山はこれから!

爺様の追っかけで。

相馬山南麓への興味④(物見塚~ガラメキ温泉『後編』)

2023-02-28 01:03:11 | 山歩き
(『前編』よりの続き)
ほぼ旧道に沿ってガラメキ温泉へ至るには、「白川河原」(前編参照)に車を停め、三(四?)叉路を左の道を進み、「七曲り」を上り詰めれば、その先は傾斜の緩い道が続きます。
かつては馬子に引かれ荷駄を積んだ馬が通った道。高崎から榛名湖畔へ日用品や食糧を運び、榛名湖畔からは、茅や薪、そして湖で凍った「氷」も運ばれたらしいです。「氷室山」という山があるので、需要季までは、そこで保存して置いたのだろうか?そして融けないように夜間に運んだとも聞きます。
現在のガラメキ温泉へ上る道は、治山工事(堰堤=砂防ダム建設)のために、車両が通りやすいように重機で拡幅された道で、一部はコンクリート舗装がされていますが、今では堰堤工事も一段落、林業も停滞しているので、四輪車はめったには入って来ないようです。替わりに趣味のモトクロスバイクがたくさん入り込んでいます。現行の道は、旧道から外れている所が多いようです。
傾斜緩やかなので歩きやすい!かというと、そうではない。
石がゴロゴロしていて、まるで河原を歩いているような、歩くにはあまり嬉しくない道が続きます。しかも林の中の窪地で左右のロケーションもなくて見所があるわけでもない。

それでも、「古道はこっちだったろう」と思える窪地が林の中に何ヵ所も見られます。

ここも旧道の跡と推測しています。
ガラメキ温泉へ向かって現在のしっかり造られた林道を辿って行っても、2箇所ほど、どっちの道を行こうか?と迷う分岐があります。
地形図にも記されていますが、最初の分岐は右の上りではなく、左の平坦な方の道。次の分岐は舗装がされている新道ですが、左へ下る道ではなく、右の上りの舗装道を選択すれば、迷うことはありません。
そのうちにコンクリート堰堤(砂防ダム)のある大きな沢の左岸に出るので、道なりに上っていくと、高い堰堤の下にぶつかります。ここで、沢を右岸へ渡ります。
(この沢が「湯沢」=温泉の下流です。)
古道のこの沢の徒渉点は、堰堤工事のために寸断されていて不明。


沢を渡って、少し上っていくと「変則な四差路」へ「黄色←」で上ってきます。(※画像アングルは左側の道から撮っています)
ここでは、(黄色コース方向から見ると)右寄りの上り方向の一番上りがキツい道を選べば、到着です。
もし右方向平坦路(画像では直進方向)を選んでも、すぐに温泉下の沢があり、上流を見ると石垣があります。この沢を上っても着きます。


順調に「赤←の上り道」を行くと、石垣が正面にある平地に出ます。到着です。

源泉へ行くには、平地の右から河原へ伸びる石畳を下って行けばわかります。
川の流れが変わったので、今は河原になってしまっていますが、かつては川岸で、ここに温泉小屋が建っていたらしい。

源泉。元々ぬるい上に、川の水が流れ込んで、冷たいだろうと思ったけど、意外や意外、「ぬるい!」
温泉水を触った手は、その時は感じなくても、後でスベスベ感。
往時には、旅館の内湯ではなく、ここに温泉小屋があって、ここへ来て入湯し、温泉がぬるいので、別に薪で沸かした湯が併設されていたらしいです。
(大正元年九月建立)不動明王の石碑。今は中洲になっている。かつては石仏もあったとも聞きますが、不心得者が持ち去ったらしい。かつての川はここより東(左岸)側の河原部分だけで、源泉も石碑・石仏も地続きだったそうです(古い写真では、源泉の周囲が土)。
昭和末期か平成初め頃のある年に、大雨で川が右岸(源泉方向)に氾濫して石河原が広がり、源泉も岩石に埋まってしまったとのこと。
その後、有志が石の中から掘り出してくれたので、現在源泉を目にすることができています。

右岸のたくさんの石垣は、人が住んでいた証。石垣で囲まれた場所も見て回ると、ここに宿があったことが偲ばれます。

(拾い画像ですが、絵葉書と思われます。)
こんな宿屋があったようです。
現在、周辺を探索すると、少し山に入った所に
石垣を積み上げられた上に、(屋根の落ちた)祠・薬師如来石像・庚申塔。そこへ上る石段の痕跡があります。(祠は明治21年建立)
川の近くの文字碑
下には「大黒天」
諸説あって「がらめき」と読む説もありますが、ワタシとしては「薬師如来」と読みたいですね。
それぞれの建立の年月(明治35年。「大黒天」は明治31年)と建立者名も彫られていて、大変に興味深いです。

宿屋は時期によって2~7軒あったそうですが、富士見館(中村さん)・阿蘇山館(松本さん)・扇屋(?)・・・。
それぞれの旅館が何処だった判りませんけどが、生き証人の話を聞くと分かりそうです。

