1年以上のブランクから、久々の「スルス古道」の散策へ出掛けました。
この絵図は、阿蘇山館の経営者(松本福次郎氏)が作成した「宣伝用」のものと思われます。ウソではないけど、かなりのデフォルメがありますね笑。
現存石垣の様子から、写真や絵図の「ここかな?」と思われる部分はありますが、今一決め手に欠けるので、結局旅館の位置も確定仕切れず・・・。
上記の四駆で到着したカップルですが、男性がさっさと全裸になり入浴したので、女性も入浴したいのかも?と思い、ワタシは場を外して上部の石祠等のある方面へ姿を消しました。
その間に、入浴されたようです😅拍手👏
長い下りを戻ってきました。
日々衰える足腰と心肺の不安!を抱えながら。
たまたま同僚から「ガラメキ温泉を案内してほしい!」という要望があって、真夏の下調べと足慣らしを兼ねて、酷暑の7/23に、白川河原から「古道ルート」でガラメキへ。
県道28号19カーブ(黒岩入口)から入る方が近いし、足元も景色も良いことは分かっているけど、古道マニアのこだわりが作用してか、アプローチが長く、ロケーションも悪いし石道で歩きにくいルートを選択しちゃいました(>_<)。(こちらはモトクロスバイク趣味の方々の得意ルートになっています)
七曲りの急登を過ぎてしばらく行くと、大型四駆の車に遭遇。木の枝や倒木を切り刻んで、四輪車両が通れるように奮闘されていました。抜いて抜かされまた抜いて、結局抜かれて・・、この車とほぼ同時にガラメキへ到着。年配のカップルでしたが、この方々のお陰で、現在はスパルタン系四駆車両なら、ガラメキまで行けます。
前置きが長くなりましたが、ワタシの一番の関心事は(温泉自体の現況にも興味はありますが)、「かつての温泉場の様子」を現況に重ね合わせて正確にイメージすることなのです。
昨年知った往時の写真があります。
当時の絵図等から類推するに、中央やや右の大きな建物が「阿蘇山館」左上方が「富士見館」と思われます。
(左下の1階が吹き抜けの建物は不明)
この絵図は、阿蘇山館の経営者(松本福次郎氏)が作成した「宣伝用」のものと思われます。ウソではないけど、かなりのデフォルメがありますね笑。
お陰でかつての様子が窺い知れる貴重な資料です。周辺の名所七選も記されています。
現在の源泉は、当時の湯屋建物の庭に当たる所だと、源泉のヒューム管を埋めた方(前記のガラメキで生まれ育った「中村さん」)が仰っていました。絵図では湯屋が離れて描かれていますが、写真では、写っているのか否か不明です。
ともあれ写真と絵図と残存する石垣とを照らし合わせて、阿蘇山館と富士見館の位置を特定したいのですが、
現存石垣の様子から、写真や絵図の「ここかな?」と思われる部分はありますが、今一決め手に欠けるので、結局旅館の位置も確定仕切れず・・・。
ガラメキ温泉の記で、湧出口の画像を載せないのも💦ですので、一応は・・・
上流からの湧水がなるべく流れ込まないように、よく手入れされています。ヒューム管の中の水(湯)はほんのり温かく、周囲の流水は冷たい!(史跡同好会他の方々、ありがとうございます。)
上記の四駆で到着したカップルですが、男性がさっさと全裸になり入浴したので、女性も入浴したいのかも?と思い、ワタシは場を外して上部の石祠等のある方面へ姿を消しました。
その間に、入浴されたようです😅拍手👏
ちなみに、ワタシは入浴したことありません😅💦
そのあとは、「相馬山表口」石標まで脚を伸ばし、「小野関三大夫氏の透かし彫り」「黒髪山行者堂跡」の現状を確認。「湧宇の滝」と「炭焼き釜跡」見て
長い下りを戻ってきました。
久しぶりの山歩きでしたが、足腰(膝も含めて)には後遺症が出なかった(大した距離でもないからね😅)のですが、ストックを使った右手首の筋肉に痛みが出ています。「あれェ?」🙍
松本福次郎市の絵図の名所七選が気になります。特に左下の滝が「〇〇〇の滝」と見えますが、榛名山の三文字の滝が思い当たりません。私は「榛名町誌」の江戸時代の絵図や「榛名山志」に載ってる滝が今でもあるか探してみたことがあり、忘れ去られている滝や絵図などにも載ってない滝を見つけることがてきた一方、今では見られなくなっていた滝もありました。
その後は、酷暑を言い訳に踏み入らずにいます。
松本福次郎氏の「ガラメキ八景」の滝は「佐保姫の瀧」と読めますね。ワタシは「湧宇の滝」のことだろうと短絡して済ませていました。
命名の「佐保姫」の伝説と榛名山麓の関わりについては、無学でわかりません。
絵図は客寄せのための観光図ですので誇張されているけど、三段に描かれています。「湧宇の滝」も、主滝の上部に小滝ともいえない程度ですが、小さな急流部があるので、三段と言えなくもないでしょう。それにガラメキからスルス峠への道すがらにある湧宇の滝は、小規模ながら一見の価値が十分あるので、載せないことはないのでは・・とも。
湧宇の滝以外だとしたら、中河原~スルス峠間で、他に候補としては、
(夕日河原地区は、東渓谷は既にデレーケ堰堤があり、西渓谷は、堰堤も流されて荒れた川筋なので、かつて存在したとしても、大正期には滝はなかったでしょう。)
・鷹ノ巣鞍部から夕日河原へ至る途中の現在の植林地の小沢(現在は涸沢)か?
・西端の白川上流筋(無駄掘下流)にあったのが、昭和の堰堤築造で消えたか?
話は外れますが、別の八景の「一枚岩の清水」について。
表口石標近くの「三大夫の透かし彫り」が設置されている所のことらしいですが、大きな岩ではあるけど、一枚岩と呼ぶには、以前から違和感がありました。
この絵図の上左の建物は、おそらく「行者堂」。鳥居は現在はありませんが、表口の結界と見れば、この地点で違和感はありませんが、平らな斜面を流れる様子が現在とは違う。
今回、少々下流部へ回って見たら、川の堆積土砂岩石の切れ目に、溶岩が固まった地盤岩石のようにも見える黒い平らな岩が見えていました。
もしかすると、この岩が三大夫氏の大岩の辺りまで繋がっているとしたら、案内図にあるようななだらかな傾斜の一枚岩であるのかもしれない!その後の土石の堆積で埋まったのかも?と。
この件は、次回の訪問でもっとよくみたいと思いますが、堆積土砂岩石を除けることはできないので、所詮推測しかできませんけど。
https://akanekopn.web.fc2.com/yama/sanyaken/sanyaken67.html
そこにあった(天狗の)「角力場」を見つけた方もいます。
https://blog.goo.ne.jp/mailaddress-1234/e/10c59de287031ab0426d32b0ac3317da
(この方のブログはクタビレ爺イさんのブログを検索すると表示されることがあります)
佐保姫は夢二の有名な作品に描かれていますから、そこから取られているのではないかと。「湧宇の滝」を観光用に名付け替えたということは充分考えられます。(赤城の乙女の滝なども、もともとは別の名だった)それと「湧宇の滝」の名の由来に関する情報が見つからないのですが、行者がそう呼んでいたのでしょうか。