元々は、「『黒髪山信仰登山』のルートを辿りたい!」という動機から「ガラメキ温泉~黒髪尾根登山」をやってみて、「相馬山表口石標からスルス峠への古道」に興味が広がり、「夕日河原(スルス峠直下の割りと平坦な地域)」付近を中心に古道探索しています。
今昔マップより
(拡大して見てください)
1113地点の笹の中にある「馬頭尊」の碑(明治三十二年)
(1067地点付近)
極太実線は、道跡らしいしっかりした窪地(ここへ取り付く地点が不明。下部(1151)も崩落しています。
gooブログの「くたびれ爺」様や「榛名古道」様の教示をいただいています。古地図を紹介していただいたり、現地踏破の記を参考に、踏み入っています。
明治40年帝国陸地測図1/20,000
今昔マップより
よくよくみると、「現行のハイキング道(歩く人が少ないので、笹に覆われています)」より東側を通っていたらしい。
「この道の痕跡を探してみよう!」
と、昨年の春先に集中的に探索してみました。
この道は、明治~昭和にかけて、高崎周辺から榛名湖畔へ登るメインルートで、観光客や物資を運ぶ馬が行き交った道。
この道は、明治~昭和にかけて、高崎周辺から榛名湖畔へ登るメインルートで、観光客や物資を運ぶ馬が行き交った道。
終戦後にアメリカ進駐軍に演習地として接収されて立入禁止になり、その時に「ガラメキ温泉」の宿も撤去されました。
返還後は、この地域は演習地から外れて立ち入れるようになりましたが、下部が自衛隊の「相馬が原演習地」となり、(多少の立ち入りは黙認されていたものの)街道として大っぴらに通ることはできなくなりました。そのためこの方面から榛名湖へのルートは松之沢峠が主流になりやや狭いながらも車道が整備されて、今に至っています。
「スルス峠の古道」は、下部は主に工事用の林道になっていたり、林道から少し外れた所に痕跡が残っていたりしています。(この方面については後述)
これは、ワタシが探索したスルス峠直下の「夕日河原」と呼ばれた地域の道とその痕跡です。
(拡大して見てください)
分かった部分だけで、未完成です。
左上のスルス峠から、黄色のルートが「右京の無駄掘り」に寄りながら下って行く「現在の主要なハイク道」です。侵食された崩落箇所がありますが、そこを抜けて進むと鷹ノ巣三山の北の鞍部を経て、相馬山表口に至ります。
その途中、1029?の辺りから右に曲がり、(4号方面)の方向へ下るのが「野山を歩く100コース(安中山の会)」の「黒岩の道」。
「◯号」というのは、明治期の「デ・レーケ式堰堤」で、「夕日河原◯号堰堤」と名付けられています。
太めの実線の「ピンク色の道」が、古地図に描かれた「古道」であろうと思われる痕跡です。道幅1間(約180cm)あったと思われます。
分かりやすい所でも、こんな感じ。
すっかり笹に覆われていますが、笹の下の地形をみると、幅のある道です。
(1102地点)画像中央やや右から下ってきて、ここで左へ大きく折り返すヘアピンカーブです。
(1102地点)画像中央やや右から下ってきて、ここで左へ大きく折り返すヘアピンカーブです。
1113地点の笹の中にある「馬頭尊」の碑(明治三十二年)
かつて物資の運搬に携わった運送業者(馬持ち)が建てた碑。
(1067地点付近)
極太実線は、道跡らしいしっかりした窪地(ここへ取り付く地点が不明。下部(1151)も崩落しています。
画像は昨年の5月の撮影ですが、6月になると葉が繁って見通しが利かなくなり、藪こぎも大変になります。探索するには、落葉後の初冬と雪が融けた春先でないと難しい。
まだまだ、不明箇所があるので、春になったら確かめに行きます。
馬頭観音の写真は初出ではないでしょうか。貴重です。ピンクの道はササに埋もれているうえに脇道が多くてどれが古道だかよくわからない場所が多いので、最後まで正解には辿り着けない可能性もあります。
コメント、ありがとうございます。
このルートを知ったのも、興味を持って入り込んだのも、榛名古道さんのブログの記がきっかけです。
(画像化が上手く出来ないで、見づらくなっていますが、この手書き地図を、一番見ていただきたいのは貴兄に!です。)
貴兄の記事のアルファベット標記のポイントが、どうしてもわからない箇所もあり、確認の意味もあって、ワタシの理解した夕日河原西部地域と旧ルートを描いてみた次第です。
探索に入ってここというポイント毎にスマホのgeographicaで現在位置を確かめてスクショに残して、家で拡大した地形図に落とし込んで、明治40地形図や今昔マップの旧地形図を見比べて確認したことを元に描いてみたものです。
図の中では貴兄が付けたC番号は書いていませんがC9、C8、C7は確実なところですね。明治40地形図ともほぼ一致するように思えます。C7~C6間は、深い抉れ沢を渡って先、岩峰伝いに、旧道とおぼしき幅2m弱程の平形があるので、旧道であろうと想定できるのですが、問題はその先。
C6とおぼしきヘアピン右カーブがあって、少し行くと左へカーブして、その先は、流水が削った?ような地形が、西側の抉れ沢に落ち込む。
C6かと思われるそのすぐ先の土手の向こう側は「これこそ旧道であろう」と思いたい深い溝が鮮明にあり(図の太太線)、何処よりも道っぽい。(でも、かつての流水の削った跡かも?と疑いながらも・・・)
ここを下っていくと、C2のすぐ台上近くで、抉れ沢に落ち込む。ここが崩落してしまったC3?(貴兄の推測に納得する場所です)
等々、興味・関心は尽きないので、探訪の要あり!
ですが、今春はまだ未踏です😅😅😅
>探索に入ってここというポイント毎にスマホのgeographicaで現在位置を確かめてスクショに残して、家で拡大した地形図に落とし込んで、明治40地形図や今昔マップの旧地形図を見比べて確認したことを元に描いてみたものです。
とにかくたいへな手間であったことはお察しします。
C2からC6までは数人がお互いが見えるくらいの間隔で横一列に並んで同じ速度で同じ方向に歩きながら地形を観察するということをやったら何か分かるかも知れないとは思います。
私の図で言うとH~I間の明確な道がどこにつながっているのか、あれが古道のC4あたりなのか、等々課題が残されています。