それにしても、数軒の宿屋だけなのに、大量の石垣。往時が偲ばれます。
この画像以外に、川沿いの石垣も大したものです。よくぞ積み上げたものだと感心します。
ワタシは今回で数回目の訪問になりますが、多くの方々が「ガラメキ温泉探訪」の記を遺されています。折角ここにたどり着いたなら、温泉そのもの(源泉)だけでなく、たくさんの石垣や遺物等にも目を向けて、温泉宿があった頃の様子をにも想いを馳せてみることもお奨めしたいです。

このガラメキ温泉跡、自然に任せておけば、この源泉も洪水によって河原に埋もれてしまい(実際に一時期そうでした)、やがてその位置も不明になってしまうことでしょう。
この源泉孔の河原石を除けたり、標識を付けたり、蓋を新しくしたり、排水(湯)流路を整備したり、流れ込む水がなるべく少なくなるように工夫したり・・・、こうした整備活動をされているのは「相満山史跡研究同好会」の有志の方々です。その活動のお陰で、我々は今でも「ガラメキ温泉の源泉」を観ることができています。(感謝です!!)



最新の画像もっと見る

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ガラメキ温泉 (榛名古道)
2023-04-24 14:05:32
私はガラメキより下の古道は辿ったことがなかったので、情報は貴重です。

「群馬の峠 西北の地 三山の地」(岩佐徹道)では、榛名湖の氷は夏まで水沢山のあたり貯蔵していた(うろ覚えですが)とあるので、二ツ岳周辺に複数ある風穴を使っていたのではないかと推測します。

明治35年の石碑は「業沙如来」ではなく「薬師如来」であると榛東村誌から決着がついていると思われます。クタビレ爺イさんのブログをご覧ください。

https://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/4ae98236dbacaed2072d54716f146874#comment-list
返信する
伊香保~ガラメキ道 (榛名古道)
2023-04-24 15:47:55
クタビレ爺イさんのブログに書くか迷ったのですが、こちらにします。

「ガラメキ温泉=>1090m峰(その峯)から南に続く尾根」まで辿れる道があります。そこからは榛東ソーラーパーク(昔の榛名カントリークラブ)の南西のゲートまで間近ですが、その先はゴルフ場の建設と植林が理由で辿れません(植林帯の中を通って上野原林道に出ることはできます)。例の明治の二万分一地形図にも破線で示されている道です。道自体はスルス峠道よりはっきりしていますが、迷い踏み跡が多いので初見では迷うと思います。どこで読んだかは忘れましたが、ガラメキ温泉で鮮魚だけは伊香保からこの道を通って運んで来たとききました。高崎などより伊香保の方が鮮魚が手に入り易かったのだそうです。それと、ガラメキ温泉に有栖川宮と北白川宮の二人の宮様が来られたことがあったようですが、そのルートは伊香保から榛名湖経由ではなくこちらの道を通ったとも考えられます。

この道で特筆すべきなのは、他の道がすべて下流からガラメキ温泉に辿り着くのに対して上流から辿り着く点です。それと、周囲はかつてクタビレ爺イさんも難儀したガレた急斜面ですが、その中の弱点を上手くついて道が付けられていることです。昔の人の慧眼に感心します。

直線距離で言えばガラメキ温泉への最短ルートであり、上手くすると時間的にも最短ルートとなるかもしれません。
返信する
追記 (榛名古道)
2023-04-24 16:54:14
かつて伊香保に御用邸があったので、二人の宮様は伊香保の行きか帰りにガラメキに来られたと私は考えていますが、伊香保に寄らずに来られた可能性もなきにしもあらず。そうなると黒髪神社からでしょうか。

それとは別に有栖川宮が黒髪神社に来られたこともあったようです。時系列がはっきりしませんし、有栖川宮でも父と子で別かも知れませんが。
返信する
Unknown (garamekion1000)
2023-04-26 22:52:34
ガラメキ~伊香保の道筋は、古地形図にあるように、上の平(現メガソーラー)経由で魚を運んだ!という話は古老から伝承されていますね。
またガラメキには鯉池があって、鯉のアライを振る舞っていたそうです。阿蘇山館の前には四段の鯉池があったらしいです。
改めて書くつもりですが、近代では「富士見館」が古く、明治40年頃は、(小説ではありますが)土屋文明が「枯野」で描かれたような淋しい温泉であったらしい。
その後、箕輪の有徳者(竹越氏)が「阿蘇山館」建てて、松本氏に貸し出して営業させて、宣伝のための絵図も作成し、温泉を売り出して集客を図ったようです。その流れの下で、昭和初期には、ある程度の繁盛もしたようです。
有栖川宮は、タルヒト親王(♪宮さん宮さんお馬の前でヒラヒラするのは~、の征東大総督)は子どもがなく明治28年没。異母弟がタケヒト親王として有栖川宮家を継承していますが、大正2年没。嗣子夭逝のため、宮家断絶。ということのようですから、両殿下のいずれかですね。
榛東広馬場のあるお宅には、伊香保に親戚があった関係で、タルヒト殿下の真筆の掛け軸があると聞いたことがあります。
黒髪神社の境内には、「有栖川宮神社」があり、親王殿下の病気平癒を(祈念?祝って?)して祀られた社だとか。黒髪神社の現社の創建が明治20年頃なので、どちらの宮様も、参拝した可能性はありますが・・・。
返信する
Unknown (garamekion1000(山はこれから))
2023-04-28 22:36:35
文字石碑(薬師如来)については、「如来」と崇められる仏は限られているし、草書字典を調べたら「薬」「師」の草書体によく似た筆跡があったので、「薬師」で間違いないと推測しています。位置的には「阿蘇山館」に近く、鯉池があったといわれる所の脇と思われます。「火傷の湯治=薬師如来」と考えるのも自然かと。
石碑の建立者;松本福次郎とは、阿蘇山館の賃貸経営者で、何枚か残っている多色刷り絵図の発行者でもあります。
各旅館の位置、伊香保への道の取り付き口、その他多くの事柄の確認のためにも、再訪してみなければならないのですけどね。
返信する
群馬郡誌 (榛名古道)
2023-05-09 14:23:21
薬師如来の石碑は鯉池の脇・・・そこまで分かりますか!( ゚д゚)

