた航空機が、紺碧の空に

溶け込むように飛びたっていった。

大村湾沖に浮かぶ長崎空港(大村市)は、

対岸の森林公園から眺めていると、騒音

も聞こえてこないために、おもちゃの航空機

が飛んでいるようにも見えた。

波も穏やかだった。

長い橋を渡って、ときたま大型バスやタクシー

がやってきた。

公園のベンチのわきには、洋装姿の少年4人の

像が建っていた。

どれも顔がまるく、幼い表情だが、キリッとした

りりしさが漂っていた。

「天正遣欧少年使節」と呼ばれた。

使節の派遣

19年間も続いた「天正」時代の最大のヒーローは

織田信長であった。

一向宗をはじめとする仏教を嫌っていた信長だが

キリスト教には寛容であった。

ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスとも度々

会い、安土城(滋賀県近江八幡市)の城下に学問所

「セミナリオ」も作らせた。

フランシスコ・ザビエルにはじまるキリスト教の

布教はこの時代、安土のほか、京や堺などでも、

短い間ながら、全盛期を迎えた。

少年使節の派遣はヨーロッパの人々に「日本」

国の存在をアピールするのがネライで、4人が

乗ったポルトガル船は天正10(1582)年2月

長崎港を出港した。

その4ヶ月後、「天下布武」を目指していた

信長は、本能寺で自害した。

「天下人」が豊臣秀吉、ついで徳川家康に

移るとともに、キリスト教には徐々に不寛容

となり、やがて弾圧の対象となった。

大旅行中の少年使節はもちろん、そんな事は

全く知らなかった。

4人は伊東マンショ、原マルチノ、千々石ミゲル

中浦ジュリアンで、出発自の年齢は13~14歳で

あった。

ジュリアンを除く3人は、日本で最初にキリシタン

大名となった大村純忠のほか、大友宗麟や有馬晴信

ら九州のキリシタン大名の「名代」とされた。

ローマ・バティカン宮殿

インド洋からアフリカ南端を経て、2年半を

かけてヨーロッパに着き、ポルトガルやスペイン

で大歓迎を受けた。

クライマックスは1585年3月、ローマ・バティカン

宮殿での教皇グレゴリオ十三世との謁見であった。

式典で司会役の神父は「彼らは世界の果てなる日本

からはるばる来て、猊下のもとにひざまずいたので

あります。(略)いまや地球の周りを全て回らなけ

れば行けないほど遠く離れた国が改宗しました。」

とたたえた。

だが、"ハレ"の式典に、名代ではないジュリアンだけは

列席できなかった。

 

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鎌倉時代の産業史(農業編)

2024-04-06 00:26:34 | 日記

概略

肥料農具などの改善や米の品種改良の進展を背景として

畿内・瀬戸内などの温暖地域を中心に麦を裏作とする二毛作

がはじまる。

牛馬耕は一般化し、牛は耕作用、馬は運搬用として使われる。

また、灌漑のために水車も用いる。

農業生産が著しく向上したので、手工業や広い範囲での流通を

進展させた上、貨幣経済の普及をもたらす

上記の中でポイントとなる3点を以下に示す。

肥料

従来の肥料として人糞尿があり、刈敷草木灰という

新たな肥料が使用される。

刈敷とは、刈った草葉を地中に埋めて発酵させて作る肥料で

草木灰とは、ワラや落ち葉、枯れ草などを燃やして作る肥料

である。

草木灰の成分は、石灰・リン酸・カリウムでそれぞれ肥料として

役に立つ特徴がある。

石灰はアルカリ性で土の中では、微生物が活動しやすくなり、病原菌

が寄り付きにくい。リン酸は花や果実の生育を促し、カリウムは根や

球根を太らせる。

二毛作

1年のうち2回、同じ耕作地に作物を栽培することである。夏期に米

冬期に麦を栽培することが一般的とされる。温暖地域が中心という

事実を裏づけるエピソードを鎌倉時代より後世の昭和という時代で紹介する

東北地方では戦前期、二毛作は困難であった。暑い時期が短い地域で二毛作

をすれば収穫や植え付けの時期が競合し、水稲(米)・裏作物(麦)共に

収穫が落ちるので小作料を米でとる地主はなかなか許可しなかった。この

エピソードから寒冷地域の二毛作は厳しいとわかるが、次のエピソードで

封建社会ゆえの地域差であったことが証明される。

戦後の農地改革で土地が自分のものとなり何でも自由に作れるようになり、

他の作物にも挑戦した結果、所得が上がることとなる。更に政府の試験研究

機関が晩植用の稲の品種と肥栽管理技術の開発、裏作物の品種と環収技術の開発

表裏作物が競合しない技術の開発に動き出し、1例だがササニシキが誕生する。

手工業

農業生産の増大で作り手において原料作物の収穫が増加し、手工業の大量生産が

可能となる。

故に、農民は富を蓄えることができたので品物を容易に入手できるようになる。

すなわち、手工業品は商品として確立する

結果として商業活動が盛んになる。

 

