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語り部ツアー

2013-03-24 18:03:45 | 日記

3.11の震災から2年が過ぎました。テレビや新聞の報道で、復興の様子を見聞きしておりましたが、3月17日、18日、19日と被災地を訪れてました。やはり生で見ると凄い衝撃があり、被災地はまだまだ大変だと痛切に感じました。

コースは仙台から石巻まで高速を使い、日和山から市内を望み、あたり一面、基礎だけを残し草丈が伸びた地に家が有ったんだなぁと市内を見ていました。地元の方にお話を伺うと、ご自身も息子さんを亡くされたと、ポケットから小さなアルバムを取り出し、被災時の写真を見せ、説明して下さいました。みなさんお話を伺うと快く話してくださいました。

次に金華山へフェリーで渡ろうと牡鹿半島の鮎川へ向かいましたが、フェリーは予約しないと乗れず、結局そのまま石巻まで戻り、高速で宿泊地の南三陸ホテル海洋へ。

このホテルは昨年1月から被災の大きかった場所をバスで巡る「語り部ツアー」を実施しております。また、毎日新聞に2月27日から5回、ホテルの女将さんが「時代を駆ける」と云うコナーに掲載されました。
記事の内容は震災当日、志津川湾を一望できるガラス張りのロビーから町をのみ込む津波を目撃し、ホテルも1、2階が津波の被害を受けました。町の中心部に繋がる橋が落ち、ホテルは孤立、当日は350人位の人がおり、手持ちの食糧、人数から割り出し、最低限の食料で救援がくるまでしのいだ。その後、5月には東日本大震災の2次避難所としてホテルの従業員宿舎も開放し、600人の南三陸町民を受け入れたとありました。「部屋にこもらせないでください」との専門家からのアドバイスを受け、ホテルとしてではなく、同じ住民として配膳など出来ることは住民にもやってもらったそうです。水道の復旧した7月にはホテルを再開したそうです。
現在、亡くなった方、行方不明の方、従業員も町民も家を流され、他の土地の仮設住宅に移ったりで、人口は1万7千人から1万5千人に減ったそうです。

 ←いたる所に有る仮設住宅

メデアの報道でみなさんご存知だと思いますが、石巻の大川小学校での児童の死亡は痛ましい限りですが、南三陸の戸倉小学校と中学校では、2日前に地震があり(当然大川小学校でも地震発生)12日に中学校の卒業式を控え、両校では避難経路の再確認等をしっかり行い、震災当日は中学校近くの老人介護施設の入居者を背負い避難したと語り部ツアーのガイドさんの言葉に危機管理の有無でこれほどまでに運命が分かれてしまうのかと感じました。

 ←防災庁舎

いづれも市内のガレキは整理され、集積所に集められていますが、瓦礫の山はテントの外からでも良く見えます。鉄鋼が剥き出しの防災庁舎を見学しましたが建物より2m高い津波が押し寄せ、屋上のフェンスに捕まったいた方は殆ど流され、鉄塔によじ登った人は助かったと、語り部さんは仰ってました。

 ←壊れたモアイ像

市内で壊れたモアイ像を見つけました。語り部さんの話で、このモアイ像に素晴らしいエピソードがあることを知りました。南三陸から1万3千キロ以上離れたイースター島で92歳になる彫刻家一家が、「南三陸にチリ大統領が訪問、志津川高校の生徒が壊れたモアイ像を復活すべく立ちあがった」とのテレビニュースを見て「私がイースター島のモアイ像を贈る、最後の仕事だろう」と作成したそうです。
モアイ像は昨年の12月25日イースター島から長い旅を終え日本に上陸。3月20日より28日まで、東京の丸ビル・マルキューブでお披露目。5月2日から9日まで大阪のグランフルトン大阪でお披露目。5月下旬に南三陸にやってくるそうです。
詳しいことは下記のHPをごらんください。
 志高 

最後に気仙沼からフェリーで大島に行きましたが、地盤沈下でフェリーから見ると、道路と水面の高さが余り変わらず、誤って海に落ちそうだと感じました。一応主要道路はかさ上げされてますが、「大潮時は冠水しますので注意」と札が立ってました。
 ←壊れた船着き場

 ←気仙沼横丁 ここで買い求めたふかひれスープが美味しかったです。

長々書いてしまいました。「被災地に旅行するなんて」との思いが強かったのですが、「人が来て、お金を使ってこそ復興に繋がります」と地元の方の言葉に、また来ようとの思いで帰路につきました。

亡くなった多くの方のご冥福をお祈り申し上げます。合掌