伊香保への道は宿跡の石垣の前の道をそのまま進んでいくだけです(右に大きなガレ地を見ながら)。右折して山腹トラバースに入る箇所に枯れ枝の「×」の目印があります。

群馬群誌にこうあるそうです。
http://yuyusangai.com/kanrinin/onsen/garameki/garameki1.html

   四、「ガラメキ」鑛泉(相馬村)
 相馬山の東南麓に在り。傳へ云ふ人皇十四代仲哀天皇の御宇發見し、浴客常に絶えざりしが、年月を經て泉量減じ一旦衰微せしを、寛永年間復興して爾來今日に至り、遠近の浴客絶えざるに至れりと。泉質は鹽類泉にして、先年分析の結果、慢性僂麻質私・疝痛・神經痛其の他慢性皮膚諸病に効驗あること明らかなりしを以て、一層の入浴者を增加し益々盛運に趣けり。本泉は高崎停車場より約二里餘、海抜六二〇米の地にあり。西北は峻峰連亙し、東南は平坦なり、氣候は四時寒暖其の度に適し、殊に山水の風景に富む。曾て有栖川宮・北白川宮兩殿下の御來浴ありしが爾來名聲大に揚れり。

(要点)
泉質の分析の結果、効用にお墨付きが与えられたことと、有栖川宮と北白川宮の両殿下が来訪されたことが知名度の向上及び浴客の増加につながった。

その他に、山はこれからさんがおっしゃるような経営者の営業努力があったことには触れられていませんが・・・。

北白川宮成久王と、有栖川宮威仁(たけひと)親王の子の栽仁(たねひと)王がともに明治20年生まれで仲良かったと聞きましたので、いらっしゃったのはこのお二人ではないかと推測します。たねひと王は厳密には有栖川宮を継承せずに亡くなられていますが「有栖川宮」と呼ばれている記述も見つけました。

黒髪神社では平癒を祈っただけで宮様自身が来訪されたわけではないのかもしれません。

参考:
黒髪山神社(群馬県榛東村)
http://chrono2016.blog.fc2.com/blog-entry-15.html?sp
境内社である有栖川宮神社は、有栖川宮熾仁(たるひと)親王の病気に対して黒髪山神社への平癒祈願や神道家南和十郎の貢献などから、熾仁親王没後の明治三十年(1897年)に黒髪山神社に創建された。
返信する
Unknown (garamekion1000(山はこれから))
2023-05-16 22:58:59
「薬師如来石碑」の位置については、
「阿蘇山館」の庭にあった!阿蘇山館は前方に鯉池があった!という中村氏の証言。
絵図(観光宣伝用ですので誇張されてはいますけど)や当時の写真からは、石碑の位置は不明ですが、写真や絵図と現存する石垣から阿蘇山館の建物を推定してみると、池の畔ではないにしても、池からはせいぜい10メートル程度の距離であったろうと推測しています。
阿蘇山館は、現行の登り道が至る広い平地にあったか、そこの石垣を含めて建物が建てられていたか?
石碑の下流側に石垣が段状に2~3段あるのが、写真に写っている石垣であったのか?それなら、そこが鯉池であったであろうし・・・。もう一度訪れてみないと特定できないのですが、なかなか行けなくて・・。

「群馬郡誌」は、ウチに大正14年発行の物がボロボロになってあります。開くだけでも更に破損が進みそうなので、閲覧用に「復刻版」を手に入れて、事ある毎に荒っぽく検索しています。その中でも興味を引いたものの一つに、冒頭の写真の「(47)相馬ヶ原から相馬山を望む(相馬村)」
やや小高い所から、手前は植林付近は「大平開墾?」左は「物見塚」(後背は旭岳?スルス岩?)~榛名富士~相馬山。この撮影場所は「御嶽塚?」それとも旧地形図に表記されている「二本杉の辺り?」(画像の木は松のようですけど)
御嶽塚からなら石碑も写し込んで欲しかった!
ともあれ、興味の尽きない画像です。
返信する

コメントを投稿