 

浪漫ー古(いにしえ)の彼方へ

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歴史・哲学・自然現象を幅広く紹介しています。

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舞姫ー森鷗外

2024-04-05 02:00:45 | 日記

概略

文豪・森鷗外の小説デビュー作「舞姫」は

明治23(1890年)、雑誌「国民の友」に

発表された。

19世紀のベルリンを舞台に、日本人青年と

ドイツ人女性との悲恋を流麗な文語体で

綴った短篇小説。

海外渡航が夢のまた夢だった時代に書かれた

異国情緒溢れるモダンな物語は、恋と出世との

相克というテーマや鷗外の実体験への興味が

相まって読み継がれていく。

ストーリー

ドイツへ留学した若きエリート官僚である主人公

太田豊太郎は、ベルリンで会った踊り子、エリス

と恋に落ちる。

やがて上司の意に背いたとして免職されるものの、

旧友の引き立てで伯爵の通訳をこなし再び信頼を

得る。

栄達か愛情かー。

人生の岐路に立たされながら恋におぼれていく豊太郎

だが、妊娠したエリスとの仲を明かさぬまま、出世に

つながる伯爵からの帰国の求めを受け入れてしまう。

そんな裏切りの顚末が日本への帰途に記した手記の形

で語り起こされる。

発表の2年前、26歳の鷗外は陸軍軍医として4年間の

ドイツ留学を終えて帰国していた。

物語にはこの留学時の体験も投影されているとされる。

批評

明治維新から20年余りが過ぎ、近代日本文学の出発を

告げる坪内逍遥の「小説神髄」もすでに発表されていた。

「近代的な個の概念が芽生え、人々に自己表現の欲望が

生まれる。

一方で、<小説神髄>で江戸期の戯作のような勧善懲悪

の撤廃が唱えられた。

その合わさったところに恋の煩悶を告白する<舞姫>が

生まれた。」と考える。

当時、西洋から入った「恋愛」という観念が浸透しつつ

あったことに注目する。

それまで男性にとって重要だったのは家であり出世。

その出世と並べて何年も思い悩むだけの価値があるもの

として「恋」が描かれた。

そこに新しさがあった。

実際、豊太郎の選択は論議を呼んだ。

評論家のI氏は明治23年に発表した評論で、豊太郎の性格を

分析。

エリスを捨てて帰国する筋書きは理屈に合わないとして

<功名を捨てて恋愛を取るべき>だったと主張した。

鷗外も、豊太郎とエリスの間にあるものは<真の愛>ではない

などと反論し、「舞姫戦争」として文学史に刻まれることにな

る。

痛切な悲恋ゆえか、モデル論争も収まらない。

恋人エリスのモデルとされるドイツ人女性が鷗外を追って来日し、

親族らの説得で帰国させられたことが後に分かった。

平成23年刊の「鷗外の恋 舞姫エリスの真実」

では、教会の出生薄などを基に「現在のポーランドに生まれた

20~21歳女性」という新たなエリス像が示された。

道徳観

高校教科書に採録される文学作品は、芥川隆之介「羅生門」

中島敦「山月記」、夏目漱石「こころ」が定番。

難読な文語体ながら「舞姫」はこの3作品に次いで多い。

今でも授業で扱うと、豊太郎の選択をめぐり議論が盛り上がる

と聞く。

ただ、道徳論に終始するのはもったいないと感じる。

SNS全盛で情報交換は密になったが、そこで見せるのは

他人向けの顔でしかない。

今の若い世代にも、自分のすべてを打ち明け、丸ごと引き受け

てほしいという欲望はあるはず。

その意味で、自らを美化せず、悪い部分をもえぐるように告白する。

「個の叫び」のような「舞姫」は古びれていない。

 

 

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